第十六章
深い夜の闇の中。サン=ノエルから連なってゆく東の森の奥深く、山を越え谷を越え、本来は人が住まわぬような密林の中に、一軒だけの不可思議な建物がぽつりとしてそこにあった。森の中の空き地に、円形の中心部屋があり、そこからまた東西南北の四方向に、小さめの部屋がくっ付いている。どこか不思議な、異世界的な佇まいのその建物こそが、偉大なる白魔女、ヴェロニック・ウェルティコディアの住居だった。
「どうしてなのですか!?」
少女は師匠に向けて叫んだ。暖炉室のことだ。横では薪の音がパチパチと小さく弾けている。それを除けば明かりの無い、その暖かくもどこか不可思議な空間、暖炉脇の赤いベルベットのソファーに、その師匠は腰掛けていた。少女はその前で、目に涙を浮かべ、肩を震わせていた。顔の片側が、揺らめく篝火に照らされている。
「お言葉ですが、私には理解できません。あなたの仰る事何一つ!」
「あなたの認識の問題よ。だって我々は白魔女なのよ」
師匠は重厚な本を開き、膝に乗せたまま囁いた。語りかけるような優しい口調だ。すらりとした美しい身体、寝間着代わりの、質素な黒いローブ。顔はよく整って、若々しいが、半月型のメガネの奥から除く、眼光の鋭い、黄金色の切れ長な目だけは、過ぎ去った月日を感じさせた。
「我々は破壊者になってはならない……それが白魔女の掟。回りに損害を与えながら勝利することなら、誰にだってできる。でも私たちには魔法があるのよ。白魔女の魔法は、自らの欲望を叶える道具でもなければ、勝利するための武器でもなく、敵を殺すための兵器でもない。本質はあくまでも人々を、世界を、破壊から守るための盾なのよ。あなたのやり方は強引過ぎるわ。あんな数の攻撃を放てば、誰だって勝てるでしょう?」
「『破壊者にならない』! はっ――そんな掟、お師匠様にしか守れませんよ」
少女が引きつった笑いを浮かべた。
「お師匠様はいいですよね! あんな強い万魔術が使えて。遠隔起動や、追尾効果まで持ってて、どんなすばしっこい奴にだって絶対に命中する!」
「習得には十年かかったわよ。万魔術の難しさは知ってるでしょう?」
「へぇ、じゃあ私はここから十年間、一体何をしていれば――」
「今の技を磨く」
「それでそんな無理難題こなすっていうんですか!? 無理ですよ!」
少女は突然また感情的になって泣き喚いた。
「元から黒魔術も悪魔召還術も、洗脳術も魂魄術も使えない、私たち白魔女って戦闘能力的には下位互換なんですよ!? その上で、更にそんな制約をつけて――」
「それが宿命」
そっけない答えだった。少女は歯軋りをした。
「分かりません。やっぱり分かりません! それに私、もう耐えられません。なんで私たち、そんなにも立派なことやってるんだったら、こんなにも残酷に虐げられて――」
「何度も言ったでしょう? 我々は『自ら』を理解したうえで、『自ら』を捨て去らねばならないの。それが我々の宿命。世界のために必要な犠牲。死ぬまで孤独に戦わねばならない。見返りを求めるのは絶対に許されない」
ヴェロニック・ウェルティコディアが、少女の目をじっと見つめた。
「あなたの気持ちは分かるわ。でも、それが白魔女というものなの」
「そんなの、理不尽ですよ――!」
少女は服の端をぎゅっと掴んで、涙をこらえようとしていた。
「私、私、こんなに精一杯頑張ってるんですよ。黒魔女とだってこんなにも戦ってるんですよ!? なのに昨日だって黒魔女と勘違いされて、普段優しくしてくれる人たちにまで石を投げられて、殺されかけて! こんなの……もう、耐え切れませんよぉ」
「辛いのは皆一緒よ。でも、白魔女の存在が今の教皇庁に気づかれてはならない以上、それも仕方ない宿命」
「……こんなんだから白魔女が減ってくんですよ。だって――」
少女が思わず、我を忘れて、ウェルティコディアの膝の魔導書を、大声で喚きながら乱暴に叩き落とした。無表情のウェルティコディアの胸倉に掴みかかる。
「さっきからずっと宿命宿命って、そんな酷い宿命があっていいわけないじゃないですか! お師匠様は諦めてるだけなんですよ、もっと高みを目指そうと思ってないだけなんですよ! だって普通、頑張った人にはご褒美がないと、誰だって頑張る気にならないじゃないですか! ははっ、やっぱりそうですよね、お師匠様はいいですよね、こんなに強くてカッコよくて頭まですごく良くて、立派な信念があって何もかも割り切れて、自己犠牲ですら躊躇わなくて! なんでそんなに聖人になれるんですか!? 普通そんな人いませんよ!? 私にまであなたの考え方を押し付けないでくださいよ! 私なんて……ただの……ただの……!」
そのまま、地面に突っ伏し、赤ん坊のように泣き崩れてしまった。ウェルテイコディアはその様子をじっと見つめていた。
「正義が報酬を要求する、そんな世界は不幸よ」
彼女がそっと囁いた。
「今の教皇庁を見て御覧なさい。俗世の欲望が満たされた者は、元は正義でも、いずれかその初心を忘れてしまう。我々白魔女は、産まれた時は孤独。孤独で、空しく、社会的には堪らなく貧しい。我々が栄光を得てしまったら、元のあり方を忘れ、教皇庁の二の舞になるだけ」
「それでもいい!」
少女が顔を上げて泣き叫んだ。
「こんなにも孤独で、こんなにも忌み嫌われて、こんな重たい義務を背負って、こんな命がけで戦って! 自分の生活だってままならないのに。ただ一人の家族にでさえ、何も本当のこと伝えられないのに……! 私もう嫌です。こんなのもう耐え切れません!」
立ち上がって、ウェルティコディアの顔に向けて大声で叫んだ。
「努力する者、正義を行う者は、皆報われるべきなんです! 回りから崇められるべきなんです。私も、お師匠様も! 社会のシステムをどうにかいじくれば、権力者が腐敗しない方法だってどうにかあるはずです。それに戦いの際の多少の犠牲なんて、どうってことないじゃないですか! じゃあ例えば私が人質を取った黒魔女を殺すために人質を殺したとする、でももしその黒魔女を素直に開放していたらその黒魔女はその先何百人と殺す! 大局を一度見れば私たちのやってることなんて本当に馬鹿馬鹿しいんですよ!? お師匠様はただ単に、正義の味方に酔いしれてるだけじゃないですか!」
「だったら」
ウェルティコディアはボソリと言った。
「もう、やめてしまいなさい」
少女はぽかんとした。
「え……?」
「あなたが白魔女に向いてないことは、今のもろもろの発言でよく分かったわ」
冷たい目だった。
「もう力を返却なさい。あなたには理解させられそうにない。私の力をあなたに継承させるわけにはいかない。村にお帰りなさい」
「そんな――」
「何もあなたが間違ってるって言ってるわけじゃないのよ」
ウェルティコディアの声は、ただひたすら坦々(たんたん)としていた。
「きっとあなたは、社会的に見れば『正義』。でも白魔女には向いてない。あなたは教会にでも入ればいいわ。聖職者、シスターとして戦う分には、あなただってとっても強くなれる筈よ。あなたの欲しい権力も、富も名声も何もかも、正当に得ることができる。双子って言ってたっけ、家族だって養えるんじゃない? それでも初心を忘れずに黒魔女と戦う分には、それだって立派な生き方よ」
「言い方がないんじゃないですか!?」
少女は怒りを滲ませていた。
「あーあ、分かりましたよ、私はただの屑なんですよね! 一人でいるのが怖かったら屑、虐げられるのを嫌がったら屑、たった一人の家族を支えるために自己犠牲的に白魔女になって、命がけでも幸せに生き抜く策を見つけようと思ったら、全然想像と違って、それで幻滅して絶望して寂しくて死にたくなって! お師匠様への劣等感に苛まれても、どんなに精一杯に頑張ろうとも、そんな私は、ただの屑!」
「そんなことは思ってないわよ」
「思ってる!」
少女はウェルティコディアに指を突きつけて怒鳴りつけた。涙と鼻水とでその顔がぐちゃぐちゃだ。
「いいですよ、私もうここじゃやってけません。白魔女なんて辞めてやりますよ! お師匠様困りますよね、後継者いなくなって。きっと一生見つかんないですよ! こんな宿命に納得する酔狂な奴なんて、絶対にいるわけないんですから!」
「そうかもしれないわね」
ウェルティコディアは答えた。
「あなたは私の通算二十一人目の弟子。二十一人とも、最後はこうして別れた。でももし向いてない人にこの宿命を手渡すぐらいなら、そんなにも世界が私の理想から外れたのなら、私はこの宿命をここで絶っても、別に構いはしないわ」
「へ~え、そうですか。じゃあきっとそうなりますね」
少女はくるりと後ろを向いた。彼女の黒いワンピースが溶けてゆき、ボロボロの麻の服に変わる。彼女は横に、箒を乱暴に投げ捨てた。それと一緒に、小さな宝石、虹色にきらめくオパールがはめ込まれたペンダントも、床に打ちつけられ、無様に転がった。
「ここから村に一人で帰るのは無理でしょ。送っていってあげてもいいわよ」
ウェルティコディアが声を掛けたが、少女は首を振った。
「自分の足で帰ります」
「女の子一人で大丈夫なの?」
「もう、あんたの助けだけは、絶対に一生借りませんから」
「へぇ、そう。……じゃあこれからも、頑張ってね」
「分かってますよ。言われなくたって頑張ってみせます」
少女は決意したようにはっきりと言った。
「私強くなりますから。あんたよりよっぽど強く。絶対に誰よりも強くなって、こんな孤独で惨めな形じゃなくて、仲間に囲まれて、支えあって、皆で仲良く作り上げて見せますから。努力や正義が全て正当に報われる世界を。白魔女だなんて要らない世界を! 精々その指を咥えてみてなさい。私はこの世の神になる!」
「そう。たいした夢ね。叶えてみなさい」
「ふん」
少女は立ち止まった。深い溜息をつく。
「お別れってことですよね。……今まで随分とありがとうございました。白魔女、ヴェロニック・ウェルティコディア」
「あなたも。お気をつけて」
ウェルティコディアが囁いた。
「私の元弟子、サンドリーヌ・メロディ」
大聖堂の地下から地上へと繋ぐ階段を、一人の人影が昇っていった。溶け込むような漆黒の、フード付きのマントを被っている。ハイヒールの音が、コツン、コツン、と響く。光と言えば、手の中に納まった、内側で影が揺らめき、わずかに発光する水晶玉だけだが、所詮その程度では、足元すらも照らせない。にも拘わらず彼女は、暗闇の中を、躊躇なく歩いて行った。空気には瘴気が立ち込め、肌を冷たく潤した。
そしてこの人影、彼女こそが、サンドリーヌ・メロディだった。
「どんどん高度を下げてきます! じ、じきに到着します! 攻撃は――」
水晶玉から、声がする。背後のざわめきが騒がしい。
「攻撃はすべきなのですか、サンドリーヌ様――洗脳されているとはいえ、元々は我々の同胞ですが……」
「状況にもよるだろうが……」
サンドリーヌは少し間を置いた。
「極力はジネット・ベネットを狙え。とは言っても彼女も馬鹿ではない、幾らかの者を護衛として用いるだろうし、それ以前に奴にはまだ白魔術もある程度は扱えるだろう――身体にかなりの負担はあるがな。それに攻撃されそうになったら、こちらが先に攻撃しないことには、どうせどちらかが死んでしまう……双方多くの犠牲が出る。双方というのは即ち、結果的に言えば、我々側だけということだが……」
「……承知、致しました」
「あぁ……よろしく頼む」
サンドリーヌは溜息をついた。これまで、これだけの経験則を、これだけの成功の体験を、部下達に植え付けておいて本当によかった。どんなに理不尽な命令であっても、一切の疑問も持たずに、理由ですらも聞かずに、遂行してくれるのだから。
……皆の者、すまない。
心の中で、静かに囁いた。
「サンドリーヌ様、ご質問があります。ジネット・レッド・ベネットは――」
水晶玉から別の声がした。
「ジネット・レッド・ベネットは、あそこまでの力を持つ魔女ではない筈。どうやってあれほどの物を……あれほどの数を、洗脳して……?」
「殺戮型魔方陣」
サンドリーヌが螺旋階段を上っていく。
「覚えているか? 彼女と、量産型魔女が戦闘した最初の数か所かが、幾何学的接合性を持っていたというのは」
「はい。ですが……」
「あぁ。我々は、それが何かに使われる可能性を、途中で斬り捨ててしまった。リベリア・ラ・レイビィズの死……あれはてっきりジネットがやったことだと、我々は思い込んでしまったのだ。あの死を以て、位置も、時刻も、法則性が崩れた。殺戮型魔方陣は、途中一度でも関係ない場所で人を殺めれば、その効力を失うからな。だが何のことは無い、あれを殺したのがもしジネットでなかったのだとすれば……」
「黒魔女K、ですか……」
「そういうことになるだろう」
サンドリーヌ・ファミリーをここまで強固に支えてきたのは、圧倒的な情報アドバンテージだった。数を以て、そこら中から最新の情報を入手し、それを元に作戦を構築し、敵の動きを解析する、それがサンドリーヌのやり方だった。だから通常、刺客を派遣する場合には、必ずそいつに監視をつける。誰かしら、或いは何かしらかがそいつを尾行し、作戦の遂行能力、戦闘における実績、得手不得手、忠誠心、及び、場合によっては、その散り様まで――全てを記憶し、巨大なデータバンクへと集合させる。統計学に基づく思考や作戦は、滅多な事では失敗はしなかった。
だが、リベリア・ラ・レイビィズにだけは、監視がつけられなかった。
これは彼女の能力に起因する。あの洗脳術の霧の範囲は広大な上に、物質的にも魔術的にも、深くかかってしまう、深く立ち込めてしまうせいで、外から中身が視認できない。敵も味方もお構いなしに発動する能力である以上、近くに行くことも危険――ともなれば、一切の動向が、リベリア・ラ・レイビィズの周りでだけは探れないのだ。彼女がファミリーのメンバーにしては珍しく原則単独行動だった理由も、ここにある。
『戦場の霧』ということか、と、サンドリーヌは一人で笑った。なんと皮肉な言葉だろう。
リベリアを殺したのがジネットだったという確証は、元から無かったのだ。だが、白魔女が現れれば、誰でも気付く。その時あの場所に、白魔女の反応は検出されなかった。だからKが来ているわけがないと、そのようにファミリーは判断した。そして、ジネットが殺戮型魔方陣を形成しているという可能性を、切り捨ててしまった。ほんの一回のイレギュラーで、その手の術式は効力を失うからだ。
それが間違いだった。
「……『K』は、あの時点から黒魔女化していたのですね」
部下の声に、サンドリーヌは頷いた。
「不完全状態だっただろうが、そうと考えていい。ともすると前提が崩れる。ジネットは我々の偽の手段を真似たのだ。彼女は、我々の量産型魔女を、魔方陣上の座標になるように殺害してゆき、サン=ノエルを中心とした巨大な洗脳魔方陣を形成した……そういうことだろう」
「……元とは言えば、ミカエリスがきちんと仕事をしていれば……こんなことには……」
「あぁ、だが、私の不手際も大きい。合理化をつき進めるあまり、細かいところでのミスを誘発してしまった。きちんと謝罪するとするよ。皆の前で」
「サ――」
明らかな驚愕が、その声に交じる。
「サンドリーヌ様!? まさか――しかし――」
「よいのだ。私はもう心を決めた。お前たちは本当によくやってくれている。一人残らず愛している。さぁ……もうじきに来るぞ、奴らの攻撃が。ひとまずはそれに備えるのだ。今から私が指示を出す」
疾風の中を、怒涛の中を、ジネット・レッド・ベネットが、一本の燃え盛る矢のように迫ってくる。夜空の中から、彼女が率いる、魔女達の大軍が現れ、それに続いて眼前の都市へと落下していく。ジネットの血のような色の髪が、風の中で激しくはためき狂っている。彼女が、自らの顔の左側を覆う包帯に手をかけ――それを顔から一気に引き剥がした。火傷の跡が痛々しい左側が現れる。包帯が後ろへと舞い飛んで、暴風の中に消えていき、見えなくなった。
両目をカッと見開いた。異国語の呪文を唱えながら、指を重ね合わせ、複雑に動かし、五本ずつとも開き、周りに振り出して広げ、命令を叫んだ。後ろの魔女たちが、狂喜の奇声を発しながら、それに合わせて一斉に杖を掲げ、あたりに色とりどりの電流を迸らせながら、魔方陣を展開する。
地上の魔女たちが、息を飲んだ。ジネットの率いる魔女は皆、いずれも日頃から知っている顔ぶれだ……エステレイア、ローカスト、V―7、ラプター、クロックワーケスに、そして……ジネットのすぐ後ろ、あたりに幾つもの魔方陣を造り上げ、編み出してゆく、あの女は――。焦点の合わぬ目。突き出した舌。理性の概念を破壊された、顔を引き裂くような笑み。ミシェールを始めとして、地上の魔女の何人かは、絶句して涙を流し、その場に座り込んでしまった。もう何人かは、苦々しい舌打ちをして、悪態をつき、上空を睨みつけた。
ジネットの後ろ隣で、アストリッド・メロディが、狂気に満ちた高笑いをあげていた。
そしてジネットの声が、轟いた。
「放て!」
鋼鉄のような声。
そしてその瞬間に、その何十、何百という破壊の砲が、眩く閃光を発したかと思うと、一斉に迸り放たれた。空中を切り裂き、夜の闇を貫き、様々な色の灼熱が、一丸となって、サン=キリエルに襲い掛かった。迅雷の雨の如く。そのあまりのエネルギーの総体量は、圧倒的な明るさは、まるで一瞬、都市全体が燃え上がったかと錯覚するほどだった。
だが、すぐさま混沌が炸裂するとは、いかなかった。
サン=キリエルは、サンドリーヌ・メロディの居城であり、この百年超の間ずっと、難攻不落の要塞と謳われ続けてきた都市だ。そこに残されたファミリーの魔女達とほぼ同数の勢力を率いてきてそれに臨んだジネットだったが、それをさえ以てしても、この侵略戦争は、決して容易な物では無かった。不可能にすら、近かった。
攻撃が放たれると同時に、街全体に施されたサンドリーヌの防御結界が発動した。そこら中の空間を――屋根の上を、広場の上空を、霧がかった夜道の中を、そして螺旋状に、あの十二鉄塔の周りを、真っ赤な光線が駆け巡り、折り重なり、歪み曲がって変形し、そして一つの巨大な象形を形成した。こんな時でなかったら、こんな物でなかったら、きっとそれは紛れもなく芸術だったのだろう。だが、完璧に計算し尽くされたそれを見ても、ジネットは、舌打ちする以外何もしなかった。
光の一斉攻撃が、魔方陣に突っ込んだ。巨獣の咆哮のような轟音と共に、エネルギーがぶつかり合い、全力で光り輝き、街の上空一面に盛大な火花を散らす。上空のジネットから見ると、それはまるで、街全体が眩い光に包まれているようだった。一方、地上の魔女達からすればそれは、閃光のドームの内側に閉じ込められているように見えた。皆、叫び声をあげ、必死に魔方陣に魔力を供給し、歯を食いしばっている。
そして、やがてそれが、爆発した。
打ち消されるエネルギーの反動で、鼓膜を突き破るような轟音があたりを劈いた。衝撃波が街から爆風のように溢れ出し、城壁の外の木々を薙ぎ倒す。土煙があがり、街を覆い尽くす。街の魔女たちからは、上空が見えなくなった。上空のジネット達からは、街の様子が隠された。
そして、やがて、土煙が晴れた。
その中から、傷一つないサン=キリエルが、その姿を現した。
だが既に策はあった。その地上の混乱に乗じて、上空の魔女達、ジネットが率いる何十もの魔女達が、街を覆う煙幕を突き抜け、既に広場の上空を覆い尽くし始めていた。
ジネットは額の汗を拭いた。魔方陣による結界、時に悪魔召喚術による物は、概して、魔術的攻撃は防げても、物質的な侵入は防げない。一度内側に入り込まれてしまうと、どうしようもない。ジネットはそれに賭けた。攻撃に乗じて攻め込めば、少なくとも侵入は出来ると。一応そこまでは行けた。
……だけれども。
ジネットは唾を飲み込んだ。なんだろう、これは――勝った気がしない。今のその侵入ですら敵に読まれている、計算されているように感じる。恐らくは敵が強すぎるからだ、あまりにもスペックに差があり過ぎるからだ。サンドリーヌ程の魔女が、そんなに安易に、この侵入を許可するはずがない。なんらかその弱点をカバーする作戦があるはずだ――彼女ならそれぐらい考える。
だがかと言って、躊躇してはならない。先手必勝で行くしかない。そもそもの目的が、勝利ではないのだから。
ジネットが腕を振りだし、命令を叫ぶ。周りの魔女たちが円形に展開し、上空に広がる(纏まっているままでは格好の標的だ)。既に彼女等には、前回の攻撃を放った直後から、次の攻撃準備を整えさせてある――必要な詠唱も、魔方陣も、既に彼女等には備わっていた。それらによる、ありとあらゆる破壊の呪文の力を、一斉に解き放つ。
事前準備をしてあるのは、下の魔女たちも同様だった。下からも、上からも、瞬く間に荒れ狂う破壊の波が噴出し、空中を覆い尽くした。
炎の渦、電撃の網、真っ黒に逆巻くエネルギー。無数の舌から唾液を飛び散らせながら、ずらりと並んだ牙を光らせて迫りくる、悪魔の群れ。緑に沸き立ち噴射される、猛毒の霧。イナゴの渦、実体化した三次元絵画、呪われた杭の雨――それらには限りは無く、また、終わりも無かった。全てがあまりにも沢山混ざり合い、最早、ある攻撃と、また別の攻撃との区別でさえも、全く以てつきはしない。その全てが融合し、ただ一つ荒れ狂う破滅の嵐へと飲み込まれ、集いし魔女たちの中を蹂躙していった。そこには敵も味方も無い。上でも下でも、容赦はしない。螺旋の破壊が舞い狂い、魔女たちが、その中で、マネキンのように死んでゆく――炎に焼かれ、刃に切り裂かれ、猛毒の中で腐り果て。硫黄だの、焼ける肉の臭いだのを乗せた風があたりを舞い、熱風と寒波とが交互に吹き荒れる。その迸るエネルギーが巻き上げる轟音は、まるで街が悲鳴を上げているかのようだった。
そしてその中を貫いて、一筋の閃光が、地上より、最適の標的に向けて放たれた――敵の本体、全ての元凶、ジネット・レッド・ベネット。その眉間に向かって、一直線に。彼女さえ殺せれば、洗脳も解ける。そうすれば、こんなことをしなくても済むのだ。それを幸運にも放った魔女は、思わず歓喜の声を上げた。
だが、それは読まれていた。ジネットは意を決した。そこに躊躇は無かった。指を構え、唱えた。
「泣き泣き叫べよ、愚者と舞う仔羊よ! 贖罪は救済也。以てして玉砕也! 三日月より立ち去れ、黒山羊より断ち切れ! 我らは水面に映る影!」
そして、首から下げたペンダントの一つの、眩く光る真珠を、その指で砕いた。
ジネットの身体から、一斉に、真っ白な電撃が回転しながら迸り出した。あたりに迫ってきていた魔術攻撃に、それらが瞬く間に折り重なり、共に爆発する。どの電撃も、放たれた攻撃を見つけてはそれに覆いかぶさり、回転し弾け飛び、爆散していく。
ジネットが、突如、雷を食らったかのように、短い悲鳴を上げた。四肢を痺れさせ、大きく仰け反った。そしてバランスを崩し、そのまま、宙を舞う箒と共に、地面へと、真っ逆さまに、落下していった。
「殺せ!」
魔女たちが叫びながら、ジネットに向けて攻撃を放つが、その度に、その落ちていく身体からまたも電撃が放たれ、それを自動的に打ち消した。ジネットはぐったりしたまま、広間の中心部近くの石の地面に落下し、激突し――一回跳ね、何回かそのまま転がり、その場に力なく、俯けに倒れ込んだ。しばらく動かなかったが、やがて、ゆっくりと、震えながら、その傷だらけの顔を上げる。白い息が、ゼェゼェと荒い。身体のところどころから黒い、淡い煙が上がり、くすぶっている。瞼が痛みで痙攣し、目の上からは血が垂れ、その顔を伝ってきている。歯を食いしばり、必死に――激痛に、耐えている。
これだけの魔女を洗脳したのだ。これだけの規模の黒魔術を使ってしまったのだ。やっと白魔女になりつつあったジネットの身体は、またも、悪魔の力に、侵されてしまっていっていた。
そして、その状態で行使される白魔術の副作用は、並大抵の物ではなかった。
だが、ジネットは立ちあがった。朦朧とする意識の中、ぼんやりとした視界を振り払い、歯を食いしばり、またも、上空に、命令を叫んだ。
準備されていた第三波の術式が、そこら中で、連鎖的に完成する。それらが、あたりの黒魔女達に対し、一斉に放たれた。またもそこら中で、轟音と共にエネルギーが吹き荒れ、悲鳴と死とが宙を舞う。
またも何発もの攻撃がジネットに向かう。それらは、自らから放たれる電撃に吸収されていったが、やはりその度にジネットはふらつき、歯を食いしばり、身体をよじらせた。全身からおびただしい量の血が流れている。脚がガクガクと震え、一歩踏み出すごとに倒れそうになるが、なんとか懸命に耐えている。
顔にかかった髪を、震える手で横に流し、前にそびえ立つ聖堂を、ジネットは必死に睨みつけた。目の中に血が入って、視界がぼやけ、まるで赤い霧がかかっているかのようだが、構わない。
どこだ――サンドリーヌは、どこだ? 彼女さえ見つけられれば。そうすれば――
……待てよ。
ジネットは、目を疑った。
あれは。
――聖堂の前の門が、次第に、ゆっくりと、開きかけていっていた。
その中の暗闇から、何か、まるでそれに溶け込んでいた物が抜け出すようにして、一人の黒い人影が現れた。
ジネットは瞬きをした。
黒いフードを被った、ほっそりとした人影だ。石が敷き詰められた地面の上を、コツン、コツンと、ハイヒールの音が響く。これは――
フードの下で、何かが、せせら笑った。
まるで、周りの大気が、一気にさーっと冷たくなったような感覚が、ジネットを襲った。周りの魔女たちが、一斉に、あれはなんだ、まさか、などと、口々に騒ぎ始める。
ジネットは、反射的に、指を突き出していた。
そしてその頭上に、命令を下していた。
「アストリッド!」
上空から、一人の魔女が、ジネットの横に舞い降りた。焦点が合わさらぬ、燃え盛る緑の目、狂気で引きつった笑み、十色のマニキュア。右肩からは、血が垂れ、煙がくすぶっている。
周りの魔女たちが、悲鳴を上げる。恐怖もあるが、それ以上に――絶望。皆わけがわからない。敵になって始めて、その恐ろしさに気づき得る。そして、これと戦わねばならぬという現実――
「ア――」
周りの魔女に匿われて潜んでいたミシェールが立ち上がった。駆け寄ろうとするのを、周りの魔女たちが必死に抑えるが、彼女は両腕を捕まれた状態で身を乗り出して泣き喚いた。
「アストリッド様ぁ! アストリッド様、な、何が――こんな――嘘ですよね――!? ちょっと、なんとか言ってくださいよ、アストリッド様ぁ――」
「やめろミシェール! もうアストリッド様は、お前がいくら言っても――」
「あんなにお強い方が完全洗脳を受けるわけがない! 嘘に決まってる! やめろ、離せ、アストリッド様ぁあぁ!」
アストリッドがそちらの方を向いた。口の縁からよだれが垂れている。
「あー」
何かしゃべろうとした。
「あー、うー……おー……」
けれど、すぐにまた、フードの女の方を向いた。そして、両手を大きく開き、パン、と、手を打ち鳴らした。
十色のエネルギーが爆裂し、前に向かって放たれた。全四種類の四元術による属性攻撃に、錬金術による相乗作用及び第五元素エーテルの生成、解放術による元素精霊の制御解除及びそれに伴う効果の増強、運動術による物理的破壊効果、敵の防御結界に対し作用する封印術による突破力向上、万魔術と黒魔術による対悪魔・対魔女の破壊力強化を付加した、アストリッドの全ての能力を一撃に込めた代物だ。発射された瞬間、何重にも重なった衝撃波が巻き起こり、周りの瓦礫が吹っ飛んでいった。魔女たちが悲鳴を上げる。けれどフードの女は動かなかった。何一つしなかった。
何故ならそのエネルギー砲は、フードの女に当たらなかった。彼女を大きく逸れ、遥か天空へと舞い上がり爆裂した。十色のエネルギーが吹き出し、振動が大地を揺らし、なおも執拗に衝撃波こそ周りに飛び散るものの――肝心の的、フードの女は、被害など受けていない。
ジネットはハッとして、目を見開いた。アストリッドの、表情が抜けた顔に、覗きこむようにして呼びかけた。
「アストリッド……!?」
あからさまな動揺が、ジネットの顔に浮かんでいる。それを強引に振り払うかのように叫ぶ。
「おい、お前、どうしてわざと狙いを外す!? 目の前のコイツを殺せ! この、このフードの――コイツは、だって――」
ジネットは焦っていた。大半の魔女は、強力な魔方陣のお蔭で簡単に洗脳できたが、それを以てさえしても唯一手こずったのがこのアストリッドだ。この右肩の、祝福儀礼を受けた銀のナイフの攻撃、アストリッドの体力を大きく削り取ったこの一撃がなければ、そもそもから洗脳なんて効かなかっただろう。もし万が一、この状況で、コイツが正気を取り戻しでもしたら――。
その時だった。
アストリッドが、首をガクガクと言わせ、目の前のフードの女の方を向いた。そして、にっこりと笑った。
「ヤ、ク、ソ、……ク」
確かに彼女は、そう言った。洗脳下にして――言葉を、発した。
皆、呆然としていた。
誰も、何も言わなかった。
フードの女は黙っていた。顔は影に覆われ、表情も読み取れない。完全な沈黙があたりを包み込んでいた。風の音だけが舞う。
ジネットの心臓はバクバクと鳴っていた。まずいぞ、まずい、どうすればいい!? 今のところこの洗脳は解除されそうにないが、少なくともこのアストリッドの奴、抵抗し、内側から干渉して、身体が勝手には動かないようにしている。残りの奴らで、このフードの女を倒せる見込みがある奴なんて――
と。
フードの女が、片手を上げた。
一体何人が聞き取れたのだろう――彼女が、ぼそりと呟いた。
「許せ」
そして、その瞬間、
アストリッドの胸に、穴が開いた。
ぽっかりとした穴だった。完全な空洞だ。アストリッドは動かずに、そのままの姿勢で突っ立っていた。口の端から血が垂れだした。しばらく、呆然として動かなかった――が、やがて、顔を上げ、前方、フードの女の方を向いた。そして、最後に、血が溢れ出す口を開き、目の前のこのフードの女に向けて、囁いた。
「……ありがとうございます、サンドリーヌ様」
誰よりも純粋な笑顔だった。
「どうか、悲しまないで。最後まで一緒にいられなくて、残念でしたけど……あなたと過ごせて……私は、世界一幸せでした」
フードの女は無言のままだった。死んだように静かだった。
アストリッドの身体が、見る見るうちに、内側から灰色に染まっていった。ただの灰塵となって、四方に爆散した。風の中で散って行った。皆のその、目の前で。
こんなにも呆気ない。塵は塵に還る。フードの女は動かなかった。ジネットはぽかんとしていた。たった今目の前で起こったことが、やはり信じられなかった。
「ア……」
ミシェールが、震える声で呼びかけた。
「アストリッド……様……?」
けれどもう彼女はいなかった。彼女が先刻まで立っていた場所には、ただの灰の山があるに過ぎない。
「……あぁああぁぁ」
ミシェールが顔を手で覆う。
「嫌ぁぁぁあぁ……アストリッド……様ぁ……」
彼女が歯を食いしばった。泣き叫びながら、横の魔女たちの腕を押しのけ、前に飛び出していった。
「ジネット……ベネット……ッ!」
拳を握りしめ、ミシェールが突っ走っていった。裸足のまま、石の上を駆けてゆく。そこかしこに噴き出した鮮血や灰を突っ切って、一直線上に、ジネットに向かって。
「よくも――殺してやる!」
ぎらつく両目に涙を浮かべていた。
「あんたは――許さない――こんな、こんなことをして――!」
「よせ、やめろミシェール――」
「帰ってこい! 死ぬぞ――」
「……っ」
ジネットは片手をそちらへ向けた。既にこの覚悟はできている。相手がこんな同い年ぐらいの少女だと、流石に気乗りはしないが……どんな奴が相手だろうと、容赦はしない。十分な距離まで迫ってきたら、こいつを――
「待てミシェール」
声を聞き、ミシェールがハッとして立ち止まった。というのも、ミシェールは、この声を知っていた。自らの主の声。
「……ぁ」
彼女が瞬きをした。
「……ぁあ……あ、あなたは……」
張りつめた静寂が、流れていた。
誰も、動くことができなかった。
その中を、コツン、コツンと、彼女の足音だけが響いてくる。ミシェールに向けて、一歩一歩近づいてくる。あのフードの女だ。彼女はミシェールの横に立ち、彼女をそっと、横に押した。ミシェールがぽかんとする。
「お前はここで死ぬべきではない」
フードの女が囁く。
「私が全てを始めてしまった。全ては私が終わらせる」
「……」
ミシェールは、口をぎゅっと横に結んで、涙を必死に堪えながら頷いた。そして、とぼとぼと、元いた場所、何人かの先輩の魔女に守られていたところへと、一人で歩いていった。そして、何秒間か立ち止まって震えていたが、やがてそのままそこで、泣き崩れてしまった。大きな声で、わあわあと泣いている。
「……すまない」
フードの女が溜息をついた。
「私の世界のためだけに……何人が犠牲になったことか……すべて私の責任だ」
周りの魔女たちは、皆、彼女を見つめていた。最早高揚は無い。彼女はたった今、自らの手で葬った。自らの最愛の人を。ただ、勝利のためだけに。けれど――それを悲しみ、嘆く間ですら、今の彼女には与えられないのだろう。
「残酷な」
フードの暗闇の奥から、悲しげな声が囁いた。
「残酷な命令を、下してしまった……私は……詫びねばならない」
魔女たちは、攻撃をやめていた。敵も味方も、何もできなかった。その魔女に視線が吸い寄せられていた。
「唯一つの家族だった筈だ……我々は。私は悲しみに暮れている……これは私の過ちだ。私の罪だ……どうか、許してくれ……」
声は、静かにも拘らず、皆の耳に届いた。清らかにして、美しい声だ――にも拘わらず何故だろう、まるで、その奥に何か得体のしれぬモノが潜むような声だった。
「償いのためだ……」
彼女が歩いてくる。
「こうして今私が、お前たちの前に現れるのは。それに最早お前たちに、どこまでも忠誠を誓ってくれるお前たちに、無知による恐怖など元から不要だと判断した……本当に……本当によく、戦ってくれた。
だがそれももう終わる……永久となる安らぎの時が来る。じきにこの犠牲を糧として、新たなる世界が顕現する。我々は手にするのだ……この世の全てを。心を残した、そのままに」
人影の手が流れるようにして持ち上がり、自らのフードにかけられた。徐々に、それが、持ち上げられていく。ゆっくりと。ゆっくりと。ゆっくりと――
ジネットは瞬いた。まさか――
「……どうだ……ジネット・レッド・ベネット……」
彼女が囁いた。冷たい笑いが響いた。
「今の私は……どう見える?」
フードが、外された。
その目は大きく見開かれ、眩い虹色の光が、まるで異界のエネルギーのように、内側で弾け回っていた。目の下には、放射状に、十字架の入れ墨が彫られている。唇の間、尖った歯の隙間から、艶めかしい舌が覗いた。肌は白い――満月の夜を照らす月明かりを思わせる。幾つにも束ねられた銀髪が、あたりではためいている。
彼女が細長い腕を横に振り払うと、そのままマントが外れ、風によって横に受け流され、蝶が脱皮するようにして抜け落ちた。彼女は、魔女のドレスを着こなしていた――黒が基調だが、そこら中に虹色の線がシャワーのように入り乱れ、まるで布の上にエネルギーの河を流し込んだかのようだった。風の中で揺らめくと、その模様が変わり、眩く光った。
魔女たちは皆立ちつくし、その姿に見惚れていた。その場で、感動の涙を流して崩れ込み、拝む者もいた。世界が彼女に釘づけだった。
サン=キリエルを照らし出す月明かりの中に、彼女はそうして立っていた。
サンドリーヌ・メロディが、顔を上げた。




