第十七章
人里の灯りを遥かに離れ、山脈を渡り、渓谷を超え、静かにざわめく密林を抜けた先、その住居は黒々と深い暗闇の中にひっそりと佇んでいる。幾何学的に整理されて四方に広がった、石造りの建造物。どこか異世界的な芸術性を醸し出すその建物は、世界最強と畏れられる魔女の一人の住処であった。
『東の森の魔女』――ヴェロニック・ウェルティコディア。
しかし、彼女の真の姿――災厄の御使いではなく、むしろそれを葬る側の存在としての正体――のことを知る者は少なく、
まして、彼女が新しく迎え入れた、特殊な事情を抱えた弟子のことを知る者など、いないに等しかった。
「……ンだよ、それ――わけわかんねぇよ」
少女が苦々しく吐き捨てる。
「勝てばいいんだろ、勝てば……! あいつ等ぶっ殺すのがあたしらの役目なんだろ!? あたしみてぇなのが完璧主義貫こうって思ったって、どうせ無理に決まってんだよ! 自分が強いからって、あたしにまで何もかも押しつけやがって……黙ってねぇで答えろよ! 白魔女!」
暖炉室の暗がり、壁にかかったベルベットのカーテンに、二人の影が躍る。パチパチと弾ける薪の音。息を切らした少女の、苛立った唸り声。ソファーに座り、膝に重厚な本を置いた、すらりと美しい女性が、そっと微笑む。本を横に置き、顔にかかった髪を細長い指で横にかきあげ、長い睫毛を吊り上げた。
瞳に宿る光は、存外に優しく、暖かい。
眼を怒らせ、何か言おうとしていた少女が、ふと表情を変えて口をつぐんだ。
「――あなたは、間違ってなんかないわ」
女性が少女に、母親のような声で語りかける。
「心配しないで。私は、あなたを否定するつもりなんて無い。あなたは、何も悪くないわ」
「――は――?」
少女が口をぽかんと開けた。拍子抜けと言った様子だった。
「おい――でも――」
「確かに、あなたの言う通り」
女性が続ける。彼女はソファーから下りて、カーペットの上で膝をついている少女の前にしゃがみ込んだ。
「あなたの戦い方は効率的だし、今のあなたの実力から言って、一番手っ取り早く、安全に敵を倒せる方法でもあると思う。なんとしてでも、黒魔女を倒そうとするその信念。あなたの悪を憎む心は、きっと、とても強いんだと思う。それは立派な事」
「……なんだよ……皮肉のつもりかよ」
少女が、尖った歯をギリギリと食いしばる。
「どうしてあたしを善人扱いする……!」
「そんなこと言ったって。根っからの悪人だったら、最初から救ってないわ。あなたは、ただ単に環境が……」
「あの時に殺してくれたら、こんな悩まずに済んだのに!」
「今は辛くても、あなたはきっと変われる。私はあなたを信じてる」
「どうして!」
少女が、自らの前髪をくしゃくしゃに掻き回す。
「あんただって知ってんだろ。そんなんじゃないんだよ! あたしは……あたしは……世界が守りたいなんてわけじゃない。そこらへんの奴のことなんて心底どうだっていい。黒魔女が暴れようが人がそれで死のうが、そんなのあたしにとってはどうでもいいんだよ。ただ単に――」
顔を覆う指の間から、真っ赤に晴れた、涙の溜まった目を覗かせる。
「苛つくんだよ。自分のことが嫌いで嫌いでしょうがないんだ。自分が昔ああやってたんだって考えるだけでぞっとする。それが嫌だから戦うだけだ。昔の自分を……いや、ひょっとするとそうだ、今の自分だって……そいつらに重ね合わせて……ナイフでずたずたに引き裂いちまう時は、なんか堪らなく心地いいんだ。悪が憎いつっても、あたしが憎いのは黒魔女たちじゃない。あんなことしでかしてのうのうと生きている、最低最悪の『自分』自身が嫌いなんだ。ひでぇだろ、あたし……? 白魔女なんかにゃあ、元から向いてないだろ。それでも……それでも、見捨てないのか? どうしてだよ!?」
女性は何も答えなかった。どこか悲しげな、深い眼で、少女を見つめている。
「……自分自身を追い込めば、丁度いい贖罪になったつもりでいられる」
女性の前に崩れ込み、うずくまったまま、少女が呻く。
「昔の自分みてぇな連中を切り刻めば、それに勝ったような気に勝手になれる。そうやって自分のこと覆い隠して、なるべく素顔を見ないようにしてる。まだあの頃から変わってないって考えるのが怖いんだ。黒魔女のままでいたくないんだ。……なのに」
少女が、顔を両手で覆ったまま首を振る。
「そうだよ。そうだよ馬鹿! うざってぇけど、きっとあんたの言う通りなんだ。あたしには分からない。変わりたいのに、早くあんたみたいになりたいのに、どうすれば変われるのか分からない。かと言って『どうすれば立派な白魔女になれるんですか』って聞いたら、それはまるで自分を生かそうとしてるみたいで……こんな罪深い自分なのに、いっちょまえに前向きになろうとしてるみたいで……自嘲的な自尊心に、傷がつくような気がして」
女性は、やはり、答えなかった。黙って、頷いて、聞いていた。
「……お願いだ」
少女が、震える手を差し出した。
「お願いだ、白魔女。どんなことでも聞くからさぁ。なんでもするから……
私を救ってくれ」
暖炉室の中に、弾ける沈黙が立ち込めていた。
パチ、パチと、横の暖炉の火花が飛ぶ以外は、完全な静寂が訪れている。
女性が、手を伸ばした。
そうして、少女が前に出した、凍えるように冷たい手を、抱擁するようにして包み込んだ。
「……もっと早く」
ウェルティコディアが囁いた。
「もっと早く、気付いてあげるべきだったわ」
そのまま、腕の横を滑らせるようにして、少女の震える肩に手を回した。骨の形が浮き出した、古傷だらけの肩。少女が、涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げた。ウェルティコディアが、悲しみの色を浮かべた目で、それを見つめ返す。
ウェルティコディアが、唇を噛み、腕を回し、少女のか細い身体を抱きしめた。少女はどこか呆然とした表情で、空を見つめている。
「……そうよね。分からないのよね」
ウェルティコディアが、涙ながらに頷いた。
「私が悪かったの。ごめんなさい。白魔女みたいになりたくたって……なれない人もいるのよね。今まで、ずっと、辛かったでしょ……? あんな風に、黒魔女みたいにならないと……生きていかなかったんでしょう……?」
少女が、何か、口を開きかけた。それまで何度となく周りに聞かせられてきたこと、偽善者達の言葉が紡いできた虚ろな束縛が、全て脆く崩れ去ってゆく明確な感覚があった。自分がどうして苦しんでいるのか、やっと理解できた。
「心配しないで。私があなたを守ってあげる」
ウェルティコディアが、少女の肩に顎を埋めた。
「私があなたを救ってあげる。辛くなったら、分からなくなったら、すぐに私に言ってちょうだい。私がなんとかしてあげるから。あなたに、私が信じてる道を、せめて教えてあげるから。あなたが、一人で苦しむことが無いように」
「……っ……あたし」
少女が、声を絞り出す。
「ここにずっといれば……自分のこと……嫌いじゃなく、なれるのかな」
「きっと、好きになれるわ」
ウェルティコディアが頷く。
「……いつか、きっと変われる。あたしがあなたのそばにいる」
「でも……それだって。あんたがいなくなったら……きっとまた、道を踏み外しちゃう気がする。言ってたじゃんか……白魔女は、いつ死ぬか分からないって……そうなったら……一人ぼっちで……あたしどうするんだよ」
「大丈夫よ。あなたはいい子。救われたいんだもの。どんなことがあっても、一度は闇に落ちても……心の底から救われたい人は、最後の最後には、きっと変われる」
ウェルティコディアが、少女の肩を叩く。
「……ホット・チョコレートでも、飲みましょう?」
少女は、震えながら頷いた。ウェルティコディアの、包み込んでくれるような暖かさが愛おしかった。それは、遠い昔に失った、愛する人たちのこと、もう二度と戻らないと思っていた安らかな過去の記憶を、思い起こさせてくれた。
運命が、魔女たちを引き寄せる。
ヴェロニック・ウェルティコディアという一人の女を中心として、彼女が産んだ白魔女と、彼女が産んだ黒魔女と。彼女が望みを託した後継と、彼女に託した望みを裏切られ、袂を分かった宿敵と。正反対の道を辿れど、二人の本質は変わらない。だが、その二人は所詮、分かり合うことなど永遠に出来はしない。二人が知るウェルティコディアの姿は、あまりにも離れすぎている。
その乖離が、対立の火種となり、
やがては皮肉にも、その共通の師の名の元に、殺し合うことを宿命づけられている。
たった今、ジネットの目の前に、黒を統べる女が立っている。嘗て自らが主と呼んだ女。ジネットの内なる絶望を解き放ち、彼女の世界を破壊した女。いつかは戦わなければならないとは思っていたが、まさかこんな形で、こんなにも早く、その日が訪れてしまうとは。
最後の最後まで、ヴェロニック・ウェルティコディアは、この女を殺すことができなかった。それが実力故か、躊躇い故かは分からなかったが、いずれにせよただ一つ確かなことがあるとすれば、それは――白魔女としての誇りを、たとえその幽かな残滓だけでも背負う限りは、この女を打ち倒さなければならないということ。そうしなければ、永遠に、その先の未来に進むことは出来ないのだ。
全世界の悪魔召喚術師の頂点に君臨する女。
《色の無い悪魔》を巡る一連の事件、その首謀者にして黒幕。
黒魔女、サンドリーヌ・メロディ――。
ジネットは歯を食いしばった。汗が額を滴り落ちる。どうすれば良いのか分からない。いや――分かっていたはずだったのに、計画だなんて、全部無意味に崩れ落ちてしまった。こうして敵として対峙してみると、こいつはやはり、想像以上だ。計算の枠の外だ。
サンドリーヌは強すぎる――まともに戦っては、勝ちようがない。その瞬間既に、ジネットは悟った。ただただその場に存在するだけで、恐ろしい魔力のオーラがそこら中に噴き出し、辺りの物を侵食してゆくのだ。既に戦いで弱り切った魔女たちの中には、その場で失神して倒れる者もいた。ボロボロのジネットも、みるみるその力が、サンドリーヌの全身から溢れ出す瘴気に奪われていく感覚があった。血塗れの膝が、今にも崩れ落ちそうだ。立っているので、最早やっとだ。
あのフード自体が、そしてひょっとするとあの以前のヴェールも――二年前に出会ったあの日も、彼女は変わらずあの部屋にいた――自らの魔力を押さえつけるための物だったのかもしれないと、ジネットはふと思った。もしこんな奴が向き出しで存在している空間で長い間過ごしていたら、ただそれだけで大半の魔女は死に至ってしまうだろう。それ程に彼女は恐ろしい。
何せこの目だ――弾ける光を放つ両の眼。これは黒魔女としての進化の最終段階に達したことを指し示す現象、『裏光』だ。内側の悪魔的エネルギーがあまりにも強すぎて、物質世界に干渉し始める。最強の部類の黒魔女は、必ず、身体のどこからか、地獄の光が漏れているという――サンドリーヌもそうらしい。
二年前のジネットは、あまりにも未熟、あまりにも無知で、サンドリーヌの強さを正確に測ることすらできなかった。だが、経験を積み、知識を得た今になって、やっと彼女の強さが如何に規格外だったのか、自分はどれ程の化け物を前にしていたのか、やっとジネットにも理解できるようになった。
圧倒的実力差。蟻が巨人に挑むような物だ。心の奥底では、ジネットにも、そんなことは分かりきっていた。
だが、それでも。
退くわけには、いかない――。
「……っ」
ジネットは、一歩前に踏み出した。自らに「問題ない」とでも言い聞かせるかのように、無理やり、引きつった笑いを浮かべる。
「……久しぶりだな。サンドリーヌ・メロディ」
サンドリーヌ・メロディが、片眉を吊り上げる。さもおかしそうな様子だ。
「背がだいぶ伸びたな、ジネット」
そんなことをのらりくらりと言いながら、骨ばった首を傾け、せせら笑う。
「ジネット・レッド・ベネット。二年前のあの日から、お前のことを忘れたことなど一度もない。私の元を離れ、あの忌まわしきヴェロニック・ウェルティコディアへと流れた裏切り者……どちらつかずの半端者。私の唯一の失敗作」
彼女があたりを見回した。虹色の光を弾き出す両目が、景色の上を流れていく――傷だらけの魔女達。そこら中で爆散した灰の山。腕が切断された仲間の魔女を、泣き喚きながら、必死に回復させようとしている者。ひび割れだらけ、穴だらけの地面。砕かれた噴水や彫刻。半壊した商店。
「いやはや……お前の悪戯は、実に周りのことを考えないな」
サンドリーヌが囁いた。
「だが何故奴の側、あのヴェロニック・ウェルティコディアの側なんぞについた? あんなふざけた女に騙されるだなんて、お前らしくも無い。昔のお前はもっと分別があったぞ」
「黙れ! うるさい! あんたなんかに、お師匠様の何が分かる――」
「反抗期か、ジネット。全くお前は変わり過ぎてしまったな。私の知っているジネットは、とうの昔に死んでしまった。だが、あぁそうだな、こうしてみると、今のお前もまた別に醜くも可愛いよ」
自らの指先に、舌をなぞらせる。
「報われない健気さは、何時の時代も、人々の心を捉えて離さない。見ていて本当に美しい……だがそれでも理解はできない。何故そこまでして、この私、この黒魔女サンドリーヌ・メロディと戦うのか」
周りの魔女たちが、動揺し、互いの顔を見合わせはじめた。何かおかしい。サンドリーヌ様は――。
彼女は、アストリッドを失ったはず――それも、自らの手によって。なのに今のサンドリーヌには、それを嘆く様子が無い。まるで、そもそも、気にしていないかのように……
「……あんたを……止めるためだ」
ジネットは唸った。
「せめて、悪あがきだけでもいい――何としてでも、あんたの邪魔をするためだ。あんたは、絶対に、勝っちゃいけない存在だ。それを証明する必要が、あたしにはある」
「白魔女らしい理由だな。馬鹿だ。愚かだ。不細工だ。だがもしもそうならば、何が故に全力を出さないのだ? 何故可能な限りの最高戦力で、この私に直接挑もうとしないのだ? 何故――お前のあの友達は、お前と共にはいないのだ? あのお前の愛しのクリスティアーナは」
ジネットがハッとした。歯を食いしばり、叫ぶ。
「あんたにゃ――関係――ないだろ!」
「ハハハハハ」
風が舞い、サンドリーヌの髪が揺れた。
「健気だなぁ、ジネット。あぁそれでいいぞ、可愛いぞ愛くるしいぞ。お前にはとてもよくそそられる……ようするにそういうことだろう。ならばそれを壊してやろうか。《色の無い悪魔》を召喚して一番にすべきことを、私は今決定した」
「なんだと……?」
ジネットが眉をひそめた。
「あんた、一体何を――」
「最初に殺すのは、黒魔女K』だ」
ジネットは呆然とした。
「あいつもまたお前と同じだよ、ジネット」
サンドリーヌが悲しげに首を振った。
「いや本当にこの世には、少しこのファミリーの輪を抜けてしまえば馬鹿しかいないようだ。あのクリスティアーナ、あやつは愚かな女だ。正当化された殺戮行為に酔いしれる、ただの独りよがりな殺人鬼だ。『破壊の正当化』! 『自己愛と陶酔』! ヴェロニック・ウェルティコディアと同じ……元とは言えば、そのようなくだらん連中がいるから、こんな無意味な争いが起きるのだ。分からないか、ジネット? 奴らが如何に腐りきった偽善者であり、如何に何としてでも、この世から消し去らなければならないのか。
クリスティアーナは殺す。徹底的に殺し尽くす。そうすることによって私は、あの忌まわしきヴェロニック・ウェルティコディアの亡霊を、やっと私の中から――そしてこの世界の中からも――消し去ることができる。遂に」
「……ふざけんな」
サンドリーヌが片側の眉を吊り上げた。
「ふむ?」
「……ふざけんな……っ!」
ジネットの身体は震えていた。いや、彼女だけではない――まるで、大地その物が震えているようだった。地鳴りが低く響いている。地面のそこら中に落ちている瓦礫の破片が、カタカタと鳴り始めた。徐々に、ジネットの身体から、赤い糸の束のようなエネルギーが巻き上がり始め、サンドリーヌはわざとらしく口に手を当てて息を飲んだ。
ジネットの脚に、新しい力が漲る。全身から何かが湧きあがって迸る。彼女は息を荒げ、サンドリーヌを睨みつけ、そして、声を張り上げて、絶叫した。
魔力が、一気に、臨界点をぶち抜けた。ジネットの身体から、真っ赤なエネルギーが、全方向に、爆発的に駆け巡った――滾るように、ぎらめくように、迸り宙を駆ける。周りで髪が乱れ狂い、逆立ってはためいている。辺りの地面の瓦礫の破片が、空中に撒き上がっている。周りの十二鉄塔も、地面も、視界の全てが、その真っ赤なエネルギーに染まっている。
「あたしのことは……」
ジネットが荒々しい声で唸った。
「あたしのことは、どうだっていいよ………殺したっていい……痛みつけたっていい……どんな拷問にでもかけやがれ……だが……」
その目を見開く。内側で炎が燃え盛る。
「クリスティアーナへの侮辱だけは……あたしが絶対に許さない……これ以上、あいつを、あんなにも純粋でいい奴を、血に染めて汚させはしない……これ以上、あたしの大切な友達を、お前たちに傷つけさせはしない!」
「おや――不思議な心理だな。何かとお前は愉快だよ」
サンドリーヌがせせら笑う。
「今あのクリスティアーナの心を、最も深く傷つけているのは……果たして……」
唇がゆっくりと、いやにはっきりと動く。
「『だ』……『れ』……『か』……『な』……?」
「うがあああああああああああっ」
ジネットが蹴りだし、必死の形相で前に飛び出した。サンドリーヌが口笛を鳴らす。ジネットが腕を振るい、手の中から、燃え盛るナイフが何本も飛び出す。サンドリーヌが空中に飛びあがり、アクロバットのように身体を捻じらせ、全てを避けてから、華麗に着地する。
「いい気に――」
ジネットが拳を振りかぶる。紅蓮に燃えるエネルギーが、その周りで眩く弾け飛ぶ。
「なってんじゃ――ねぇぇえぇぇッ!」
右の拳を、続いて左を、ジネットが空中でぶん殴り出す。そこから巨大な炎の拳が相次いで爆裂し、二つとも一直線に、サンドリーヌに向かって吹っ飛んで行った。
「姑息な」
サンドリーヌが笑みをこぼした。身動きひとつせずに突っ立っている。その身体が爆発に包み込まれ、あたりの地面が吹き飛んだ。続く爆発で、炎が更に加速し、積み重なり、吹き荒れる――と、炎も、煙も、一斉に吹き飛ばされ、無傷のサンドリーヌが、その中からもう一度現れた。
「強いのだからな、いい気にもなるさ」
彼女が冷たく笑い――ハッとする。ジネットがいない。彼女が、宙を見上げる。
「こっちだこのクソカスがぁっ!」
既にジネットが、空中に、丁度サンドリーヌの上空に、舞い上がっていた。その周りで迸る真っ赤なエネルギーが、幾つもの魔方陣へと、螺旋状に、連鎖的に、変形していく。
「ぶっ飛べぇっ!」
ジネットが腕を振りかざし、サンドリーヌに中指を突き立てる。魔方陣が震え、何百もの火の玉が頭上で生成された。一斉に、地面に向かって、ぶちまけられる。
サンドリーヌが舌打ちをする。彼女が片手をもたげ、指を、パチン、と鳴らした。炎の弾丸の嵐が、彼女を焼き殺さんとして降り注ぎ、彼女を飲み込んで爆発した。あたりの地面まで、何白発もの連鎖攻撃で吹き飛んでゆく――が、サンドリーヌは平然としていた。彼女の周りに、自動的に、紫がかった防御膜が展開され、それを全て防いだのだ。彼女の周りだけは、全くの無事だ。防御膜の周りを、炎が、執拗に、なおも執拗に、入り込もうと、激しくのたうちまわってくる。
「お前にしては上出来だが……」
サンドリーヌが指を舐めた。
「やはり程遠い。まるで可愛らしい炎だ。この程度何でもない……今まで私がどれ程のどんなことを経験してきたのか、ここまで昇り詰めるまでにどれだけの地獄を味わったか、お前にも見せてやりたいよ」
「舐めきってんじゃねぇ!」
ジネットが突っ込んできた。炎が、そしてバリアが晴れると同時に、彼女が飛び出す。片手には、白熱するエネルギーが集合している。
「あんたを――焼き殺してやるっ!」
「おっと危ない」
サンドリーヌが地面を蹴り、上に飛びあがった。信じられない高さまで昇り、近くの鉄塔の一本の、上の方の階の柵へ飛び移った。と同時に、一瞬前まで彼女がいた場所から、真っ白な光の十字が回転し、爆裂する火柱が噴き上がった。そこから噴き出した波動が、あたりの魔女達に当たると、皆、痛みで悲鳴を上げ始めた。
「万魔術か。覚醒状態とは言え恐ろしい潜在能力だな」
波動に顔を照らされながら、サンドリーヌが舌舐めずりをする。
「だが所詮感情の爆発による一時的な覚醒など、長くは続くまい? ここからどう出るつもりだ、ジネット・レッド・ベネット」
「だったらその間にぃっ――」
火柱の中からジネットが、真っ赤な尾を引いて飛び出した。肩から流れ出しているエネルギーが、細長い翼の形をとっている。
「ケリつけりゃあ――いいんだろぉっ!?」
彼女が右手を後ろに振り被り、雄たけびを上げた。そこにまた真っ白な炎が集結し、唸りを上げる。
「サンドリーヌ様――!」
下から声があがる。だが、サンドリーヌは平然としていた。そして代わりに、ほっそりとした人差し指を突き立て、最早目と鼻の先の距離となり、まさに拳を彼女に振り下ろさんとするジネットに向けて、囁いた。
「私の」
声は静かだったが、十分だった。
「二メートル以内に、近づくな」
「――!?」
ジネットはその場で、突き落とされるようにして急降下した。とことんまで高度を下げてから、空中で踏みとどまり、構えの姿勢を取る。手の中の白炎がみるみるしぼみ、やがてプスプスと音を立てて消えたが、気にはしなかった。
「いいだろう! 面白くなってきたぞ。お前のその健気な挑戦、このサンドリーヌ・メロディが受けてやる」
塔の鉄柵の外に立ち、片手と片足で自らを支えながら、サンドリーヌが高らかに叫んだ。巨大な月を背後にし、彼女の艶めく銀髪が、風の中で舞っている。顔にかかるそれを、細長い指でかきあげる。
「皆の者は手を出すな! そしてその場で見ているがいい。私が一度も自発的に攻撃せず、この白魔女を完膚なきまでに叩き潰すところをな」
「なんだと……!?」
ジネットが歯ぎしりをする。
「何のつもりだ、テメェ――」
「今私は自らに対し、誘発的な攻撃結界を発動させた」
サンドリーヌが宣言する。
「私が今纏っているこの結界は、半径二メートル以内に踏み込んできた全ての敵に対し自動的に発動し、物理的・魔術的両方による攻撃を繰り出す。本来はたちまち死に至らしめる代物だが、お前のために特別サービスだ、性能は本来の約〇・三パーセントに抑え、反射速度、破壊性能、共にとことん下げてやった。果たして私に近づけるかな」
「どこまでも――」
ジネットが叫んだ。
「どこまでも舐めきりやがってぇ――」
「お前はそこらを飛ぶ羽虫一匹を叩き落すのに全力を使うのか?」
サンドリーヌが片眉を潜めた。
「滑ッ稽だろうに」
「こ――ンの――」
ジネットが、腕を振り上げ、雄叫びを上げ、その周りで、またもや無数の魔方陣が形成される。彼女が腕を振り下ろすとともに、一斉に発射されるが、サンドリーヌに届くことは無かった。そのまま彼女は掻き消すように消えてしまったのだ。鉄塔が爆炎に包まれた――と、サンドリーヌ・メロディが、ジネットのすぐ背後に現れた。ぞわっとする感覚が、ジネットを襲う。
「現在距離」
サンドリーヌが背後で目を見開き、笑みを浮かべる。
「二・五メートル」
「――ッ!」
全身を振り廻し、ジネットは後ろ向きに飛んだ。と、またその背後に、再びサンドリーヌ・メロディが現れた。
「な――!?」
「現在距離」
サンドリーヌが、片目の下を引っ張り、舌を出し、あっかんべーをした。虹彩から虹色の光が飛び散る。
「二・四メートル」
ハッとしてジネットは前を見た。そこにもサンドリーヌがいる――同じあの引き裂くような笑い、同じあの虹色に弾ける目。と、広場の空間のそこら中から、サンドリーヌが現れ始めた。ジネットは周りを見回し、言葉を失った――鉄塔の後ろからも、家々の間からも、地面からも、上空からも、無数のサンドリーヌが流れ出し始めたのだ。
「現在距離――六十五メートル……」
「現在距離――百二十三メートル……」
「現在距離――十七・一メートル……」
「現在距離――」
耳元で囁くような声がした。
「二・〇〇〇一メートル……」
「うわああああああっ」
ジネットがあたりを見回すと、既に四方八方全方向が、高笑いするサンドリーヌに覆い尽くされていた。一体何百人、いや何千人敷き詰めればこんなことになるのだろう、見渡す限り彼女しかおらず、覆い被さり折り重なって、月明かりすらも届かない。ひたすら彼女らのあの光を弾き出す目だけが、そこら中で煌めいていた。
「やめろ――」
ジネットが叫んだ。
「やめろ! なんだってんだ、畜生――この――」
人差し指を突き立てる。
「お前ら皆幻だ! あたしを惑わすために出てきたんだろう!? ふっざっけんじゃねぇ、そんな策にハマるかよ!」
全方向から高笑いが響く。ジネットの歯がガチガチと鳴っている。
「なんだよ――なんだってんだ――」
彼女が頭を振る。
「笑ってんじゃねぇ! 何でも、テメェの思い通りになるとでも――」
「ならば突っ込んでこい」
サンドリーヌの一人がせせら笑った。
「私が怖くないのだろう。突っ込んでくるがいい。お前が生き延びればそれこそそれは、お前が勝利した証明になる」
「や……」
ジネットの声が上ずる。
「やってや――らぁ――」
「いや、そう嘯くそいつこそが本物だ。惑わされるなジネット。私の可愛いジネット」
別のサンドリーヌがジネットを引き留め、ジネットはハッとした。本当に、心の底から感傷的な声だ。
「私も、私の周りのサンドリーヌも、皆紛れもない偽物だ。こちらのルートなら安全だ。信じてくれ!」
「うっせぇ!」
ジネットが頭を抱え込んだ。
「おいおい、冗談じゃねぇぞ――なんだよ、なんなんだよこれ――おい、ちょっと待ちやがれ――ちっくしょォォォ――!」
「最後の最後には、自分が一番可愛いわけだ」
サンドリーヌの一人が囁いた。
「だがそれでいい。本来人間とはそういう生き物だ。黒魔女とはそういう物なのだ。お前がそうで何が悪い? 素直に自らの生存欲求を認めろ。私と同じ道を行こう」
「私は――!」
ジネットが目をぎらつかせる。
「私は……違う――私は――私は――!」
何かが、プツリと、彼女の中で切れた。
「がああああああああっっっ!」
そして、彼女は、わけもわからずに突っ込んだ。
一斉にサンドリーヌ達が高笑いを始めた。その中を突っ込んでいくと、ジネットに触れたサンドリーヌは、どれも弾け飛び、黒い煙と鳴って消滅していった。ジネットは目をつぶり、泣き喚きながら、その中を迸り抜けて行った。やがてその波また波を抜け、彼女はやっと、静寂の空間へとたどり着いた。そこは、何もない、誰も居ない、夜空の中だった。鉄塔よりも高く、サン=キリエルの、遥か上空。
後ろで爆風があがり、ジネットの髪を揺らめかせた。ふと見ると、あのサンドリーヌのコピーの大群は最早いなかった。地面にただ一人だけ、今度こそ本物の彼女がいた。
本物のサンドリーヌ・メロディが、パチパチと手を鳴らして立っていた。
ジネットは、呆然としていた。
「……見事だったぞ」
サンドリーヌが頷いた。目の中の光が、一段と眩く弾けた。
「流石は私が一度は後継者と認めた魔女だ。さぁ降りて来い」
「……は……?」
ジネットは、ぽかんとして、空中に突っ立っていた。
「……なんで……」
「何が悪い? 先程約束したではないか――私はお前に、決して自発的危害を加えないと。私のことが、まだ怖いわけではないだろう?」
「サンドリーヌ様――」
「あ、あの、一体何を――」
周りの魔女たちは困惑した様子だったが、問題ない、とサンドリーヌは囁いた。ジネットはしばらく、わけがわからず、そこで呆然としていたが、やがて一旦は従うことにした。どんどんどんどん降りて行き、やがて地面に降り立った。エネルギーの翼が、背中へと仕舞われる。彼女を取り巻く赤いエネルギーも、大分微弱になってきていた。しまった――もう魔法攻撃は出せない、と、ジネットは悟った。覚醒の、時間制限が……それが、狙いだったか……?
「色々言って悪かったな、ジネット」
サンドリーヌが笑った。
「許してくれ。全てはお前を試す為だった……だがいや、本当に見事だった。お前は素晴らしい魔女だ。きっとウェルティコディアも、今のお前を見たら誇らしく思うだろう」
「は……? なんだよ……いきなり」
ジネットはぽかんとした。目を瞬かせる。
「つまりだな」
サンドリーヌは言った。
「お前は本当に、勇気、判断力、ありとあらゆる素質を兼ね備えた最高の魔女だということだ。私はお前のような者を尊敬しそれ相応の敬意を払おうと思う。約束をしよう」
彼女が指を立てた。
「お前がここを去るのなら……今宵の儀式は、中断してやろう」
ジネットは口を開けた。目をぱちくりさせる。
「なんだ……そりゃ」
「なんだとはなんだ? 言葉の通りだ。私は《色の無い悪魔》の召喚を延期してやってもいいと言っているのだ」
「は――」
ジネットが、言葉を失う。
「どうして――そんな――」
目を細める。
「あんた――あたしのこと、騙せると思ってるんだろ……! なんかの罠だ!」
「何を馬鹿なことを。いいかジネット、嘘をつくと言うのはだな、そうでもしなければ勝てぬような弱者の専売特許なのだ。お前を本気で潰そうと思えば小指一本で事足りることを忘れるな。私はお前より強い。
もう一度言うぞ――正確には、だ。我々のファミリーとの一切の自発的戦闘行為を以後この瞬間より禁ずる。サン=キリエルへの自発的立ち入りも、以後禁ずる。これらさえ守れば、私は今宵のチャンスを敢えて見逃してやろう。お前とは以後、自発的に戦闘しない。そして《色の無い悪魔》の召喚も、次に星が揃う時まで諦めてやってもいい」
ジネットが目を見開いた。どうすれば良いのか分からない。
「でも――だって、お前――そんなことしたら――教皇庁の調査隊が――」
「いいか、私は本来、お前のことを一瞬にして葬り去ってやってもいいのだ。あれだけの部下を殺したのだからな」
サンドリーヌが舌舐めずりをした。
「しかしお前を見ているうちにもう一度思い出してしまった……私がお前に一目惚れした時の、あのどうしようもない胸の高鳴りを。だから提案している。これが私の愛の形とするならば――どうする? 受け入れては、もらえぬか?」
「サンドリーヌ様!?」
周りの魔女たちがざわめき始める。
「何を――」
「サ、サンドリーヌ様――一体何を仰るのですか!」
サンドリーヌが、ふむ、とそちらを向いた。ガクガクと膝を震わせながらも、そこに堂々と立とうとしている。彼女は……
「……あぁ、ミシェールか」
「サンドリーヌ様、先程からあなたのご様子、こうして拝見させていただいて」
ミシェールの声は震えていた。
「お言葉ですが、理解できません……アストリッド様が……あれほどあなたが愛しておられたアストリッド様が、お亡くなりになって……なのに、こんなにも平然と、敵と軽く接することが……私には理解できません……! 今までの犠牲は、一体、何の為に――」
「分かっている」
サンドリーヌはせせら笑った。
「分かっているから黙っていろ。面白いゲームじゃないか」
目を細める。
「なぁに、最後に勝つのはどうせ我々だ」
「な……」
ミシェールが愕然とした。その時何を感じたのだろうか――困惑、絶望、或いはそれこそ、裏切られたという気持ちかもしれない。失望感……彼女はその場で、虚ろな目から涙を流し、膝へと崩れ落ちてしまった。
だが、ジネットは何故だかやはり、違和感が拭えなかった。このサンドリーヌの言動に。そして、言葉に詰まっていた。ごくりと唾を飲み込む。その頬を汗が伝う。
「冷静になってみろ、ジネット」
サンドリーヌが囁く。
「ここまで寛大な措置などこれまでにないことだぞ。どうか私にお前を、殺させないでおくれ。私はお前のことが大好きなんだ。いずれかお前も、私のように成長することだろう」
ジネットの顔は暗かった。やがて、口を開いた。
「クリスティアーナは……どうするんだ」
「殺す」
きっぱりと言いきった。
「いや……流石にそこまで欲張りにはならないでおくれよ、ジネット。彼女はまるで火薬庫だ。以前はお前をそうだと感じていたが、お前よりか奴だな。殺すのは当たり前だろう? だがお前は助けてやる」
「……」
「ここでお前が仮に、愚かにも、この約束を結ばなかったとする」
サンドリーヌは続けた。
「するとどうなるか。まずお前は死ぬ。仕方がないことだ。次にクリスティアーナも死ぬ……奴とて依然、私には到底適わないからな。そして最後に、《色の無い悪魔》が今宵召喚され、全てを蹂躙し、私の新世界が誕生する。……どう思う、ジネット? それがお前の望む未来か?」
「……けど……お前は……」
突然、ガハッ、と、ジネットが咳き込んだ。震える手の中を覗き込むと、血が吐き出されていた。
徐々に、彼女の周りに渦巻いていた赤いオーラが萎んでいき、糸状になり、やがて消えた。彼女はどさりとその場に崩れ込んでしまった。
「が……あぁ……っ」
「覚醒状態が完全終了したか」
サンドリーヌが囁いた。
「条件追加として、お前の完全治癒も足してやってもいいが。どうする?」
「……ッ……」
ジネットは痛みに顔を歪めた。傷も広がり、相変わらずそこら中から血と煙が流れ出している。顔は引きつり、息も乱れ、歯を食いしばり、必死に身体への負荷に耐えていた。特に顔の左側から上がる煙には、おぼろげながら、灰が混じっている。
「……仕方のない子だ。あぁ実に可愛いぞ、ジネット」
サンドリーヌの舌が伸び、ペロリと、自らの細長い指先を舐めた。
「どこまでも小賢しく、可愛らしい小娘め。血塗れで傷塗れで、痛みに耐えるその表情……本当にいやらしい、本当によくそそる……。さぁ、約束を結べ。そうすれば楽になるぞ。ジネット、お前はこの先――」
ヒュッ、と、風を切る音がした。続いて、グサグサグサッ、と、何かに、何かが、突き刺さるような音。
サンドリーヌが瞬きをした。
そして、自らの腹を、見つめた。
何本ものナイフの切っ先が、サンドリーヌの腹部から突き出していた。まるで後ろから放たれたかのように。真っ赤な血が、傷口から流れ、下に滴り落ちる。彼女は無表情だった。
サンドリーヌは動こうとして――瞬きをした。どうやら身体が動けない。
「……コカトリスの血を用いた……合成毒が、塗ってある」
ジネットが、荒い息を吐いた。
「対象が発動していた、一切の結界術式類を一時的に無効化し……身体の動きも封じる……本来の適正濃度は、おおよそ〇・〇一パーセントにまで薄めて使用するべきところを……そいつはまんまの原液だ。それでもあんたにゃ、対して長くは効かないだろうが……これぐらいの隙を作るには……十分の筈だ」
「ど、どこから……誰が投げた!?」
周りの魔女たちがわめく。
「サンドリーヌ、様――一体――」
「うっせぇなぁ……あたしがずっと運動術で操ってたに決まってんだろ!」
ジネットの顔に、勝ち誇った笑みが浮かぶ。
「これだけは慣れっこだ……一瞬の隙を窺って……ずっと滞空させてたってわけよ!」
「……悪い、子……だねぇ」
サンドリーヌの笑いは、引きつっていた。
「はは……痛い。いや、そうか……」
それは一種の感動に満ちているようにも見えた。
「長らく忘れていたな……身体の痛みとは……こういう物だったか」
「……違うな……」
ジネットは立ちあがった。血がボタボタと垂れるが、気になどしない。最後の力を振り絞り、彼女はよろめきあがった。
「化け物にゃ――本物の痛み何ざ――」
よろけながら、ナイフを振り出す。
「永遠に――分かるわきゃ――ねぇんだよぉっ!」
そして、一気に、迫り来た。直接手に持った最後のナイフが、深々と、サンドリーヌの腹に突き刺さった。合計七本――ジネットの持っているナイフは、これで全部、こいつに突き刺さったことになる。
やはり、一時的には毒が有効なのか、結界内に踏み込んだにもかかわらず、ジネットには何も起こらなかった。ぶしゃっ、ぐしゃっと、生々しい音が響き、サンドリーヌの傷口から血が噴き出した。歯を食いしばったまま、ジネットは、ナイフを内側でぐりぐりと回転させ、傷口を広げた。上を、サンドリーヌの顔を、必死の形相で睨みあげる。腕に全ての力を込める。一方、サンドリーヌはやはり、口の端から血を垂らし、そんなジネットの顔を、どこか面白おかしそうに見つめ返していた。
やったんだ、勝ったんだ、と、ジネットは、心の中で、高らかに叫んだ。勝ったぞ、やっと。殺せた! 殺した! あたしが、こいつを!
「サンドリーヌ様ぁっ!」
「そんな――サンドリーヌ様――」
周りの魔女たちが、口々に主の名を呼びながら、一斉に駆け寄ってきた。ジネットは微かに、引きつったように笑い、目を閉じた。そりゃそうだ――こんなことしたら、自分自身も殺されるに決まってる。でも、と、彼女は思った。こちとら元から、死を覚悟で来てんだ。今更こうなったって、どうなったって、別に構いはしない――こいつさえ、殺せれば――。
だが、その時だった。
サンドリーヌが手を上げ、迫ってくる魔女達を静止した。余裕めいた笑みを浮かべ、片目を嫌らしく吊り上げて。
ジネットはぽかんとした。
と、次の瞬間、真っ黒なエネルギーがジネットの足元から迸り、爆発し、ジネットを吹き飛ばした。声を上げる暇すらも無く、彼女は宙を突っ切り、そこにあった商店の二階の壁の中に突っ込んだ。そのまま煉瓦の中に、全身が深々とめり込む。激痛と共に、バキバキ、と、全身の骨が砕け散る音がした。目を見開く。口から血が吐き出される。血は腹からも噴き出し、シャワーのように、下の地面に降り注いだ。
ジネットは口をパクパクさせた。目が裏側に転がりそうで、焦点が合わない。声が声にならない、悲鳴すら悲鳴にならない。腹の中が滅茶苦茶だ。きっともう内臓がそこら中で千切れ、内側でぐちゃぐちゃになっている。全身の骨が砕けているせいで、物理的に何もできない。
でも――何が――!?
「ヒ……ヒヒヒヒヒ……相も変わらず悪戯っ子だねぇ、ジネット」
腹からナイフを一本一本平然と抜きながら、サンドリーヌがせせら笑った。
「だけれどもし、こんな程度の代物が通用するとでも本気で思ったのなら、それはただの希望的観測に過ぎない……こんなちゃちな物に希望を託していたのかと思うと、なんとも健気で……ハハハ……笑えてくるよ。冷静に考えても見ろ、これだけ長く生きてきたこの私を……お前程度の若造如きが殺せる筈がないだろう?
嘗て他のファミリーとの抗争において、私が何度この手の代物を盛られたと思っている。この身体には最早大抵の毒に対する耐性が備わっているのだ。コカトリスの血液程度真水と変わらん。こんなもので私を殺せると思うな」
「……か……はぁぁっ……っ……あぁぁぁっ」
「いいか……私の身体には、元より……何重にも及ぶ防御作用が施されている」
サンドリーヌは腹部の血を、どこからともなく手に舞い込んだハンカチで拭いた。
「魔術的耐性は元より、身体作用への高等錬金術による物理的再生能力も習得済みだ。私を完全に殺し尽くすには、私より強大な魔力を扱うしかないが、それがお前に可能な物か。
もうお前は終わりだ、ジネット・レッド・ベネット。既に運は尽きた。お前が洗脳した魔女たちも、すでに自我を取り戻し始めている。今宵の儀式は、中断されることなく、無事に実行に移されるのだ。
……ミシェール」
突然名を呼ばれ、近くで他の魔女たちに守られていたミシェールが、ハッと顔を上げた。
「サンドリーヌ様……?」
「先程お前は言ったな」
サンドリーヌがそっと笑う。
「『理解ができない』と。何故あのアストリッドを殺していながら、私がここまで平然として、敵とああも軽々しく接していられるのかと」
「……」
ミシェールが唇を噛み、頷いた。
「……はい」
「答えは簡単だ、ミシェール。よく思い出せ。
……掟を忘れたか? 我々の掟を」
ミシェールが目を見開いた。目頭から涙がこぼれ落ちる。
「サ――」
口を両手で押さえる。
「サンドリーヌ、様――」
「『戦場の友の死を嘆くことなかれ』」
サンドリーヌが囁いた。そっと上を見上げて。
「お前たちがずっと守り続けてきてくれたこの掟を、この集団の長たる私が蔑ろにしていいわけがないだろう。ただそれだけのことだ。なに、そんな顔をするな……私も心の内は同じなのだ。悲しいよ。……途方も無く悲しい。泣き叫びたいよ。もしお前たちの長でなければ、きっとそうしていただろうな。
だがアストリッドとは、既にとある約束を交わしている。白魔女を滅ぼし、世界を手に入れるためには、どんな犠牲をも払ってやるという、百五十年前の旧き契約だ。こうなることも、全てアストリッドの望み。彼女は自らの意思でこの道を選択した。
私は、己だけでは、どうしてもやはり踏み切れなかったのだ。犠牲を払うことに。仲間を傷つけることに。アストリッドは、そんな私を、強引に一歩前に踏み出させてくれたのだ。自ら、私に、提案してきたのだ……殺せと。
――かくして遂に、そうしてこうして、全てのピースがこの地にて揃ったのだ。《色の無い悪魔》の召喚術式に必要な灰は、黒魔女Kの抹殺を待たずして、アストリッド・メロディという一人の黒魔女の尊い犠牲によって賄われる。我々が支配する世界において、彼女は永久に祀られることとなろう。彼女がいなければ、今の私も無く、このファミリーも無く、そしてこれからの世界も無いのだから。
……第四班、第五班、アストリッドの灰を十二鉄塔に配置しろ。彼女一人で、雑魚の量産型千人分はゆうに越える魔力が、召喚術式の魔力回路に供給できるはずだ」
魔女たちが、防御的な姿勢を崩し、辺りに散らばった灰の下へと駆けて急いでいった。杖を地面の上にかざす。灰が、空中へと、幾つもの川が流れるようにして、掻き集まっていく。
「……では、何故私が」
サンドリーヌが、ジネットの方を振り向いた。
「この小賢しいジネット・レッド・ベネットを殺すにあたり、一切の本気を出さず、いたずらに甚振ったのかについてだが――。予想はついたという者もいるかもしれない話だが、もしも今の私が本気を出して戦っていたのならば、既に激しい戦闘によって著しく疲弊した戦友諸君は、すぐに弱りきって死んでしまっていたことだろう。……私とて別に、こうなりたくてこんな身体になったわけではないのだがな、何せ気付いたらこうなっていたのだから仕方がない。私が無暗に攻撃魔法を用いず、こういった形での勝利を望んだのは、そういったワケのことだ。許してくれ。何かと制限が多い身体なのだ。
しかし戦いとはつくづく悲しい物だな。主義や主張の差異による集団間の決裂、目的と目的との衝突と相互破壊、変革を望む者と既存の秩序を愛する者との間で繰り広げられる、無秩序にして無慈悲なる戮殺行為。ジネット・レッド・ベネット……お前は一体何を望み、何の為に生きた? 何のために戦う? 何のために殺す? ここは一度落ち着いて、考えてみるがいい。すると面白いことが分かる。
お前は何も産むことができなかった。自らの目的など、とうに腐り果てて消え失せ、後に残るはただの、老いぼれた女の夢の残骸だけ。くだらぬ意地でそれを貫き通し、我々の邪魔をして、それだけで終わった。何が白魔女だ……『守る者』? 『救世主』? 笑わせてくれる。そんな都合のいい代物など、もとよりこの世には存在しない。居るのはただ、『奪う者』と『奪われる者』、『強き者』と『弱き者』だけだ」
サンドリーヌが、指先で、小さな円を描いた。ジネットが声を上げた――その身体が強引に壁から剥がれあがり、指の動きに合わせて、螺旋状に空中へと舞い上がっていく。まるで何か、見えない糸で、釣り上げられているのかのように。
「せめて、召喚の時刻まで、残った者を楽しませろ」
サンドリーヌが、素っ気なく笑う。
「お前はまるで、ウェルティコディアの操り人形だ。操り人形の動きが相応しい」
ジネットが呻き声を上げた。そのだらんとした身体が、空中を駆け巡っていったかと思うと、勢いよく地面に振り下ろされ、叩き下ろされた。粉塵があがり、血飛沫が舞い、骨が砕かれ、割れる音がする。更にサンドリーヌが指先を折り曲げると、ジネットの身体はまた、煙を引いて上に持ち上げられ、かと思えばまた地面に衝突し、乱暴にぐるぐると引きずられ、また持ち上げられ、下に突っ込んだ。ジネットが何か、必死に叫ぼうとしているが、彼女の全身が容赦なく、絶え間なく打ち砕かれる音のせいで、何もろくに聞こえない。ズタボロの麻袋を、無秩序に振り回しては下に叩きつけるような、嗜虐的な軌道が連なってゆく。周りの魔女たちは、目を爛々と輝かせ、その様子に見とれていたが、サンドリーヌ本人は、さしたる関心もないような表情だった――どこか冷めきった、既に死んだ敵を見るような視線を送っている。
ジネットが再び、地面に叩き下ろされ、周りの砂がぶわっと噴き上がった。既にどの関節も打ち砕かれ、だらんとした彼女の様子は、もう息をしているかすら怪しい程だった。辛うじて震えていること、辛うじて片手を前に伸ばそうとしていることからだけ、少なくとも死んでいないことが分かる。
「Kの心は闇に墜ち――お前もまた洗脳術を扱ってしまった。名実ともに、白魔女は最早、過去の世の遺物となった」
地面に転がって、無力に震えるジネットの顔の横に、サンドリーヌが、コツン、と冷たい足音を響かせた。
「遂に今こそ、黒魔女の世となった。全て旧き物を終わらせる時が来た」
ジネットは震える顔を上げたが、最早何も動くことができない。サンドリーヌが屈みこみ、ジネットの顎を持ち上げた。サンドリーヌは、不気味な程に綺麗な、悲しみに満ちた微笑みを浮かべていた。そのまま彼女が、ジネットの顎を上にすーっと持ち上げていくと、ジネットのボロボロの身体が、釣られるようにして宙に浮きあがった。下にできた血だまりの中に、ダラダラとなおも流れ込んでゆく。
「ジネット……私が支配する世界の顕現にあたり……私はお前をこの手で殺す。アストリッドを滅ぼさざるを得なくなったことを、この私が許すと思うか……?
昔は素敵だったのにな。二年前のお前とは、上手くやって行けると思ったのだが。お前の瞳の中には……私と同じきらめきを、感じたと思ったのだが……今更仕方がないことか。もうどう言ったって手遅れだろう。
これでさらばだ、ジネット。あぁ、それとだ、仮にお前が天国に行くとでもいうのならば、そして仮にお前のお師匠様とやらもそこにいると主張するのであれば、そいつにどうかこの伝言を伝えてやってくれ。何せ言い忘れていたものでな。
「ざまあみろ、ウェルティコディア」
サンドリーヌが、ジネットの顎を少しふっと持ち上げ、空中で離した。そして、落ちて来る彼女の額を、軽く、人差し指で、叩いた。
と――ジネットに、軽い衝撃が加わった。黒魔術に違いなかったが、不思議と、むしろ不気味な程に、そこに痛みは無かった。彼女は軽やかに、空中に、後ろ向きに吹っ飛んで行った。
――あぁ。
まるで目の前が光に覆われたかのような感覚があった。ジネットは、自らの意識が、何かに吸い込まれていくように感じた。
――あたし――死ぬのか。
それ自体は最早どうでもよかった。でも、それでも、彼女は、手を伸ばそうとせずには、いられなかった。
――ごめんな――クリスティアーナ……
今更言ってもどうしようもないことも、この声が一生彼女には届かないことも、当然の如く分かってはいた。でも、分かっていても。だとしても――
――もう、何も分かんないんだ――あたし。ごめんな……あんたと別れたのは――一緒にいたら、またあんたを傷つけてしまう気がしたからだった。自分に嫌気がさしたからだった。あんたみたいな奴と一緒にいたら、いつか本当に汚してしまう気がして。だからだった。あんたが嫌いなんて嘘だ。こんなにも――もう一度会いたい。
――あまりにも迷惑かけすぎて、あまりにも悲しませすぎて、あたしゃもう、あんたになんて言ったらいいのか分からないんだ。せめてもの償いと、思ったんだ……あたしがこうして一人で戦おうとしたのは、あんたをこれ以上、戦わせたくなかったから……そのためなら、どんな手段を使ってもいいと思ったから。それなのに……負けちまって、ごめんな……ほんっと……最後まで、情けないよな。
――せめて、お願いだから。
――死なないで、くれ――。
そして、胸元の黒曜石のペンダントが、彼女の目の前で、パリンと、砕けた。
ジネットの全てが、真っ暗になった。
その時彼女は駆け抜けてきた。夜の闇の中を、ずっと全速力で飛んできた。凄まじい蝙蝠の大群を引き連れて。サン=キリエルへと一直線。
そして到着した。彼女が突っ切ってきた。聳え立つ鉄塔の合間から飛び出し、広場の中へと飛んで入り、下をバッと見下ろし、必死に探そうとした。自らの愛する、最早世界で唯一の友達。目を凝らし、見つけ――絶句した。
彼女は宙を舞っていた。力なく、目も虚ろに、吹っ飛ばされているところだった。そしてどんなに離れていても、はっきりと分かった。その胸元の黒曜石のペンダントが、パリンと、砕けるのが。そのまま地面に倒れこむのが。意識を失い、魔力は消え去り、後は殺されるだけなのが。
「ジ――」
Kが口を開いた。
「ジネットちゃん!」




