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黒魔女 K  作者: Darkplant
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第二章

=聖職者=

 教皇庁、及びそれが支配するヨーロッパ教会に従事する宗教的役職全般の総称。聖職者になるにあたっては、「最高洗礼」と呼ばれる特殊儀礼を受ける必要があり、これを通じ全聖職者は「奇跡」を行使する力を得る。行使できる「奇跡」は、才能や努力による個人差が激しく、一般に、より強力な「奇跡」を操れる者程、教会内で高い役職(司教、大司教、枢機卿、教皇など)に就くことができる。

 奇跡の能力は、十字架をかざしたり、聖水をかけたり、聖書を朗読したりするだけで悪魔的存在(悪魔、黒魔女)を弱体化させる、鉄や銀の武器に祝福儀礼を施し悪魔的存在に対する有効性を増す、悪魔的存在を遠距離から探知する、病気を治癒させる、自らや他人の怪我を癒すなど、多岐に渡る。この関係上、聖職者は、ただの宗教的指導者に留まらず、魔女の討伐を行う治安維持組織、ありとあらゆる病を治せる医者、異端・異教徒相手の戦争における軍隊などとしても機能し、人々からは絶大な信頼を寄せられる。故に、ほとんどの地域には司教領・大司教領が敷かれ、行政権・司法権を聖職者が掌握、全ての単一国家の独立権を教皇庁が管轄していることと合わせて、聖職者たちは実質的に、ヨーロッパ社会の支配階級となっている。

 また、聖職者とは別に、教皇庁には「聖痕者」と呼ばれる者たちも所属している。あくまでも教会、即ち「神の代行者」からの「最高洗礼」を受けたに過ぎない「聖職者」と違い、「聖痕者」は「神」の啓示を直接受けて力を手にした者のことをいい、彼らが操る「奇跡」は、一般的な聖職者のそれとは比べ物にならない程強力である。聖痕者は、通常は教皇庁内の役職につかず、常に何らかの指令を受けて日夜黒魔女と戦っており、一般人が目にする機会は滅多にない。




 ハッとして、目が覚めた。

 一瞬、自分がどこにいるのか、全く分からなかった。徐々に普段の記憶が蘇り、やっとのことで、理解した。

 ここは、普段使っている寝室だ。寝室とは言っても、腐りかかった木の板を、寸法もろくに測らずに繋げて、部屋として機能するギリギリの大きさの箱を作ったような代物に過ぎない。それが、裏庭の隅っこ、豪邸からは切り離されて、ぽつりとひっそりと建っている。

 木の板の間の隙間から、金色の日光がところどころ射しこんでいた。埃だらけの汚らしい空気が、それを受けて眩く輝いていた。自分の下に敷かれた藁のベッドの中で、虫たちがカサカサ動く音が聞こえてきた。

 その(ほか)は、だだっ広い、沈黙だった。

 ……え?

 私は――いや、あたしは――? わっ、と声を出して、急いで起き上がった。あたりをしきりに見回す。え? 何が起こったの? 何が? 何が? 何が――?

 嘘だ。そんなはず、ない。あり得ない。認めない。さっきまでの、あれは。あたしの内側の、力は? 杖も、どこにも見当たらないし、だとしたら、全部――もしかして――。

 自らの身体を必死に触る。酷いボロ切れしか羽織っていない。肌も傷だらけ、痣だらけ。以前と何も変わらない。とんがり帽子も、黒いさらさらのワンピースも、傷一つないような、美しい肌も――

 全部、ただの幻想だ。

 世界一深いため息をついた。なんて馬鹿馬鹿しい想像だろう。なんって都合のいい妄想だろう。最高で最悪の(あくむ)だった。もう、全く――あたしったら何してるんだろう。

 ……あーあ。

 世界が、より一層、最悪の場所に思えた。ただ、それだけだった。

 あたしはゆっくりと、ベッド(ベッドと呼べるのなら、だが)から起き上がった。早く、仕事をしないといけない。怒られてしまう。

 ……待てよ。

 あたしは、その場で立ち止った。どうもこの気温といい、空気の乾きめの感触といい、今は朝でなく、真昼のようだ。でもだとすると、どうしてあたしは寝てるんだ? 普段、昼寝なんてしたら、『主人』が許すはずがないし、今の時間まで寝てるなんて普通ならばありえない。何か、おかしい……。

 でも、夢だったにしろ、夢じゃないにしろ、取るべき行動は同じだ。ひとまずあたしは部屋を出た。

 あたしを最初に出迎えたのは、見渡す限りの大空だった。山岳の地平線に至るまで、雲がたったの一つもない、嘘みたいに綺麗な晴天だ。カラッと涼しい空気の中、太陽がキラキラと眩しい。風が景色を吹き抜け、草木の上に波を走らせ、あたしの髪を揺らし、憎たらしい程に心地よかった。

 皮肉みたい、とあたしは思った。それぐらいに、素晴らしい景色だった。

 ……なんなのよ、もう。

 ひとまずは、当然、嫌だけど――昼の仕事をしないと。

 ……嫌だなぁ。

 でも、そうやって屋敷の方にとぼとぼと歩いていく途中、そんな夢の全てや、陰鬱な感情も、全てまるごと吹っ飛んでしまった。世界一大好きな顔が、こっちの方を向いていたのだ。石垣に座って、読みかけの分厚い本を手に持った、シャルルだ。

「あぁ……起きたんだ」

「え……え、あ、……う、うん」

 彼とは、うまく話せない。

「……あ、あたし……昼間なのに……寝ちゃって……?」

「いいや、それがね」

 シャルルが首を振った。

「さっき君は、ここのあたりでぐったりと倒れてたんだ。多分、色んなことが辛すぎて、身体の方が疲れちゃって……。だから僕、そこに、君を運んだんだ」

 あたしの顔が、カーッとなるのが分かった。

「え……ちょ、ちょっと、待って……そ、その、あ、あぁたし――」

 思わずたくさん、言葉に詰まる。体がもじもじする。嬉しいけど、恥ずかしい。シャルル、あたしのこと、あんな遠くまで、一人で運んでくれてたんだ! うぅ――どうしよう! お姫様抱っこだったのかな? おんぶ、だったのかな? いや、そんなことよりあたし、迷惑、かけちゃって、ないかな――。

「別にそんな、気にしなくていいよ」

 シャルルが明るく笑った。そんな笑顔が、堪らなく眩しいと思った。世界の残りを合わせたよりもよっぽどの価値がある。

「元々……そんなになっちゃうぐらいに働かせる方が、僕は悪いと思う。僕と同じぐらいの年なのに、あんな量の仕事、こなせるわけないよ」

 シャルルは本を横に置いて、こっちに駆け寄った。

「母さん、今、外出中なんだ。でもきっともうすぐ帰ってくるよ。その時になって、仕事やってないって分かったら、きっと、また、怒られちゃうから……。他の人達に、仕事余ってないか、聞いてみたら?」

「は、は、はい――……うん。そう、してみる」

 途中であたしは言い直した。シャルルは、あたしが彼に丁寧な言葉遣いをするのを禁じている。聞いていて申し訳なくなる、というのが理由らしい。

「じ、じ、じゃあね」

「うん。頑張ってね」

「~~~~ッ」

 顔が真っ赤になる。思わず顔を背けて、高鳴る胸を抑えながら、あたしは全速力で屋敷の方向に走って行った。扉に駆け込み、上気している顔をペタペタと触り、荒い息を吐く。しばらくの間ずっと、妙な興奮が収まらなかった。

 ……なんだか今日は、頑張れる気がする。

 あたしは急いで、とてとてと廊下を下って行った。他の人たちに、仕事を貰わないと。

 その時だった。

 屋敷の奥の方から、チャリンチャリン、と玄関の音がして、『主人』が帰ってきたのが分かった。ビビって、その場でキョロキョロとあたりを見回す。まずい、早く仕事をしないと、などと思っていると、何やら彼女が誰かとしゃべっているらしき声が聞こえてきた。声からして、相手は男性の集団らしい。『主人』は、あたしに怒鳴りつけてる時とはまるっきり違う、営業時の独特の、明るくて愛想のいい猫撫で声だ。

「……いつもいつも、私達の為に、わざわざありがとうございますぅ……」

「いえいえ、神の道を歩む人達の安全の保障は、私達の義務でございますから……」

 二人とも、大嘘つきだ。

 声の方に向かって廊下を歩いていくと、やがて現れたのは、何人かの教会の聖職者達と一緒に、普段の営業時限定の笑顔(シャルルが相手の時は、また別の笑顔だ)で歩いて来る『主人』だった。聖職者たちは皆、十字架のネックレスを片手でいじくりながら、もう片手では身体を防御するかのように聖書を持ち、しきりにあたりの様子をうかがっているように見えた。

 あぁ、そうだ、と、思い出した。

 たまに、こういう人達(やつら)が来ることがある。

 魔女の、判定人だ。

 時折、どこの街でも、魔女が発生することがある。詳細はあたしたち一般人には知らされていないけど、聞く話だとどうやら、悪魔との契約を通じて魔法の力を手に入れるらしい。邪悪な力を手に入れたそいつは、当然、事件を起こして回る。そのままでは皆、困ってしまう。

 そこで動くのが教会だ。街の全ての家を回って、魔女がいないかチェックする。聖別された十字架や聖書朗読への反応だけで、大半の魔女は容易に判別できるらしい。発見された魔女は、殺される。

 あたしはあんまり認めたくないことだけど、そういう意味で教会が治安の向上に繋がっているという事実は、正直、否定できない。

 本来このサン=ノエルは、ヨーロッパでも有数と言われるほどに、魔女による犯罪が少ない街だ。けれど、ここ一、二週間ほどに限っては、魔女関連の事件がやけに多い。商店街の中心部付近なんかでは、毎晩一件は事件が発生するらしいから、これは最早異常な数値だ。しかも、毎回毎回、犯人は違う魔女だという――何度魔女を退治しても、別の魔女が入れ違いで現れて、事件を起こすから、根本的解決には至らない。こんなこと今まで一度も無い、どうにかこれを食い止める術は無いのか、教会は何をやっているんだなどと、『主人』はよく文句を言っていた。商売仲間を殺されたら、『主人』だって不都合なのだろう。

 そう。最近、魔女が増えている。きっと、この判定人たちも、それを受けてわざわざここにまで出向いてきているのだろう。

 でも、それは、この今回の魔女とやらは、

 ……あたしじゃあ、ないんだ。

 そもそも、冷静になって考えてみると、あれが夢だったってことは容易に判断できる。夢の中ではよく、あり得ないことが起きるというけれど、あたしがあの夢の中で魔女になった方法なんて、まさしくそうなんだから……。

 あの夢の中であたしは、別の死にゆく魔女の手を握り、そいつの魔力を……なんて表現すればいいんだろう……『継承』した。少なくともあたしには、そう思えてならなかった。でもそれだとすれば、それは、聞いた話とは違う。魔女には別に、一般人に自らの能力を受け渡す能力なんて無いはずなのだから。

 魔女になる唯一の方法は、悪魔との契約。でもそんなこと、あたしは一切していない。まぁそれこそ、その不思議なおばあさんが実は悪魔だった、みたいなことじゃない限り。

 だから、あたしは、魔女じゃない。魔女なわけがないんだ。

「この、少女は?」

 あたしの前に来た聖職者の一人が、笑顔で『主人』に聞いた。

「私の召使ですぅ」

 他人の前で、『主人』は、「奴隷」という言葉を使わない。それもそのはず、異教徒じゃない人間の奴隷化は、本来禁じられているからだ(今になってみると、異教徒なら奴隷にしてもいいという考え方も、到底受け入れがたい物だが)。向こう側も本当のことを分かっている以上、双方暗黙の了解なのだが、大人たちは皆、こういうどうでもいい言葉遣いに、何故だかやけに気を遣いたがる。

「普段はいい子なんですけど、一応どうぞ、見てやってください……」

「では」

 聖職者はネックレスの十字架を首から外した。

「毎度わざわざすいません。ただ、なにせ実は今日、ここのすぐ近くで、極めて強力な魔術反応があったんですよ」

 あたしは目を瞬いた。

「……え?」

「ここの隣の敷地です。ですから、やはりこの近くの人間は全員取り調べることに……」

 ハッとして、口をつぐんだ。え? どういうこと――? さ、さっきの、夢、なんじゃ――。

 何か一気に、身体の中に重い物が落ち込んだかのような感覚に襲われた。自分の心臓の鼓動が、急激に高まり始めているのが聞こえる。

「ぇ――だって――その、ぁぁ――」

「……どうかされましたか?」

「え……ひ……ぃや……えっと、その――」

 思考が加速的な回転を開始する。――どうしよう? 逃げ出すべき? いや、逃げてもどうせ捕まえられる……あの杖が無い今は、きっとあいつ等に勝てない……どうすればいい……?

 そもそもどうして、あれが夢じゃないんだ――? それとも本当は、夢っていうのは気のせい? 現実? でも、あの爆発音にシャルルたちが気付かないわけもないし、何もかも分からないし、あたしは、一体、どうすれば――。

 何をするべきか決めかねているうちに、聖職者の男が十字架を手に取り、あたしの額の前に力強く掲げた。あの痛み、頭が割れるような痛みを覚悟して、目を反射的に閉じたけど――。

 何も、起こらなかった。

 あたしは、目をぱちくりさせた。聖職者が少し、怪訝な表情になる。

 聖職者は、聖書を取り出してパラパラとめくり、適当な個所に開いた。それから、透き通ったような、且つはっきりとした声で、その箇所を朗読し始めた。あたしはじっと黙って、息をひそめて、しばらくそれを聞いていたが、相変わらず特に何も起こらなかった。

 聖職者は、やはり少し、何かがおかしいとでも言いたそうな顔をしていたが、やがて聖書を閉じると、あたしにお辞儀をして、ご協力ありがとうございました、とだけ素っ気なく言い、向こうの方へとまた歩いて行ってしまった。恐らくは、この家の全ての人間に、あれを施すつもりだろう。

「……じゃあ、あなたもどこかのお仕事してきなさい」

 聖職者たちに囲まれた『主人』がこっちを向いて笑顔で言った。けれど、彼らが皆別の部屋に入っていくと、途端にその顔は、普段の苦虫を噛み潰したような物に変わった。

「行けっつってんのよ。聞いてんのかい? 早く!」

「……は、はいっ」

 あたしは、逃げるようにして、急いでその場を離れた。何が起こったのかも、自分自身、よく分からないままに。

 けど――やっぱり、気のせいだったんだな。仮に本物の魔女に十字架をかざせば、人間の姿をしている時であろうとも、無事でいられるはずはないのだから。




 フクロウの思慮深い鳴き声が、張りつめた夜の闇の中、淡く、仄かに、響いていた。

 湿った木の臭いに包まれた暗闇の中で、あたしは苛立たしげに寝返りを打った。体のそこらじゅうに、細かい藁がチクチクと刺さって、寝心地は酷い。顔の近くに這い寄ってきた虫を、鋭くはたいて向こうへ飛ばし、深い、深い、溜息をつく。

 ……本当に、あれ、夢だったんだ。

 恐らくはあたしは、隣の敷地が吹っ飛んだ時、比較的近くのところにいたんだろう。その結果気を失い、自らが断続的に見た光景――恐らくは、何らかの魔女による破壊活動――を元に、自らを納得させるため、偽りの記憶を作り上げたに違いない。

 三年前の時も、似たようなことが何度かあった。あの時のことを考えれば、あり得ない話ではないだろう。それに、徹底的にリアルな幻覚を見ること自体は、精神が疲労困憊している時、昔からよくあった。あたしは昔から、そういうところがある。

 今日も、聖職者たちが帰った後は、いつも通りの生活に戻った。無理な仕事をたくさん強制され、いくら頑張っても、結果が不十分だと言って殴られ、蹴られ、踏み倒され。痣が治るたびに、新しい痣ができていく。これから先の人生も、きっと、ずっと、そうなんだ。あぁ、もう。死んでしまいたいな。きっとそれ、楽だろうな。

 でもいや、違う。今日なんて、まだマシな日だ。いいや、全然――素晴らしい日だ! シャルルが、あたしをここまで運んでくれたって……本当、なのかな? 自分の中で想像してみる。芝生の上で、ぐったりとしているあたし。それを見つけて、心配げなシャルルが、荷物を降ろし、お姫様抱っこであたしを抱える。おんぶかもしれないけど、密着できてれば、どっちでもいい。ともかく、そうしてあたしを、汗だくになってでも頑張って、ここまで運んできてくれる。そしたら、あたしをゆっくりと、優しく、ここに下ろしてくれる。

 そして最後に、あたしの頬っぺたかおでこにでも、チュッと、可愛くキスをして――

 無い無い無い無い無い! 激しく首を振って、破廉恥な発想を追い払う。絶対そんなことあり得ない。いやでも、もし万が一あったらどうしよう。こんなにあたしに優しくしてくれるのって、だって、普通じゃないもん。普通はそこまでしてくれないもん。もしかして、もしかすると、何かあたしのこと、思ってくれてたりとか、するのかな……?

 両想い……?

 あぁぁぁぁあぁぁぁっ!

 ……何考えてんだろう、あたし。

 こんな妄想ばっかりしてるからだろう、あたしの夢にはシャルルばかりでてくる。中には、普通に一緒に会話したりしてるだけの夢もある。遊んでる夢もある。中にはもうちょっと、キスだとか色々、度を超えたことをしている夢まである。所謂「当たり」の回というか。でも大体目が覚めた後は、猶更現実が惨めに思えるだけで。

 溜息をついて、あたしはまた寝返りを打った。

 一度でいいから、あたし、本物の夢を見たい――。

 あたしは、ずっと、ボーっと、扉のない入り口を見つめていた。ぼんやりとした月明かりが、芝生を、まるで銀色の花畑のように照らし出していた。幻想的だな、と、あたしは思った。まるで、別の世界の景色のようだ。

 なんだか、寝るのは諦めた。疲れてはいるんだけど、こんな粗末で汚いベッドじゃ、どんな体勢でもそもそもぐっすりとは寝られない。藁のチクチクが、いつもより酷いし。

 ……いつもより、酷い?

 どうしてだろう。自分が普段服と呼んでいるボロ切れを肌で触る。

 そして、思わずあたしは、息を飲んだ。

 ……これ、予備だ。

 予備の服だ!

 予備の服に着替えたのって――何時だ? 夢の中のハズ――。というか、あの光景の、一体どこまでが現実で、一体どこからが幻覚なんだ? あたしは一気にわけがわからなくなってしまった。えっと、でも仮に幻覚じゃなかったとしたら、

 だってそれはあたしが、本当に魔女になっちゃったっていうことであって――。

 それと同時に、あたしの視線の先、この空間の入り口に、突然それは舞い降りた。真っ黒なフードを被って、全身同じく黒いマントに包まれている。まるで闇に溶け入るようなそいつが、ゆっくりと前を向いた。フードの下で目が光り、あたしのことを捉えた。

 一瞬、あたしは、呆気にとられて固まってしまった。悲鳴をあげようとすると、そいつはあたしの前に素早く走り込み、あたしの口を押えた。

「そうも叫ぶな」

 あたしの耳元で囁く。

「あんたの敵ってわけじゃない。あんたのために来た」

 よく聞くと、少女の声だ。それに背丈も、仰天していて気付かなかったけど――精々、あたしよりちょっと高いぐらいだ。

「どこまで覚えてる?」

 手を少しどけながら、フードの少女が訊いた。

「それとも完全に忘れちまったか?」

「……え? えっと……どういう、こと? ――っていうか、あ、あなたは――」

「う~ん……畜生」

 彼女は困ったように首を振った。あたしの身体から離れる。あたしは少し起き上がって、藁のベッドに座り込んだ。

「質問が悪かったかもな」

 少女が溜息をつく。

「お前、今日――変な夢、見たか」

「えっ――」

 嘘。もしかして――えっ――?

「簡潔に言おうか。その夢は現実だ」

 フードの少女はきっぱりと言った。

「正確に言えば、そもそもそれは夢じゃない。幻覚でもない――実際に起こった出来事だ。でもそれがバレちゃ、あんたが困るから、あたしが、それを上手く隠蔽してやった。ま、精々感謝しな」

「え……? え、あ、あの――」

 心臓が早鐘のように打ち付けている。脳味噌が事態に追いつかない。えっ、嘘? なんで? どうして。あれは、夢の、夢のハズなんじゃ――。

 それに、今の様子からして――

「あなたは――」

 あたしの声は震えていた。

「『魔女』、なの……?」

 フードの人物は、しばらく、迷っているようだった。だがやがて、ゆっくりと頷いた。

「……じ、じゃあ……」

 あたしは、信じられない、と、自身の手を見つめた。何も変わった様子はない、この、普通の、労働の傷だらけの手。でもその手には、言われてみれば、はっきりと残っていた。あの時に感じた、荒れ狂う破壊の感触が。

 あたしは、反射的に、相手の肩に激しく掴みかかった。まるで何かに縋るようにして。

「……あたしも……」

 声にならない声を、必死に絞り出す。

「そうなの……?」

 頷いて欲しい気持ちと、首を横に振って欲しい気持ちとが、あたしの中でせめぎ合っていた。けれどもその解答は、もう既に決まっていた。

 そして少女は、もう一度、頷いてしまった。

 ごくりと唾を飲み込む。心臓が爆発しそうだ。わなわなと足が震えて、あたしは思わず、藁のベッドに倒れ込んでしまった。

「あんたの見たものは全て現実だ。あんたが全てを消し飛ばした時、比較的近くにいたあたしは、誰よりも早く気付いた」

 少女が言った。

「急行して現場に着いた時、あんたは既に気を失って、消し炭のような瓦礫の中で倒れていた。それが周りにバレちゃあまずい。あたしはあんたを、そっちの敷地側の庭に飛ばし、杖を回収した。若干強引な手段も使っちまったが、あんたのためだ――しょうがない」

「え、あ――」

 パニックのあまり、声が掠れて上手く出てこない。

「で、でも、あ、あたし……魔女、じゃ――だって。昼間……『判定人』たちが――来た。判定――されて――……何も……無かった」

「そりゃあそうだ」

 少女が頭を掻く。

「だって、今のあんたはどう見たって人間だろ? 魔女形態にでもならない限り、そんなことにゃならないさ――普通の黒魔女ならともかく、少なくともあんたの場合は。しかもあんたの場合、仮に魔女形態になっても、あの杖さえありゃ、聖書朗読やら十字架やらぐらいで手に負える存在じゃなくなるよ」

 あたしはうまく、信じられなかった。混乱と興奮とが、同時に内側で渦巻いている。なんなんだろう、この感じ。真実であって欲しい気持ちと、今になってやっと芽生えた、嘘であって欲しい気持ちとが、内側で激しく戦っている。

「ここには、あんまり長居したくないからな」

 突然、そいつがあたしの手を取った。

「ちょっとこっちに来い」

「えっ――ちょっと――」

「いらねぇ心配すんなって。これは、あんたのためになることだ」

 そいつは、あたしの握っている片手を、ぐいっと強く引っ張った。すると、労働の疲れが溜まりに溜まって、それに加えて今のショックがあって、もう動く力なんて残ってないはずのあたしの脚が、ひとりでに動いて、立ち上がった。

 あたしは、何が起こったのか、一瞬わからなかった。勝手に足が動いたのだから――いや、勝手に動いたというよりかは、後ろから、透明な手に押されるような感覚にすら近かった。でも、少女の平然とした様子を見て、その答えは、なんとなく分かった気がした。

 少女につられて入口を抜けると、外の壁には箒が立てかけてあった。あたしが普段使わされているのより、ずっと上質に見える。先っぽも全部綺麗に整っているし、光沢が違う。

「いいか、普通にしてりゃあ問題ないからな」

 フードの少女が箒に手をかざすと、来ると分かってはいても、やはり信じられないことが起きた。箒がひとりでに空中へと回転し、彼女の足元、地面の近くで、ぴたりと静止したのだ。

「あたしにしっかり掴まってろよ」

「え、な、何を――」

 でも気付くより早く、あたしの腕が勝手に、彼女のローブを掴んでいた。

 少女が箒に飛び乗った。ちょっと意外だったのは、その乗り方だ。あたしのイメージだと、箒には跨る物だと思っていたけれど、この少女――いや、魔女なのか――は、なんて言えばいいんだろう――立ち乗りしている。箒の上に、両脚でバランスをとって立っているのだ。

「じゃあ、テイクオフだ」

 少女は指を鳴らした。箒が徐々に、震えはじめた――まるで、爆発的なエネルギーが湧きおこる、一瞬前のように。

「叫んだり――するなよ」

 そして箒が、凄まじい勢いで、夜空へと弾け飛んだ。




「ぶぅわあああああああああああ!?!?!?」

「う、う――うるせぇ! だ、お前、叫んだりするなって――」

「ぶわああああああああああああ!!」

 高い。高い。高い。高い。高い。怖い! ちゃんと分かってはいるんだけど、絶叫が止まらない。こんな高いところなんて、あたしは文字通り初めてだ。どれぐらいの高度なんだろう、森の木々なんかよりずっと高い空間を、澄みきった虚無のような真っ黒な夜空を、あたしは物凄いスピードで突き抜けていった。肌が凍るように冷たい。こんなボロ切れだけじゃあ、裸と同じだ。寒くて、凍え死んでしまいそうだ。

 まだら模様の銀世界の遥か上を、ひたすら駆け抜けていく。上弦の月が照らし出す景色が、あたしの真下で、めまぐるしく変わっていく。

 どうも下をみていると気分が悪い。それから逃げるようにして上を見上げれば、満天の星空が広がっている。星は余程、高いところにあるのだろう――ここまで高いところに来たのに、全然大きさが変わらない。でもいや、違う、そういうことじゃなくて、ここだって十分高いし、ともかくあたしとしては、早く、地上に戻りたい!

 あたしが必死にしがみついているフードの少女(とは言っても、あたしがしがみついているというよりか、手が勝手にしがみついているイメージに近い。今更なんとなく状況が掴めてきたけど、彼女はあたしの身体の動きをある程度操れるらしい)は、あたしの絶え間なく続く叫びの中でも、こんなにも恐ろしい死の飛行の中でも、特に焦る様子や怖がる様子は無く、慣れたそぶりで箒を操縦していた。

 地獄のような時間がもう何分間か続いた。やっと、森の中に、箒が急降下していった。そして、鬱蒼と生い茂る木々の狭い間をするするとすり抜けるようにして、フードの少女とあたしとを乗せた箒は、やっと地面に降り立った。ちょっとした、森の中の開けた空間を選んだらしい。

「おう、まぁ、こんな感じだ。……大丈夫か、お前?」

 箒をくるっと一回転させて、片手で上手い具合にキャッチしながら、フードの少女があたしに声をかける。

 あたしは力なく地面に倒れ込んで、途方も無くぐったりとしていた。どうしようもない吐き気と眩暈がするし、なんだか目も回ってしまっている。

「……うぇぇ……し……し、しぬぅぅ……」

「……ったくよぉ」

 少女があたしの肩をポン、と叩くと、あたしの身体が宙に浮きあがった。

「わっ、……わわわっ!?」

「そっかぁ、あたしも最初飛んだ時そんなだったもんな。悪い悪い。こっからは徒歩だけど、あたしが連れてってやるから、別に動かなくていいさ。好きにしてな」

「は、はぁ……」

 どこからか、透明な川のせせらぎが聞こえてくる。鳥の鳴き声や獣の叫び声がこだまする、真っ暗な森の中を、前方の少女は慣れた様子で歩いて行った。彼女の手の中には、ランプ程度の明るさの不思議な光が揺ら揺らと灯って、道を照らし出している。あたしはその背後を、ぷかぷかと浮いて付いていっていた。

「……あのぉ」

 重苦しい沈黙と暗闇とに耐えられなかったあたしは、取り敢えず、素朴な疑問を一つ投げかけようと思った。

「あたしたちは……どこに、向かってるんですか?」

「ん? あぁ、そっか。まだ言ってなかったな」

 少女は、あたしの方を向かないまま答えた。彼女の後姿が、倒れた大木をまたいだりして、闇の中でひょこひょこと動いていく。

「あんたに力を与えた魔女、覚えてるな」

「――はい」

 あぁ、そうだ――あのおばあさんだ。黒いフードの、痩せこけたおばあさん。あの巨大な杖を持っていた人。

「その魔女は、あたしのお師匠様だ。偉大なる白魔女、ヴェロニック・ウェルティコディア。お師匠様の亡き今、あんたに関する全責任はあたしにある。あたしはあんたに伝えないといけないことがたくさんあって、あたしたちが今向かってるのも、それに一番適した、一番安全な場所……お師匠様の、家だ」

「魔女の、家……?」

 一体どんな所なんだろう――頭の中で想像してみる。巨大な黒鍋があって、その中で色んなおどろおどろしい液体が、毒々しい色の煙をモクモクとあげながら描き混ざられていて。茶色がかった頭蓋骨が、蝋燭の篝火(かがりび)に照らされていて……。

 ……あまり、行きたくはないかも。

 でも、今更そんなこと言えないし、あたしは素直にぷかぷか浮かんで付いていった。

 しばらく歩いていくと、森の中に、広々とした空き地が現れた。中央には、あたしたちの背丈より少し大きいぐらいの、一本の柱が立っているようだ。月明かりによって垂らされていて――心なしか、半透明の素材に見える。

「あぁ、そうだ」

 少女はふと、こっちを向いた。

「ここから先は、外部由来の魔力が制限されてる。すまないが、あんたは自力で歩いてくれ。もう、できるか?」

 あたしは頷いた。彼女が指を鳴らすと、あたしは地面にゆっくりと降り立った。気のせいだろうか――日中の労働の分含め、大分足の疲れが取れている。ただ単に休んでたからだとか、そういうレベルじゃない――まるで……何かに癒されたような?

 少女はそのまま、向こうの柱に歩いていった。あたしも急いで追いかけた。

 近づいていくにつれ、少女の手の中の光に照らされて、徐々にその柱がよりはっきりと見えてきた。水晶だ――水晶の柱。表面は、まるでシャボン玉液を水に垂らしたような、幻想的な虹色で、光の当たり具合で、常に色が揺らめき変わっていっていた。とても綺麗だ。見惚れる程に。

「すごい……これって……」

「ちょっ。静かにしな」

 少女が片指を立てた。コホン、と、喉を鳴らす。目を閉じ、呼吸を整え、やがてまた目を開け、

 そして、唱え出した。

「鋼鉄の大樹海」

 少女の声は、はっきりとしていた。

「炎には老獪。大地には警戒。守り神の崩壊。今によりて砕きしは、鴉抱く角笛。汝のその館へと、いざ、我を誘わん」

 水晶の柱が、眩い光を放った。

 そして、あたしたちの目の前で、粉々に、砕け散った。

 あたしは思わず、小さな叫びをあげたけれど、破片はあたしたちに降り注がず、吸い込まれるようにして頭上に飛んで行った。森の木々のてっぺんと同じぐらいの、相当な高さにまで至ると、あたしたちの頭上でバラバラに旋回するようにして形を成してゆき、突如、そこの空中に、平面的に、真っ赤な光の曲線が広がった。

 魔方陣だ。空き地の上空全体を覆い尽くしている。

 と、そこから、石が落ち始めた。

 恐ろしい数だ。煉瓦のような、直方体の石が、凄まじい炸裂音を立てながら、そこら中に積み上がっていく。あたしは、半分パニック状態であたりをキョロキョロと見回して、とあることに気付いた。これらはまるで、何かの輪郭を形作っていくように落ちていっている。いや、これは――何かしらの建物の壁を、その場で建築しているんだ! あたりを見回すあたしの視界が、外の森の暗い景色が、急速に石に飲まれていく。円形の部屋が、徐々に出来上がって行く。

 地面が海面の表面のように揺らめき、あたしの足元含め、そこら中が真紅のベルベットのカーペットに変わった。そこから、まるで木々が成長するのを早回しで見ているかのように、幾つもの立ち並ぶ本棚やら、机やら椅子やらが、あたしたちの周りで一斉に生え始めた。木材が地面から螺旋状に伸びていき、大きく広がり、折り重なって、しっかりと固まり、空っぽの本棚になる。扉が開くと、空から大量の本が垂直に落ちてきて、本棚の真ん前の空中でピタリピタリと一斉に止まり、勝手に本棚の中に綺麗に突っ込んだ。その上で扉が閉まる。机の上のランプや、壁の松明に、勝手に火が灯る。絵画が落下し、壁にかかる。頭上で、ガラス張りのドーム状の天井が完成すると、魔方陣は、掻き消されるようにして消えた。

 そしてあたしたちは、たった十秒ちょっとの間に誕生した、不思議な部屋の中にいた。

 あたしは、呆然としていた。

 あたりをもう一度、ゆっくりと見回す。

 円形の部屋だ。他の部屋もあるからだろう、先程の空き地全体の広さではないが、如何せん相当広い。壁は真っ黒な荒削りの石を積んでできている。カーペットは、見れば見るほど高級そうだ。家具は、机と椅子の他には、壁の七割がたを占拠している、上品な木製の本棚しかない。そこにずらりと並べられたどの本も、重厚感溢れ、分厚くて読みにくそうだ(いくらお母さんから多少読み書きは教わっていても、難しい文章はまだ読めないし、そもそも、多くの本は外国語で書かれていた。それだけじゃなくて、横のカバーが絵だけだったり、何の文字も書いていなかったり、書いてある文字が刻々と書き変わって行ったり、不思議な本も沢山ある)。壁の残りは、何かしらの高級そうな絵画がかけてあるか、或いは、別の部屋へと続く石のアーチがあるかのどちらかだ。アーチは四つあり、恐らく東西南北に向けてだろう、均等に配置されている。

 そして見る限り、外に出るための扉は無いみたいだ。元々、そんな物が要らない仕組みだからかもしれない。

「どうだ?」

 少女がこちらを向いて笑った。

「こん中なら、安全だろ?」

「……すごいです」

 それしか、感想が出てこなかった。

 本当はあたしは、もう少しその部屋を見ていたかったけれど、少女が「行くぞ」といってあたしを引っ張っていった。もう少し見ていたいとのことを言おうとすると、彼女はあたしの耳元で、一言囁いた――

「あんたに、杖を返す」

 その一言で、一気に我に返った。少女に続いて、あたしは、暗闇へと続く、横の石のアーチの一つへと入っていった。

 石の廊下は、そこまでの距離じゃなかった(ほぼ、ただ部屋を分けることだけが目的の物らしい)。木の扉を開けると、どうやらその少女の自室らしき空間が現れた。

 そこは奇妙な部屋だった。中央の部屋とは、形も雰囲気も大きく異なって、まるで黄土色の洞穴のようだ。というより、天井はまさに、洞窟と変わらない――鍾乳石が垂れ、灯りを受けてぬらぬらと光り、湿っている(そのくせ空気その物は、やけに乾燥している)。鍾乳石の間には、鉄線や糸がかけられ、そこから色んな物がぶら下がっていた――いくつかの革製のランプだとか、不思議な形の金属器類だとか、そして、金具で繋ぎとめられた、小さめの龍の骨格のような物まで。壁一面には、真っ赤な垂れ幕がかかっていて、同じランプの不気味な灯りを受けて、異世界の炎の壁のように、ふらり、ふわりと揺らめいている。机の上には、沢山の道具が散らばっていた――羽根ペンが何本も差し込まれた空き瓶、ありとあらゆる色のインク瓶、定規、コンパス、色とりどりの試験管、虫メガネ、純金製らしき天秤、それのための真鍮、黄ばみかけた地球儀、銀色の煌めく砂が入った砂時計。それらの横に置いてある、物凄い量の羊皮紙の山が崩れて、下の床にまで散乱していた。様々なグラフやら、動物や人体の解剖図やら、わけのわからない紋章やら見たことのない言語やら、色んな物が、色んな色で描かれている。

 床に敷いてあるマットレスの上にも、巨大な魔方陣が描かれていた。挙句の果てに、部屋の隅の方に、人が何人か座って入れそうなほど大きい、真っ黒な大鍋があった。その隣には、幾つかの、より小さくて手軽そうな鍋も用意されている。今はどれの中にも、何も入っていないが、材料の検討はついた――横の壁の棚には、様々な瓶が陳列されていたのだ。獣の鍵爪やら、見たことのないほどに長い牙やら、何の物かは分からないけれど、不気味な幾つかの目玉やら。下の方の棚では、植木鉢で、様々な薬草が栽培されている。

 混沌とし、乱雑とし、そして何より、奇怪だ。どちらかといえばこちらの部屋の方が、あたしの抱いていた魔女のイメージに近い。

 あたしはその様子に、しばらく見惚れていた。なんだかこの部屋の物は、どれもどこか不気味だけれど、同時に何故だか、一度触ってみたくなるような魅力を帯びている。フードの少女は、何やらまんざらでもない様子で、ニヤニヤしてあたしを見ていたが、やがて、そろそろな、と言い、横の壁に立てかけてあったそれを持ち上げ、あたしに見せた。

 そして途端に、あたしの意識の集中が全部吹っ飛んで、それに奪われた。

 杖だ。

 そう――杖だ。あの杖だ。磨かれたように綺麗な枝が、螺旋状に折り重なっている。先端の真っ赤な、透き通った水晶玉に、そのすべてが収束していく。これは、あの杖。あの時の破壊の杖――!

「受け取りな」

 フードの少女が、杖をあたしに差し出した。堂々とした声だ。

「コイツは今じゃあ、あんたの物だ」

「……は、はい」

 震える手を伸ばしながら、あたしは、ごくりと大量の唾を飲み込んだ。間違いない、否定の使用が無い――これこそが、あの杖だ。大いなる破壊の杖。あたしがあの時、追ってきた奴らを地上から消し去るために使用した、絶対的なる悪魔の道具。

 この時になってやっと初めて、自分が人を殺したんだという確かな実感が、あたしの心に強く打ちこまれた。と同時に、途端に、恐ろしくなった。確かに彼らが、何か良いことをしようとしていたようには見えない。それに元々アイツ等なんか、皆、根っから腐ってる。死んで当然の奴らなのかもしれない。けれどもやはり、そうは言っても。あんなにも無慈悲に、あんなにも残酷に。何の一瞬の躊躇いも無くに、ああして殺してしまうのは――。

 汚れてしまった、という思いが、頭をよぎった。もうあたしは、純粋無垢な魂なんかじゃなくなってしまった。殺人を犯してしまったんだ。どういう形、どういう動機、どういう手段であれ。その事実は一向に変わらない。

 途端に、本当にあたしがこの杖を受け取っていいのか、心の中で揺らぎが生じた。いや、違う――受け取っていいはずがない。そもそもこの杖自体、存在しちゃいけない。その証拠に、あたしの中の本能的な何かが、内側で必死に泣き叫んでいた。それを受け取っちゃ、絶対に駄目なのだと。決定的な何かが起きてしまうと、決定的な一歩を踏み外してしまうと。そしてあたしは、その声こそが、世界の何よりも正しいと分かっていた。

 腕を引っ込めれば、それで済む話だ。勘違いだったんです、と言って、笑って、家に戻ることだってできるかもしれない。そうすればいい。そうすれば。そうすれば――。

 ハッとした。

 ……この、感触は。

 自らの右手に、目をやった。

 いつの間にかそれは、勝手に、

 杖を、掴んでいた。

 嘘、と短く叫ぶ間も、それはあたしには与えなかった。

 意識が一気に消し飛んだ。電流が全身を駆け巡り、あたしの頭が真っ白になった。途端に、突然に、一方に、絶対に。叫び声をあげたかもわからない。視界の色がめまぐるしく変わっていき、念じても念じても止まらない。

 内側奥深くで、何かが砕け散るような感覚が、胸を貫き、突き抜ける。弾けだすようにして、灼熱の奔流が螺旋状に吹き出し、狂喜に満ちたけたたましい笑い声を上げながら、あたしの精神世界を駆け巡る。闇がそれらに包まれた。全てが取って代わられた。電撃が迸り、裂空を駆け巡り、あたしは、いや私は、星空の彼方にある海原の中で、天高く踊り狂い回っていた。

 そして――。

 精神がその場に戻ったその瞬間、一気に心が落ち着きを取り戻した。平静が世界を覆い尽くした。杖を右手に握った私は、ただの無表情、ただの無心で、そこに虚ろに突っ立っていた。

 若干違和感のある自分の身体を、開いた方の左手でぺたぺたと触り、服が、あの黒いワンピースに変わっていたことに、やっと気付いた。手を胸元にあげ、しげしげと眺める。傷も、痣も、消えている。

 ……思い出した。この感触。全身が、心地よくピリピリする、不思議なエネルギーに包まれている。視界がはっきりと、くっきりと、冴え渡っている。一切の霞みなく。

 これだ。これこそが。

 魔女としての、私だ。

「……それが、今のあんたの正体だ」

 フードの少女が呟いた。

「夢じゃない、って――分かっただろ」

 私はこくりと頷いた。今は自然と、全てを、ありのままに受け入れていた。

 なんだか不思議な感覚だ。左手から視線が逸らせない。

 不思議だ……いや最早、ここまでくると、不気味だ。この手、この傷一つない、すべすべとした女の子の手――。

 それで頬を撫でる。全身が震えている。私は小さく、嗚咽を漏らした。

 一体何年ぶりだろう。こんなにも綺麗な手。逆にでもだからこそそれは、まるで、自分が自分でなくなってしまったみたいだった。それがどうしようもなく恐ろしかった。

 今こうして見てみると、この手は、まるで他人の赤子のもののように、小さく、幼く、未熟で未発達に思える。いや、それだけじゃない――クリスティアーナという自分自身、それすらもそうだ。私の身体って、こんなにも幼かったんだ。

 最早、クリスティアーナという存在自体が、まるで世界から消えたようにすら思えた。だとしたら、待てよ、そもそも「自分」って何なんだ? 存在すらするのか? もしかして、ただの、幻じゃないのか? それこそ今は、その次元で分からない。

 今までの物が全て、まるで他人の生活のように思える。どういうことだ? 私に、何が起きているんだ? 私ははっきりと私だ。誰よりも私なんだ。私は私の、その全てを知っているんだ。そのはずなんだ――

 ……『私』?

 おろおろと、前を見る。フードの少女が、こちらをむいて、にやついていた。

「魔女になったばかりだと、そういうもんなのさ」

 少女が言った。私の異常な様子から、疑問と妙な不安を感じ取ったのだろう。

「その違いに最初戸惑ってたのは、あんただけじゃない。冷静に考えてみると、こっちの方が正しいんだけどな。自分の正体が自分だとは、誰も証明できねぇんだから。……服、変えよっかな。今のあんたの前だし」

 彼女が後ろの壁を向くと、壁にかかっていた垂れ幕が勝手に横に引っ張られた。現れたのは、壁に埋め込まれた、巨大な衣装ダンスだった。木製の扉は、金縁で縁取られている。

「『自分』って存在は、限りなく相対的な概念だ」

 彼女が、壁を見つめたまま続ける。

「一見誰もが、自分のことをよくわかってるようで、実は何にもわかっちゃぁいない。全部いい加減な知ったかぶりなのさ。そうやって気楽に考える方が楽だし、ま、普通にしてる分には、それでも事足りるんだよ。ただそりゃあ、物事の本質を捉えてるとは言わない」

 マントの中から、ほっそりとした手が横に伸び、パチン、と鋭く、指を鳴らした。衣装ダンスの扉が勝手に勢いよく開き、無数のハンガーをかけた鉄のポールが、中の暗闇から飛び出した。

「着替えるってのは、いいよ」

 少女は、自身の着ているフードの端に手をかけた。

「脱ぎ散らかされた物を見れば、自分を他人として見れんのさ。一瞬前までの自分が、どういう姿だったのか――興味、湧くだろ?」

 向こうを向いたまま、徐々に、ローブを脱ぎ始める。

「この黒服は、拒絶的な影法師。外界を冷たく拒絶して、外界からもまた、冷たく拒絶されている。それがその願望だし同時にも現実だ。秘密裏に何かを行う時の服、誰にも見られたくない時の服……闇に溶けこんでしまうのは、溶け込まないと、どうしても怖いから。殻がある生き物程、内側はやわで潰れやすい。あんたの前じゃ、これは適さない。

 ……自分自身を含め、世界の全ての物事を、主観性から客観性に落とし込む作業こそが、その『第三者の目』こそが、あたしたちの精神理解の源となる。白魔女の本質はそこにあり、強さはそこから現れる。お師匠様はいつも、そう、あたしに教えてくれた」

 脱ぎ終えたフードを、乱暴に、横に向けて投げる。ハンガーが勝手に飛び出して、それを空中でキャッチする。

 少女が振り返り、こちらを向いた。

「今のあたしは、どう見える?」


 ――真っ赤。最初に私の目に飛び込んできたのは、絶対的なまでのそれだった。服も基調はそうだけど、一番強く私を打ったのは、そのルビーの河のように赤い髪だった。今まで見たことのない程に、弾けるように真っ赤な髪――真紅というか、深紅というか、ともかく鮮やかな赤なのだ。鮮血のように赤い。膝まで伸びた、そんなポニーテールが、振り向いたはずみで、ふわりと揺れた。

 服も赤い。黒で縁取られた、ノースリーブの動きやすそうなジャケットに、丈の短いスカート。女性的な脚に、ニーソックスがキュッと締め付けている。先が尖ったハイヒールが、カツン、と、鋭く、床に音を立てた。

 目の奥では、紅蓮の炎が燃え盛っていた。にやけの間に、八重歯が覗いた。

「あたしの名前はジネット・ベネット」

 紅蓮の少女の声は誇らしげだった。

「ジネット・『レッド』・ベネット。今度とも、――よろしく」




挿絵(By みてみん)

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