第三章
=現在のヨーロッパの技術レベル=
どの時代、どの世界でも、技術面の発達は需要によって左右される。
極めて危険性が高く、一度発生したら早急に現地で無力化・抹殺しなければならない存在である『魔女』への対策として、正確な地図や測量技術、水陸問わず交通の便などは極めて発達している。民の避難経路の確保のために、同盟協定を結んでいる都市や村々も多く、これの結果として、必然的に都市間の交流、更には貿易活動が促進されている。貿易ギルドの権力は、教皇庁に次いで強く、教会とギルドとが密接にかかわって統治している地域も少なくない。
こうした移動面での著しい技術発達や、貿易の活発化に伴う香辛料需要の増加などにより、既に西の果ての新大陸が発見されているが、原住民に対する支配には及んでいない。遥か遠くから輸入される、香辛料やカカオなどは、ピークを過ぎたものの、未だに高級品扱いである。
魔女の襲撃による被害を前提にして、都市の建物は低めに設計されることが多い(逆に、高い建物があるような場所は、余程治安が良く、魔女が現れにくい地域という証拠とも言える)。多くの建物は屋根などに鉄が含まれている。これは強度を上げる意味と、その効力によって魔女避けを期待する意味とがあるが(一般に、悪魔的存在は鉄や銀に弱いとされる)、この場合鉄の純度が低いため迷信の域を出ない。
逆に、「奇跡」の力に胡坐をかいた結果(ヨーロッパ全体が教皇庁の元に統一され、内部での戦争が発生しないというのもあるが)、聖職者以外の軍事面での技術発達は極めて遅れている。未だに武器において主流なのは剣、斧、槍、弓矢などの近距離・中距離武器であり、火縄式マスケット銃は最新鋭の発明である。他に「奇跡」の結果発達が遅れている技術分野としては医学があり、医者の役割を果たし得る上級聖職者がいない地方や農村部における疫病の蔓延が一つの重要な社会問題となっている。高等教育を受けられるのが、一部の都市における裕福な商人や、上級聖職者、(権力こそ有名無実化しているが)王侯貴族らの家系だけに絞られたままであることも、一部分野の技術発展を阻害していると考えられる。
総じて、経済・貿易面においては極めて発達しているが、軍事、医学、教育面などにおいては、未だ課題が多い社会であると言える。実質的な封建社会である以上、当然、貧富の格差も広い。ルネッサンスや宗教改革にあたる出来事は未だ発生しておらず、社会全体が教皇庁のイデオロギーによって支配されている。そして時としてそれは、聖職者の世俗化、独裁体制による腐敗政治などといった問題を内包することがある。
「よろしく……お願いします」
ジネットが差し出した右手を、私は握った。彼女の手はすべすべで、仄かに暖かい。
優しい手だと、思った。ジネットの手には、シャルルのそれと同じ、包み込んでくれるような暖かさがある。不思議だ――魔女だというのに、彼女には、恐怖を感じない。
「オウ、よろしく。……さてと」
握手が終わると、ジネットは首を傾け、話を切り出した。
「見た感じあんた、混乱してるな。まぁそりゃそうだ、いきなり魔女になったんだ。色々分からねぇことも……」
「……はい。あの……」
私には一つ、不安材料があった。どんなに強い力を手に入れても、これだけはやっぱり譲れない。もし私が魔女になってしまったのだとしたら、それは――
「私、それでも……死んだら、地獄に、行くんですか……?」
ジネットは眉を吊り上げた。
「ん? どしてだ?」
「いや……あの、魔女、ですから――地獄に、行くって……」
あー、そっか、と、ジネットは頷いた。複雑そうな顔をする。
「そうだよな、まずそこからだ。結論からいうと、あんたの場合は大丈夫だ――少なくとも、基本的にはな。あんたは、一般にいう『魔女』とは少し違う存在だ。ちょっと長くなるかもしれないが、これだけ聞いといてくれ」
「……はい」
取り敢えず、大丈夫みたいだ。私は胸を撫で下ろした。
「あ、ちょっと待て」
ジネットがあたりをキョロキョロした。
「先に椅子だけ出す。あんたずっと立たせとくわけにもいかないし。どこに仕舞ったっけな……」
「いや、別に、いいんです――」
「そう言うなって。ホラ見つけた」
ジネットが、衣装ダンスの横のキャビネットの一つをぐいっと引っ張った。中から何本かの木の棒が飛び出し、私を飛び越え、私の後ろの地面に綺麗に着地した。うち四本が直立し、残りがその上に飛び乗って、勝手に積み上がっていく。ものの数秒で、私の後ろに、椅子が完成した。
「……あ、ありがとうございます」
「あっ、おい、気を付けろ!」
「へ?」
丁度その時、ジネットが開いていたキャビネットの中から、椅子全体を覆い尽くす巨大なクッション部分が飛び出した。反応に遅れた私の顔面から胸にかけてに、モロに直撃する。
「ぶわぁっ!?」
「おい、大丈夫か――」
クッション部分は、私の頭と身体を通り抜けようとしばらく格闘していたが、どうやらやっと障害物があることに気づいたらしく、私の横を通り抜け、後ろの椅子に折り重なり、ぷしゅっ、と音を立ててくっ付いた。クッションの攻撃のはずみで私はバランスを崩し、そのまま後ろに倒れ込んでしまいそうになったが、椅子が後ろからすかさず飛んで、私を上手にキャッチしてくれたおかげで助かった。
「えっと……ありがとうね」
一応、椅子に呼びかけた。何やら椅子が、少し曲がって、頷くようなそぶりを見せた。
「そうそう――あたし、こいつ作った時に、クッション部分だけちょっと呪文間違えちゃってさ」
ジネットが頭を掻いた。
「言うの忘れちまってた、ごめんな。普段客人なんて来ねぇもんだから……」
「いや、別に……大丈夫ですよ。クッション、柔らかいです。ありがとうございます……本当に……」
なんだか、座っているのが申し訳ないぐらいに心地いい。ふんわりと沈み込む感じだ。
「ジネットさんも、座ったり――」
「いや。あたしゃ別にいい」
「でも……だって、私――」
奴隷なんですよ、と、言いかけて――口をつぐんだ。
「ん? どした」
ジネットが私の顔を覗き込む。
「いや……」
私は首を振った。
「なんでも、ないです」
「……」
ジネットは、相変わらず、私の顔を覗き込んでいる。
「座ってた方がそっちがいいなら、座るぞ」
「えっと……」
横を向く。
「じゃあ……座って、欲しいです」
「分かった」
キャビネットから、また椅子のパーツが吹き出し、ジネットの隣に組み上がった(ジネットは、慣れた様子で、顔面に向けて突進してきたクッションを、くるりと避けた)。ジネットが椅子を私の近くに寄せ、そこに座る。
「オウ。まずは、あんたがどうやって魔女になったのかだが……あんた多分、死に際のお師匠様と、手、握り合ってただろ」
私は記憶を辿り、思い返した。確かにあの時そうだった。
「……はい」
「それが魔力継承の条件だ――白魔女に限った話だがな。知らないだろうが、魔女にも二種類いるんだよ。黒魔女と、白魔女だ」
私は瞬きをした。
「二種類……?」
「一般人らは、誰も知らない。だがこれはれっきとした真実だ。
あんたらが一般に『魔女』として認識してる連中、あいつらは全員『黒魔女』に分類される。悪魔と契約して力を得、草木を枯らし、人々に害を成し、アンチキリストの僕として暗躍する『災厄の魔女』。けど白魔女は違う――むしろ黒魔女と敵対する。必ずしも『教皇庁の味方』ってわけでもないが、白魔女の使命は、人々を救うことにある……黒魔女たちの引き起こす災厄を、事前に食い止めることによってな。
白魔女になるには、悪魔との契約は要らない。ただ、自らの死に際に、誰かの手を握ることで、白魔女は自らの魔力を相手に移し渡すことができるんだ――丁度あんたの場合のように。或いは、十分な力を手にした白魔女なら、他の奴に力の一部を分け与えて、所謂『弟子』とすることもできる。あたしの方は、こっちに分類される」
「で、でも――」
とある疑問が湧く。
「もし、そんな有益な存在がいるのなら、どうして誰も知らないんですか――?」
「数が少ないからだよ」
ジネットは溜息をついた。
「あたしのお師匠様から言われなかったか? あんたが、世界で最後の白魔女の一人である可能性があるって」
私はゆっくりと、不安げに頷いた。言われてみれば、そんな趣旨のことを言われたかもしれない。混乱していたせいで、記憶はもうおぼろげになってしまっているけれど。
「昔は教会も、あたしたちと一緒になって黒魔女を倒してた。でもそれはもう、何百年か前の話だ。一部の黒魔女が、組織的に、白魔女たちを潰し始めて……今じゃあもう絶滅寸前ってわけさ。教会はもう、あたしたちの存在を知らない。とっくのとうに滅んでると思ってんだよ。或いは――」
目を細める。
「あたしたちの存在を知りながら、何等かの都合で無視してるかの、どちらかだな」
少し、嫌な沈黙が走った。
「……ともかくだ」
ジネットが腕を組む。
「あんたもその白魔女になった。別に、だからといって、あんたに人を助ける『義務』が付くわけじゃないが……あたしたちとしては、最低限、白魔女としてせめて生き残っては欲しいわけだ。もし世界から白魔女がいなくなっちまったら、後のことが大変だからな。だからあんたに会いたかった。あたしには、あんたを守る義務がある」
「守る? 守るって、でも、何から――」
「黒魔女。及び、教会」
「教会? でも――」
「いいか、教会が善か悪かは、あたしには正直分からない」
ジネットが指をたてる。
「仮に悪なら――黒魔女と手を組んでるなら――そいつはそいつで単純だ。襲ってくる奴らは、黒魔女同様、ブッ殺せばいい。この可能性自体は、お師匠様も懸念してたな。そして、仮に善としても――いずれにせよ、今の教皇庁の連中の大半は、白魔女の存在すら知らないからな。あんたが魔術を使ってるのがバレたら、黒魔女だって勘違いしちまう。弁解しようとしても無駄だろう。だからあんたは絶対に、教会に、正体が割れちゃいけない」
「いや……」
言葉に詰まった。別に、教会、という言葉に反応したのは、教会が味方だと思ってるからじゃないのだ。
「あの、守っていただけるのは本当に嬉しいんですけど、ただ、教会の奴らぐらいなら、私でも……あの時……」
「あぁ、確かにな」
ジネットが頷く。
「あんたが前始末したような、一般的なクラスの聖職者は、その《杖》を持った状態のあんたから見たら、取るに足らない雑魚かもしれない。でも、そいつらを始末し過ぎて騒ぎが大きくなれば、もっと上が出てくる」
「もっと、上……?」
「教皇庁が本気を出したら、誰だって一貫の終わりだよ。逃げ切ることなんざ無理だ。『聖痕者』なんかとまともに戦って勝てる魔女なんざ、果たしてこの世に一人でもいるのやら……。それに、そこまでといかずとも、例えばあのミカエリス司教だが――教会内での権力的立場が、対悪魔・対黒魔女の戦闘技能におおよそ比例するのはお前も知ってるよな。正直あんたも、多分、アイツには勝てない」
「普段、そんな強そうに見えないですけどね……ただのガリガリのおじいさんっていうか」
「まぁな。でも、魔女や聖職者の戦闘技能において、見た目はアテにできない」
ともかく、とジネットは続ける。
「お師匠様の弟子だったあたしには、あんたを守る使命がある。あたしは、あんたに必要な知識を詰め込み、あんたを生存させないといけない。とは言っても、別に、大した仕事じゃないさ――守るというより、正体を隠蔽しつつ基礎知識を教えるっていう方が正しいな。だって黒魔女らはあんたの正体知らないんだから、今刺客が来ることはありえない。あんたが独り立ちできるぐらいになるまで、あたしはあんたに魔術を教える――誰にもバレないように。ただそれだけのこった」
「……魔術……」
それは不思議な感覚だった。いつの間にか私には、こんなありえない力が備わっていた。いくら普段に比べ冷静になっても、若干戸惑わずにはいられなかった。このジネットを名乗る少女が、嘘をついているようには見えないけれど――それでも、私が、世界で最後の――『白魔女』――?
嬉しいという気持ちは、当然あった。自分は別に、悪魔と契約したわけじゃなかったんだという、安心感。いくら私が、神様が嫌いとは言え、そんな、悪魔と契約したいだなんていうバカげた考えに至ったことなんて、たったの一度も無いからだ。唯一恐れていたこと、自分の魂が悪魔に取られてしまうことだけは、どうやら避けられたようだ。
でも、だとしても、いざこうして自分が、ただの人間ではもうなくなってしまったこと、そして恐らくはもう二度と、完全な人間には戻れないことを実感すると――。……若干、恐ろしくもある。
それに、私には――
正義のヒーローだなんて、似合わない気がする。
ただ、この場では、そんなことは、とてもじゃないけど言い出せなかった。
「あぁ、あと、そうだ……あんたの名前、まだ聞いてなかったな」
ジネットが、思い出したように言った。
「なんて言うんだ?」
「えっと――」
私は、一瞬迷った。奴隷になって以来、このクリスティアーナという名前は誰にも話していないし、そもそも、この前、ジネットの師匠であるらしいあの魔女に呼ばれるまで、誰にも呼ばれたことも無かった。当然、奴隷として私を買った『主人』と、その息子であるシャルルだけは私の名前を知っているけれど、どちらも決して私をクリスティーナと呼ぼうとはしない(ただし、理由は正反対だ。『主人』は、奴隷に名前なんて必要ないという考えから。一方シャルルは、私がそう呼んで欲しくないことを、知っているからだ)。
できることなら、この名前は、忘れ去ってしまいたかった。
そう。私は、このクリスティアーナという名前が、……嫌い、とまでは言わない。大好きなお母さんが付けてくれた名前だから。でも、どうしてこんな名前になってしまったんだろう、という思いは、如何せん拭えない。
神様は私を裏切ったんだ。私をドス暗い絶望のどん底に突き落としたんだ。必死に戦おうとしたのに。純粋に、頑なに信じてたのに。私は、この世の物とは思えない程に、理不尽な目に遭わされた。
私がどんなに願っても、祈っても、縋っても、救いを乞うても、私には何の恵みも、救済も、最後まで降りては来なかった。やがて私は神様を捨てて、忌み嫌うようにまでなってしまった。
そして、その最後の最後で、私に与えられたチャンスは――
神様なんかじゃなくて、『魔女』の力による物だった。
なのに、クリスティアーナ? 笑うしかない。まるで悪い冗談だ。自分につけられたただ一つの名前を、お母さんが私にくれた物の中で唯一最後まで残っているこの贈り物を、嫌いになることはできない。でも、そうは言っても、私の辿ってきた運命に、せめてもうちょっとは適した名前が欲しかった。せめて、神様なんかとは、関係ない名前。
「……言いたくないってか?」
ジネットが不思議そうな顔をする。
「まぁ、でも――嫌なら別にいいさ。ただ、どう呼べばいいのかだけは困るよな。何か仇名というか、名前の代わりになる物でも――」
「クリスティアーナ」
私は小声でボソリと言った。他人を困らせてまで付き通す信念でもない。こっちの方が我慢すればいいだけだ。
「『あたし』の、名前」
「……へぇ」
納得したように、ジネットが頷いた。
「……まぁ、じゃあ、よろしく。……それと、そうだ。それと関連した話題で……あんたの、魔女としての名前も決めないといけないんだよ」
「……魔女としての、名前……?」
「魔女は、自らに名前を付けなければ破滅する」
ジネットは言った。
「名前を授けられた存在は、名付け親に服従する運命にある。創世記、読んだことあるだろ」
「……一応、は」
「そう。それの該当箇所――『神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった』……」
ジネットが、私の周りを歩き回りながら話す。机に置いてあった、黄土色がかった地球儀に、ふと目をとめて、片手ではたいた。地球儀が、くるくるとひとりでに回転する。
「……人間は、地上世界を支配する存在として創り出された。その人間が、全ての生き物に名前を付けた。付けられた名前を受け入れ、それで呼ばれるということは、即ち名付け親の決断を受け入れる意思、服従の証だ。逆に名付け親になるということは、即ちそいつを支配するということでもある。
今なおこれは残ってるだろ。例えば、親は子に名前を付けるし、ペットだって名付け親は飼い主だ。そしてまたこれを別の角度から見てみると、どうやって教会が人々を支配してるのかも、おおよそ見当つくよな」
言われて、私はハッとした。
「……洗礼名……ですよね」
「そうだ。今や教会が人々に第二の名前を授ける。これは、教皇庁が今のヨーロッパ世界の『正当な』支配者であることの象徴ともいえるだろうな。
……だがな。あたしたちは、『魔女』は違う。『人間としての名前』は別問題として、せめて『魔女としての名前』だけは、自らが自らに授けなければならない。『自分で自分を支配する』。それを先にしなければ――つまり、敵に先取りで『命名』されてしまったら――魔女は力を支配されて破滅する。魔女は、こういった象徴概念的な事柄の影響を一般人よりか遥かに受けやすい。自分自身が、象徴概念の塊だからだろうな」
彼女が手を振った。
「駆け出しの黒魔女の大半は、このルールを知らない。というよりそもそも、悪魔に知らされないんだよ。悪魔は勝手に彼女に『黒魔女の名』を授ける。そして黒魔女をその支配下に置いてしまう……。黒魔女が悪魔に支配されちまうのは、大抵こういう理屈なわけだが。あんたの場合、悪魔こそ憑いてないが、『名無しの魔女』なことがもし万が一敵にばれでもしたら、あんたは一巻の終わりだよ。だから今、あんたで、自分自身の魔女名を決めろ」
「……自分の、名前……」
「あたしゃ手助けはできない。あんたで考えるんだ。そうでなきゃ意味がない、だってあたしに支配されちまうだろ? ……まぁ、深く考える必要もないさ。どうせ敵に名乗ることだなんて余程じゃない限り無いし……」
「……あの、それと、関連してなんですけど」
「ん? どした」
私は躊躇った。以前聞いた話が、嘘か本当か、分からないからだ。
「昔、噂話で、聞いたことがあって……魔女は、自分の名前を敵に知られると、支配下に置かれるだとか。名前は、敵にはバレない方が良いんですか……?」
ハハハ、と、ジネットが笑った。首を振る。
「そりゃあガセだ。魔女の名前の重要性、それは事実だが、きっとそれが何も知らない民間人の口移しで誇張されてったんだろう。知られるのは問題じゃあない、名づけられるのが問題なだけだ。あんたは早く、名無しの状態から脱却しないといけないが、別に魔女としての名前が敵に知られても問題は無いし、難しく考える必要は無い。あたしなんて特に適当で、本名に『レッド』を付け足しただけだしな。あたしの母方の国の言葉で、『赤』を意味する。それの意味の由来なんて、あたしのどこを見ても分かるだろ?」
「成程……うーん……」
しばらく頭を捻ってみたが、これが意外と思いつかない。困った。なんだか、自分に全く関係ない、適当な物を自分の名前にする気にも起きないけど、かといって、クリスティアーナという名前も使いたくない。どうしたらいいだろう? 『私』の、名前は……
と、その時、たまたま、ジネットの羊皮紙の束の中に、見慣れない文字を見かけた。
「……これ」
私は指差した。
「これ、なんて読むんですか? この文字、見たこと無くて……」
その周りの文字はどれも、見慣れたアルファベットだった。なのに一文字だけ、分からない物がある。そもそもその文章は、フランス語で書かれた物ではなかったし。
「あぁ。それな」
ジネットが納得したような顔をした。
「これは、『K』だ」
「『K』……?」
「フランス語には存在しない文字だからな。知ってなくても無理は無いさ」
「どう、読むんですか?」
「うーん……どう、読むか? ……強いて言えば……」
彼女は頭を捻った。
「なんて言えばいーんだろ、分かりにきぃなぁ……いや、そうだ、それこそ。お前のその、クリスティアーナって名前を例に挙げよう。……ちょっと、筆……」
机の端に転がっている筆で、そこらへんの羊皮紙の裏に、『あたし』の名前を書いた。
『Christiana』
「これを」
ジネットが、その下に、別の綴りで書いた。
「理論上、他の言語では……こう、書ける……っと」
『Kristiana』
「実際にはこうは書かない」
ジネットが顔を上げ、紙をあたしの前でひらひらさせた。
「仮に他の言語に直しても、実際にはあんたの名前は、どれにせよCで始まる綴りなわけだが……それでも、書こうと思えば、発音上書けないことは無い。つまり、フランス語においてCが読む発音のうち、カ・キ・ク・ケ・コの代わりとして使える。ただ、シャ、シェ、シュ、ショ、そのあたりには使えない。難しいな、言葉で説明するの……」
「……気に入りました」
ジネットはぽかんとした。
「へ?」
「私の、魔女の名前」
私は、少しもじもじしながら、提案した。
「『K』で、いいですか」
ジネットは目を瞬いた。
「……『K』……?」
「だ、駄目ですか?」
自分の顔が赤らんでいるのが分かる。
「いや、あの……適当に……決めたので……」
「……どして、『K』?」
「……いや……」
私は横を向いた。
「なんとなくカッコいいから、じゃ……駄目ですか……」
ジネットは、しばらく、にやけを浮かべて、私を見つめていた。やがて、ははははは、と、軽快な声で笑って、私にグーサインを出した。
「いや、いいと思う! あぁ、すげぇいい。言われればそうだな、確かにカッコいいなそれ。なんつーの? 『存在しない筈の存在!』ってか! なんかいいなぁ、それ! シンプル・イズ・ベスト。『白魔女K』。カッコいいじゃん!」
「ど……どうも……」
「オウ。あんたは、それでいいんだよな」
「……はい……」
「よし! じゃあ、それで決定だ」
パン、と、ジネットが、手を叩いた。
「次の議題に移るぞ」
「えっ……あの……何かその、変な儀式みたいなのって、要らないんですか?」
「要らねーな」
ジネットの答えは呆れ返るほどシンプルだった。
「単に心の中で決めとくだけでいい。それだけで十分、あんたは自らに名前を付けたことになる。おめでとうございます! あんたは世界から独立した。自らで自らを支配した。これで立派な白魔女だな。今のあんたは、白魔女Kだ。おっし、その意識さえありゃ、いいわけよ」
「……『白魔女K』……」
ごくりとつばを飲み込んだ。響きは好きだ。これがこれ以降、『私』の名前になるのか。そう考えると、なんだか嬉しかった。
……少し、恥ずかしいけど。
「ほい、で、次の議題は……」
ジネットが指を立てた。口を、思わせぶりに半開きにする。
そしてしばらく、そのまま、完全な沈黙が続いた。
「……悪い、決めてなかった」
「ジ、ジネットさん……」
「あーじゃあ、代わりに、あれだ。質問とかあったら言ってくれ」
「質問……」
言葉に詰まる。
「あの、私……明日の朝までには……一旦、家に帰れますか?」
ジネットは瞬きをした。
「あぁ……質問って、魔術のことでって意味だったけど……まぁ、別にそれでもいいや。あぁ、帰れるぞ。ってか元から、今夜のうちに一旦帰すつもりだったし。可哀想だけど、そうしないと怪しまれるし――ってかいや、なんだ、その、『帰れますか』って……」
不思議そうな顔をする。
「……おいおい、あんた、あんなところに帰りたいのか?」
「っ――あんなところって言い方は――」
シャルルの顔を思い出す。唇を噛む。
「無いと……思います」
「え――い、いや……すまん」
ジネットが瞬きをし、申し訳なさそうに、私から視線を逸らし、横を向く。
「……分かった。悪かったよ。ごめんな。……ほんと、ごめん」
「いえ……いいんですよ」
思った以上に申し訳なさそうで、こっちも一気に、つかの間の怒りが失せてしまった。
「……はたから見たら、確かにあんなところ嫌ですもんね」
「いや、にしても悪かった。もっとよく考えてから言うべきだったな。あたしは、てっきり……」
「なんで、そんな、別に気にしてませんよ」
「そうか……ありがとう。以後気を付ける」
ジネットが溜息をついた。
「……ともかく、だから、その、元から帰すつもりではいた。あんたがいなくなったら、脱走したっていって、そこの家の連中が騒ぐだろ。捜索なんかされたらヤバイし、もしそっから黒魔女にまで情報が回ったりしたら最悪だ。あたしはある程度の魔術なら使えるし、知識量はあるが……実は……情けないけどな、実戦経験はまだまだ乏しいんだ。歳だってあんたとそんな変わらないし。……あんた何歳?」
「十一です」
「十二だ。……あぁ、でも」
「何ですか?」
「ほら、それだ」
ジネットが指を立てた。
「あのさ、そんなかしこまった感じになる必要もねぇだろ。そっちがそうしたいなら別にいいけどさ、別にリラックスしてしゃべっていいんだよ。ってかなんか、こっちが変な感じになっちまう」
「あ、すいません……」
「ほーら、だー、それだってかしこまってる」
「えっと……『分かった』」
なんだか、シャルルといい、このジネットといい、私に対等に接しようとしてくれる人と出会うのは、とても嬉しい。
「……じゃあ……」
色々質問が湧いてくる。最近やけに増えているっていう魔女の事件の話とか、どうしてこのジネットの師匠、ヴェロニック・ウェルティコディアが追われていたのかとか。でも、その前に――
「魔術って……そもそも、どう使うんで……どう使うの?」
ジネットはクスリと笑った。
「あぁ、そりゃ、そこからだよな。ちょいとそこで待ってろ。あんたに必要な本を連れてくる」
ジネットは向こうの中央の部屋へと急ぎ目に走って行った。しばらくして帰ってくると、彼女の後ろから、五冊の分厚い本がついてきた。どれも真ん中あたりでページが開いていて、右と左のページの束を翼のようにしてゆっくりと空中を遊泳し、彼女に続いてやってきたのだ。
「『基礎的魔術奥義入門書』の『呪文編』、『魔方陣編』、『精神体編』」
彼女が言うと、本の内の三冊が、急いで空中を引き換えし、私の前に飛んできた。私の胸の前で互いを押しあい、まるでどれを最初に私が読むべきか、喧嘩しているかのようだ。
「あぁ、気にするな。そいつらあんまり仲良くないんだよ」
ジネットが、もう一冊の名も呼ぶ。
「それと『封印・解放術の初級入門書』」
残された二冊のうちの一冊が、途端に、まるで大砲から放たれたかのようにして吹っ飛んでいき、私の前で争っていた残りの三冊に激突した。順番がこんがらがり、四冊ともまた互いを押しあって争い始めた。
ジネットは溜息をついた。
「こいつらいっつもこうなんだよ……まぁいいや。最後、『白魔術の基礎的心得』」
途端に、争っていた四冊がびくりとたじろぎ、動きを止めた。恐る恐る、後ろを振り向くようなそぶりを見せる。
一種の風格を放ちながら、最後の一冊の本が、彼らの前にゆっくりと羽ばたいていった。他の四冊の前にどっしりと構えると、ペラペラペラペラと一枚一枚の音を立てながら、重厚感を放ちつつ閉じた。四冊が一斉に、敬礼するかのような動きを見せ、それから五冊とも、私の前で、一列に綺麗に並んだ。
「よし、よし」
ジネットが五冊の魔導書をペットのように撫でていく。
「えっとだな。まず魔術というのがどういうものなのか」
彼女はまず、『白魔術』を空中から引き抜いて、最初の方のページを捲った。
「これの最初の方に、分かりやすい説明がある。取り敢えず読んでみろ」
手渡されたページを、私は読み上げた。
「えっと……コホン。コホッ……『自らの精神体を特定の方向性に高次化させ、アカシック・レコードの疑似再現行為を通じ世界法則への干渉エネルギーへと変換した後、物質世界へと再変換し顕在化させる作業』……えっ……分かりやすい……!?」
いや、よく見ると、その下に更に書いてある。
「……『要するに』」
下に書いてあることを読む。
「『イメージとしては、魔術のことに頭を精一杯集中させた状態で、呪文などといったトリガーを使って、それを発動するわけです』」
……一気に文体が砕けている。
私は顔を上げた。
「こっちの方が、断然わかりやすいね……」
「実際にはもっと色々あるけどな、基本はそれだ。とは言っても、やっぱ、言葉じゃ説明しにくい。やってく内に分かるって方が理解は速いだろう」
ジネットは『白魔術』をもう数ページか捲った。
「試しに一つやってみろ。二十六、二十七ページ……ほら、これだ」
私はそのページを読んだ。
「……『睡眠作用の強化魔術』」
下には、いくつかの魔方陣や、短い作業の手順が分かりやすく書いてあった。
「……『この呪文は、術者の睡眠の効率性を上昇させる……例えば、一般的な人間が必要とする睡眠時間は一日約六から八時間だが、この呪文を用いれば、たった一、二時間で、完全な疲労回復が可能となる。一度発動すれば、効果は一ヶ月ほど持続する。扱いやすいので、特に初心者の白魔女に推奨』」
「そいつは重宝すると思うぞ。あんた、日中魔導書読む時間なんかないだろ。睡眠量が減らせれば、夜中の時間が空くわけさ。魔導書はあんたに貸してやるから、向こう持ってっても夜中に読める。魔術ってのは、魔導書が無いと、なかなか自力で分かるもんじゃない」
「成程……」
「あぁ、一応。手順に必要な魔方陣は、ここにちゃんとあるし」
ジネットが横の羊皮紙の中を探り始めた。
「……あ、いや、コレは違うや。そろそろ整理しないとな……前したのいつだっけ……いや、えっと、あったぞ、あったっぽい……これだ!」
彼女が、自信ありげに、一枚の羊皮紙を引っ張り出した。
それは、全体的に大人びたジネットが、カッコいい顔つきをして、ポンキュッポンな身体になって、カッコいい魔方陣を辺りに描き、カッコいいエネルギーを周りに迸らせながら、カッコいい決めポーズをとっている、無駄にクオリティの高い落書きだった。右下に、明らかにカッコつけた羽根ペンの筆記体で、ジネットの名前が書いてある。
「あっ……違うや」
ジネットの笑顔が引き攣り、いきなり真顔になった。羊皮紙を元の束の中に押し込んだ。
「魔方陣どこだっけなぁ……」
「ちょっ、ジネットちゃん!? 今の何だったの!? すごく気になるんだけど!?」
「お前は何も見ていない……何も見ていないんだ……」
「思いっきり見ちゃったよ!」
「あぁ~、ほら、これだ」
ジネットが引っ張り出したのは、今度はちゃんと正解らしかった。魔方陣だ――私の開いているページに書いてあるお手本と見比べると、全く同じものだ。とは言っても、私でも、定規とコンパスがあって丁寧に描けばできそうな、比較的簡単なものだ。
「手順はここのページに書いてある通りだ、そんな難しくないぞ」
目を通してみると、精々、魔方陣を描いて、それを胸元に抱いて、何やら集中して念じながら呪文を唱えて、それで終わりなどと、やけに簡単だ。本当に、こんな物で魔法が使えるのだろうか?
「基礎クラスだからだよ」
ジネットが言った。
「そこまでの集中力も、特定の感情の方向性も、このレベルの魔法には必要ない。これがもうちょっと難しくなると、やっぱ相当な下準備だとか精神統一だとか、自らの感情を自由に操作する技術だとかが必要になってくる。挙句の果てには複数言語の呪文とかまで。でもやっぱそれはまだあんたには、多分厳しいからな」
「成程……」
「ただそれでも、これだって、ボーっと呪文音読するだけじゃ発動は出来ないぞ」
ジネットが忠告した。
「ここにも書いてあるだろ。集中して念じながら唱える、って」
「大体……どんな感じにすればいいの? それって」
「言葉で表現するのは難しいな……」
ジネットが腕を組んだ。
「う~ん……まずは成功させるという意識、自分にはこれができるんだという自信を持つ。集中とか念じるってのは感覚の問題だから、コツが掴めるか掴めないかも大きいが、取り敢えず自分がやろうとしていることを具体的な情景としてイメージしてみると分かりやすいぞ。安眠してる自分とか、そんな感じのな」
「へぇ……一回、やってみる」
「オウ。まずはそっからだな――」
結論から言うと、少なくともこの魔術の発動には成功した。ここで失敗したらどうしようと思っていたから、なかなかホッとした。
呪文を唱えている時の段階で、何かはっきりと、「呪文を唱えている感覚」があった。なんて言えばいいんだろう……言葉にずっしりとした「重み」があるような。自分のしゃべり方が変わっただとかではなく、溢れ出てくる言葉そのものに、一字一句、自分の想像を超える力が備わっているというような感覚。そして、唱え終わったときには、妙な達成感、何かを成し遂げたのだという実感があった。
「そりゃあ成功したな」
そのことを説明すると、ジネットは頷いた。
「術式が失敗した時には、感覚として分かるもんだ――『やべっ、ミスった』ってな。だから間違いない、あんたのそれは成功だ。それができりゃあ大体初歩的な術式は扱える。大凡のコツは掴めたか?」
「なんとなくは、まぁ……」
「なんとなくでいい。順調な滑り出しだな。本当は色々他にも、教えてやりたいことがあるんだが……」
壁にかかった時計を見る。時計の他に、室温計だの、湿度計だの、部屋に充満している四大元素の配合だの、色々横にメーターがついている。
「もう少しで時間だな……最後にお前にこれだけ、やっとけって教えないと」
彼女が私に、『呪文編』の魔導書を手渡した。そして、目を閉じ、息を整え、いくぞ、いくぞ、と、ニヤニヤしながら言った。そして――
指を、パチンと鳴らした。
「『六十七ページ』」
途端に、『呪文編』のページが目まぐるしく回転し、六十七ページまで開いた。
「うわぁっ……すごい! どうやったの、今の!?」
「それこそそこに書いてある内容だ」
私はページを覗き込んだ。
「『基礎的運動術、《小物体の操作》。この呪文は、術者の念じた通りに、小物体を動かすことができる。この際ある程度物理法則は無視することができる。動かせる物体の数、速さ、大きさ、動きの精密性などは個人差が激しいが、練習を積めば大きく変わる。初心者ならまず習うべし』」
「そいつが今夜の宿題だ」
「宿題……? 一人で、できるかなぁ……」
「指示通りにやれば、最低限小っちゃい物動かすだけならできる筈だ。それに書いてある通り、細かいあたりは個人の才能と熟練度が物を言うから、気にしなくていい」
「分かった……じゃあ、家に帰ったらやってみる」
「一応一、二時間は寝るんだぞ。幾らあんたでも眠くなっちまう」
「うん。あれ……ちょっと待って」
何度も何度も、指示を読み返してみるが――何も、あれについて書いてない。もしかして――
「……あの、さっきの指鳴らしたのって……意味、あるの?」
「無い」
「無い!」
「無いけど、ある意味あるかもな」
ジネットが肩を竦める。
「確かに『指を鳴らす』行為自体は、その術式の内容とは何ら関係ない。だが、身体の特定の動作と、魔力の発動とを、何度も何度も同時に行ってると、やがて身体に変化が現れる。いつの間にか身体が、そのパターンを記憶して、『この動作が来たってことは、これから魔力を使うらしい』っていう風に身構えてくれるようになるんだ。こうなると、魔力を引き出すスピードが、僅かながら高まって……戦闘においては、この一瞬が勝負の分かれ目になることだってある」
「成程……」
「とか言っといてぶっちゃけ、九割九分カッコつけだけどな」
「やっぱり!」
「いいじゃねーかよ! どうせ同じ『戦う』んだったら、カッコいい方がいい。それに、いちいち敵にビビりまくってたら、戦うことなんてできないだろ? ある程度の自信があった方が、上手に戦える」
と、ジネットが、あっと声を上げた。
「わぁっ、そうだ、あんたに渡し忘れてたよ、大事な物。えっとえっと……」
横の棚の引き出しを開けた。その中から、彼女は黒い宝石箱を取り出した。
「コイツだ。これを持って行け」
手渡された箱をまじまじと見つめる。黒い布でコーティングされた、高級そうな箱だ。ギリギリ手のひらに収まるぐらいの大きさの。
「開けて見ろ」
言われたとおりに開けると、相当大きい、綺麗に磨かれた黒曜石が、金細工のペンダントの中央に嵌め込まれていた。
「……わぁ」
手に取って、私の顔に思わず、柄にもなく笑顔が広がった。こんな物触るのなんて、産まれて初めてだ。やっぱり、綺麗な宝石とか、こういうのは、見てるとなんだか嬉しい。
「あぁ、念のため言っとくと、それ売って金にする用じゃねぇぞ」
ジネットが声をかける。
「そいつは、ただの黒曜石のペンダントじゃあない。三つもの効果がついた、れっきとした魔術道具だ」
「魔術道具……?」
「物質に魔力を封じ込めて、魔術的な効力を与えた代物のことだ。あんたの《杖》――元々はお師匠様が愛用してた物だが――それだって、一種の魔術道具だ。
そのペンダントの第一の効果は、あたしとの通信。それを通じて、離れたところでも、あたしとあんたは会話ができる。同じようにして、互いがどこにいるかも大凡分かる。……どちらも、片方が拒否したらうまくいかないけどな。普通こういうのには水晶玉を使うもんだが――それだと映像が付けられるからな――まぁ、これでも問題はない。
二つ目の効果は、あたしが放った魔術を吸収するっていう物。例えばあたしとあんたとで敵と戦ってて、敵があたしの攻撃を跳ね返してあんたに当てようとしたとする。そうしたらそれが、赤い霧のような形をとるバリアーを出して、それを吸収してくれる。或いは、広範囲に広がるタイプの攻撃から、お前だけ守るだとか、そこそこ応用が効く。意外とこれが便利でな。
三番目の効果は、……あぁ、でも、これは今はあんた、あんまり使わないな。むしろ今のあんたにとってはマイナスの面の方が大きいかも」
「えっ……何?」
「それを触った奴を、あんたの精神世界に引き摺り込むって効果だ」
ジネットが言った。私は瞬きをした。
「精神世界……?」
「文字通り、あんたの心の中だ。そこの情景はおおよそあんたの精神状態を映す。そしてそこの内部での事柄は、ある程度あんたの思い通りに動く。……そこに、他の奴の精神体を引き摺りこむことができるんだ」
「えっ――じゃあ、すごく強くない? それ」
私ははしゃいだ。
「敵を積極的にこれに触らせて、引き摺り込んで、そしたら、その世界内でのものは、私の思い通りに動くんだよね。そいつを、楽に倒せるんじゃないの?」
「ところがどっこい、そうもいかない。敵に精神世界内で暴れられると大変なことになる」
「えっ……例えば?」
「要は自分の精神の内面が破壊されるわけだからな。記憶喪失。混乱。発狂。最悪の場合、ショック死。精神世界ってのはすごくデリケートだ。普通そん中に敵が入ったらなかなかにヤバいと思っていい」
「えっ……じゃあ、なんでそんな機能を……」
「元々はこれ、お師匠様が使ってた道具だ。お師匠様の場合、それをされても大丈夫なんだよ。例えば、特殊な白魔術を使えば、自らの精神世界への破壊工作を防ぐことができる……がッ!」
私が、それを習いたいと言いだそうとしたのを、ジネットが片手で止めた。
「それは超高等な術式で、今のあんたにもあたしにも使うのは十年早い」
「やっぱり……」
「一応それが使えるようになれば、本来戦って勝ち目の無い相手とも戦える。例えば大悪魔だ。あいつらは物質世界においても実態を持たずに、純粋な魔力のエネルギー体として攻撃してくるから、普通倒せない。でも、精神世界に引きずり込めば、両者エネルギー体。互いにダメージが与えられるし、むしろその精神世界の主の方が圧倒的有利、ほぼ勝利確定と思っていい。……まぁ、その話は、今はどうでもいいな。そう――一旦、もうあんたを帰らせないといけない。最近は色々と、夜、忙しいからな」
「えっ、どうして?」
聞いた直後に、そっか、寝るからか、と自分の中で納得がいってしまったが、ジネットの答えは違った。
「夜は街に出る。最近このあたりやけに黒魔女が多いからな、そいつらと戦ってんのさ。まぁ、どれも黒魔女基準で言えば三流四流の雑魚だけどな、あたしみたいな駆け出しだとまだ油断できない。一週間前ぐらいから続く連続殺人事件、聞いてるだろ」
「……うん」
「お師匠様なら……いや少なくとも、以前のお師匠様なら……きっとこんなどうでもいい事件、すっげぇ楽に解決してくれたんだろうと思う。でも、もうお師匠様は、いなくなってしまった。だからあたしが、その役目を継ぐしかないってわけさ」
彼女の言葉が、私の耳に引っ掛かった。
「『以前』……?」
「そう。『以前』だ。あんたが見たお師匠様は」
ジネットが言った。
「皺くちゃのおばあちゃんだっただろ」
「……うん」
「実は元々は、あんな姿じゃなかった。二週間前に、突然ああに変わっちまったんだよ。……これを見てみろ」
ジネットが横の長い棚から、油絵のキャンバスを取り出した。私は思わず息を飲んだ――こんな上手い油絵、見たことが無い。
それは、暗がりになった部屋の中、暖炉の横に座る、美しい女性の絵だった。女性は膝の上に大きな本を置き、微笑んでいた。透き通るような、きめ細やかな白い肌。さらさらの黒い髪。服は、今のジネットのそれとも少し似ているかもしれない――ただ、ジネットの場合赤いところが白くて、黒いところが金色だ。
女性は一見若々しかったが、半月型のメガネの奥で光る、その切れ長な目だけは、どこか奥行きのある色に満ち、歳月を感じさせた。別に老けた目ってわけでもなく……経験に満ちた、思慮深い目。
「これ、ジネットちゃんが描いたの?」
さっきの落書きの時も思ったけど、すごく絵心があるんだ……。
「あぁ」
ジネットは悲しい顔をしていた。
「以前のお師匠様はこんな感じだった。それが二週間前に突然、あんな風に」
「えっ――」
確かに、でも、言われてみるとそういう気もする。この絵の女性の顔も、半世紀ぐらい老けたら、あんな感じになりそうだ。それに、この目。この黄金色に輝いている、気品と凄みとを兼ね備えた目は――おばあさんの姿になった時も、変わらなかった。間違いない、この人は、あのおばあさんの元の姿だ。
「でも、どうして……いきなり」
「こっちが訊きたいぐらいだよ、ったくよぉ」
ジネットは溜息をついた。
「二週間前……ある日突然お師匠様が、あたしに、この家から一日か二日だけ出るように言ったんだ。理由を聞いても答えてくれなかった。しょうがねぇから、あたしゃその言葉に従って、ちょっと離れた森の中で二日間野宿した。ずっと、何だろうな~って、疑問に思いながらさ。そんで、言われた通りに待った後、やっとここに帰って来た。すると……」
彼女の眼は淀んでいた。きっと余程ショックだったのだろう。
「彼女はもう既にああなっていた。何があったのか問い詰めようとしたけど、何一つ教えちゃあくれない。それどころか人が変わったみたいだった……以前は、割と優しくて、明るくて、あたしに対してはおしゃべりな人だったんだ。それがこうなってからは一人で自分の部屋に引きこもってばかりで、なんだか、あたしと話すことすら恐れている感じだった。なんだったんだろう……本当に」
彼女は椅子に座り込んだ。
「その一週間後に、この事件が始まった。でも彼女は何にもしなかった、いやそもそも部屋から出なかった。そして何やらずっと独り言をブツブツブツブツ呟いているだけ。あたしは扉越しにお師匠様に聞いたさ、何もしないんですかって、このままでいいんですかって。そうしたら、お師匠様は……自分にはもう、黒魔女が止められないと……自分にはもう……一切の魔法が、使えないと」
沈黙が流れた。ジネットは俯いたままだった。私は何も言えずに、その話を聞いていた。
「意味が分かんなかった」
ジネットがボソリと呟いた。半分涙が滲んだ声だった。
「でもあたしは自分で戦うしかなかった。だって止めねぇといけねぇんだもん、それがあたしの仕事なんだもんよぉ。ここ三日毎晩、黒魔女相手に必死に戦ってきた。なんとか勝ててはきたけどさぁ……そうだ、確かにあたしゃ、そいつらは止められてきたけどさぁ……でも……それだけじゃあ……」
彼女は首を振った。
「んなんじゃ足りねぇんだよ、根本的解決には至らねぇんだよ……! お前最近のこのサン=ノエルが如何に恐ろしい状態か分かってるか? 毎晩五人は黒魔女が出現するんだ。あたしが一人で飛び回ったって、所詮大火を如雨露で消そうとするようなもんなんだ。自分の無力さが本当に辛い。お師匠様だったら一人で全員蹴散らせてる筈だ。それどころかこの不自然な大量発生の原因だって掴んで、今頃全部解決できてる筈だ。それなのに……!」
ジネットが顔を両手で覆った。全身が震えている。
「昨日お師匠様は、やっとあたしの前に現れてくれたんだ。そしたらいきなり、第一声が『逃げなさい』だよ。何やら何かが来るから、一旦ここから逃げろと。あたしの存在が敵に知られたらならないだの、なんだの。お師匠様は本当に疲れてた。何もかもする元気を失ってた。かと思ったらそのまま逃げ出して、殺されてしまった。どうして……何が……」
ハッとする。
「そうだそうだ、時間! こうしちゃいられねぇよ、マジで急がねぇと」
ジネットが急いで立ち上がった。
「おい、ちょっと、急いであんた家にだけ帰らせるから、急ぐぞ!」
「えっ、あ……うん」
手首を引っ張られて、私は一緒に部屋から連れ出されていった。けれどその間にも、何やら無理やり作ったようなジネットの慌てた表情に、時々浮かぶ悲しみと絶望の影が、私には気になって仕方がなかった。