第十八章
壁に描かれたメッセージは、次の通りだった。
K、お前がこれを読んでいるときには、恐らくあたしは既にサン=キリエルにいる。ってことはあたしは、サンドリーヌと戦っているだろう。つまりこういうことだ。
殺戮型魔方陣を用いて、お前に仕向けられた討伐部隊のメンバー全員を支配下に置いた(お前のペンダントには、あたしの放った魔術を防ぐ作用がついてるから、お前にだけはかからない筈だ)。詳細は割愛するが、お前の傷や、杭にかかってた高等封印術の作用は、あたしが白魔術で治したから心配するな。今からあたしはこいつらを率いて、サンドリーヌと戦おうと思う。
聞いてくれ、あたしたちはずっと騙されていた。詳細はよくわからないが、洗脳した魔女たちの記憶を紐解いた限り、あの召喚術式はどうも、今夜、それもサン=キリエルで行われるらしい。星が揃う時刻ってのはただの暗号で、意味としては丁度午前零時。それまでにケリをつける。絶対につけてみせる。
以前、あの時、酷いことを言って本当にすまなかった。後悔してもしきれない。あたしのことを嫌いになっても、それはもう仕方がないことだと思う。憎むなら、周りの人間でもなく、世界でもなく、あたし一人を憎んでほしい。
こんなことにあんたを巻き込みたくなかった。だからあたしは、自分の力だけで、この戦いを終わらせたい。あたしは勝つ。勝って全てを終わらせる。お前は来なくていい。もう、一旦、休め。
――ジネット・レッド・ベネット
読んだ時の衝撃――困惑――そして、決断。ジネットがなんでこんなことをしたのか、私にはよく分かった。分かり過ぎた。私は床に落ちたままの、シャルルの純銀製のナイフだけ拾い、サン=キリエルへと急いだ。彼女と共に戦うために。彼女の最後の頼みだけは、絶対に聞けなかったから。
でも。
遅かった――。
今、私の目の前に、サン=キリエルが広がっている。周りには十二鉄塔。直下には司教座聖堂。そして、今まさに打ち負かされ、吹っ飛んでゆく、あの力ないボロボロの身体――。
ジネットちゃん――!!
気づくと私は急降下していた。周りの魔女たちが一斉に攻撃を放つが、私の周りに防御膜が展開し、それを全てはじき返してゆく。やはりアストリッドのレベルでもなければ、今の私には攻撃が加えられない。少なくとも物量に負けることは無い!!
「ジネットちゃん!!」
私は地面に転がり込むようにしてジネットを抱え込み、そのまま悪魔の背中から飛び降り、降り立った。周りから攻撃が降り注いでくるが、どれもバリアーに反射されて、あらぬ方向へ爆散していった。ジネットの、左側が火傷でボロボロの顔を除き込む。
「ジネットちゃんっ!!」
「うぅ……」
ジネットがゆっくりと目を開け――ハッとした。
「……K……ッ……!! お前……あたしを、追って――」
「当たり前じゃない!!」
彼女を揺さぶった。涙がこぼれる。
「仲間なんでしょ。私達友達なんでしょ!! ジネットがなんて言おうと、何度それを否定しようと、私はそんなこと、聞く耳持ってあげないんだからね!! もう……元の関係に、戻ろうよ!! こんな変なこと、私もううんざりだよ!!」
「お前……ッ」
ジネットがぽかんとした。やがて、目を閉じ、ハハハハハ、と、力なく笑った。
「ごめんな……こんなんで。あぁ、素直に書いときゃよかったよ、ホントはお前にも助けに来て欲しかったって……ほんっとお前って、凄いよなぁ……あたしなんかとは、大違いだ……あたしなんか……お前の気持ちなんて、ろくに考えもしないで……勝手に、ああやって、あんたから逃げちまって……
あたし……単に怖かったんだよ、あんたのことが。どこまでもイイ奴で、どこまでもカッコよくて、本当に、白魔女の鏡みたいな奴で。あんたと一緒にいても迷惑かけるだけだと思ってた。あんたを歪めたくなかった……そのためにはあたしは存在しない方がいいって思ったんだ。だって正直あたし、自分って存在がこれ以上嫌いになったら、もう死んじまいそうな感じがしてさ……だからなのさ……全部。ごめんな……ほんと」
「そんな――」
私は泣き叫んだ。
「そんなことないよ!!」
「K、お前にゃあ分からないさ。きっと一生分からない」
ジネットの頬を涙が伝った。片腕でその涙をぬぐう。
「そりゃ、ホントはあたしだって、あんたと一緒になりたいさ……元の関係に戻りたいさ……一緒にまた笑って、転げまわって、無邪気に、ああやって、楽しく遊んで……もうあたし、あんたと一緒にいないと、胸がこんなにもズキズキ痛んで、堪らねぇんだよ……!!」
ジネットが嗚咽を漏らす。
「……なのに……なのに、さぁ……ハハハ……ほんっと馬鹿みてぇだよなぁ。……ったく、あたしゃとんだ屑野郎だよ。おまけにこんな、情けなく負けちまって……とことん、カッコ悪ぃよなぁ……」
「そんなことないって言ってるじゃないの!!」
私の横に、一際強力な爆発が襲い掛かった。またもバリアに受け止められこそしたが、徐々にヒビが入り始めている。けれどそんなこと気にしない。気に出来ない。
「私、ジネットのこと、大好きだよ。ジネットは優しくていい子だよ、私知ってるもん!!」
「……K……」
ジネットが瞬きをした。
「お前……」
「私、このペンダント通じて聞こえてたんだからね!!」
私はそれを持ち上げた。
「サンドリーヌに言ってたじゃない。『これ以上、あたしの大切な友達を傷つけさせはしない!!』だとか、なんか、カッコいいこと、沢山言ってたじゃない!! 私、すっごく嬉しかったんだよ!? 全部、聞こえてたんだからね!?」
「……」
ジネットは目をぱちくりさせた。
「……つけっぱなしに……しちまってた?」
「うん。だから全部聞こえてた」
泣きながら笑う。
「ジネットは単に、自分に嘘をついてるだけなんだよ。自分で言ってたじゃない、自分のこと客観的に見られないと、強い魔女にはなれないって。だったらもっと、自分のこと、前向きにだって捉えてみないと駄目だよ!! お師匠様超えるんでしょ!? 誰よりも強くなるんでしょ!? ジネットならできるよ!! 私、そう信じてるもん!!
……だから……一緒に、なろうよ。こんな喧嘩なんか……もう、やめようよ」
私は震える手を差し出した。ジネットの目の前に。
「戻ろう!!」
「……」
ジネットが目を見開いた。力なく、笑った。そして――その手を、がっしりと掴んだ。
その手から、白魔術が、ジネットの身体へと流れ込んでいった。ジネットがハッとするが、私は首を振った。痛みこそあれど……もう、気にはならない。
「全く……あんたにゃあ、参っちまうぜ」
「ジネットちゃん――!!」
「あぁ、そうだな……」
ジネットがゆっくりと起き上がった。目の前の結界は今にも壊れそうだ。ヒビが入りまくって、光が漏れて入ってきている。
「ハハ……じゃあ……こっからが、本番だ」
よろめきながらも、ジネットがゆっくりと起き上がっていく。片膝を立てて、震えながらも。
「今のあたしたちは……誰よりも強い。天を駆ける程に。夜空が降ってこようとも、この世から光が無くなろうとも、そうだそれこそ、何があっても、あたしたちゃあ、いつまでも、どこまでも最強だ。二人一緒なら、ぜってー、誰にも負けねー……」
彼女が目を見開いた。赤い炎が燃え盛る。
「行くぜ……K。あいつらぶち壊してやる」
一歩、踏み出す。
「だから、あんたと一緒に……」
力なく、にやけを浮かべる。
「もう一度……たた……」
何かが、その時、私の横で起こった。
ぷつりと何かが切れたような感覚があった。はっきりと。
ジネットの口が、開きかけた。
「か……」
ジネットが、何か、ふらついたように思えた。
私は、呆然とした。
そして、ジネットが――目の前の地面に、全ての力を失い、倒れこんだ。
ジネットの周りに、赤黒い血溜まりが、広がり始めた。
静かだった。
一切、何も、誰も、動かなかった。
「……え?」
私は目を瞬かせた。
「……ジネット、ちゃん……?」
ジネットは動かない。ぴくりとすらしない。
「ちょっと……」
膝の上で抱える。両目とも閉じている。はっとして心臓に手を当てる。
鼓動が――どんどん、小さく――。
ぞっとした。目の前に、過去の記憶、今までの全ての悪夢が、狂った芸術家が奏でる走馬灯のようにして駆け巡ってゆく。そうだ。そうだ。
これは、今まで、何度も体験してきたことだ。
鳥のさえずり。麦畑の中の、藁の小屋。病の床で、私の手をぎゅっと握りしめて、精一杯の笑顔を作っていたお母さん。その手の力が、段々と弱弱しくなっていった時にも――今と同じ物を感じた。
カモメの声。蒼く澄み渡った空、照りつける眩しい太陽。あの日、あの船の中、あの卑劣な男達と戦って、頭を後ろからかち割られたジョーゼフ。私に伸ばされかけた、震える手。床に見る見る広がっていった、毒々しい真っ赤の鮮血。最期の言葉。
あれらの時と同じ。
これほどに狂おしく、これほどに消えて欲しくない。まるで世界が崩壊していくかのような感覚。そう――自分の世界から、誰かが消える感覚。
「ジネットちゃん――」
顔を近づける。嫌――お願い――こんなの――
「ジネットちゃん!! ジネットちゃん!! ねぇ、起きてよ!! 起きてってば!! ジネットちゃん!! ジネットちゃん――ねぇ……」
何も返答が無い。ジネットはぐったりしたままだ。彼女自身の、血の海の中で。
「……っ……!!」
私は、震えながら、ゆっくりと後ろを向き直った。ひび割れまくった防御膜越し、目の前で、私を、ジネットをあざ笑っている、たくさんの黒魔女たち。そしてその中央に立つ彼女。私にははっきりと感じ取れた。彼女が一体何者なのか。
この魔女の放つオーラは、魔術探知に切り替えなくとも十分に分かる程の代物だ。物質世界にまではっきりと顕在化して放たれている、周りを侵食してゆく、虹色の巻き上がるエネルギー。その魔女がこちらを見上げ、にたりとした。異世界の光が内側で弾け回る、不気味な両目。荒れ狂い乱れる銀髪。この圧倒的な勝者の笑み。
嘗て、ジネットの真っ黒な記憶の中にちらついた、あの虹色の瞳の邪悪なる魔女。こいつこそがそうだ。この女が。こいつこそが。
――こいつこそが、全ての元凶。
サンドリーヌ・メロディだ。
最早我を忘れていた。私の内側で、なんだか分からない、真っ黒な魔物が爆裂して沸き起こったような感覚があった。杖を握る手に、力が駆け巡ってゆく。
「き……さ……まァァァァァッッッ!!」
私の足元から、漆黒のエネルギーが迸った。そうだ……リベリアの時と同じ。この圧倒的な絶望の感覚。全てを破壊しつくしてやりたくなる程の。
吹き荒れる暴風の中で、私の髪の毛が逆立ち、あたりに舞い狂った。口を開き、唸る――自分でも普通なら恐ろしいと思うような声。獣のような。魔物のような。化け物のような。でも今はそれですら構わない。
だが、敵は動じなかった。
「やめたまえよ、黒魔女K」
サンドリーヌ・メロディが囁いた。指先の血を舐め取る。
「もう遅い。始まるのだ」
その瞬間だった。
頭上で、凄まじい電撃音が迸った。釣られて上を見上げる。信じられなかった。なんだ、これは――。
サン=キリエル大聖堂を中心とする十二鉄塔のそれぞれの最上階から、魔方陣が展開された。そこから真っ赤な電撃が迸り、聖堂の丁度上空で終結する。そこから、何か内側から徐々に膨らんでいくようにして、何か球体が形作られていった。
三次元の魔方陣。
球体型の魔方陣だ。
それはまるで、天体のようにして、雄大にその場で回転していた。そこら中に、様々な言語の文字や紋章が幾何学的に組み込まれ、回りの鉄塔から送られてくる電撃に乗せた情報が、更にその上に連鎖的に覆いかぶさってゆく。どんどん膨張していく。こんなもの見たこと無い。というか、そもそも、考え付きもしなかった……!!
「召喚用の魔方陣は……内側に悪魔を封じ込める」
サンドリーヌが勝ち誇った様子で呟いた。
「元々十二鉄塔は、このために造られた物だよ……いつの日か大悪魔を、この地に招来せしむるために。本来、《色の無い悪魔》が召喚されれば、その際に発生する破壊のエネルギーは周辺一帯を焦土と化すが……ここでこうして、三次元立体内に召喚する分には、そのエネルギーは外部に漏れず、この十二鉄塔に分散される。そしてどの鉄塔にも、十分な魔術耐性が備わっている……私自身が発動した、悪魔召喚術による高等防御結界……こうして初めて、術者が死ぬことなく、《色の無い悪魔》が召喚できるのだ。そもそもこうでもしなければあれほどの悪魔を召喚することはできない。だからミカエリスが、その動力源たる魔女の灰をお前にやったと聞いたときには、本当に全て終わったかと思ったよ」
サンドリーヌが、冷ややかに微笑む。
「だがいや、全てこれでいいのだ。必要な灰は十分に揃った」
揃った――揃っただと……!? でも、一体どこから――ハッとした。
まさか――!!
ファミリーに所属する魔女……元は百人超いたという……それが今は、もう見た限り二十人といない。大半は、私や、ジネットとの戦いで死んでしまったんだ……としたら……だとしたら……!!
本来ならそれは、ただの手痛いミスの一言で済まされる。だがこうとなると。まさか、これは、全てわざと――!?
「ジネットは、元は知らなかった……お前も詳しくは知らなかったろう? 《色の無い悪魔》の召喚には、大量の魔女の灰、つまるところ供物が使われるのだということを」
サンドリーヌが囁いた。
「量産型の雑魚の灰など、幾らでもお前にくれてやろう。だが、誇り高き我が同胞達の亡骸は、そうはいかない……彼女たちは皆、私の統治する新世界の礎となる。彼女たちの犠牲を以て、今宵この場に、《色の無い悪魔》を顕現させる!!」
「させるかぁぁっ!!」
私は杖を前に振りかざした。まだだ、まだ時計ではあと十二分ある。十二分あれば終わらせられる!! なんとかして――コイツさえ、倒せば――
「やるか!! やるか黒魔女Kッ!! ここで終わらせるか!!」
サンドリーヌが両手を自らの前で交差させた。何やら複雑に指を絡め合わせ、横に片手をかざすと――その中から、真っ黒な炎が鉛直に噴き出し、死神のそれのような大鎌となった。
途端に、私のそれをも超える、悍ましい程にドス黒いエネルギーが、彼女の全身から噴き出した。あたり一面、地面も、建物の壁も、サン=キリエル聖堂も、その漆黒の蠢き荒れ狂う影に飲み込まれてゆく。周りの魔女たちが悲鳴を上げて逃げてゆく。こんなにも――こんなにも、魔力が顕在化してるのか!?
「お前は私に勝つことはできない」
サンドリーヌが、虹色に弾ける目をカッと見開いた。
「私の力はお前の想像を超えている。経験、実力、全てにおいて、お前の勝利が入り込める隙間などありはしない。私は文字通り名実ともに、世界最強の悪魔召喚術師なのだ。お前には何がある? たかが完全な黒魔女になって二十四時間すら経過していない若造が」
「――帰るべき場所がある!!」
私は杖を前に突きだした。そうだ――
「ここで終わってなんかいられない!! 私にはもう一度、会いたい人がいる!! 自らの野望の為に仲間を切り捨てる、あんたなんかとは違う!!」
「戯言を!! 切り捨てだと思うか、黒魔女K!!」
サンドリーヌの皮膚に徐々に亀裂が入り始め、間から虹色の光を発し始めた。あの目のそれと同じ異世界の光が、全身から溢れ出している。
「貴様には分かるまい!! 王座に座す苦悩など!! 帝王の宿命など!! 抗えぬ、避けられぬ、涙すら許されぬ!! 貴様にそれを!! この私の宿命を!! 一方的な独善性を以て、悪などと断ぜられて堪るものか!!」
「宿命!? 何それ、馬っ鹿馬鹿しい!! じゃああんた、仲間を犠牲にしてまでこんなことするのが、英雄的だの、必要悪だの、それで全部いいって思ってるわけなの!?」
私は食ってかかった。
「そんなのただの妥協、ただの諦め、ただのあんたのその王座への甘えだ!! それが宿命だなんてあり得ない、そんな酷い宿命があっていいわけがない!!」
「な――」
サンドリーヌの顔に動揺が走った。
「貴様――この――知ったような――」
そこら中の皮膚から、虹色の光が溢れ出している。
「知ったような口を――!!」
彼女が大鎌を振り上げた。破滅の波動が吹き荒れ、私は思わず吹っ飛ばされそうになった。必死に堪えるが、地面の上を、私の足が徐々に後ろに下がってゆく。
その時、感じた……そうだ……感じる!! はっきりと、絶望的に、堪らなく恐ろしく……!! この虹色に迸る身体の奥に――何かが準備されようとしている。この場で湧き上がろうとして、内側の魔力の奔流が暴れている。今すぐコイツをこの場で殺さないと、きっととんでもないことになる!!
もう堪えられそうにない。これ以上こいつの出方を窺っているわけにもいかない!! 私は歯を食いしばり、杖を振りかざした。そして、唱えた――
「漆黒の密猟区、舞踏会のワルツ!! 鏡の宮殿、鮮血のドレス!! 斬り刻めば影、吊るされれば吃驚!! 白馬の接吻を指先に受けよ!!
シャンデリアを落とせ!! カーペットに火を付けろ!! 客人は逃がすな、仮面の下処刑せよ!! 踊りは終わりだ、私も終わりだ!! 私の世界をぶち壊せ!! 私の中身を解き放て!!」
杖の先端が、眩いばかりに紅蓮の光を放ち、私の周りそこら中に、凄まじい勢いで光線が回転してゆく。大地が震え、水の面の如く揺らめき始める。物質の形が崩れてゆく。地面から、建物から、空中からでさえ、様々な形がどろりどろりと揺らめき出してくる――解放の瞬間を待ち望んで。
門が開こうとしている。はっきりと私には分かる。もう堪えられそうにない、決壊させるしかない――。
そして私は、あらん限りの声を張り上げて叫んだ。
「進・軍ッ!!」
形状が顕在化する。決壊した濁流の如く一斉に噴き出し、荒れ狂う海のようにして、その場に招来する。鍵爪、角、牙、棘、骨、剣、翼、四肢、節足、触手、舌、目玉。ありとあらゆる色、ありとあらゆる形、ありとあらゆる大きさの何千もの悪魔が、サン=キリエルの片側を覆い尽くし、狂乱し、吼え盛り、唸り、喚き、奇声を発しながら、一斉にサンドリーヌに襲い掛かった。
と――その瞬間、何か、世界の心臓の鼓動のような巨大な音、大地を揺るがす音が、私の耳に轟いた。ハッとして、目を見開く。この感覚――まさか――。
深く俯いた体勢のサンドリーヌが、その後ろに大鎌を構えている。彼女の周りの地面も、建物も、全て真っ黒に塗り潰されている。彼女から溢れ出す、ねっとりと濃い影のようなオーラによって。そして、それがゆっくりと、震え始めている。何かの前兆のように。表面が揺らぎ始めている。
――第二の門が開く。
進軍の時が来た。
全身を鳥肌が襲った。感じる――これだけを以てしても、恐ろしいと。悟る――これだけを以てしても、勝つことは不可能かもしれないと。どうしても、勝たないといけないというのにも拘わらず。都市全体を揺らす地響きが、いよいよ酷く、激しく、高まってゆく中、サンドリーヌ・メロディが、荒々しい息を吐き出し――俯いたまま、唱え始めた。
「汝凄惨の畏怖なるを知らず、悠久の刻と散らん。槍衾の驟雨に撃たれ、河を紅きに蒼ざめた馬と染め、贄を捧げ、鉄の処女と使人と嘆かん。祈れ、さらば我その饗宴にて具現し、眷属の音を刻まん。死人は朽ちぬものに蘇らされ、我ら皆眠り続けるにあらず。天蓋の下、万物は流転す、さればこれを汝への祝福と成さん。静寂の内にして星々を貪らん。世々よ平伏せよ、終局よ訪れん。氷結の門を開き、轟きて進軍せよ」
その時、世界が割れたかと思った。
遥か上空、天空に、打ち壊されたガラス窓のように、無数の亀裂が走った。隙間から虹色の光が溢れ出し、大地全土を照らす。
全てを塗り潰すような黒い影の津波が、街のもう片側、サンドリーヌが立つ側を完全に覆い尽くしていた。十二鉄塔を除き、建物は全て真っ黒に塗り潰され、幾何学的に整理された道も、家々も、皆飲み込まれてゆく。街が影に包まれた。そして、その中から――
溢れ出す。蠢き出す。私の率いる数をも超える程の、地獄の悪魔達の大軍。皆全て、全身を漆黒の影に塗り潰され、目や、口の中、一部の身体の穴からだけ、虹色の光がぎらめき出している。混乱の宴だ――ありとあらゆる生物を錬成し、合成し、影で覆い尽くしたかのように、大小様々、わけのわからないシルエットが、何千と溢れ出してくる。人型も、亜人型も、獣の形をした物も。壁から、屋根から、地面から、路地裏の闇の中から。耳が壊れそうになるほどの轟音が響き渡る――高低様々の悪魔の雄叫びによる、大地を揺るがす混声合唱だ。それと共に、化け物の波が、一斉に迫ってくる。《色の無い悪魔》の球体魔方陣の真下、広場の中央に。
両軍が、ぶつかり合う。
全方向で混沌が炸裂した。破壊と殺戮が拮抗し爆裂した。周り全ての空間が、魔力と暴力の嵐に飲み込まれ唸り狂う。
私は後ろを振り向いた。地面に倒れ、ぐったりとしている彼女。何匹かの悪魔に囲まれ、守られてこそいるが……
「ジネットちゃん――!!」
私は駆け寄った。私達二人の周りに、無数の悪魔が覆い被さり、盾となる。私はジネットを抱え込んだ。
本来ならば死んでいる。けれどこれなら、はっきりと分かる。ジネットはまだ死んでいない。僅かながら……本当に僅かながら、生き長らえている。というのも――
灰になっていない。
魔女は死んだら灰になる。そこに例外は無い。このジネットの身体がまだ、人間の形を留めている限り……例えどんなに幽かでも、それはまだ彼女に、生命力が残っていることを意味する。既に皮膚のところどころ、傷口の近くが、灰色に染まり始め、少しばかりの灰が零れ落ちているが……まだ完全に死んではいないはずだ!!
やってやる――!! 私は杖を横に投げ捨て、彼女の心臓の上に両手を重ねた。恐らくまた、あの痛みが、私に容赦なく襲い掛かることだろう。まるで水と油のような、黒魔女と白魔術との反発作用。だとしてもやってやる。私は仮に、ここまでの化け物に成り果てたのだとしても、この心だけは忘れない!!
――やめるんだ、クリスティアーナ!!
心の中に声がした。横に転がった杖の水晶玉の中で、あの胎児がぎゅるぎゅると回転し、蠢いている――私の方を向いて。これは……
――サムザリエル……ッ!!
――そんな奴は放っておけばいい!! もう死にかけだ、もう助からないよ!! 今の君は僕に抱かれ、僕を抱いている。しかも今の《地獄の進軍》に、殆どの魔力を使い果たしてしまった!! そんな君がこの少女を生かそうとしたら、君がどうなるか分かっているのかい!?
私は歯ぎしりをした。
――やっぱりあんたなんかにゃ分かんないわよね!!
――何だい、待って、君は、何を――
――うるさい!!
私は両手に力を込めた。呪文の言葉が口から流れ出す。途端に、電撃を喰らったような痛みが私の両腕を鋭く昇ってゆき、全身をバリバリと駆け巡った。仰け反り、思わず悲鳴を上げそうになるが、それを必死に堪え、歯を食いしばり、呪文を唱え続ける。
――こんな時に、君は何をやっているんだ!?
――周りの戦いに集中するんだ!!
――自分が死んでもいいのかい!?
――このままじゃ君の方が助からないよ!?
脳味噌の中に、あのうざったらしい声がいくらでも響いてくる。それを全て無視して、完全に遮断して、私はひたすら術式を唱え続ける。全身がやめろと喚いているが、そんな事にも耳は貸せない。何度か頭が真っ白に吹っ飛びかけるが、その度に使命を思い出し、そして続ける。痛みに顔を歪めた――私の両手から煙がくすぶり始めている。それでも続けないといけない。続けなければ、きっと、私の中の何かが、それこそ人間としての最後の砦が、ひび割れ、壊れて、砕け散ってしまう気がしたから。
ジネットの傷口の周りの灰色が、徐々に引いてゆく。段々とやっと、血色のいい肌に戻ってくる。私は力なく笑いを浮かべた。やった……なんとか、助けられそう――
後ろで爆音が轟いた。なおも呪文を続けるが、やはり振り返らずにはいられない。息を飲んだ――私の悪魔の大軍が、折角あんなに頑張って召喚したというのに、完全に圧倒されている。そこら中で、私の悪魔達が血祭りにあげられてゆく――真っ黒な化け物たちに食い千切られ、焼き殺され、踏み潰され、切断され。明らかにこのサンドリーヌの悪魔達、漆黒の影を纏ったような悪魔達の方が、一般的なそれより遥かに強力だ。勝ち目がない……サンドリーヌの言う通りだった……!!
――そんな女は放っておけ!!
サムザリエルが泣き叫んだ。
――そいつは見殺しにしろ!! そんな魔力があったら僕と一緒に使うんだ!! もどかしくてもどかしくて堪らないんだよ!! 僕がどんなに君を助けたくても、君がそれを願わなければ、僕は動けないんだ!!
答える余裕すらない。私はひたすら呪文を唱え続ける。ジネットが少し、口を開き、苦しげに呻いた。あとちょっとだ……あと、もう少しだけ……っ!!
私の身体のそこら中で、傷口が開き、血が流れ始めていた。私の頭の上からも血が垂れてきて、片目の視界が真っ赤に染まる。心臓が爆発しそうだ。呂律が上手く回らない……だとしても続ける。それでも続ける。続けないと!!
周りで様々な色の血飛沫が舞い、悪魔達の断末魔が響く。私はギュッと目を閉じて、ひたすらにジネットに集中した。お願い……うまくいって……生き延びて!!
何かを感じる……絶望的な疲労の果てに、それこそ、死神そのものの手招きを。理論上、魔女の魔力が完全に枯渇した時、その魔女は死に至る。普通の魔法の使い方をする分には、そんなことはあり得ないが、これは……この特殊条件下では……。
意識が朦朧としてくる。耳鳴りが酷い。感覚が崩れてゆき、もうわけもわからない。口だけがひたすらに動く。この願いを、どうか神様に届けてと――。
もう駄目――死にそう――はっきりと感じる……魔力残量が尽きてゆく……もう……もう、駄目――痛い――意識が――嫌だ――こんな、こんな、助けられずに、死ぬだなんて、そんな――
バッと顔を上げた。
私は、ぽかんとした。
何かが注入し終わったような感覚があった。瞬きをする。呪文が終わっている。終わらせたんじゃない――元の呪文がここまでなんだ。
恐る恐る、下を向いた。
ジネットの身体は、見た限りは元に戻っていた。先程までは、腹が破け、そこら中切り傷だらけでひどい状態だったが、今はそれらですらきちんと治っている。健全な魔力波動が、微弱でこそあれど、身体から渦巻いている。息を荒げながら、まだ余波が走ってくる激痛に耐えながら、私は力なく笑った。やった……なんとか、成功したんだ。この両手に伝わってくる、しっかりとした鼓動。ジネットの心音――
と、その時、私の周りの悪魔たちが一斉に爆散した。ハッとして後ろを振り返る。まさか――。
私の召喚したあの大量の悪魔たちは、一匹残らず殺されてしまっていた。丁度最後の一匹、腕や顔の位置がちぐはぐの人間のような奴が、全身を無数の真っ黒な槍に串刺しにされて、消し炭のようなエネルギーの残骸にボロボロと変わってゆくところだった。サンドリーヌ――魔力を消耗しているからか、それともただ単に本気の状態ではなくなったからか、もう虹色の光は目だけに収まっている――の周りには、数こそ相当減ったが、まだ何百体もの悪魔が控えている。
嫌な予感がした。時計を見上げる――
あと、ほんの一、二分ぐらいだ……!!
サンドリーヌが、ぞっとする程に冷たい笑みを浮かべた。それ単体で、人を一人殺せるような笑み。私はそれを見て、ハッとして、攻撃に備えようとした、が、次の瞬間――彼女の姿が揺らめき、突如ぷつりと消えた。困惑し、周りを見渡そうとし――悲鳴を上げた。突如私の後ろに、一回転するようにして現れたサンドリーヌが、腕を回し、私の首に強く掴みかかり、ぐるりと向きを変えながら、私を上へ上へと持ち上げていった。息が出来なくて、苦しくて、叫ぶことすらできない。首を必死に掻き毟ろうとするが、サンドリーヌの握る力が強すぎて、何の意味も成さない。
「残念だったなぁ、黒魔女K」
サンドリーヌが艶めかしい舌舐めずりをして、虹色の目を見開いた。
「私の勝ちだ」
「がっ……ぅご……ぁぁっ」
必死に、サンドリーヌの腕を、両の拳で弱弱しく叩く――けれど力が入らない、そしてサンドリーヌは、全くその力を緩めない。それどころか、なおも強まっていく――鋼鉄の万力のような力で、私の首を締め上げてくる。地獄の氷のように冷たい指が、きつく皮膚に食い込む。私の口の端に、泡が滲み始める。
「ご立派な志さえあれば勝てるとでも思ったか? 自惚れるなよ小娘。お前は英雄の器ではない」
サンドリーヌが首を傾ける。
「興味深いのは、あんな取るにも足らぬ雑魚に過ぎなかったお前が、どうやってこれほどの力を手にしたかだが――いや或いは、そうだな、お前がウェルティコディアの力を受け継いだというのならば……彼女自身、死した時点で、既に黒魔女になりかけていたのかもしれないなぁ」
私は、喉元が苦しくて、息が出来なくて、何も答えられない。視界に移るサンドリーヌの顔が、揺らめき、ぼやける。
「黒魔女には本来、継承能力は無い。だがあの発明の才を持つウェルティコディアのことなのだ、何をしてくるか分かった物ではない……もし私を止めることを第一に考えていたのならば、白魔女の愚かしいやり方を捨てて黒魔女となるのは、実に立派で合理的な策だったと言わざるを得ないだろう。尤も、あの謎の弱体化も、老化現象も、それの反動かも知れないが……まぁいい。過ぎたことだ。いずれにせよ最早、この世から白魔女は消えた」
私は必死に、杖に手を伸ばそうとした。なんとか――もし、あれさえ掴めれば……!!
「おっと危ない」
サンドリーヌが片足で杖を蹴飛ばした。杖がカラコロと音を立てて、私から遠ざかっていってしまった。
「そう言えばあれがお前の力の源だったようだな、黒魔女K。ウェルティコディアが長年白魔術と万魔術とに愛用していた杖が、どうしてこんなことに使えるようになったのか、はなはだ疑問だが……ん? 待てよ……なんだ……あれは……」
サンドリーヌが目を細めた。
「杖の中に、何か……いや……気のせいか」
私はハッとした。私にはこんなにもはっきりと見えるのに――サンドリーヌには、この水晶玉の中の胎児は見えないのか? おかしい……サンドリーヌには、見えないわけなんて……自分より上位の存在には、透明化能力は通用しない筈。まさか……
サンドリーヌより、強い……!?
「まぁいい。ほぅら、始まるぞ」
サンドリーヌが私の顔を、時計塔の方に向けた。
「最後にせめて、共に見物させてやろう。《色の無い悪魔》の召喚を。世界が私の物になる瞬間をな。来るぞ……感じるぞ、来るぞ……さぁ……もうすぐだ、来るのだ……」
彼女が舌を出した。
「来た」
その瞬間、頭上で物凄い轟音が轟いた。私は絶望に囚われて上を向いた。サンドリーヌが、吐息を漏らし、口が裂けたかのような笑みを浮かべる。十二鉄塔の時計の音が、ゴーン、ゴーン、ゴーン、と、重々しく鳴り響く。
球体魔方陣が、張り裂けんばかりの真っ赤なエネルギーを発していた。迸る電撃が、地面にも、そこら中の建物にも降り注ぐ。当たった建物は爆裂し吹っ飛んだ。地面の上を破壊の嵐が駆け抜けて行く。天空が張り裂け、見渡せる限りの夜空が全て、漆黒から塗り潰されて、雲も星も消え、放射状に、毒々しく燃え盛る真っ赤に染まっていった。
その真紅に染まった空一面に、呪文が描かれはじめた。象形が、幾何学模様が、そこら中に、真っ白な線で張り巡らされてゆく。そこから雷鳴が轟き、大地を揺らした。時計塔の音が響く。私はその光景が信じられなかった。これは……これは……!!
心臓の鼓動らしき物が、世界を揺るがし始めた。眩い赤い光を放つ球体魔方陣の中心に、何かが現れていくような、明確な、絶望的な感覚があった。決定的な何か。世界を終わらせられそうな程に恐ろしく膨大な、桁の想像すら付かないような魔力。
光が世界を張り裂けた。一瞬全てが、紅蓮の閃光に包まれた。そして、それが収まり――。
私は、顔を上げた。
瞬きをした。
何が起こったのか、まるで分からなかった。
球体魔方陣が相変わらず渦巻いている。けれど全て平静となり、音も止んでいた――十二鉄塔の時計だけを除き。ゴーン、ゴーン、ゴーン、と、三回だけ鳴ったかと思うと、ぴたりと止まった。そのまま、名残惜しげに、沈黙の余韻を残した。
私は呆然としていた。サンドリーヌもぽかんとしていた。二人とも頭上の、相変わらず静かに渦巻く球体魔方陣を見上げている。
中には、何もない。
「ば……」
サンドリーヌが目を瞬いた。
「馬鹿な……何が……一体……」
私も何も分からなかった。これは……
術式の、失敗……!?
質量が大きすぎたのか? 灰が、生贄が足りなかったのか? それとも何か、その他に、失敗する要因があったのか……? 私には分からない。サンドリーヌにすら分からなかっただろう。彼女の顔面は蒼白だった。全身がガタガタと震えている。
「あり得ない……」
彼女が震える声で囁いた。
「あり得ない……これは……何かの間違いだ!! すべてうまくいったはずなのに!! これは……違う!! ……あり得ない!!」
そのまま、更にその上を見上げる。相変わらず紅蓮の空。一面真っ赤に、一面の呪文や幾何学模様。術式が失敗したとしたら、何故、この空は……?
「貴様……」
サンドリーヌが震えながら私の方を向いた。目の中から虹色の光が、一段と激しく弾け回っている。
「なにか、したな……!!」
「ち、がっ――」
弁明しようとしたが、聞いいれられるわけもない。サンドリーヌがもう片手を横に振り出した。その中にドス黒いエネルギーが集合していく。迸るオーラだけではっきりと分かる――一瞬でどんな人間も、どんな魔女も吹き飛ばして消し炭にできるような、とんでもない攻撃だ。ましてや今の私なんぞ、ひとたまりもない。
サンドリーヌが、悪魔のような必死な形相に変わる。並んだナイフを思わせる歯が覗く。そして腕を振りかぶり、思いっきり、その暗黒の魔力弾を、私に、ぶち込もうとして――
サンドリーヌがハッとして、口を開けた。
瞬きをする。全身がびくりと、一回、大きく震える。
下を覗いた。
サンドリーヌの左胸に、ぽっかりとした穴が開いていた。
「な……に……?」
サンドリーヌはぽかんとしていた。手の中のエネルギーが、渦巻きながら小さくなってゆき、やがて消えた。私を握る手の力がやっと、一気に、くらりと弱まり、私はそのまま地面に倒れ込んだ。焼けるような喉を抑え、ゲホゲホと咳き込む。ひとまずは助かったらしい。でも、一体、何が――
サンドリーヌは、そのままの姿勢で呆然としていた。右腕も、私の首を掴んでいた位置のまま、身体の向きすらも変えず。だが、やがてその驚きの表情が、以前通りの余裕めいた冷ややかな笑みに変わった。
「あぁ、いやなぁんだ、ジネットか。そう言えば先程回復を受けていたな。ならば問題ない、再生する。全く……一瞬本当に何かと……」
彼女は後ろを振り向いた。
そして、その目が、再び驚愕に見開かれた。
私の顔には、思わず、喜びで笑顔が広がった――ジネットが意識を取り戻したのだ!! 震えながら、何かを振り払うように、呻きながら首を振りながらも、半分起き上がりかけている――が、明らかにまだ動ける状態、ましてや魔法攻撃を放てるような状態ではない。攻撃を放ったのは、彼女ではなかった。では、誰が――
私はぞっとした。
ジネットではないのだ。彼だったのだ。ジネットの横に立っている『彼』。サンドリーヌに向けて攻撃的な片手を向け、氷のように冷たい目で彼女を見つめている、彼こそが――。
黒を金で縁取った、指揮官の軍服のような装い。白皙の肌、真っ赤な目。艶めいた、黒い髪。シャルルと瓜二つの少年。この独特の、貴族的な佇まい。不思議な色気――。私の全身を鳥肌が襲った。こいつは――
サムザリエル――!!
えっ――でも、待って――なんだこれ!? 嘘だ、あり得ない!! 今までとはわけが違う。だってこの世界なんだ!! ここは私の精神空間じゃない、だとしたら、どういうことだ、どうして、いや、どうやって実体化できている!? 何が起こってる、わけがわからない、どうして、えっ、
まさか――。
「……貴……様……」
サンドリーヌは呆然としていた。その口元から血が垂れ出した。自らの左胸の大穴に手を添えるが、再生する気配がない。それどころかそこから、どんどん、穴が広がっていく。地面に、さらさらと、灰が流れ落ちてゆく――。
「馬鹿な……こんな……ことが……ッ」
「クリスティアーナに手を出す者は」
サムザリエルが唸った。目を細める。
「僕が……このサムザリエルが絶対に許さない。誰が貴様なんかの元についてやるもんか。貴様は何度死んでも、その罪を赦されないだろう」
「……ヒヒヒヒヒ」
サンドリーヌの顔に、引きつった笑みが浮かんだ。けれど、今までの、あの冷ややかなせせら笑いとは違う――恐怖と、諦めとに満ちた、絶望の笑い。絶対的な、不可逆的な死刑宣告を受け、もうどうしようもなくなっておかしくなった、そんな笑み。
「アハハハハ……アーッハッハッハッハッハ……!! あぁ……そうか、そういうことか……成程な……ハハ……そこまでして貴様は、私に邪魔立てするか……死してなお今にして、我が野望を食い止めるか……!! 我が愛しの恩師匠……白魔女、ヴェロニック・ウェルティコディア……!!」
爛々と輝くサンドリーヌの目とは対照的に、サムザリエルの目は冷たかった。相変わらず彼女を、凍結した憎悪を以て見つめている。
「理解したぞ……」
サンドリーヌが笑う。
「私はまんまとしてやられたわけだ……出し切り抜いたか……私を……だが……当てが外れたのは、私だけじゃなかろう? その黒魔女『K』に、果たして……お前は全てを託して、正解だったのかな……? 災厄の座が、入れ替わるだけではないのかな……? あぁ、思ったよりかはいいかもしれない……お相子といったところだ。どちらも互いの目的を、達成は出来なかった。二人とも、負けたのだから……」
その時、唐突に、サンドリーヌの左手が灰となって爆散した。地面に、雨のように降り注ぐ。
「ははは……もう、こんなところか……」
悲しい目だった。黒魔女と思えぬほどに、優しい目だった。見る見るうちに、身体のそこら中が、服ごと灰色に染まっていく。死神に侵食されてゆく。
「これで終わりなのか……私は……こんなにも、こんなにも呆気ない物なのか……『宿命』……最後まで……抜け出すことができなかった……なんと愚かしい……ことか……」
彼女の頬を、一筋の涙が伝った。
「アストリッド……皆の者……すまない……今になって後悔するよ。地獄の底で待っていてくれ。私もお詫びにそちらへ行くよ。何、心配することも無い……一人ぼっちじゃあない」
首元まで灰に覆われはじめた。彼女が目を閉じて、囁いた。
「全世界が滅び去り……我々に続くのだから」
彼女の全身が、灰となって爆散した。私の目の前で宙を舞い、消えていった。にわかには信じられなかった。
あたりの、真っ黒い影のような悪魔達が、一斉に呻きながら消滅していった。更に、あの十二鉄塔――全て、そのまま下に吸い込まれてゆくようにして、地面の中へと沈んでいった。防御結界の発動者がいなくなり、術式の効力が切れたことで、建物が支えきれなくなってしまったのだろう。後には何も残されない。沈黙が流れた。
サンドリーヌ・メロディは、死んだ。
私の目の前で、こうして、灰となって消え失せた。
……でも。
危険は、去っちゃいない。
それどころか……これって――。
サムザリエルが、やっと手を降ろした。そして私の顔を、じっと見つめた。そっと笑う。
「やっと、ここで会えたね。やっと肉体を手に入れた」
私はどうすればいいのか分からなかった。コイツは……コイツは――
「僕は君のことが、誰よりも大好きだ」
サムザリエルが、夢見心地で囁いた。
「心の底から愛しているよ。でも君は駄目だ、見ていて不憫だ、周りのことを気に留めすぎるんだ。白魔女じゃなくなったんだから、僕が君を白魔女じゃあなくしてあげたんだから、素直に本能を受け入れればいいのに。僕が君に、最高の宿命を用意してあげたのに」
「嫌だ……」
私は首を振った。
「来るな!! 化け物!! 悪魔――」
サムザリエルが歩いてくる。最初はごく普通の速さだが、だんだん早足になってくる。私は首を振った。嫌、と、小さく呟こうとした。けれど身体が動かない、逃げることができない、嫌だ、誰か助けて、私の全てが奪われてゆkkkkkkkk
サムザリエルが、私を強引に抱き寄せた。私の唇に、艶めかしいキスをした。
私は目を見開いた。漆黒のエネルギーが迸り、私の全身を包み込み、辺り四方に爆散した。泣き叫ぼうとするけれど泣き叫べない。涙が滲んで溢れ出す。サムザリエルが私の舌にしゃぶりついてくる。内側で掻き回してくる!! 必死に唇を離そうとするが、抱き寄せる腕の力が強すぎるし、そもそも私の身体自体が思い通りに動かない。怖い――やめて!! こんなの嫌だ、違う、私の求めてた物なんかじゃない、私の求めてた未来じゃない!! こんなもの、こんな行為の強制、ただの、あの、三年前の悪夢と同じ――!!
サムザリエルが、私の股の間に手を添える。思わず顔を赤らめてびくつく。首を振ろうとするけれど、しっかりと固定されて動けない。サムザリエルが私をなぞる。
「僕は今宵、君から産まれてきたんだ」
サムザリエルは、私から口を離して囁いた。相変わらず私を抱き寄せて固定したまま。うっとりと赤面している。唇の、二人の混ざった唾液を、夢見心地でなぞり、指を離し、指と唇との間に、糸のように垂らす。
「本当に幸せだよ……君が僕を産んでくれたんだ!! だから僕は君に無償の愛を届けるよ。絶対に幸せにしてみせる。だって、君も僕のことを愛しているんでしょ? そう言ってくれたよね!!」
「……ぁ…だぁっ」
嫌だという言葉を口に出すことができない。まるで私の行動が制限されているかのように。恐ろしい……怖い……強制される――誰か、助けて――
「ぁ……だぁぁっ!!」
「悲しいこと言わないでよ!! すぐに理解できるから。だから、僕と契約してよ。最後の約束を結ぼうよ」
サムザリエルが、私の頬を優しく撫でて、ぷにぷにと触る。お人形をもてあそぶように。自分の大好きなおもちゃを愛玩するように。歪んだ愛情。これしか知らないんだ。
「ずっと求めてきたんでしょ? 僕の力を。ずっと創りたかったんでしょ!! 理想とする世界を。ずっと殺したかったんでしょ……憎んできたんでしょ……天上に座す神様そのものを!! だったら僕と一緒になろうよ!!」
私は違うと叫びたかった。もうそんなことはないんだって、今で何もかも幸せなんだって!! 以前の自らの愚かしさに、やっと今になって気付いたんだって!!
シャルルのお蔭で、やっと真実を悟れたんだ。もうこの戦いが終わったら、本当は白魔女に戻るつもりだったんだ!! そんなことがもし可能なら、許されるなら、罪を償うためにもう一度、今度は自分の力で戦おうと思ったんだ!! 今度は自分のためじゃない、自分の信じる、新しい正義の為に。白魔女の誇りの為に。世界の為に!! 私の愛しのシャルルの為に、もっと清く正しい形で、今度こそ戦いたいと思ったのに!! なのに、酷いよ!! こんなの、酷過ぎるよ――!!
「君が僕に、色を与えてくれた。だから今度は、この僕が!!」
サムザリエルが私の頬っぺたに両手で掴みかかった。狂った愛に満ちた笑みを浮かべて。
「世界を!! 君色に染めてあげるよ!!」
がぶりつくようにキスをする。何かが私の内側に入っていく。私を内側から貪っていく。私の身体も、精神も、内側から残酷に犯していく――今度こそもう駄目、もう耐えきれない、堪えきれない、負ける、私の全てが、身体だけじゃない、精神までも、完全に闇に染まる――。
最後に一回だけ、どこからか、私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
――クリスティアーナ!!
ジネット、ちゃん――!!
意識が混濁に飲み込まれる。精神の絶叫が甲高く響き渡る。暗闇の中で回転し、振り回され、上下も左右も分からず、墜ちていくのか飛んでいくのかすらも理解できずに、狂いそうな激痛の中で絶え間なくもがき苦しむ。手を伸ばそうにも、最早手がない。叫びたくとも口が無い。涙を流せる両目も消えて、思考を有する、脳すらも無い――。
今になってやっと分かる、なんて私は馬鹿だったんだろう。どうして黒魔女になろうだなんて、シャルルを守るためならそれが正当化されるだなんて、こんなにも愚かしくも思ってしまったんだろう。そうだどうして、最初のことから、なんで神様を憎んだりなんかしたんだろう!!
そんなせいでこの様だ。そのせいでこんな奴と出会った!! こんな悪魔に、文字通りの悪魔に、こんなことをされる破目になってしまった!!
サンドリーヌ・メロディが《色の無い悪魔》の召喚に失敗したのは、別に召喚術式に不備があったからじゃなかった。だってそもそも、召喚しようとしている対象が既に地上に召喚されているんだから、最初っから召喚できるわけがないんだ!! 私の中で、ずっと私を呼び続けていたこの声。杖の中の赤黒い胎児。今朝の、私の、乙女の血。サムザリエルという名前。シャルルと瓜二つの少年なのは、私の欲望を映す鏡だから。いや、正確に言うとシャルルとは少し違う。でもなんでかって言ったら……このサムザリエルの顔は……私がイメージした、シャルルと私との間にできた子供の姿だからだ!!
全て同じものを意味する。全て同じ、恐ろしい、禍々しい存在を指し示す。絶望の名前。終焉を呼ぶ名前。全てを忘却の彼方へと消し飛ばし、世界そのものを終局させて、私の偽りの楽園を、顕現させてしまうであろう名前!!
サムザリエルこそが、《色の無い悪魔》だったんだ!!




