第一章
=サン=ノエル=
フランス南部の貿易都市。ヴェネツィア・ジェノヴァ・ピサなどのイタリアの都市国家群と並び、地中海有数の貿易高を誇る(ただし五十年ほど前までは人口百人足らずの漁村であり、拡張を重ねて発展した都市であるため、一般的なヨーロッパの都市全般に見られる、幾何学性・要塞的城壁などの様式を欠くという特徴がある)。公用語は地域の南部訛りのフランス語。三十年前より、サン=ノエル司教座聖堂のミカエリス司教が行政権を握っている。その手腕により治安は安定していると言われ、魔女による事件の発生例も極めて少ない。
傷だらけのあたしの身体が、壁に激突した。腹を殴られた衝撃で、息が詰まり、苦しい。悲鳴すら上げられない――口が、無意味にパクパクと開いては閉じるだけだ。唾液が飛び散る。見開いた眼の淵に、大粒の涙が滲む。眩暈が酷い。逃げ出したい……。
「まったくあんたって子は、ほんっとに何にもできないねぇ!」
上から怒号が耳を劈く。全身の筋肉が疲れ切って、動くことができない。肉厚な手が、あたしの胸倉に掴みかかる。本人が意図してか意図しなくてか、爪があたしの首元に食い込み、血がうっすらと滲むのが分かった。
「床磨きも、薪割りも、文字通り何にもろくにできないじゃないか。ほんっとにあんたみたいな役立たずを買ったのは失敗だったよ。奴隷の癖にこんなんじゃあ、存在価値なんてあったもんじゃない」
「ごめんな……さ……」
声がほとんど出ない。床にまた投げられ、転がるようにして倒れ込んだ。ゆっくりと頭をもたげようとすると、革のブーツがあたしの頭を強く踏み倒した。あたしの顔が、床の木の板にぐしゃりとめり込む。そのまま掬い上げるようにして顎を蹴り上げ、あたしが叫べるより早く、腹を蹴飛ばす。あたしは麻袋のように飛んでいった。
また床に転がり落ち、力なく突っ伏し、震えながら呻いた。くらくらする。視界がぼやけ、霞む。
突然、不意を突くように、カラカラの喉の奥から、針の河のような何かがせり上がってくる。嫌な予感がした。抑えようとしてもどうにもならず、その場であたしは吐いてしまった。体の内側が焼けるように痛い。苦しい。息すらもままならない。
ガタガタと震える手で、唇から、残ったそれを拭う。上を、彼女の顔を、見上げる。
「……ッたく」
あたしの『主人』が、苦虫をかみつぶしたような顔をしてそこに立っていた。目を細め、あたしの顔に唾を吐きかける。
「何さ、その反抗的な眼は……あたしが悪いっての? 違うね、あんたが使えないから蹴ったってだけだ。主人として当然さ。それでそうなったのも、あんたの責任なんだから、自分でどうにかしな」
雑巾を取りに立ち上がろうとすると、違う、と声が降ってきた。
「あんたの汚ねぇゲロにあんな高級な布使わせるか。自分で舐めるか何かしな。ほら」
流石にびくりとした。目の前の木の床は、確かにあたしの嘔吐物に塗れてもいるけど、それだけじゃない。砂や泥だって、そこら中にこびりついている。何より、木の板がささくれ立って、舐めなんてしたら、舌が血塗れになってしまう――
「ホラ、あんた、おなか空いてんだろ?」
意地悪い笑いが響いた。
「丁度いいじゃないか。今日のあんたの昼食は、それで決まりだね。うまそうじゃないか」
「お願いです――」
咳き込むような声で、懇願する。
「あたし……このままだと、死んじゃいます……何か……食べさせてください……お願いですから……」
言わずにはいられなかったけど、間違いには違いなかった。またブーツが振り下ろされ、後頭部を直撃し、あたしの顔はまた地面に叩きつけられた。嘔吐物がべちゃりと顔全体に付着する。力なく呻く。『主人』が、ぐりぐりと、あたしの顔を床に押し付ける。
「調子乗ってんじゃないよ! この役立たずが!」
一瞬頭にかかる力が緩んだと思ったら、また蹴り倒された。思わず、短い悲鳴を上げる。自分が吐いた物が、口は勿論、目や鼻にまで入る。全身の傷口にも染みこんで、刺すように痛い。
「奴隷の癖に! 働く以外に価値のない、人間の風上にもおけない存在の癖に! 義務すらも果たさねぇ、屑みたいな、あんたに、まともな、食事なんか、やるもんか!」
何回も何回も、しつこく蹴り倒される。首が折れそうだ。頭蓋骨が砕けそうだ。くらくらする。気を失いそうだ――いや、もう、気を失ってしまいたい。そうした方が、楽に決まってる。痛い……痛いよ――。
「ごめんなさい――ごめんなさい――」
最後にもう一度、ガン、と蹴り倒された。あたしの鼻から流れ出していた血が、周りの嘔吐物に徐々に混ざっていきながら、あたりに汚く広がっていく。
「そうね。あんたの言う通りね。このまま餓死させちゃおうかしら」
嫌な笑いが頭上から響く。いや、真横からか? 下からか? おぼろげな意識の中で、もはやそれすら分からない。
「あんたみたいな使い道のない存在がどういう目に合うのが相応しいのかってのを、あんたに身を以て教え込ませてやるのもいいかもしれないね。人ってのは意外と、そう簡単には死なないんだ。しぶといんだ。何も飲まず食わずでも三日間は生きられるって話さ……」
「ただいま――」
「そうそう、水さえありゃ、二、三週間だって持つ。あんたにそれを味わわせてやろうか? どうせこれから先、主人が仮に誰に変わっても、何にもない、つまらない、どうでもいい人生なんだ。あんたみたいな屑に相応しい。あたしゃあねぇ――」
「ただいま、母さん」
突然、『主人』の声がうわずり、びくついた。どたどたした足の音から、彼女が慌てて後ろを向いたのが分かった。あたしはゆっくりと目を開けた。ぼやけた視界の中に、『主人』と対面する、鞄を背負った金髪の少年の姿が見えて――思わずあたしは、少し目を背けた。こんな姿なのが、死にたいぐらいに恥ずかしかった。痛みとは別の理由で、嗚咽が喉から漏れ出した。
そして、その瞬間の『主人』の変貌のしようは、本当に異様な程だった。
「まぁ……シャルル!」
一気に笑顔に塗れた『主人』が、突如少年に向かって飛んで行くようにして抱き着き、頬っぺたに熱烈なキスをする。
「シャルル! ママの愛しいシャルル! お帰りなさいシャルル!」
そのまま何回か、鼻歌を歌いながら、踊りまわるように回転する。
「今日の学校どうだった? 楽しかった? ちゃんと、やってる内容分かった?」
「まぁ……まぁまぁね」
「何か分からないことあったらいつでもママに言っていいのよ。ママの可愛い一人息子として商売を繋がないといけないんだから、読み書きと計算は絶対なのよ。嫌な奴がいたら、ママが懲らしめてあげるから、ね。何か変な事とか、嫌な事とか、起こってない?」
「……別に、大丈夫だよ。ありがとう。木曜日、また広場で魔女が火炙りになってたけど」
「ええっ、またなの? 最近、やけに変な事件多いのね。ママ心配してるのよ。前までここで魔女の事件なんて全然起きなかったのに。サン=ノエルは地域で一番安全だって、皆誇りにしてたのに……ちゃんと周りの皆と一緒に行動して、一人にならないでよね」
「分かってるって……」
母に適当な返事をしつつ、シャルルがチラチラとこちらを見ているのが分かる。
「何か困ったことがあったら、言うよ。……僕、今は大丈夫だから。心配しないで」
「あたしの可愛いシャルル!」
そう言って、『主人』はハッとした。
「あっ、そうだわ。もうそろそろママ、港に行かないと。重要なお客さんとの商談があるから。じゃあ、ちゃんと良い子ちゃんにしててね、シャルル!」
「分かってるよ……母さん。行ってらっしゃい」
「行ってきまぁ~す!」
似つかない程の笑顔を浮かべて、『主人』はスキップするように向こうに歩いて行った。
そして、不意打ちのようにこちらを振り向いた。
既にその顔は、あたしが普段よく知っている、あのしかめっ面に戻っていた。
「……あたしゃあもうやる仕事があるからね、でかけてくるよ。あんたと違って社会的に必要とされてるのさ。まぁともかく、帰ってくるまでに、あんたそれ全部自分でなんとかしときな」
自分で、を嫌に強調した。元から小さい目を更に細める。
「そうでないとあんた、ほんとにそうやって殺すからね」
そうしてまた向こうを向いた瞬間、『主人』は陽気な鼻歌に戻った。廊下を曲がっていき、視界から消える。バタン、とドアの閉まる音がして、彼女がこの家から出て行ったのが分かった。
沈黙が流れた。
あたしには、最早、動く気力すら残ってはいなかった。シャルルにこんな姿を見られるなんて本当に嫌だったけど、どうしようもなかった。惨めで惨めでしょうがなくて、涙がこぼれた。全身が震えていた。それこそ死ぬ方がまだましだった。
「……ねぇ」
心の底から心配そうな、悲痛な声がした。
「ねぇ……大丈夫? ねぇ……」
あたしは泣きじゃくった。それしかできなかった。何も言えなかった。
「ねぇ、また……母さんに……やられたの?」
首を振るしかなかった。目をギュッと閉じて、また、泣きじゃくった。
「段々……酷く、なってきてるよ。前はここまでじゃなかった。どうしたんだろう……」
あたしの手首を、あたたかい手が優しく包んだ。あたしの肩を持ち、ゆっくりと地面から起き上がらせてくれた。でも――
「……たない」
「……え、何?」
シャルルはぽかんとしている。
「聞こえない……ごめん――」
「……汚い。あたし……汚い。……シャルルまで、汚れちゃう」
涙が滲んだ。まともに前を向けなかった。
「……別に、構わないよ」
優しく、宥めるような声で、シャルルがあたしの身体を横にずらしてくれる。
「酷い怪我……なんで、僕には優しいのに――」
シャルルがあたしの手を取って、ゆっくり立ち上がらせた。
「ちょっと……外、出ようか」
あたしとシャルルは、裏庭に出た。『主人』、マルグリット・ティエールは、裕福な商人だ――どういう商売で金を儲けてるのか考えると、未だにぞっとはするけれど。森のはずれの裏庭は、それこそ街の広場のように広い。草もきちんと刈りこまれていて、横の花壇には、地中海中の珍しい種類の花が、見事な虹色のグラデーションのようにして植えられている。
あたしは相変わらず、全身嘔吐物まみれだ。髪にまでべっとり付いていて、臭いが酷い。シャルルの方はきちんとした整った身なりだから、余計に恥ずかしい。
『主人』はもじゃもじゃの茶色がかった髪だけど、息子のシャルルはさらさらの金髪だ。ブルーの目も、透き通るような肌も、目が黒く濁り、顔もシミだらけの母とはまるっきり正反対に感じる。別人の子なんじゃないかと思ったことは、一度や二度ではないけれど、聞くにどうやらどの特徴も、既に死んだ彼の父側のものだったらしい。
シャルルは、自分がギルドの学校に持っていっている鞄から、水の入った皮袋と、ハンカチを取り出し、あたしに手渡してくれた。
「その……」
シャルルが向こうを向いた。若干顔が赤い。
「服脱がないと、体、洗えないでしょ? だから僕、一旦この扉の後ろに行っとくよ……水が切れたら、その袋、扉の前のところにおいて。一回じゃ足りないと思う。僕がまた水、汲んでくるから」
聞いていて、あたしはまた、涙が滲んできた。やっぱりシャルルだけは、あたしの世界の希望でいてくれる。
「ごめんなさい……」
「なんで『ごめんなさい』なのさ……君にこんなことしたのは、母さんなんだから――」
一瞬、躊躇うような様子があった。自分の母があんな人間だと、心のどこかでは、認めたくないのかもしれない。俯いて、残りを、ため息をつくようにして言った。
「……責任は、僕がとるよ」
シャルルが扉の向こうにいる間に、あたしは、嘔吐物で濡れたボロ切れのような服を、芝生の横の石壇に慎重に脱ぎ置いた(後で嘔吐物が拭けるような場所だ)。脱ぐとき、布が傷だらけの肌を擦って痛いけれど、しょうがない。
裸になったあたしは、シャルルのくれた皮袋を手に取った。そのまま開けて、お言葉に甘えて自分にかけようとしたとき、とある思考が脳裏をよぎった。
……ギルドの学校に行っている間、シャルルはこれで水を飲んでるんだ。
これに、あの唇をつけて。
シャルルはこっちを見ていない。扉の向こうにいて、こっちのことが見えない。
何をしたってバレない。
皮袋の口元が、やけに気になる。心臓がどきどきする。唇を思わず近づける。息が荒ぐ。顔が火照る。甘美な何かに囚われて、恐る恐るに、舌を伸ばして――
駄目だ。
目をギュッと閉じて、水を頭からかぶった。そのままそれが、全身を滴り落ちる。また傷に染み、痛い箇所もあるけれど、さっきよりか大分マシだ。汚れが落ちかかった部分をハンカチでふき取る。頭を振り、深く、溜息をつく。
釣り合わない。
圧倒的に、釣り合わない。
シャルルにこんな迷惑をかけている自分も嫌だったけど、それ以上に、こんな人間の分際でこんなことを考えてしまう自分の方が、ずっと、もっと嫌だった。そのまま森の中へ逃げ出してのたれ死んでしまいたいとも思ったけれど、シャルルがどう思うかを考えて、その考えを放棄した(逆に言えば、シャルルがいなければ、もうとっくのとうにあたしは自殺してるかもしれない)。そのまま、言われたとおりに扉の脇に皮袋を置くと、シャルルが奥から手を伸ばし、それを取り込んでくれた。しばらくして、水が補充された状態で、またそこに置かれた。何度かそれを繰り返す。段々と、あたしの体も、きれいになっていく。
全身を仕上げで洗いながら、あたしは虚ろに考える。あたしって何のために生きてるんだろう。認めなくないけれど、『主人』の言う通りかもしれない。奴隷なんて、働くために生きているようなものなのに、あたしは何の役にも立たない。今の世界で唯一、あたしが心から愛している人にも、迷惑ばかりかけてしまっている。
本当に、そう――死んだ方がいいのかもしれない。
違う、と、心の中で、小さな反抗の叫びがあがった。そもそもあなたは、奴隷じゃないんだって。奴隷なんて最初っからいていいわけがないんだって。それに、あんなことにならなければ、今だってあなたは、平和に、あのあたたかい家族と――
五月蠅い。
思い出したくもない記憶が次々と蘇ってくる。幼馴染の皆。草原で駆け回ったり。近くの河原を探検したり。教会。下手だけど一生懸命な歌声。十字架。祈り。笑い声。掛け声。勇敢な騎士たち。正義を掲げた軍勢の行進。王侯の旗。憧れを持って見つめていたあの日々。
手紙。少年。奇跡。祈り。十字架。軍旗。願い。決意。今一度の行進。何隻もの船。なおもあたしを導いてくれる、素敵な神様に感謝して。期待に満ちた、子供達の笑顔。頭上で鳴くカモメ。広がる大海原。水平線の果てにちらつく、このサン=ノエルの港町。希望に、胸を弾ませて。
そして、あたしの世界が、音を立てて崩れ落ちた瞬間――。
気付くとあたしは絶叫を上げて、泣きながら室内に駆け込んでいっていた。裸のまま駆け込んできたあたしをみて、シャルルが仰天する。彼の肩を掴み、壁に強引に押し倒し、彼の胸に頭を埋め、もう一度泣き叫ぶ。しがみ付き、震えながら、悲痛な嗚咽を漏らす。
怖い。どうしようもなく怖い。思い出すだけで嫌だ。全て忘れ去ってしまいたいのに、絶対に忘れられない。そして、愛する人の存在を、確かめずにはいられない。それすらも、触れたら消えてしまう幻想なんじゃないかという気がして、本当に、死にそうなほど怖い。だって、今まであたしが愛してきた人達は、皆、残酷に、消えて無くなってしまったから。
「ねぇ――」
シャルルが真っ赤になってあたしの顔をじろじろと見る。
「ちょっと、こんな格好で――」
でも何も答えられない。あたしはただただ彼に抱き着いて、しがみ付いて、迫りくる記憶の亡霊たちを振り払うかのように泣き叫ぶばかりだった。やがて、パニックが収まって、平常心が戻ってきても、涙は止まりはしなかった。あたしは、彼の胸の中で、ただひたすら力なく泣いていた。
あたしはもう一度、裏庭に戻っていた。石垣に腰かけ、森の木々を眺めていた。緑のにおいを乗せた風が舞う。小鳥達のさえずりが、合唱のように聞こえてくる。遠くを見ると、ゴツゴツと荒々しい形状のモント・インセンディア火山が、上空にもくもくと灰色の煙を立ち昇らせている(一か月前の噴火で、近くの農村は相当な損害を被ったらしいけれど、ここからは徒歩で何日もかかるような場所だ――こうしてほとんどの情報から隔絶された状態にいると、やはり実感が湧かない)。空には、雲が、段々と増え始めていた。灰色みを帯びてきている物もある。
……もうすぐ、雨が降るのかな。
あたしは、雨は嫌いじゃない。あのじっとりともやもやした感じ、世界がぼやけてそのまま見えなくなって、消えてしまいそうな感じは、見ていて、どこか心がおちつく。
『主人』が言っていた床掃除は、結局シャルルがハンカチを貸してくれた。何回も断ろうとしたけど、シャルルの方が、そうじゃなきゃ自分の気が済まないといって、絶対に引かなかった。もしもお母さんに問いただされたら、全部あたしがきちんとやったことにすると、彼は言ってくれた。拭いた跡は、本当に舌で舐めとったにしては明らかにきれいすぎたけど、『主人』は、仮にシャルルが嘘をついたとしても、それを決して問いたださない(単に頭が悪くて嘘を全部鵜呑みにしているのか、嘘なのは分かっていても敢えて何も言っていないのか、どっちなのかは分からない。ただ、普段の振る舞いを見るに、どうも後者らしい――あの人のシャルルへの愛情は、崇拝と言っても過言じゃない。どうも断片的な情報を元に考えると、シャルルが、その例の死んだお父さんの面影を残しすぎているからだというような気がする)。
シャルルは普段から、何日間も泊まり込みで、都市の中心街に本拠地がある商人たちの商会に、色んな勉強を教わりに行く。向こうにいるときは、友人たちと一緒に、数学やら測量やら、他国とも貿易できるようにするための外国語やら、商売のコツのどうたらこうたらやら、色々と難しい専門知識を学ぶらしい。物凄く忙しいに違いない。そして本来、そうしてやっと家に帰ってきた後は、休む時間なんだ。なのに……
あたしはまた、彼に迷惑をかけてしまった。
少し一人にさせて欲しいと言ったのは自分の方だったけど、正直もっと一緒にいたかった。シャルルの暖かい部屋で、一緒に二人きりで過ごしたかった。むしろ、そんなどうしようもなく迷惑な自分を押さえつけるために、ここに出てきたわけでもあるけど。
替えの服は、ふだん着ている物にも増してボロボロだ。裏庭の倉庫から引っ張り出してきた時、虫があんなに群がっていただけあって、そこら中虫食いだらけだ。なんだか、引っ張ったら千切れそうなぐらい、荒く縫ってあるし。こんなの、服として着てる意味あるのかな。
……あーあ。
病気になるか、殺されるかでもしない限り、あたしはこうやって何十年とこの先生き続けることになるのかもしれない、などと思うと、やっぱり最悪の気分だった。『主人』だって当然、シャルルがあたしを庇ってることぐらい知ってるだろう。快くも思ってるはずがない。暗黙の了解なんだ――でもいつそれが崩壊して、あたしが売り飛ばされたとしても、全然おかしくはない。そもそも、悪徳商人の『主人』としては、息子が、奴隷を持ちたがらないような風に育ったら堪らなく嫌だろう。むしろ今まで引き剥がされてないのが不思議なぐらいだ。だから、遅かれ早かれ、あたしのこのシャルルとの日々も終わる。
そうしたら、あたしのこの惨めな人生に、一体何が残る?
その時こそ死のう、と心に決めた。シャルルと一緒の間は、絶対に死にたくない。いや、死ねない。何があっても。でも、シャルルから引き離されたら、あたしは躊躇わずに自殺できる確証と自信がある。
――人ってのは意外と、そう簡単には死なないんだ。しぶといんだ。――
脳裏に蘇った嫌な言葉を、首を振って追い払った。あたしは溜息をついて、俯いて、地面をぼんやりと見つめた。
と、ふと、とある異変に気付いた。さっきから、何かがおかしいとは思っていたのだが、それの正体が分からなかった。それが今、はっきりと分かった。
いつの間にか、小鳥達が、鳴くのをやめているんだ。
立ち上がり、上を見上げた。空からはもう既に、青が完全に消えていた。黒に近いような灰色の暗雲ばかりが、ゴロゴロと音を立てて、頭上で渦巻いている。今にも雨が降ってきそうだ。
風が吹き、木々が揺れる。あたしの長い黒髪も、揺れる。それを手で抑える。芝生の上を、さざ波が走っていく。冷たい風だ。肌に染みる。
何か不穏な空気だ。もう緑のにおいすらしない。気のせいかもしれないけれど、どこか心臓の鼓動が早まり、息苦しく、まるで世界が闇に包まれるような……
その時だった。
森の中から、藪をかき分けて、一人の人影がよろよろと歩き出してくるのが見えた。遠すぎてよく見えないが、どうやら真っ黒なローブを着ているように見える。森の中で、何をしていたんだろう? ここの敷地が他人の物だと、知っているのだろうか? 人影は、何もかも構わず、こちらに向かってくる。
森の中で、道に迷ったのかもしれない。いや、きっとそうだろう――だとしたら助けないと。奴隷としては役立たずでも、人間として役立たずにはなりたくない。この人が誰なのかはどうでもいい。あたしは、人影の方向に、駆け足気味に向かって行った。
近づくにつれて、姿がよりはっきりと見えてきた。おばあさんだ――黒いボロ切れを纏った、ひどく猫背のおばあさん。おぼつかない足取りで、こちらに向かってくる。片手には、ゴツゴツとした杖が握られているが、黄色がかった包帯が全体に巻かれていて、中身はよく見えない。
何か違和感があると思ったら、杖の長さだ。おばあさんは、あまりに猫背なせいで、今は精々あたしよりちょっと背が高い程度なのだけれど、この杖は彼女自身の身長と同じぐらい長い。体を支えるための道具としては明らかに不釣り合いだ。それ以外の用途なのかもしれないけど……だとしたら、何だ?
よくみると、彼女は相当疲弊している様子だった。片足を引きずるようにしてふらつき、今にも倒れそうだ。いや――あっ――もう、倒れる!
「大丈夫、ですかっ!?」
急いで駆け寄り、抱きかかえる。腕で持ってみると、びっくりする程に軽い――ガリガリに痩せていて、それこそまるで皮と骨しか無いようだ(尤も、逆に重くても、あたしの細い腕じゃ抱えられないし、却って困ってしまうかもしれないけど)。
それと、近くで見てみると、この杖を覆っている黄ばんだ包帯、何やらよくわからない文字列が、そこら中にびっしりと、真っ黒なインクで書かれている。あたしに分かるようなフランス語も、ところどころ入っていたけれど(一応、昔、お母さんからある程度の読み書きは教わっている)、大半は知らない言語だ。アルファベットですら無い、古代の象形文字のようなものや、色んなぐちゃぐちゃに重なり合った図形も、複雑に組み込まれていて、まるで意味が分からない。
何、これ……?
おばあさんが顔を上げた。不気味な雰囲気とは裏腹に、顔は整っている。しわくちゃではあるけれど、若い頃は美人だったであろう顔。でも、今はそれも、激しい痛みに引きつっている。
「……ゲ……ナ……ア……イ」
わなわな震える唇から、何か言葉が発せられる。でも、声が小さすぎて聞こえない。
「え? すいません、今、なんて――」
彼女が突然、ゴホッ、ゴホッと、苦しげに咳き込んだ。思わずあたしは目を見開いた。芝生に大量の血が振りまかれたのだ。そして、彼女の腹を抱えていた左腕に、どろどろと生暖かい感触が伝わってきた。相当深い傷口が、たった今開いてしまったらしい。
「な、何が――あの――」
あたしはキョロキョロとあたりを見回した。ここからだと、屋敷は若干遠いけど、一応、ちゃんとシャルルに伝えた方がいいのかな? 急がないといけないし……
「助けを――呼びますから。家に……」
彼女の肩を持って、家の方に運ぼうとすると、おばあさんが首を振った。震える指先で、まるっきり別の方向を指す。
彼女が指差していたのは、『主人』の敷地外の、となりの倉庫群だった。何年か前までは別の豪商人が住んでいたのだが、彼が他の商人のギルドとの諍いで夜逃げした今となっては、しばらく誰にも何にも使われてこなかった、ほぼ空っぽの倉庫が立ち並んでいるだけの空間だ。なんでこちらに行きたがるのか、まるで分からない。でも……
「そっちに……行きたいんですか?」
おばあさんはこくりと頷いた。目がいやに必死だ。
「あたし……」
あたしは口ごもった。確かに、倉庫群とこちらの敷地との間に柵は無いから、行こうと思えば行けなくはない(元々は鉄柵があったのだが、老朽化して、一年ほど前に取り壊された)。でも、本当はあたしは、ここの敷地の外に無断で出ちゃいけない。見つかったら大変なことになる。状況さえ説明できれば、流石に脱走とはみなされないだろうけど、あの『主人』のことだから、なんらかの罰は――。
……でも。
何が何だかよくわからないけど、少なくとも、このおばあさんを疑う要素は無い。もしここであたしが断ったら、もしこのおばあさんが死んでしまったら、それはもしかして、あたしのせいになるのかもしれない。そう思うと、それの方が、よっぽど怖かった。そういう奴にだけは、死んでもなりたくない、仮に罰を受けたところで、構わない。あたしはあいつらとは違う。
「……分かりました」
あたしは、彼女の肩を支え、彼女の言う通りの方向に進んでいった。
相手が軽いとはいえ、誰かを抱えて歩くのは、想像以上にきつい。先程、シャルルがお昼ご飯をこっそり分けてくれたから、おなかは減っていないけど、元々の体力がない。あたし自身、結局、ただの十一歳の女の子だ。これじゃあ、カタツムリのように遅くしか歩けない。
何分間歩いたかは分からないけど、まだ敷地の外には到着していない。段々、ぽつりぽつりと雨が降ってきた。今になって、替えの服まで濡れてしまって、今日この先困るであろうことに気が付いたけれど、今更どうしようもない。今更この人を見捨てるわけにもいかないし。
と、敷地を出る寸前の時だった。おばあさんが突然、首をぐっともたげた。唇が震える。
「……逃……げ……」
おばあさんがあたしの目をじっと覗きこみ、あたしはハッとした。鋭い、黄金色の目だ。しわくちゃの肌の中で、異質に目立っている。目だけはどこまでも若々しく、眼光もワシのように鋭く、見つめられただけで、あたしは一気に頭が冴え渡ったようだった。あたしはその視線から、目を逸らすことができなくなった。
そして、そのおばあさんは、骨ばった長い指で唇から血を拭うと、今度ははっきりと、あたしに向けて、囁いた。
「逃げなさい」
その瞬間、ある程度後ろから、藪から複数の何かが飛び出す音と、何人もの男の怒号が聞こえた。反射的に振り向き、あたしは目を疑った。さっきおばあさんが出てきたあたりの茂みから現れたのは、白いローブを纏い、剣や斧を担いだ男達だ。物騒な武器を構えてこそいるが、あの格好は――
……聖職者……!?
「私のことはいい!」
おばあさんが叫んだ。さっきまでとは打って変わって、強い声だ。あたしの心に直接響くような。目の中で、必死な光が燃えている。
「あなただけでも逃げなさい!」
「で、でも――」
「いたぞ!」
後ろから男達が迫ってくる。距離がみるみる縮まっていく。あたしはわけが分からない。何でこいつらがこのおばあさんを追っているのか、そもそもこのおばあさんがどういう人物なのか、何もかも、何もかも分からない。
けれど、混乱と恐怖との狭間で、一つだけ確かに思ったのは、ここでこのおばあさんを見捨てるような人間にだけはなりたくないという、ただそれだけのことだった。そうだ――。歯を食いしばり、脚に力を込める。屑以下の屑には、死んでもなりたくない。
「……っ!」
あたしは老婆を肩に抱えた。そして、必死に駆けだした。
息が上がる。涙が滲む。雨がどんどん強くなってくる。たちまち、どしゃ降りの雨が、そこら中に打ち付けはじめた。
あんな男達相手に、こんなハンデを抱えて、逃げ切れるはずがない。それでもあたしは嫌だった。誰かを見捨てるのだけは、絶対に。後から思えばこの時、おばあさんはそれこそが見たかったのかもしれない。
隣の敷地に走り込み、あたりを見回す。巨大な石造りの倉庫群が立ち並んでいる。今になってやっと、何故おばあさんがここを目指したのか分かった気がした。倉庫は無数に並んでいて、どれに逃げ込んだのか、容易には察しがつかないだろう。
ただ、さっきの奴らに見つかったらどちらにせよ終わりだ。それは時間の問題だ。このおばあさんは何が目的なんだ? 何かしら、明確な目標、あいつらを撃退する手段があるのか? それのためにこれらの倉庫や、時間稼ぎが必要なのか? それとも、ただ単に延命したいだけか? 前者ならいいが、後者だと、あたしまで殺されてもおかしくない。
でももう、細かい事まで考えている暇はないし、今更引くにも引けない。あたしは相当奥の方にある適当な倉庫を選んで、そこに走ってゆき、扉をこじ開け、急いで中に入り込んだ。そのままの勢いで扉を閉める。
なんとか、逃げ込めた……。ゼェゼェと息を吐き、呼吸を整えようと必死になる。人を背負って走ったせいで、もう体力が限界だ。あたしは、急いでおばあさんを、近くにあった古びた木材の上に寝かし(悪いとは思ったけど、それ以上の物が倉庫内に無かった)、その場にぐったりと崩れ込んだ。全身の筋肉が悲鳴を上げている。緊張でくらくらする。心臓がバクバクと鳴っているのが、耳にまではっきりと聞こえる。
石の天井に降る雨の音が、倉庫の内側でこだましている。周りの空気は、外と同じぐらい冷たく、外と同じぐらい湿気ていた――くしゃみをしそうになり、急いで鼻をつまんで堪えると、鼻孔と目頭の痛みと共に、涙が滲んだ。目元を拭きながら、瞬きをする。上の方にある天窓から、一応うっすらと光が入ってくるから、真っ暗闇ではないが、かといって、さして明るくも無い。
あたしはおばあさんに目をやった。息も絶え絶えで、今にも死んでしまいそうだ。こんな傷を負っていては、どうしようもないのかもしれない。おびただしい量の血があたりに流れ出している。
彼女が、閉じていた目を、うっすらと開いた。あたしの顔を捉え――驚きで目が見開かれる。
「ったく、どこにいるってんだ! あのババァと餓鬼! 雨で血痕が消えちまったせいで、全然どこだか――」
すぐ近くで男の怒鳴り声がして思わずすくみ上ったが、少なくともまだここは開けられていない。まだあたしたちは見つかっちゃいない。でも――
「焦んなよ」
別の男の声がした。
「全部の扉を開けていけば、いつかは見つけられる。慌てるこたぁない」
……そうだ、それもそうなんだ――。あたしは唾を飲み込んだ。駄目だ。結局は、彼らの言う通り――これは時間の問題に過ぎない。逃げ切れる可能性は文字通りゼロだ。
このおばあさんが何をしたいのか分からない。あたしの顔を、じっと見つめてるだけだ。何もしないでこのままじゃ、理由こそ分からないが、きっと二人とも殺される。
聖職者が誰かを殺そうとしているという事実自体は、別にあたしにとって不自然な物には思えなかった。自身の経験が経験だったし、あたしは、教会が良い物だとは、そもそもから思っていない。でも、それでも、このおばあさんが追われている理由だけは気になった。せめてそれだけは知りたかった。このままじゃ、幾らなんでも理不尽過ぎるから。
だってあたしは逃げられない。逃げたら捕まる。捕まったら殺される。仮に奇跡的に屋敷に辿り着けたとしても、屋敷内を捜索されて、どうせ見つかってしまうだろう。この聖職者たちの目的の詳細はよく分からないけれど、あの様子じゃ、見られたくない物をあたしに見られたみたいだった。そうである以上、見逃して貰えるわけがない。
周りの倉庫の扉が、次々と乱暴に開けられていく音が聞こえる。相手は手分けして探しているみたいだ。もう少しでここに辿り着く。そうしたら、逃げようが無い!
今になって、死が迫ってくるこの瞬間になって、色んな懐かしい顔が、脳裏に次々と浮かんでくる。あたしを女手一つで育ててくれたお母さん。大昔に互いから引き裂かれて、様々な理由でもう二度と会えないであろう、昔の友達の皆。そして最後に、シャルル。
あぁ――シャルル。今になって申し訳なく思う。せめてシャルルにだけは、最後に、何か言い残しておきたかった。もし彼が心配したら、いや、万が一悲しんだら、その時はどうしよう? それは何よりも嫌だ。だから、本当は、生き延びないといけないのに。こんなにも、生きていたいのに――。
その時だった。
おばあさんが、あたしの腕をぐいっと掴んだ。震える手探りであたしの手を見つけると、あたしの手のひらを、ギュッと握った。この皮と骨だけの腕からは到底想像がつかない程、握る力が強い。
そして、おぼろげな、かすれた声で、囁いた。
「……クリス……ティ……アーナ」
ハッとした。なんでこの人、あたしの名前を――
「……私はもう、先は……長くない」
おばあさんは続けた。
「でも……あなたを、巻き添えに、死にたくは、無い……あなたが欲すれば……授けることは……できる。私自身の……『力』を」
「『力』……?」
言っている意味が分からない。状況が状況で、頭が混乱している。相変わらず、周りで、ドアが強引に蹴り倒される音がそこら中から響いている。段々ここに近づいてくる。もう時間がない!
「この力は……正しい『力』……悪魔性を欠く……世界で、恐らくは、最早唯一の……誰かが……継がなければ、ならない……」
「……ちょっと、待って下さいよ――それって、どういう――」
頭でも打ったのか? いや、でも、さっきあたしの本当の名前を呼んだのは偶然じゃない。えっ――えっ――どういうこと? まさか……
「周りは、それに気付けない……」
あたしの言葉を無視して、黄金色の目でじっとあたしを食い入るようにして見つめながら、おばあさんはなおも続けた。
「彼らの場合は気付き得ない……あなたは悪魔と蔑まれるかもしれない……深い絶望の海に浸って、永久の果てまで、戦い続けることになるかもしれない……それは、とっても、辛いこと……」
「ねぇ、あの、何を――」
「だけれどこれは、必要なこと……絶ってはならない、宿命の連鎖……友を捨て……愛する者を捨て……人間性すらも捨て……それでもなお、あなたが、世界を振り切ってでも、信じる道を歩むなら……全てを『正す』のであれば……地上で『生』を望むなら……」
彼女の全身はガクガクと震えていた。黄金色の目が、あたしを捉えて離さない。
「あなたの力は、いつの日か――世界を変えることになる」
「おいお前ら!」
あたしたちのいる倉庫のすぐ前で男の声がした。
「残ってるの、後はここの一つだけだぜ。つくづく運悪ぃが、こん中にゃあ確実にあの女がいる! 心してかかるぞ。集まれ!」
あたしは血の気が引いた。もう開けられてしまう。殺される。
「早く!」
おばあさんが叫んだ。
「早く決めなさい! 逃げてもそれは『罪』じゃない! 最後の力を使えば、私はあなたを逃がすことができる! その道もあなたには残されている!」
「えっ――でも――」
「あなた自身の運命は、あなた自身の宿命は、あなた自身が決めること! さぁ! 早く決めなさい!」
「そんな――あたしは――」
あたしは全身が震えていた。男達が集まってくる音が聞こえる。
「でも――だって……あたし――」
その瞬間、腐りかかった木製の扉が蹴り飛ばされ、吹っ飛んだ。倉庫に踏み込んだ男が、あたしたちを見つけた。
「さぁ! もう逃げられねぇぜお嬢ちゃん!」
男が叫んだ。そいつに続いて、残りの奴らもどんどんぞろぞろと入ってくる。下品な笑いを上げて、あたしたちを見ている。
「そのババァをおとなしくこっちに渡せ! テメェの命だけは、助けてやるかも……しれねぇぜ!?」
でも最早、目の前の敵ですら、あたしの頭からは追い出されていた。あたしの思考が、これまでになく忙しなく回転する。おばあさんの話が、あたしの中で渦を巻いている。あたしは、彼女の正体に、やっと気付いていた。ここまでくれば、きっと誰にだって分かる。
そしてもしそうであるならば、これはあたしの、世界への反逆ということになる。今までこの小さな体の内側で留まっていた様々な思いが、それを強く願っていた。あたしの心の内側で、この忌々しい理性の鎖から解き放てと、それは激しく暴れまわっていた。でも逆にだからこそしたくない。どうなんだ? あたしは、どういう道を歩めばいいんだ!?
生きるためだとか、死にたくないからだとか、そんな概念はあたしには分からない。ともかく決断が必要だ――今までにない決断が。決意だとか、やる気だとか、そういう言葉じゃ済ませられないような判断力。妙な実感があった――今あたしがどう答えるかで、あたし自身だけじゃない、世界の運命そのものが変わってしまうような気がした。
でも、一つだけ確かなことがあったとすれば、
――あたしは、世界に、変わって欲しかった。
そして全ては決まってしまった。おばあさんの手を、がっしりと掴んだ。
「私は――」
声を大にして叫んだ。
「『手にする』!」
おばあさんの目が、カッと見開かれる。必死の形相で、あたしの手に力強く掴みかかる。まるで全身を凄まじい電流が駆け巡るような感覚が迸り、あたしは悲鳴を上げた。
瞬間、あたしの目の前から、何もかもが消え去った。男達も、倉庫の壁も、雨の音も、全て消えた。視界が虹色に変わり、歪み、伸び、縮み、回転し、螺旋状に捻じ曲がった。
白熱する光が世界を覆った。それが夜の闇に飲み込まれた。あたしは、あたしの魂は、明るいとも暗いとも分からない、迸るエネルギーの海の中を、駆け抜けるようにして疾走していた。世界の全てが見渡せた。どこまでも続く深緑の森林が、雷鳴と荒れ狂う大海原が、忘却の風化に晒された、砂漠の中の石造りの大帝国の廃墟が、世界が、あたしの目の前の時空を、爆発的に突きぬけて行った。先に眩い何かが見える。あたしの未来を切り開く光。手を精一杯伸ばし、閃光の膜を突き破り、それをこの手で掴み取り――。
そして、ハッとしたその瞬間、あたしはそこに戻っていた。
あたしの前にいたおばあさんの目は、いつの間にか虚ろになっていた。内側の光は消え失せていた。見る見るうちに、その皮膚が内側にめり込んでいった。ぶしゃっ、と、嫌な音と共に、皮膚ごと、纏っていた黒いボロ切れごと、彼女の身体が潰れた。そのまま全体が崩れ落ちて、ただの灰の山となってしまった。あたしより長いぐらいの長さの杖だけが、支えを失って地面に落ちて、灰をあたりに撒き散らしながら、カランカラン、と、音を立てて転がった。
自らを見下ろした。ボロ切れを纏っていたはずなのに、今のあたしは違う。真っ黒なワンピースだ。こんなさらさらの綺麗な生地なんて、奴隷になってからのこの三年間、触ったことすらない。
頭に違和感があって、触ってみて気付いた。いつの間にかあたしは、先が曲がったとんがり帽子を被っていた。輪郭を指先で、注意深く撫でる。
それと、あたしの全身にあった、日頃の傷は――全て完全に消えている。痣も、傷も、何一つ無く、肌は驚く程すべすべだ。
静寂が、うるさく響いた。
「おい……見たか……今の」
「……なんだぁ、あのババァ……何をやりやがったぁ!」
あたしは男達を見た。彼らは皆、不安げに顔を見合わせている。あたしを見て――怯えている。
あたしにはその理由が分かっていた。もし事が、あたしの思った通りになっていたのであれば、彼らはあたしを恐れて当然だ。
でも。
ちょっと待って、と言いたくなった。だって。
あたし自身には、何も変わった感触が無いのだ。
この時、表面上の態度には極力出さないようにしていたが、内心あたしは凄まじく焦っていた。おかしい。絶対に、何かの間違いだ。力を与えられた、そのはずなのに。なのに、何も変わった感じがしない。
どういうことだ? おばあさんが何かでミスを犯したのか? あたしに素質が無かったのか? 一体どういうことなんだ……!?
「……待て……冷静に……なれッ!」
男の一人が叫んだ。
「おいお前ら、たとえそうだとしよう。だったら――コイツで事足りる!」
彼は胸元から何かを前に掲げた。ネックレスについた、よくある銀色の十字架だ。
最初、それがどうした、と思った。そんな物じゃ、人間だって倒せないのに。一体――
でも次の瞬間、あたしは、悲鳴を上げて、倒れ込んだ。
何、これ――。全身が焼けるように痛い。焼けるどころじゃない。火炙り? 皮膚が切り取られるよう? もう何も分からない。それほどに痛い。絶叫が止まらない。気絶してしまいそうなほどだ。五感すらまともに働かない。自分が、肌を掻き毟りながら、のたうち回っているのが、辛うじて分かった。
「ほらほらぁ、やっぱ効いてんじゃねぇか!」
浮かれた声が、自分の悲鳴に混じって、辛うじて耳に届いた。
「コイツぁ雑魚だぜ雑魚! 早いとこ持ってって終わりだ!」
「だな! さっさと殺しちまおうぜ!」
あたしは、痛みに悶えながら、自らの震える手を見つめていた。歯がガチガチと鳴っている。違う。こんなはずじゃない。こんなはずじゃない! チャンスが与えられたんだ。こんなどうしようもないあたしに。なのに、こんなの――嘘だ――!
何!? 十字架に弱い!? でもにしたって、こんなにも弱いの!? そんなのイヤだ。理不尽だ。神様なんて大っ嫌いだ。大嫌いだったから、こうしたのに。酷い。酷過ぎる。酷いよ――。
死にたくない。殺されたくない。あたしは、愛するシャルルの元に、絶対に生きて帰らないといけない。それだけがあたしを突き動かしていた。きっとそれに、何かが応えたのだろう――その時、ぐちゃぐちゃの視界の中に、何かがやけに目立って映り込んだ。偶然なのか必然なのかは分からないけれど、それは、おばあさんの残していった、あの包帯に包まれた杖だった。
半ば本能的に、あたしは――私は――それに、掴みかかった。
そしてその瞬間だった。
内側から弾けるようにして、杖を包んでいた包帯が爆散した。杖が一瞬、螺旋状の炎に包まれ、荒れ狂う火の粉の渦が、あたりに盛んに飛び散った。私はそれを勢いよく振り払い、杖を頭上に、高らかに掲げた。何もかも取り払われた、そのままの形での美しい杖が、その姿を遂に現した。
不思議な杖だ。木製には違いないが、表面が陶芸品のようにつるつるの何本かの枝が、見事に螺旋状にカーブして折り重なっているような形状だ。とても自然にできる物じゃない。そしてそれらが集結するようにして繋がった片側の先端は、私の顔と同じぐらい大きい、巨大な赤い水晶玉へと繋がっている。それの内側で、赤黒い小さな何かが、暴れるようにして激しく渦巻いていた。
途端に、視界が冴え渡る。五感が戻った――いや、単に戻ったってだけじゃない。以前よりよっぽどくっきりと、はっきりと、周りの世界が分かる気がした。力が漲る。全身から迸る。抑えきれない程のエネルギーが、内側で唸りをあげている。
目の前で、男達が慄いている。やっと気付いたんだ――私が何になったのか。十字架なんてもう通用しない。聖書? 聖水? きっと無意味だ。斧も、剣も、一般の武器だって同じような物だ。今の私に勝てる人間なんて、きっともうこの世には存在しない。
杖を振り上げた。大地が震え、私の心臓がそれと呼応するような感覚があった。世界が私に従った。
そして私は、杖を、逃げ惑う彼らに降り下げた。一気に解き放った。解き放ってしまった。ダムが決壊するように。全ての偽善者に対する私の憎しみが、初めて、物質世界で顕在化した。荒れ狂う濁流の如く。
そして気付くともう最早消し飛んでいた。彼ら、一人残らず、跡形もなく。粉々に砕け散った石の瓦礫の中に、私だけがただ一人、冷や汗に塗れて、息を切らして、上を向き、茫然自失で膝をついて、地面に崩れ込んでいた。片手には、私には大きすぎる、破壊の杖が握られていた。
心地よく冷たい、氷のような雨が、全身に容赦なく打ち付けていた。雷鳴が頭上で轟いていた。光が蒼穹を奔った。世界に背いた薄ら笑いが、私の顔に広がった。
私は、魔女になった。