第十九章
目の前の光景が、あたしには到底信じられなかった。
まず死んだと思っていた。自分が生きてるだなんて想像もしなかった。あんなところでこと切れて、死んでたまるかとは思ったが、まさか本当にそう助かるだだなんて、本当に予測がつかなかった。いや、助かったんじゃない。助けられたんだ。もう一度あのクリスティアーナに、助けられたんだ――。
そして最初起きて見ればこれだ――サンドリーヌが死んでいる。いや、その時点じゃ死んじゃあいなかったが、ホントはっきり似たようなもんだ。だって再生不可能な傷なんだ……左胸に開いた、がっぽりとした穴。彼女のそれをも遥かに超える、地上じゃあ本来あり得ない魔力量を凝縮して発せられた攻撃。治せない。サンドリーヌは終わった。
周りの街はボロボロだ。いや、当然、あたしがあの軍団を率いて荒らした時だってボロボロだったが、そんなもんじゃない、もっとよっぽどひどくなってやがる――傷一つなくて綺麗な十二鉄塔だけが、本当に気持ち悪く、歪に映るぐらいに。
そして頭上には、球体型の魔方陣――こんなもん見たことないし考えたことも無い!! おまけに使ってるのは魔女の灰だ。一瞬これの存在に気付いた時は、カラクリを理解した時は、終わりだと思った。何せもう時計が十二時を過ぎてたから。やられたって、もう駄目だって、本当に思った――。
なのにサンドリーヌが死んでいる。瀕死の風穴が左胸に開いている。そして、そのまま、何の抵抗もできず、灰になって死にやがった。このあたしの目の前で。
かと思えば今度は、あたしの横にいるこの少年――クリスティアーナとは面識があるらしい、サムザリエルという名前を名乗った――が、いきなりクリスティアーナを抱き寄せて……嫌がる乙女に、乱暴にキスをしやがって……何が何だか、わけがわからない!!
実は、やっと意識を取り戻して、この謎の少年の存在に気付いた後も、そいつのヤバさに気付くのに数秒かかった。少年の、サムザリエルと名乗った奴のオーラは赤黒い。だが、なにせ周りの物全てが赤黒くて、空まで似たような色なもんだから、周りとの比較をすることができなかったんだ。五、六秒してやっと、意識がはっきりとしてきて、半分パニック状態で気付いた――この少年のオーラが、少なくともあたしが見渡せる限り、世界全てを取り込んでいることに。
本当にヤバイって思った。文字通り最強……あたしなんかが理解できるレベルじゃない。あのサンドリーヌ・メロディすら、コイツから見たら、本当にカス以下の存在なのかもしれない。こんなもの倒せるわけがない。どんな攻撃だって、絶対に通用しないだろう。ましてや、こんな無力なあたしが……クリスティアーナのお蔭で、体力も魔力も、今は全快でこそあったが、その状態ですら、何もできるわけがない……
そしてそいつが、クリスティアーナにキスをした。途端に周りがエネルギーに包まれて、その瞬間、あたしには――この忌まわしい洗脳術の才のお蔭で、人の精神や正常思考の有無に関しては見ただけで理解できるこのあたしには――はっきりと分かった。悪魔による憑依。精神の掌握。
Kの意識が、途絶えた……!!
「クリスティアーナ!!」
あたしの絶叫も虚しかった。最早届くわけがない。けれどその時、そのクリスティアーナの意識が完全に飲まれる前の最後の一瞬、あたしの脳裏に、その声が、クリスティアーナの声が、響いた。
――ジネットちゃん――!!
そしてその瞬間だった。
クリスティアーナの身体から、以前にも増して強い、ドス黒いオーラが噴き上がり、あたりを包み込んだ。空に描かれた術式が、二人の頭上、真上から外側に拡散するようにして、どんどんどんどん、別の何かに書き換えられてゆく。あたしが、見たことも、聞いたことも無い言語……古の……いや、古ですらない!! これは……この、不気味な象形文字は……見ているだけで全身に鳥肌が立ち、脳味噌が焼け狂いそうになる……地獄でのみ使用される……
悪魔言語……!!
サンドリーヌの球体魔方陣内に、《色の無い悪魔》が召喚されていない……そしてこの少年の、異様な程の最強性……サンドリーヌとの見るからな敵対……彼が展開した悪魔言語の術式……クリスティアーナに対する、歪みきった愛情表現……「契約」という言葉……名前はサムザリエル……「エル」で終わる名前ということは通常、ヘブライ語圏の天使或いは堕天使=(イコール)悪魔……術式に使用されたのは、魔女の灰……黒魔術の肥やしのようなものだが、だとしたら、別の用途にも……
そもそも遡れば、リベリア・ラ・レイビィズ戦……一瞬前まで二人ともなすすべがなかったリベリアを、一瞬で捻り潰したクリスティアーナの実力……あの時点で《スリーピィ・ホロウの最強呪文》を放ったという事実……規格外の覚醒……
昨日の夜もそうだ……ミカエリス司教と、教会を裏切った全聖職者の一斉殺害……サン=ノエルから湧き上がった、異常なエネルギー反応……そして今宵、サンドリーヌ・ファミリーの討伐部隊との激戦……直接この目で見てこそいないが、街を訪れた時には瓦礫の様子から理解できた、どんな魔法がそこで誰によって使われたのか……あれほどの魔力、あれ程の黒魔術の知識……クリスティアーナが元から知っているわけがない……
更に前……お師匠様の最期の直前の諸疑問……不可解な言動……異常な衰弱具合、肉体の老化……封印された愛用の杖……そしてクリスティアーナへの魔力継承と、直後の彼女による最上級黒魔術の発動……!!
あたしの頭がめまぐるしく回転する。全ての点が一斉に、連鎖的に、真実の線で繋がっていく。網目状に、そこら中に、一つの矢印を形成してゆく。文字通り最低最悪の方向に。
この少年、このサムザリエルこそが《色の無い悪魔》……それは最早間違いない。そしてそいつは、相当前から、クリスティアーナの精神に巣食っていたのだろう。いや、相当前どころじゃない、恐らくはクリスティアーナが白魔女になったその最初の瞬間からと考えて妥当――でなければ白魔女になっていきなり、黒魔術が使えたことの説明がつかない。ってなるとそれこそ一番ヤバい。
あたしゃてっきり、この《色の無い悪魔》は、クリスティアーナも言っていた奴、あの悪名高きソロモン七十二柱の序列第一番に当たる東方王バアルだとか、そのあたりの、透明化能力を有す大悪魔のことを指すんだって思ってた。普通、色が無いっていったらそういうことだと思うだろうが……或いはそんなことは関係なくて、最初っから、サタン又はルシフェル、ベリアル、ベルゼビュート、そのあたりの最強クラスの悪魔帝を、一切関連性のない暗号のような形で、そう称していたのかと思っていた。
安直過ぎた。意味が違う。
《色の無い悪魔》――真っ白なキャンヴァス。未だ性質が定まらず、自らに色を塗ってくれる存在、自らを一枚の絵に仕上げてくれる存在を、心の底より渇望していた悪魔。
産まれたての悪魔。
それもただの悪魔の赤子じゃない。それこそコイツは、先ほど述べたサタン級の最強分類、世界全体の歴史を大きく歪め得るほどに強大な存在、成長すればそんな化け物に育つであろう、恐ろしい悪魔の赤子だ。でなければサンドリーヌ・メロディが目を付けない。悪魔自体なら、一日に何十万、何百万匹と、地下の地獄で産まれているのだから。
まだ幼体の時点で悪魔を召喚すれば、それにかかる手間も、周りへの被害も、最小限で抑えられる。その上で、そいつを、その場で成長させる。魔女の灰を栄養として与えて、まだ自我も何も状態の無いそいつを一気に育ててやるんだ。そうすれば、理論上最低限のコストで、最強クラスの悪魔が使役できる。
卵から孵った雛鳥が、産まれて最初に目についた存在を親と認識するように、どんなに性格が捻くれている悪魔も、自らを育ててくれた存在にだけは敬意を払い、忠誠を誓う。当然、完全に制御することはできない――良かれと思って、人間の価値観からは到底外れた、意味の分からない残酷な行動をして、却って術者を絶望に突き落とすこともあるだろう。まさに今のクリスティアーナの場合のように。だが少なくとも、忠実なことだけは確かだし、手なづけ方次第では、ある程度従順にだってなる筈だ。
サンドリーヌが《色の無い悪魔》を狙っていた理由は、それに色を付ける為。自らの色で満たす為、鮮やかな虹色に塗りたくってしまう為。そうすれば、成長したそいつは、この世界その物まで、サンドリーヌの色一色に染め上げてしまうだろう。
これはあたしの推測にすぎないが、あの二か月近く前のモント・インセンディア火山の大噴火は、丁度サン=ノエルとサン=キリエルの境界線あたりの地下に当たる地獄の区分で《色の無い悪魔》が誕生したことによる、突発的な地殻変動が引き起こした物だろう。この世界に数えきれないほどの魔女がいる中で、真っ先に《色の無い悪魔》の存在に気付けたのがサンドリーヌとお師匠様であったのは、きっとその「予兆」のお蔭だ。
きっと、お師匠様は分かっていたんだ。サンドリーヌの陰謀を。そして止めないといけないと感じたのだろう、世界を守るために。そのためなら彼女はきっと、何をしてもいいと思ったのだ。己の使命を、果たす為ならば。
恐らく、彼女があの日あたしを突き放したのは、あたしをあの住居から逃がす為。いくら注意を施しても、術式の本番の際、何が起こるか分からないから。そして彼女は、白魔女にして、人生初の悪魔召喚術に挑んだんだ。サンドリーヌより一足も二足も先に、《色の無い悪魔》を召喚することに成功したんだ。あの悪魔召喚術に関する沢山の本は、それの参考書としての意味合いも強かったのだろう。お師匠様は、自らが《色の無い悪魔》を先に召喚することで、確実に世界の危機が止められるとお思いになったんだ。
お師匠様が、本来悪魔召喚のプロであるサンドリーヌより先に、《色の無い悪魔》を無事召喚できた理由は、主に三つ考えられる……第一に、白魔女と黒魔女とでは当然、白魔女の方がよっぽど早く、邪悪な魔術の存在である悪魔の存在を探知できること。最初は微弱だった《色の無い悪魔》の波動を先に探知できたのは、間違いなくお師匠様だったのだろう。
そして第二に、お師匠様の方が、術式の完成に必要な「準備」が少ないこと。サンドリーヌが《色の無い悪魔》を呼び出す場合、そいつを成長させる必要もあるから、それには「召喚用、及びその際の破壊エネルギーを吸収するためのコスト」と、「成長させるためのコスト」、両方が必要になる。そのために必要な灰の量は莫大。それに対しお師匠様は、別に、自分が召喚した《色の無い悪魔》を成長させるつもりはなかったから、前者すらあればよかった。灰を集めるのに四苦八苦していたサンドリーヌのタイムロスは大きい(もしもサンドリーヌが、最初っからアストリッドを殺していれば、お師匠様よりか先に《色の無い悪魔》を召喚できていたのかもしれないが――彼女のあの性格を鑑みるに、そんなことは絶対にあり得なかっただろう)。
そして第三、最後の理由が、世界のためになら、自らの身を犠牲にしても構わないと、お師匠様が思っていたことだ。彼女には生贄も、灰も無い。だから、自らの生命エネルギーを強引に削り落とし、超高密度の魔女の灰とすることによって、自らの肉体と大半の魔力と引き換えに、《色の無い悪魔》を召喚したんだ。あの老化現象も、異常な衰弱も、全てその結果だったんだ……!!
召喚したはいいが、その後《色の無い悪魔》をどうするか。衰弱死させようとするだろう。まだ生まれて間もない赤子に過ぎないならば、《色の無い悪魔》といえども、どこか、それにとっての毒素に満ちた空間に閉じ込めておけば、勝手に死に至ると考えて間違いない。よりはっきり言ってしまえば、自らがずっと、白魔術と、万魔術とに使い続けてきた、あの《ウェルティコディアの杖》。彼女はそれに《色の無い悪魔》を封印した――そして、その内側に溜まりに溜まっていた白魔術・万魔術のエネルギーは、どんどん《色の無い悪魔》を侵食し、衰弱させ始めた。更にお師匠様は、念には念を入れて、その杖自体をも封印した。自分、或いは自分の魔力を継承した者以外、誰にも使えないように。もし万が一敵の手に渡ったら、それこそ一番まずいから。
サンドリーヌは、何らかの手段で、お師匠様の衰弱を感じ取ったのかもしれない。或いはもっと単純に、実験的に送り込んだ雑魚の量産型の黒魔女達が全然殺されないことから、それぐらいのことは容易に推測できたのかもしれない。少なくとも何らかの異変を悟ったのだろう、彼女はミカエリス司教を通じて聖職者たちを派遣し、お師匠様を追わせた。だからお師匠様は、追っ手からあたしを逃がしてくれた。嘗て教会に捕えられ。焼き殺されたはずのあたしがまだ生きていることが、サンドリーヌ・ファミリーに知られないように。
お師匠様は逃げた――もう既に力を使い果たし、肉体も魔力残量もボロボロで、雑魚の聖職者相手にすら苦戦を強いられた。彼女は最終的に、クリスティアーナと出会い、その行動に秘められた優しさを感じ取って、思ったんだろう……彼女なら、継承者に相応しいと。この少女になら、自らの《杖》を渡しても良いと。きっと彼女は素晴らしい白魔女になる、邪念に憑りつかれることは無い、そして彼女の力を以て《色の無い悪魔》は更に衰弱し、やがて完全に死に至るだろう、と――。
そうだ、それが、それこそが、お師匠様の、最後の最後での誤算。クリスティアーナは確かに、心優しい少女だった。きっと、人格的には、白魔女の鏡で間違いなかった。だがその過去が故に、神を憎んでいた。そして更に、サンドリーヌ・ファミリーや教会との絶望の戦いの中で、心も身体も傷つき、荒れ果て、疲れ果て、必要に迫られ、遂には最後には、黒魔女となってしまった。
《色の無い悪魔》が、彼女を飲み込み、支配するのに、大した時間も小細工も要らなかっただろう。彼女の心にぽっかりと開いた空洞に、滑り込むだけでよかった。そいつは彼女の心を掌握し、操り始めた。邪念を、破壊欲求を植え付け、あの大量虐殺に至った。そして更に表に現れ、最後には、サンドリーヌの術式を以て、この世界に顕在化し……
あぁっ……
あたし……
なんてことしちまったんだろう。
クリスティアーナの心の空洞……《色の無い悪魔》が入り込んだ隙間……仮にそれが、あたしだったとしたら? いや、きっとそうだ……あたしが離れてからだ、クリスティアーナが黒魔女になったのは……こんなことって……畜生……なんだってんだ……!! あたしは、またもや、気付かずに――。
全て、あたしの責任だ。あたしがこの事態を全て招いたんだ。
あたしが、クリスティアーナを、一人ぼっちにしてしまったから。
辛い時、苦しい時、彼女に寄り沿ってあげなかったから。突き放してしまったから。
あたしのせいだ――!!
以前なら絶望している。自らを更に責め、塞ぎ込み、外界を拒絶し、それで償ったつもりでいただろう。それがあたしの弱さだったから。餓鬼だったから。けれど、今は違う。絶望したとしても……せめて、せめて罪から逃げない。
悪かったのはあたしだ――それは間違いない。本当は泣き叫んで、喚き散らして、この場で何もかも諦めたい。だが、だとして、あたしがここで塞ぎ込んで、何が変わる? このまま破滅しようとしている世界の中で。
全てはあたしの責任だ。あたしが全てを終わらせる。自分の責任も、罪も、全て理解した。そして同時にまた、自らが、如何にクリスティアーナにとって大切な存在だったのか。
自分が誰かに愛されるだなんて考えもしなかった。自分みたいな奴に、そんな資格があるとは到底思えなかった。でも今やっと分かった、クリスティアーナは、心の底からあたしを信頼し、愛してくれていた。あたしは罪から逃げているだけだった。贖罪を怠っていただけだった!!
あたしがクリスティアーナに見せていた顔は、愛想のいい仮面なんかじゃなかった。あたしがずっと内側に強引に引き摺りこんで閉じ込めていた、そう、昔のあたしの、本来の姿だったんだ……だから……自然体でいてよかったから……クリスティアーナと一緒にいるのはあんなにも居心地がよかったんだ!! ずっとそんな単純なことだったんだ!!
やっと見つけた。やっと理解した。殻の奥に閉じ込められていた、あたしの本当の姿。
もうあたしは迷わない。あたしは……いや、私は……白魔女のジネット!! 今までとは違うって、全世界に証明してやる……そのためにも……自らの罪は……自らの力で償う!!
何かが、私の内側で燃え上がった。新たなる生命力。宿した決意。私はもう迷わないし、心を閉ざすことも無い。自らと向き合って、逃げずに、前に進んでやる!!
私の目の前、《色の無い悪魔》たる少年、サムザリエルが、どんどん黒い影となって、溶け込んでゆく――盛んにびくつき、ドス黒いオーラの中で踊り狂う、可哀想なクリスティアーナの身体に。クリスティアーナの身体が、まるで操り人形のように歪な動きをしながら、こちらを向いた。首がかくんと曲がり、髪が顔の上に半分かかるようにして垂れる。目の焦点が合っていない。赤黒い涙が流れている。口の端から、泡が垂れている。
サムザリエルが完全に消え去り、全身、クリスティアーナのオーラへと溶け込んだ。クリスティアーナの身体が更に痙攣し、わけのわからない方向に四肢が蹴り出され、振り出される。一瞬その目が、私を捉えたように思えた。クリスティアーナの口がかぱりと開き、私に向かって舌を出した。
彼女の背後、渦巻く闇の中に、影と半分同化したサムザリエルが現れた。まるで背後霊のように。そして彼が、私に向かって囁いた。
「君がジネットかい。僕の愛しのクリスティアーナを傷つけた大罪人」
そして、白目を剥きかけているクリスティアーナの額に、そっとキスをした。その耳元で、静かに囁く。
「僕がきちんと、殺してあげるからね」
「……ッ」
私は片手を横に出した。遠くから箒が吹っ飛んで来て、私の手の中に舞い込む。
「本当にしつこいんだなぁ、白魔女さん」
サムザリエルがこちらを向いてせせら笑う。
「でも果たして、今の君に何ができるっていうんだい? そんなまるで消し炭のような魔力で」
答える気にはなれない。私はキッと歯を食いしばり、後ろに手をかざした。
そうだ――運動術で念じる――この場にある全てのナイフを、私の元に集わせる。
元々持っていた七本は勿論のこと、どうやら近くにその手の武器屋があったらしい、何十本ものナイフが、一斉に私の周りに集まる。ふとそこで、ハッとする――サムザリエルも、驚きの声を上げた。クリスティアーナの服の中からも、一本のナイフが飛び出して、私の横に飛んできたのだ。純銀製……祝福儀礼済み。これは。コイツは――。
その一本だけ、私は空中から掴み取り、服の中に仕舞い込んだ。この一本は大切だ。今使うわけにはいかない。
指を鳴らした。残りの何十本ものナイフが、一斉に前方に降り注ぐ――が、攻撃が通用する筈もないし、こちらも最初から効くとは思っていない。サムザリエルは動じすらしなかった。全てのナイフが、彼に突き刺さる寸前、空中で爆散する。どこか小馬鹿にしたような光を灯す、彼の両の目の前で、鋭い鉄の破片が空中を舞い散ってゆく。
私の足元に、見慣れぬ魔法陣が、地面が口を開けるようにして展開する。私は急いで、反射的に横に飛び出して――と、次の瞬間、私のいた場所から、凄まじい硫黄の爆炎が吹き出し、垂直に天高く舞い上がった。回避はできた――ひょっとすると多少、背中の後ろの服が焦げたかもしれないが、問題はない。
《ソドムとゴモラの硫黄火柱》――本当に幸いなことに、完全版ではない。もし完全版だったら、仮に対象に当たらなくとも、周辺の全ての生きとし生けるものを塩の柱に変えてしまっていただろう。だが、それの場合にはクリスティアーナすらも効果の対象となる。
最上級の黒魔術の多くは、溢れんばかりのエネルギーが勢い余って、周辺全体を破壊作用に巻き込んでしまう。幾ら歪んでいても、サムザリエルは少なくとも、クリスティアーナを殺す気はない――だからこの環境下では、本来の力を発揮できない筈だ。まだ勝機はある。
ナイフは時間稼ぎだ。時間稼ぎ、及び、目暗まし。気休め程度だが――今ギリギリで避けることができたのだって、ひょっとしたら、それのお蔭かもしれない。最善を尽くすに限る。
サムザリエルが舌打ちをする。クリスティアーナの身体が、ぐるりとこちらの方を向く。片手にはあの、お師匠様の杖を握ったまま。
「どうしてそんなに逃げたがるのさ?」
サムザリエルが、横に唾を吐き捨てた。
「よぉく考えてごらんよ、ジネット・レッド・ベネット。どんなに頑張ったって、君はクリスティアーナを傷つけるだけ。彼女にとって完全な害悪なんだ。君は死んだ方がいい」
「テメェに……言われたか――ねぇよぉっ!!」
目の前で腕を交差させ、指を絡ませ、弾けるように鳴らし、再び念じる。先程飛散した無数のナイフの破片が、一斉にサムザリエルに降り注いだ――が、彼とクリスティアーナとの周りから突如、真っ黒なエネルギーが、爆発するように噴き出した。破片を空中で喰らい尽くすように侵食し、溶かしていきながら広がってゆく。やがて霧を掻き消すように晴れると、ナイフの何百という破片は全て、跡形もなく消えていた。
「僕? この僕が、クリスティアーナの害悪に?」
サムザリエルが冷やかに笑った。
「笑わせないでよ白魔女さん。君は何も分かってない……僕は彼女を幸せにしてあげられるただ唯一の存在だ。だって考えてごらんよ、君はクリスティアーナをあんなひどい形で裏切って、彼女の心をズタズタにしてしまった張本人。一方あのシャルル・ティエールの方ときたら、君は知らないかもしれないけど、クリスティアーナが魔女だったって気付かずに、彼女をひどく傷つけたことがある。どちらの時も、かわいそうに、クリスティアーナのか弱い心は崩壊の寸前まで行ったんだよ……。けどその度に、彼女の心の中に優しく呼びかけて平穏をもたらし、彼女を救ってあげたのは誰だったと思う? 無謀な戦いの連鎖の最中、未熟な彼女に力を授け、その命を守り続けてあげたのは……一体誰だったと思う?」
サムザリエルが、目を大きく見開き、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「全て僕だ。僕が彼女を救い続けたこと、僕がいなかったら彼女はとっくのとうに死んでいたということ、これらは両者とも否定のしようが無い純然たる事実。僕は彼女の唯一人の救世主。彼女に愛されていい存在は世界で僕ただ一人」
うっとりするように顔をほころばせる。
「僕だって本来、独り占めする気はないんだよ……あくまでも願うのはクリスティアーナの幸せ。だから彼女を幸福にできる存在が僕の他にだっているのなら、そいつらは生かしてあげたってよかったんだ。でも君も、シャルルも、あまりにも彼女を傷つけすぎた。接するのが下手なんだ、だから死ぬべきだ。今の世界は終わって、僕ら二人だけが生き延びればいい。大丈夫だよ……心配しないで……君が本当にクリスティアーナを愛しているのなら、僕に任せてくれれば――それで全て上手くいくんだよ」
クリスティアーナが、歪な笑いを浮かべ、人形のように大ぶりの引きつった動きで、杖を前にかざした。その先端の水晶体から、真っ黒な電撃が迸る。
私は箒に飛び乗り、天高く駆け上がった。電撃が私の後を追うようにして空中を駆け廻って行き、建物の残骸を爆散させてゆくが、私には僅差で届かない。
「すばしっこいなぁ……不愉快だ」
サムザリエルが目を細た。クリスティアーナの方を向く。
「ねぇ、クリスティアーナ。もっと腕を動かして。もっと綺麗に、丁寧に……だってあいつは、君をあんなにも傷つけた、すっごく悪い奴なんだよ? ほら……」
サムザリエルが優しくクリスティアーナの手を握り、それを誘導していく。段々と電撃の方向性が的確になってくる、私の箒に迫ってくる――
「そうだよ、そうそう!! 上手いよ、上手だよ、偉いねクリスティアーナ!!」
サムザリエルが感激の表情を浮かべる。気味悪い――なんだコイツ――そいつの手動かしてるのはテメェ自身だろうが!!
「よくできてるよ、いいねいいね、ほら、もうちょっとであの邪魔な奴が殺せるからね!!」
「ジ――」
クリスティアーナが、目の焦点も合わさらぬまま、口をパクパクさせる。
「ジ――、ネ――ト――、ちゃ――ん」
「違うよ。あいつに名前なんていらないよ。ただの害悪。ほら、殺そう」
電撃を大きく振りかぶる。私はハッとして、咄嗟に、箒を片足で強く踏み、前に飛びだした――と、その瞬間、後ろで箒が、電撃音と共に爆散した。枝や、細長い木の破片が、全方向に飛び散る。内側に込められていた風の精霊が、断末魔を上げながら、ふわりふわりと空中に消えてゆく。
私は宙を舞っていた。歯を食いしばり、姿勢を整え、ボロボロに崩れかけた建物の屋根の上に、転がりながら着地する。そのままの勢いで体勢を元に戻し、魔女たちの戦闘の流れ弾でぽっかりと開いた空洞の上を飛び越えながら、屋根の上を疾走して行く。建物から建物へ、サムザリエルの近くの方へと迫ってゆく。
「惜しいなぁ、でも、よくできたよクリスティアーナ。これであいつはもう飛べない」
サムザリエルがクリスティアーナの頬っぺたをぷにぷにと指で触る。クリスティアーナは、片目だけ白目を剥いて、涙を流している。その彼女がピンク色の舌を出して、サムザリエルの指先を、ペロペロとなぞるように舐めた。
「あはっ、くすぐったいなぁクリスティアーナ。やっぱり君も僕のことが好きなんだね。そうだ、最初に箒を破壊したってことは、君はそうなんだね、こいつのことは、じわりじわりと苦しめながら、徐々に殺していきたいっていうことだよね」
サムザリエルが、クリスティアーナの顎をそっと持ち上げ、もう一度濃厚なキスをした。再び顔を横に向け、唇の唾液を指で絡め合わせながら、片目を吊り上げて囁く。
「――僕も手伝ってあげるよ」
サムザリエルが、クリスティアーナの手に、もう一度手を添えた。と、私の周りの空中に、空間の裂け目が展開され、一斉に全方向から、何十本もの鎖が噴き出した。何本かは避けることに成功した、が――すぐに悟った。この数相手じゃ無理だ――躱しきれない!!
両手首、両足首に、鎖が次々と巻き付き、強く締め上げる。痛みに目を見開き、絶叫するが、身体が完全に固定されきって動かない。あぁっ、くそっ――なんとかここから抜け出すことができれば!! クリスティアーナに、触れることさえできれば……そうしたら……なんとか……でも――!!
「捕まえたよぉ!!」
虫を捕えた子供のような、無邪気な声だった。
「じゃあクリスティアーナ、これからコイツのこと、どうやって殺そうか?」
鎖が私を、前に、強引に、引っ張った。全身仰け反る――半端ない風圧が全身にかかる。私は、鎖ごと、空間の裂け目ごと、サムザリエルとクリスティアーナの前に押し出された。
呻きながら顔を上げる。サムザリエルが目の前にいる……この距離で見ると、猶更桁違いだって分かる。このドス黒いオーラ……強すぎる――!!
私の頬に、激痛と共に、切り傷が走った。全身からも同様に、血が次々と噴き出した。畜生――こんな――まだ何もされてないのに!! 心臓の鼓動が勝手に高まり始める。息苦しく、空気すらもどっしりと重く感じる。まるで全方向敵に囲まれているかのような閉塞感……このサムザリエルの存在、そのオーラ、ただそれだけのことで……!!
サンドリーヌ以上の魔力――これ以上コイツの近くにいたら、それだけで私は死んでしまうだろう。なんとかして……それまでに……
「クリスティアーナ、クリスティアーナ、殺し方はどうしよう? メニューが幾らでもあって、多すぎて困っちゃうなぁ」
サムザリエルが、クリスティアーナの髪の毛に両手をさらさらと通しながら、彼女の顔を覗き込んで囁いた。
「そうだ、《エウスタキウスの炎の雄牛》だなんてどうかな。《ゼロテ派断罪の鋸鮫》なんかも素敵だ。君はどれがいい?」
「うー、あー」
クリスティアーナが口をパクパク開く。両目がぐるぐる回転する。
「い、えー、おー」
「ん? どうしたの? よく聞こえないよ」
サムザリエルが耳をそばだてる。
「……何?」
「いー、え、おー」
「……そっか。やっぱり」
サムザリエルが悲しい顔をする。
「契約しないと駄目だね。確かに、あのヴェロニック・ウェルティコディアだっけ、アイツは自らの力の大半と引き換えに、まだ産まれたての赤ん坊だった時の僕を呼び出した……召喚し、そして、隷属した。ウェルティコディアの死後、その権限は君に受け継がれ、そのおかげで僕は君と共に、こうして一緒にいることができる……でもまだ、それは、ただの主従関係に過ぎないんだ。君が僕と契約してくれないと、君は本当の意味での僕の力を引き出すことはできないし、お互いの完全な意思疎通も、恐らくは出来ないんだ。ほら、僕と契約してよ。早く」
「いー、え、おー」
ハッとした。こいつ――クリスティアーナ――
「クリスティアーナ!!」
私は叫んだ。
「クリスティアーナ、まだ、意識が残ってるんだな!? たとえわずかでも……まだ私の声は、届いているんだな!? 私の名前を……呼んで、くれてるんだな……!?」
「い……え……おー!!」
「何……!?」
サムザリエルが歯ぎしりをした。
「嘘だ、あり得ない!! クリスティアーナは、君と絶対に触れあうことがもう無いように、安全なところに匿ってあげたのに!! 勝手に抜け出したら駄目だよ!! 危ないよ!?」
サムザリエルが、クリスティアーナの、生気の失った顔を引きよせる。肩を掴んで、ぐいぐいと揺さぶるせいで、クリスティアーナの頭がぐらぐらと虚ろに揺れる。
「ねぇ、答えてよクリスティアーナ!! 僕のことが好きなんでしょ、こんな奴どうだっていいんでしょ!! ねぇそうなんでしょ!? だったらそう言ってよ――」
「うーーー」
クリスティアーナが呻いた。片目がぎょろりと私を見つめる。
「あーーー」
「……え……何?」
サムザリエルが、少し顔を離した。クリスティアーナが、弱弱しい、やっと歩けるようになった赤ちゃんのようなおぼつかない足取りで、傾きながら、私に向かってきた。足元から溢れ出す黒いエネルギーが、私の身体を舐め回す。無数の刃が皮膚の表面をなぞっていくような痛みに、叫び声をあげそうになるのを必死に堪える。
「い、え、お」
クリスティアーナが杖を前に出した。
「い、えー」
「え……何だって?」
「い、えぇ」
「『死ね』」
サムザリエルが勝ち誇った笑みを浮かべた。
「『死ね』って言ったんだ!! 僕の勝利だッ!! クリスティアーナ、ありがとう、そうだよね!? やっと、僕を認めて――」
「い、……あう」
クリスティアーナが、杖の先端を、私の右手首の鎖にそっと押しつけた。
パリン、と音を立てて、その鎖が真っ二つに切断された。
「え……」
サムザリエルが、ぽかんとする。
「何やってるの、クリスティ――」
「い、えぇ」
クリスティアーナがもう一度囁いた。そしてその瞬間、両眼が回転し、私を捉え――その焦点が合った。必死の形相で泣き叫ぶ。
「来て!!」
私はハッとした。歯を食いしばる。右手を、一心に、前に向けて振り出す。
「やめろ!!」
サムザリエルが叫んだ。
「貴様、この聖なる存在に、クリスティアーナに触れるんじゃない――」
けれどもう遅かった。既に私は、クリスティアーナの首元のペンダントを掴んでいた。私があげた、黒曜石のペンダント。そしてこれは、鍵――。
世界が、眩い閃光に包まれた。そして私は、眩い光のトンネルの中へと、そのまま吸い込まれていった――。
目を開けた。
私は、海の底にいた。上を見上げると、揺らめく水面が、堪らなく遠い……ざっと五十メートルぐらいの深さだろうか。私は海底の砂の上に立っていた。
私のすぐ横を、一匹の巨大なホオジロザメが通り過ぎた。ただのホオジロザメじゃない――目が身体中にあって、口は上下二段に分かれている。一瞬本気でビビったが、ホオジロザメの化け物は、私の顔を一瞥すると、そのままどこか遠くへと泳ぎ去って行ってしまった。ホッとする。どうやら、ここは……
あたりをよく見まわし、そして、目を疑った。
目の前に宮殿が広がっている。ここは、その敷地に入ってすぐのところだ。巨大な、大理石の宮殿。海の底に沈んでいるというのに、建てられたばかりのように美しく、傷一つない。宮殿の前には、サンゴ礁と海藻の、見事に区画整理された庭が広がっている。様々な、どこか形状が不自然に歪んだ海の生き物たちが、その中を泳いでいく。
宮殿の窓という窓から、明るい光が漏れていた。何らかの盛大な音楽が聞こえる。
ここが……
いや……違う。違うはずだ。はっきりと感じる……この宮殿は本来ここにあった物じゃない。サムザリエルが、後から勝手に、このクリスティアーナの精神空間内に建ててしまった代物だ。
周りの歪な魚たちだって、元からいたものじゃないだろう。洗脳術師の端くれとしての勘がそう告げている。これは恐らく、サムザリエルが付け足した装飾品。偏愛する者のために仕立てた、けばけばしいデコレーションだ。
私は一歩前に踏み出した。何も起こらない。私は、周りを不安げに見回しつつも、宮殿へと続く、横幅の広い道を歩いていった。やがて宮殿の前に辿り着いた。そして、その門を叩いた。
門が、ゆっくりと、軋むような音を立てて開いた。
目の前に一気に広がった――盛大なオーケストラが。宮殿の正面本殿は、この世の栄光に包まれていた。大理石の床の上に、前へと続くレッドカーペットが敷かれ、天井からはいくつもの荘厳なシャンデリアがぶら下がり、全体が、眩く明るく照らされていた。両側で、何百人という者達が、盛大な音楽を演奏している。堂々として、本来素晴らしいのだろうが、あまりにも音が大きすぎて鼓膜が破けそうな勢いだ。それ以外の音なんて一切聞こえない。しかも、それを演奏しているのは――人間じゃない。皆同じ異形の存在だ。人間の大きさと形こそしているが、このタキシードの楽団は、皆何枚もの蝙蝠の翼が背中から生え、目は顔のそこら中につき、全身黒い短い毛で覆われ――これは、まさか……あのKの使い魔が、人間になった場合の姿……進化した、成長した姿……?
そのまま前に突っ切ったところに、レッドカーペットの向こう、壁際に階段状の高台があり、そこの更に上に、眩い黄金の玉座があった。クリスティアーナはそこに腰かけていた、というより、そこに強引に縛り付けられていた。両手両足に、玉座から生えた黒い触手が絡みつき、彼女をその場にガチガチに拘束しているのだ。目はどこまでも虚ろで、真っ赤な血のような涙を流している。その横で、彼女の横に、サムザリエルがべったりとくっ付いていた。自らの頬を、クリスティアーナの髪の毛に、うっとりとして擦りつけている。
ぎょっとした――壁一面に。壁一面にびっしりと、文字通り覆い尽くすように、沢山の絵画がかかっていた。どれも金色の額縁で、本来美しい光景だろう。だが、最初は何も気づかなかったが、よくみると、どれも――サムザリエルとクリスティアーナが、何かを一緒にしている絵なんだ。一緒に船に乗り、旅をしている絵。一緒に食卓で御馳走を食べている絵。ただの、二人一緒に並んで座って笑っている絵もあれば、キスしている絵、抱き合っている絵に、あれは……思わず、顔を背けた。もっとひどいこと、行き過ぎたことをしている絵まである。
これが……こんな、おぞましい物を……
「クリスティアーナ!!」
声を張り上げたが、こんな大音量の音楽の中じゃ、届くわけもない。
「クリスティアーナ!! おい――」
「無駄だよ」
サムザリエルの声だけは、どんな大音量の中でも、はっきりと響き渡った。大音量で、直接耳に響いてくる。今は頬ずりをやめ、私の方を向いてせせら笑っている。
「まさか精神世界にまで干渉して来るなんて、正直びっくりしたよ。とことんしつこいんだね。でもどうせ今のクリスティアーナには君の言葉は届かない。害悪はすべて消し去っておくべきだ。僕以外の存在には耳を貸さない方が、誰とも拘わらない方が、クリスティアーナはよっぽど幸せになれるんだ」
「それは……!!」
私は喚き怒鳴った。
「そんなのただのエゴだ!! 独り占めしたいだけだ!! 誰もそんな物じゃ幸せにはなれねぇ!! そんなことで幸せになれるほど、この世は甘くは創られちゃいねぇ!!」
「だったらこの世界を甘く創りかえればいいんだよ!! 分からない奴だな、君も!!」
サムザリエルが叫ぶ。
「僕らが神になれば、二人の愛の力で、この世の法則だって何だって変えられる!! クリスティアーナ、あんな奴のことは放っておくんだ。今だ、この僕と契約をするんだ!! 神様になるために!!」
サムザリエルがクリスティアーナの顔をガッと掴み、自らに抱き寄せた。
「君と僕とで、二人で描いてゆく、最高に素晴らしい理想の未来。最高に美しい理想の世界!! 一緒に創り上げていくことができるんだ。僕だけが君を幸せにできるんだ!!
僕の力は悪魔として文字通り最上級だ。サタン様、ベルゼビュート様、べリアル様、あのお方々と同列!! 地獄皇に値する!! そして今の僕の地上における開放度合いは有史以来最高だ。なんだってできる!! そうだ!!
生命の実を持つ『悪魔』である僕と!! 知恵の実を持つ『人間』である君と!! 僕たちが契約で結ばれ、完全に一体化したならば、合わさった君と僕は文字通りの神になれる!! 『契約』の原理その物の出発点にして本質!! そうだろう!? さぁクリスティアーナ、一緒に僕ら二人で、この世界を壊して、根底から創りかえよう!!」
「……シャルル」
クリスティアーナがぼそりと呟いた。
「シャルル……は……」
「何を言ってるんだ」
サムザリエルが囁いた。そして、私に向けて一度だけ、ドス黒い悪意に満ちた、本当に悪魔その物の笑みを浮かべた。私はぞっとした。思わず後ずさった。これが、コイツの素顔――。
「――そうなんだよね。クリスティアーナは未だにあいつに固執してる」
本性を現したサムザリエルが、私に向かって、醜い顔を引き裂いたようにして笑っている。
「ってことはだよ、こうすればいいんだ。よぉーく見ててなよ、ジネット・レッド・ベネット。そして自分の無力さに絶望するんだ!!」
サムザリエルはクリスティアーナの方を向いた。顔はいつの間にか、あの優しい普通の笑顔に戻っている。そして彼はゆっくりと顔を近づけ、クリスティアーナの耳元で言い放った。
「僕がシャルルだ」
その瞬間だった。
私は、自分の目を疑った。
サムザリエルの髪が、みるみる眩い金髪に変わってゆく。眼も蒼く燃え上がった。信じられない――本当に文字通り、あのサン=キリエルの市場で見た時のシャルルと瓜二つ……全く同じ物だ!! 比べようがない……
サムザリエルは、クリスティアーナの前に立ち、にっこりと笑いかけた。クリスティアーナは、虚ろな目のまま、サムザリエルを見上げていた。やがてその顔に、力ない笑みが広がった。
「……シャルルだ」
クリスティアーナの目から嬉し涙がこぼれた。
「シャルルだ……よかったぁ」
「そうだよ、当たり前じゃないか」
サムザリエルが微笑む。
「君はサンドリーヌを倒して、その野望を食い止めた。君は遂に、最高に幸せになったんだ!! そして君は僕の元に、こうして帰ってきてくれたじゃないか。約束を果たしてくれたじゃないか」
「うん。よかった。私、すごく頑張ったよ。生きて帰ってきたよ」
クリスティアーナが頷いた。
「ねぇ、シャルル。あの約束。……もう一度、キス、しよ」
「そうだね」
「やめろ!!」
私はレッドカーペットを駆け上がって行った。もうヤバイ、まずい、どうにかしないと!! サムザリエルが振り返り、顔に怒りを浮かべる。
「貴様、この、なおも――!!」
「クリスティアーナ!! 聞こえるか、クリスティアーナ!?」
クリスティアーナが、私の方を向いた――が、目は虚ろで、顔も力なく、ぽかんとしている。聞こえないんだ。どんなに呼んでも。
「当たり前じゃないか。クリスティアーナをこんなにも傷つけたのは君自身だもの」
茫然とする私を見て、サムザリエルが笑みを浮かべる。
「ここは僕たちの精神世界。僕が、クリスティアーナが拒絶した存在は認識されない」
「……思い出せ!!」
私は叫んだ。
「思い出してくれ、クリスティアーナ――」
ハッとした。言葉では、聴覚では駄目でも。サムザリエルが髪の色を変えたことによって、彼をシャルルと混同してしまった以上――今のクリスティアーナにも、「視覚」でなら、目に見える形の物でなら訴えられる筈だ。服の中を探る。
「――これだ!! これを見てみろ!! 元はお前が持ってた物だろ!?」
純銀のナイフが、シャンデリアの光でぎらめく。刃の側面には、文字が刻まれている。
「『Faire ce que vous pensez est justice』――『己が信じる道を行け』」
私は彼女に呼びかけた。
「思い出せ!! お前は何をすべきだ!? 今まで何のために戦ってきた!? 考えてみろ!! 今お前の横にいる奴は、本当にあのシャルルか!? こんな独善的な奴が!!」
クリスティアーナは相変わらず、魂が抜けたかのようにぽかんとしていた。私は一歩一歩階段を上り、彼女にゆっくりと近づいていく。
「お願いだから思い出してくれ。お前の元の信念は何だったか。お前の信じていた道は、どんな物だったか!! 世界を手に入れて、全てを再構築して、それでお前が神になり、本当にそれでいいのか……!?」
「口を閉じろ、白魔女!!」
サムザリエルが唸る。その全身から、真っ黒なオーラが溢れ出し、迸った。
「やっぱり貴様はこの場で殺す!! この手で殺す!! 殺さねばならない!! 僕とクリスティアーナ、二人きりの理想郷のために、貴様は――」
彼が、暗黒のエネルギーを集結させながら、私に片手を突きだそうとし――
その動きが、止まった。
「な……」
サムザリエルが、動けない。そのままの姿勢、空中で静止している。
「馬鹿な……クリスティアーナ……」
震えながら、信じられない様子で、彼女の顔を見つめる。
「嘘だ……君は、何を……!!」
「……契約を求める時だけは、どんな悪魔も……対象の精神世界に入り込む」
少女の落ち着いた声が、静かに響いた。その手の中に、新しく手渡された、銀のナイフがぎらめく。
「物質世界において上級悪魔を倒すことは、理論上できない……力の差が開きすぎている……けど……精神世界内なら……チャンスがある。両者純粋な精神体である以上、そこに優劣は無いから……」
既に、彼女を縛っていた触手は切り刻まれ、玉座のアームレストの上でくすぶっていた。そうして彼女は立ち上がっていた。
クリスティアーナが、銀のナイフを、その手の中に力強く握っていた。その目にはっきりと燃え盛る決意を宿して。
「この空間内でなら……この私の精神空間内なら……ある程度物事は私の思い通りになる。現世では最強のお前も、今は剥き出しの魂に過ぎない……ともすれば……それこそ……お前をこの場で消し去ってやることすら、私にだけは可能の筈だ……!!」
「何をするんだ――」
サムザリエルの顔面は蒼白だった。その髪が再び、漆黒に染めあがる。目の中に、荒れ狂う、真っ赤な炎が灯る。
「違う!! 嘘だ!! 騙されるな、惑わされるなクリスティアーナ!! そんな、そんな恐ろしい白魔女に!! 白魔女の化け物に!! 僕は君を幸せにしてあげたいだけなんだ!! 一緒に理想郷を創るんじゃなかったのか!? 僕のことを信じてよ!!」
「独りよがりなのよ、強姦魔」
クリスティアーナが唸った。そして、そっと笑った。
「ありがとう、ジネット……本当にありがとう。それに、ここにはいないけど、私を元気づけてくれたシャルルも。今まで出会ってきた全ての人達。皆のお蔭で、今の私がいる。
皆のお蔭で、私はもう迷わない。これからは私として、人として生きて見せる。自分の足で歩く。もう二度とこんな奴に頼らない。それを証明する為に、今私は、自らの弱さの象徴に打ち勝つ」
「やめて、お願いだ、助けてよクリスティアーナ――」
「私の中から消え失せろ!!」
クリスティアーナが声を張り上げ、飛び出した。銀の閃光が宙を駆け、ナイフが、サムザリエルの心臓に突き刺さった。深々と、不可逆に。それが全ての終わりを告げた。
サムザリエルが、恐ろしい絶叫を上げた。耳を劈くほどの。その口からも、傷口からも、大量の血が噴き出される。それがクリスティアーナの顔に、背中にかかった。サムザリエルは、文字通り何も理解できないような顔をしていた。絶望を認識することすらできない。あらん限りの声で絶叫を上げ続けている。
サムザリエルの全身に亀裂が走り、その身体の内側から、真っ黒なエネルギーが噴き出し始めた。両目からも口からも、大量にそこら中に噴き出される。宮殿のそこら中にそれが降り注ぎ、爆発していく。建物が崩れてゆく。絵画も、シャンデリアも、大理石の床も、全て木端微塵に破壊されてゆく。オーケストラは相変わらず音楽を続けていたが、その上に天井が降り注ぎ、彼らが潰れ去る音と共に、段々と楽器の音が一つ一つ消えていった。絶叫が止まない。クリスティアーナは必死の形相で、そのナイフを相変わらず深々と刺したままだった。
世界全体を覆い尽くすような大爆発が起こり、精神世界が消し飛んだ。私の精神体が、再び、光のトンネルの中を駆け巡ってゆく。それが出口を見つけ、その中に吸い込まれてゆき――
物質世界に、飛び出した。
沈黙が流れていた……信じられないような沈黙が。未だにサムザリエルの断末魔が、耳にキーンと残っている。頭を振り、辺りを見回すと、私の周りの鎖が朽ちて灰となり、地面に落ちてゆくところだった。私は支えを失い、そのまま少し落下し、地面に倒れ込んでしまった。目の前に、クリスティアーナが、空を見上げてつっ立っている。彼女の足元には、大量の、くすぶる黒いシミのような物が落ちていた。世界最強の悪魔の一柱の、見る影もない残骸だ。それすらやがて、地面に吸収されるようにして、或いは蒸発していくようにして、外側の淵の方から消えていった。最後は、フライパンの上で熱せられる水のように、あぶくを立てながら完全に消え去った。
サムザリエルは――《色の無い悪魔》は――こうして完全に、消え失せた。
空は夜空に戻っていた。本当に平和な、落ち着くような星空だ。星々が瞬いている。大きな月が輝いている。細長い雲が、ところどころにかかる。冷たい、心地よい、夜の風の匂いがする。
クリスティアーナが杖を掲げた。見ると、水晶部分――赤黒い色が抜け、完全に透明になっていた――が、見るも無残に砕け散ってしまっていた。もうこの杖は使えない。お師匠様の最期の形見は、サムザリエルを、《色の無い悪魔》を封印していた代償として、その死と共に壊れ果ててしまったのだろう。
クリスティアーナが、顔をおろし、私の方を向いた。私は彼女と目を合わせ、思わず声を出した。
同じ目をしている……お師匠様と。クリスティアーナの目から、何らかの濁った物が消えていた。弱さ……幼さ――全て、跡形もなく。幼い少女のままの顔に、不釣り合いなほどに大人びた目だ。まるで何百年も生きてきたかのような。白魔女の目。本物の。
「……K……お前」
私は笑った。
「なんか……変わったな」
クリスティアーナは私を、その目で見つめていた。古の目……けれどどこか、その月日の中に、何にも変えられぬ優しさを秘めた目。彼女が、そっと笑った。
「ジネットも」
私はぽかんとした。クリスティアーナが、壊れかけた水晶の破片を拾い、私の前に見せる。そこには、私の顔が映っていた。そして自分自身驚いた。
「……なんか、変わったかもな」
「変わったよ」
クリスティアーナが、水晶の破片を地面に置き、私に片手を差し伸べた。私はその手を受け取った。
「ありがとな……クリスティアーナ」
「こっちこそ、ありがとう。ジネットがいなかったら……私……自分自身に、きっと負けてたと思う。……私は……強くなんかない」
「元とは言えば私のせいなんだ。気にすんな。……ごめんな」
「ううん、別にいいよ」
クリスティアーナが眩しく笑った。
「もう、誰も憎まない」
彼女の服が、暖かい光に包まれた。ふと彼女が下を向く。
「あれ……これって……」
光が徐々に晴れてゆく。クリスティアーナが驚きの声を上げた。魔女装束が変わっていく――純白にはためく、ワンピースに。
と――私の服も、光輝き始めた。そして、さっきまで黒かった縁取りに、金色の光が流し込まれていった。
「白魔女の、本来の姿……」
私が呟いた。
「お師匠様の言っていた……浄化作業の完了」
「これ……」
クリスティアーナの声が震えていた。信じられない、といった様子で、自らの服をつまみ上げる。
「嘘……お母さんが作ってくれたワンピースだ。三年前に、もう、破られた筈なのに……」
「今の私の服」
私はにやけた。
「お師匠様のそれにそっくりだ。力に認められたんだよ、私達二人とも。服は人の心を映す鏡。それが、本来あるべき色に染まった」
「これで私達……二人とも、白魔女だね」
「あぁ。……それとそうだ、これ……」
服の中を探す。あれ、待てよ、あれれ――
「ナイフなら、持ってるよ」
クリスティアーナが、服の中から、あの純銀製のナイフを取り出した。
「『Faire ce que vous pensez est justice』」
彼女が読み上げた。
「これ、シャルルがくれた物なの」
「えっ――マジで!?」
「本当だよ」
クリスティアーナは飛びきりの笑顔だった。
「ジネットがいてくれたから、これをあそこで使うことができた。その前に遡れば、シャルルがこれを渡してくれたから、元々手に入れることができた。そのメッセージが、私にあの決断を、可能にしてくれた。――『己が信じる道を行け』」
「……どうりで……あんたの心に強く響くわけだよ」
私はにやりとした。
「不思議なもんだな。お前、ほんっといい奴と出会ったよな」
「うん」
クリスティアーナは、顔を少し赤らめながら、頷いた。
と――その時だった。
「……お前達……っ」
後ろから声がした。振り向くと、ボロボロの魔女たちが、私達を怒りの籠った目で見つめている。見たことのある顔ばかりだ。総勢二十名程だろう。こいつらは――
サンドリーヌ・ファミリーの、残党だ。
「……ローカスト……V―7……エステレイア……」
クリスティアーナが目を見開いた。
「……生きてたんだ」
「サンドリーヌ様を――」
一人の少女が、目に涙を浮かべ、拳を握り、私達のことを精一杯睨みつけていた。確か――ミシェールと呼ばれていた、あの幼い少女だ。
「サンドリーヌ様を、よくも――よくも――この――」
「やめとけ」
私は呟いた。
「お前が私を憎むのは自由だが……今のお前じゃ……私達にはまだ勝てない」
「……ッ……」
ミシェールは震えていた。溢れ出す涙を拭い、私達を殺すような眼を燃やし、指を突き付けた。
「確かに、今はそうかもしれない……でも、あたし、強くなってやるから。幾らでも強くなる……世界最強の黒魔女になって……いつか必ず、あんたらのこと、もう一度見つけ出して殺してやる」
目を細めた。涙がこぼれる。
「このあたしの魂に誓う!!」
彼女は振り返り、大声で泣き叫びながら、後ろに駆けだしていってしまった。それを見て、他の魔女達も、私達を冷たく一瞥し――その後、彼女に続いて、サン=キリエルの瓦礫の中へと、闇の中へと、消えていってしまった。
「……とんだ敵を作っちまったな」
私は力なく肩を竦めた。
「お前も、これから先、夜道の背中気を付けとけよ」
「……分かってるよ」
「……じゃあ」
私はあたりを見回した。
信じられない程木端微塵に、あたりの建物はすべて破壊されている。地面も抉られ、そこら中クレーターができて、人の住む場所では最早なくなっていた。
「……我ながら、酷いもんだな」
私は俯いて笑った。
「……どう思うよ?」
クリスティアーナは無言だった。片手を前にかざすと、その指先から、ほのかに、白い光が湧きだした。それが、近くの建物の残骸に注ぎ込まれてゆく、と――瞬く間に瓦礫が持ち上がり、湧きあがり、宙を飛び勝手にくっ付いて行き、破壊の様子を巻き戻すような形で、元の建物になった。
「……マジか」
私は瞬きをした。試しに念じてみる――と、私の前の建物も、幾つか元通りに戻った。
「おっ……すげぇじゃん」
私達は一つ一つ、破壊された建物を修復していった。きっとこれが、白魔女の役割なんだろう。私達の仕事。
と、街を元に再生させてゆく作業の途中――なんだか興味深い張り紙を見つけた。正直、最初見つけた時はわけがわからなかったが、私はそれをクリスティアーナに見せることにした。
司教よりのお知らせ
今夜、サン=キリエル市内は極めて危険な状態になることが予測される。よって全住民は、今日のうちに、西のルートを通り、エルザピエール村へと指示通りに避難せよ。既にそちらの教会及び関連施設には、十分な数の寝どこが用意してある。明日の朝には戻ってよろしい。
この命令の詳細に関して教会に質問をしたとして、返答は期待しないこと。
「一応これで、一つの謎が解けた……どうしてあの戦いの時、逃げてる民間人を一人も見かけなかったのか」
張り紙をくしゃくしゃにしてポケットに仕舞い、聖堂の瓦礫を組み直して行きながら、私は呟いた。
「サンドリーヌの奴。あいつ、ここに住んでた人間全員避難させてたらしいぜ。少なくとも、自分が支配してた人々のことは、疎かにはしてなかったのかもしれない。……実際、本当に悪い奴だったのかな」
「……分からない。少なくとも、『善』だとは思えないけど……」
クリスティアーナが視線を落とした。
「だって、あんなに沢山の黒魔女を量産して、生贄にして、世界を自分のものにしようとしてたんでしょ。仮にそれが、本当に、世界をよくしたいという思いからだったとしても、犠牲が多すぎたと思う。サン=キリエルの人達には気を使ってたとしても、だって、レティシア・オラールなんかの例を見てると――そこまでして、やることなのかなって……ただ……」
言うのを躊躇するかのように、唇を噛む。深い溜息をつき――もう一度口を開きかけ、躊躇い――やがて、意を決したように、顔を上げ、そっと囁いた。
「それで言ったら、私たちもだよ」
私は何も答えなかった。クリスティアーナの顔に、流れる黒髪がさらさらとかかる。片目を覆い隠したそれを、手でかきあげようともせず、彼女はその場に俯いて突っ立っていた。
「『黒魔女K』としての私は、きっとあいつらとも、何も変わらなかった。数え切れないほどの人を殺した……百人どころか、二百人、三百人ぐらい……容赦なく……むしろ、時には楽しんで。
殺したのは、きっと、黒魔女や、そいつらとグルの連中だけじゃない。あの時私は、ミカエリスたちへの復讐心に燃えて、聖職者たちを皆殺しにしたけど……その中に、サンドリーヌ・ファミリーとは無関係の、普通の人だっていなかったとは限らない。あの時は、そんな発想が無かった。自分がしていることは正しいんだと思ってた。でも……。
サン=ノエルで、あのファミリーの奴らと戦った時だって……多分、あれだけの戦いがあったら……一般人にだって、被害は出てるはず。サンドリーヌと違って、私には権力が無いの。逃がそうと思ったって、人を逃がすこともできない。力が無いのに……守れないのに……その状態で、戦った。あの日から……私、何も変わっちゃいなかった。
シャルルの為に戦ってたの……私。彼のためなら、どんな残酷な悪事にだって手を染めようと誓ってた。悪魔の手だって借りようと。シャルルへの愛だけに身を委ねて、もう自分の心も身体もどうでもいいボロ雑巾みたいに扱って、ただただ狂ったように戦うのは……どんなに痛くても、どんなに辛くても、どこか心地よかった。だって、シャルルのことが好きだって伝える方法、あれ以外に知らなかったから……。彼の為に負けて、彼の為に殺されかねない自分に……私……酔いしれてた。
これだけの数の命を踏みにじってるのにね。これだけ残酷なこと、平気でやってのけたのにね……? ジネットちゃん……ひどいと思わない……? 私……」
クリスティアーナが、私の方を向いた。その頬を、一筋の涙が伝う。
「私ほとんど罪悪感を覚えてないの。……自分が怖いの。いつの間に、こんな……こんなはずじゃなかったのに、って。……叫びたくなるの。立ってもいられなくなるの……」
「――あんたが、悪いわけじゃないだろっ」
私はクリスティアーナの肩を強く掴んだ。涙で潤んだ目に、必死に訴えかける。
「クリスティアーナ!! あんたはまともだ。何も怖がらなくていい!! あんたが今まで経験してきたこと、一度じっくり考えてみろ。あんなことがあって、あんなひどい目にあって、普通のままでいられる人間がいるかよ……!? あんたはよく頑張ったと思う。何も自分を責めなくたっていい!! 元とは言えば、私とかの責任だって、関わってきてるわけだし――」
「――でも、それで言っちゃえば」
クリスティアーナが首を振る。
「黒魔女なんて、皆そうだよ。元から腐りきった人間なんていないと思う。皆きっと、環境が悪かっただけ。サンドリーヌたちだって……多分、過去に、色々あったんじゃないかな。今となっては、もうわからないけど……世界全体の仕組みを変えたいと思うぐらいに鮮烈な、何かが……」
「……っ……でも――」
「いいの、ジネットちゃん。そういうことじゃないの……私、もう……決めてるから」
クリスティアーナが、私の手を、自らの肩からそっと下ろした。
「心配しないで、ジネットちゃん。もう私、自分の力で戦える。一人の白魔女として……せめて、これからは」
「――やってきたことを、清算するのか?」
「途方もなく大変なことになるって、自分でも思うけどね。自分の罪を自覚して、それと向き合いながらに、戦い続けるしかない。そうでないと……それをやめたら、きっとまた私は、あの『黒魔女K』に戻ってしまう」
クリスティアーナが、そっと笑う。
「――世の中の犯罪って、普通の犯罪者にせよ黒魔女にせよ、動機とかなんて、審問官に訊かれないわよね。理由に拘わらず処刑される。世間的に見れば、これだけの前科があるんだもん、私たち二人とも、火炙りってところだと思う」
「……ああ、とろ火だな。ゆっくりと焼かれる」
「その前にきっと、拷問もされる。また目玉くり抜かれちゃう」
「えぇっ――そんなことあったのかよ」
「街の連中にしてみれば、いい見物ってとこなのよ」
「『災厄の魔女を殺せ』ってか。……エグいな」
「舌だって、指だってね。全部千切られちゃった」
「ホントならもう一度そういう目に遭っちまうってことか」
「きっとそうなるわ。自首したらね」
クリスティアーナが、一歩前に踏み出し、夜空を見上げた。
「それでも、私たち――きっとそういうのもひっくるめて、生きていかないといけないんだと思う」
頭上で、星々が、宝石のように瞬く。真ん丸い月が、クリスティアーナの横顔を銀色に照らす。
「変な言い方だけど、全てを償うとしたら、これが一番いい方法なのかな、って。『白魔女として生きること』。あくまで私の想像だけど、この力はきっと、私達を『認めてくれた』っていうよりかは、私たちにこの『義務を課した』っていう方が正しいんじゃないかな。勝手に逃げ出すことが無いように」
「お師匠様の性格なら、それぐらいやりかねないな」
「うん。でもちょっと、この『義務』については、見直したいところもあってね」
クリスティアーナが、黒髪に手をさらさらと通した。月明かりを反射して、綺麗にきらめく。
「色々、私なりに考えてる。これから、白魔女としてやらないといけないことが、いっぱい見えてきて……なんだか不思議と、未来が明るく拓けてく感覚があるの。こんなにも新鮮でさわやかな感覚、産まれて初めて」
「――なんだよ? お前――どんなこと考えてんだ」
「それは、ね……」
そうして私達が語り合う中、サン=キリエルは復活していった。それが終わると私達はサン=ノエルに戻り(実は何よりここが大変だった――何せ二人とも箒が無いわけだから!!)、そっちの戦いの後も、なんとかして修復した。二人とも疲れ果て、ぐったりとしていたが、少なくとも夜明けには間に合った。
クリスティアーナと私とで、彼女の屋敷の前についた。クリスティアーナが門の鍵を開け、私達二人で忍び込んだ。敷地を通り抜け、彼女の寝室に辿り着く。そこで、飛びきりの笑顔で、互いと別れた。私は東の森の中へと、一人で歩いていった。最後までクリスティアーナと手を振りあっていた。やがて、寝室の戸口の前で手を振るクリスティアーナが、木々の間に隠れて見えなくなった。私は一人で、にやりと笑った。心の中で、ありがとうと囁く。
そして、お師匠様のいた住居へと、一人で駆けていった。




