第十五章
その夜、サン=キリエルよりサン=ノエルに向けて、五十五名の黒魔女と二百柱の悪魔より編成される戦闘部隊が飛び立った。冷たい夜空の中を、呪われた鴉の一団のようにして飛んでゆく。風よりも速く、炎よりも激しく。その目的はただ一つ、敵はただ一人。だが彼女らは、その決戦の地へと向かいながら、今までにない緊張感を滲ませていた。
彼女らの脳裏に、主君たるサンドリーヌの言葉が蘇った。
――現在のところ、『黒魔女』としてのKの能力は未知数だ。今彼女には完全な戦場の霧がかかっている。決して気を抜かず、常に最悪を想定し、最善を尽くし行動せよ――。
「戦場の霧」。慣れない概念だ。魔女達にとって、これは通常あり得ない事態だった。
本来は軍事用語である。どんなに綿密な作戦を立てても、実際の戦場に立つとそれがうまくいかないケースは幾らでも存在する――無論これは、戦場における相手の行動を正確に予測し尽くすのが、原則不可能であるからだ。敵の行動の詳細が、いわば「霧」に包まれた状態の中で遂行される以上、どんな作戦も、やはり不確定要素をはらむことを宿命づけられている。そしてこの「霧」を、便宜上、「戦場の霧」と称す。
互いの魔術技能が不明瞭であり、且つ一発の奇襲攻撃が敗因となり得る魔女戦闘の世界では、この戦場の霧は国家間戦争におけるそれ以上の重要度を持つと言える。だが通常、サンドリーヌ・ファミリーは、この戦場の霧と無縁である。何万という使い魔を率いるサンドリーヌは、サン=キリエル周辺での全ての敵の動向を常に窺うことができる。そしてその用心深さゆえに、必ず敵に関して可能な限り多くの情報を集めてから戦うばかりでなく、通常はいつも敵をサン=キリエルへと誘導、常に監視下に置いている状態で戦闘し、いわば、戦場の霧を「晴らす」ことができた。
唯一の問題が、召喚された悪魔の行動範囲が、術者を中心に一定の距離内と、限られてしまっていること――サンドリーヌとは言えど、サン=キリエルからサン=ノエルまでの長距離、直接悪魔を派遣することはできない(今回の部隊に同行する悪魔達は、内部の魔女が召喚し引き連れている物だ)。よってサン=ノエルで戦闘する場合には、戦場の霧がかかってしまう。通常これをカバーするために事前に情報を集めるが、ここまで緊急の作戦変更となるとそれもなかなか難しい。
現時点ではサンドリーヌも、彼女がサン=キリエルより遠隔指揮する部隊も、黒魔女Kの能力について大まかな推測しかできていないのである。こんなことは前例がなく、そして派遣された部隊の規模がこれだけ大きかったことも、それに起因していると言えた。なんとしてでも、今夜中に黒魔女のKを殺し、その灰を回収、術式が執り行われる真の舞台であるサン=キリエルへと持ち運ばなければならない。
魔女たちは、サン=ノエルの上空までやってきた。疾走する雲間から覗き見える自然発生都市は、城壁も無く、鉄塔も無く、幾何学性すらも欠き、城塞都市サン=キリエルに慣れた彼女らにとっては若干歪で違和感のある物として映った。
「エステレイア、魔術探知を頼む」
部隊の先頭に立つアストリッドが、少し後ろでぷかぷか浮いている魔女に囁いた。暴風の中で飛んでいきそうな白いナイトキャップを、片手で必死に頭に抑えつけている魔女だ(エーステレレ・エステレイアの帽子は、魔女装束の一部ではないため、魔女の装束として珍しく、飛んでいく可能性がある)。背の低さと童顔とが合わさって、幼い少女に見える。
「えっと、はひ、アストリッド様」
エステレイアが、赤ぶち眼鏡のテンプル――フレームを耳へ繋ぐ部分――に指をなぞらせ、短い呪文を唱え、目をカッと見開いた。表情が突然、打って変わって真剣になる。目の中に赤い炎が灯り、眼鏡の上に緑色のギリシャ文字が、凄まじい勢いで羅列されてゆく。
「……微弱反応……多数」
エステレイアが、先程とはまるで異なる、感情の抜けたような声で囁いた。
「都市全域に渡って確認……詳細不確定。接近の必要有り……追加探知情報、サン=ノエル司教座聖堂の真上に……」
唇が静かに囁く。
「黒魔女のKの魔術信号の存在を……確認」
「よくやった。礼を言うぞ」
アストリッドが声をかけると、エステレイアはハッとして、電気ショックが走ったかのように全身を震わせた。目の中の炎が消え、元のようなふにゃっとした表情に戻る。
「えっと、へへ、礼には及びませんて」
「ではこれより作戦の第一段階を開始する。全部隊――分散せよ!」
アストリッドが首を傾け、目を見開き、弾けるように強く指を鳴らすと、周りの魔女たちが、一斉に、放射状に、全方向に飛び出した。真っ黒な流れ星のように。それぞれあらかじめ設定された持ち場へと向かってゆく。
「クロックワーケスに伝達! 悪魔部隊α班及びβ班、目標へ接近せよ!」
アストリッドが声を張り上げた。街の東端へと凄まじい勢いで落下していっていた一人の魔女、そのアルミネ・フォン・クロックワーケス――輝く金属の輪っかをドレスのそこら中に括り付け、右手は鉄製の義手、全身の回りには、銀色の様々な立体を浮かべている――が、手の周りを浮遊していた金属板の表面を、指で複雑になぞった。彼女の周りの悪魔達――どれも、幾何学的な銀色の立体を集合させて形作られた、ポリゴン状の無機的な外見をしている――が、一斉に電子音をあげながら、彼女の元を離れ、街の中心に向けて迸っていった。
「続いて第二、第三魔女部隊展開!」
合計十名の魔女が軌道を逸れて、一斉に全方向から空中を駆け抜けて行く。司教座聖堂の中心塔の真上に突っ立っている、その魔女のシルエットに向かって。風を突っ切って。夜空の下の闇の中を。
「おい、ちょいと魔導反応が小さかぁねぇかV―7(ブイ・セット)」
黒魔女Kのシルエットに向かって突っ込んでゆく十人の魔女の一人が、ギザギザの歯をむき出して唸った。緑色にぎらめく巨大な目と、身長より長い茶色のツインテールに、ぐちゃぐちゃのフェイスペイントが特徴的な魔女だ。両手に一本ずつ箒を持って、ツインテールを後ろに棚引かせて飛んでいる。彼女は、サンドリーヌ・ファミリーの第二部隊隊長、「イナゴ(ローカスト)」と呼ばれる黒魔女だった。
「ヤバいかもしれねぇ。黒魔女のKとやら、あんだけの灰吸い込んだにしちゃあ全っ然オーラが弱すぎる。虫の知らせがするぜ。こいつぁサンドリーヌ様の仰ってた『いけねぇ奴』じゃねぇか?」
「悪魔召喚術師、ということですか」
ローカストの横にいた、V―7(ブイ・セット)と呼ばれた魔女――第三部隊隊長――が囁いた。着こなした薄いガウンも、後ろではためく絹のような長髪も、脱色したように真っ白だ。箒を持たず、手を後ろで組み、垂直姿勢のまま落下してゆく。背中からは二枚の、金細工を思わせる、半透明な翅が生えていた。
「あぁ確かに、反応が弱いですね。あの凄まじい力が秘められた灰をすべて吸収したとすれば、本来黒魔女Kは爆発的な魔力のオーラを発するはず。ともなればあなたの言う通り、Kの専門範囲は、自らの魔力を『召喚』及び『制御』の術式に変換する悪魔召喚術……サンドリーヌ様と同じ」
「へっ」
ローカストが、自らの前で、手に持った二本の箒を交差させた。
「向こうも人海戦術が使えるってわけか。ならあたしも加担しねぇとなぁ!」
箒の木の表面にヒビが入り始めた。内側から無数の羽音がうるさくざわめき始める。
十人の魔女たちの前に、サン=ノエル司教座聖堂が、その中央塔のてっぺんに立つ黒魔女Kが、加速度的に迫ってくる。ぼんやりとしたシルエットが、段々はっきりと見えてくる。特にこれと言った個性も無い、一般的な魔女の装いで、聞いていた通りの幼い少女だ。だが、ここからでも分かる。あの真っ赤に燃え盛る両眼の奥で踊る、一切の躊躇を知らない破壊的な意思――本人にその自覚は無いかもしれないが、コイツは敵に回したら相当ヤバイタイプだと、ローカストは思った。
ローカストはタイミングを見計らっていた――術式解放のタイミングを。黒魔女のKがこちらの方を向いている――その顔に、ぞっとするような笑みを走らせて。杖をこちらに掲げ、ブツブツと何かつぶやき始めている。柔らかい唇の間から、鋭い歯が覗く。
「第二第三部隊、総員分散!」
ローカストが怒鳴った。
「来るぞ! 防御結界用意――」
そしてその通り、まさにその瞬間だった。
Kの持つ杖の先端が閃光を発し、真っ黒なエネルギーの波が、全方向に拡散するようにして吹き出された。ローカストは舌打ちをして、空中で踏みとどまり、箒を交差させる腕に力を込めて防御態勢に入った。空中に石の壁が展開され、彼女の前を覆ったが、衝撃波が当たると粉々に砕け散ってしまった。破片が彼女に襲い掛かるが、皆彼女に当たる一瞬前に、かき消すように消え去った。無傷だ。
後ろの魔女たちも個人個人、様々な防御法を扱おうとしたが、うち三人は失敗した。Kの放った攻撃が強すぎて、バリアーが砕け散ってしまったのだ。急いでローカストが手を伸ばし、彼女たちの前にも石の壁を展開させようとしたが――近くの二人はなんとか成功し、助けられたものの、一人は遠すぎて、能力の作用範囲から外れていた。結界が間に合わず、衝撃波を受け、短い悲鳴を上げて爆散する。ローカストが歯を食いしばり、糞っ、と悪態をついた。だが、今はその死を悼む暇もない。
急いで前に向き直る。ローカストは既に、この敵、この黒魔女Kが、自分達が想定していたより遥かに強力な魔女であることに気付いていた。勘は間違っていなかった。
《ラッツィード・ヘボックの閃光波動》――前方に向けられた衝撃波もなかなかのものだったが、黒魔女Kはそもそも、別に自分達を狙ったわけでは無かった。この衝撃波は、重点的には、前方にではなく、後方に発せられていたのだ。
そしてそれもそのはずだった。黒魔女Kの背後には、予めクロックワーケスが召喚していた銀色の立体の悪魔の群れが、すぐそこまで迫っていたのだから――ローカスト側と合わせて、挟み撃ちを仕掛けようとして。それら悪魔は皆、不意打ちの後ろへの衝撃波を受けて、一斉に連鎖的に爆発していった。無数の銀色の破片が宙に舞い、瞬いては消えてゆく。ローカストの額を冷や汗が伝った。なんてことだ――こちらへ放たれた攻撃はいわばただのおまけのような物だったんだ! それでこの威力!
いや――ローカストは落ち着きと笑みを取り戻した。問題は無い。確かにコイツは危険かもしれないが、とにかく大事なことを見落としまくっている、それも事実だ。《閃光波動》は、その威力が故に、使用後には若干の隙を産む。全身にかける負荷の反動で、何秒間か、一切の魔法が使用できなくなる。相手の動きに気付ける気付けないの問題じゃあない――この黒魔女Kとやら、実力こそあれど、やはりルーキー、経験が無いな。そこを叩く!
散って行った仲間に、せめてもの短い弔いの言葉をかけ――ファミリーの掟により、戦闘中は仲間の死を大っぴらに悼んではならないことになっている――ローカストは両手の箒に魔力を込めた。どんどんそれの表面の亀裂が広がっていく。羽音がうるさく高まってくる。ローカストは声を張り上げ、高らかに叫んだ。
「唸り咲け!」
両箒が爆散した。真の姿を現した。特殊な物理的封印術により密集し結合していた、彼女の操る無数のイナゴが噴き出す。正確には、イナゴではない――その姿をした土の精霊、ストリデンティア・ベスティオーラ。何百、何千という、ぎらめく複眼。緑色の唾液を迸らせる、幾層にも小さな歯が並んだ小さな口。ざわめき、機械的に弾け動く脚。まるで飢えて堪らないとでも言うかのように。
「喰らって喰われろ!」
ローカストが、Kを突き刺すように指差した。イナゴ達が汚らしい抹茶色の渦となり、一斉に、黒魔女のKめがけて、蠢き迫っていった。
Kがハッとして、息を飲んだ。塔のてっぺんから蹴りだし、前に、空中に飛び出した。そのまま真っ逆さまに落下してゆくが、その途中、すぐ真横の聖堂の壁が爆散し、翼を生やした真っ黒な大男のような悪魔が、爆風を突っ切って飛び出した。悪魔は、彼女を背中に降り立たせると、近くの暗い路地の中へと、スピードを上げながら飛んで行ってしまった。建物の影に覆われ、闇の中に溶け込み、頭上からは完全に見えなくなる。だが、問題は無い――その軌跡の後を、ローカストが操るイナゴの渦が、ざわめきながら追いかけていった。
『目標、移動開始!』
人間大のイナゴの化け物に乗って、Kを追って飛んでゆくローカストの耳に、アストリッドの声が響いた。
『第六階層の黒魔術《ラッツィード・ヘボックの閃光波動》及び、基礎的悪魔召喚術の使用を確認! クロックワーケス班、都市区画の十二番から二十六番にかけて、上空範囲への追加援軍を頼む! そちらは時間稼ぎで十分だ! 第六部隊持ち場につけ! 第二第三部隊、距離を置き、引き続き追撃せよ!』
「分かってるって分かってますってぇ!」
ローカストが吼えた。
「おいV―7(ブイ・セット)! 挟み撃ちだッ!」
『分かりましたよ、ローカスト』
遠くからの声が、魔術道具――耳に付けた、遠隔会話のピアス――の作用で、直接耳に届く。ローカストは、家々に挟まれた迷路のような道の間を、颯爽と飛び回っていった。前のイナゴの群れを追って。そしてそのイナゴの群れは、ずっと黒魔女のKを追っている。
くねってゆく道をひたすら曲がってゆく――右左右左、右右右っ――そして気付き、ローカストの顔に、にやけが広がった。段々とイナゴ達が、Kに追いつき始めている。自分自身徐々に、Kとの距離が狭まってきている! 召喚術師全般の特徴だが、やはり機動力は随一ってわけじゃないらしい。追いつける! 勝てる!
『待機完了しましたよローカスト』
V―7の声がローカストの耳に響いた。
『あなたから見てすぐそこのところ、このまま直進し右折した場所に、私及び残りの第三部隊が待ち構えています。そこに誘導してください』
「おっし分かった!」
イナゴ達及び自らが指揮する第二部隊を操作して行き、Kの通れる道を狭めて行く。遂にV―7の待機場所近くのT字路が迫ってきた。左側には既に、第二部隊の残りの面々を忍ばせた。第二と第三部隊とイナゴ達の、三方向からの挟み撃ちだ。そしてもし上空に逃げようとすれば、待機しているクロックワーケスの悪魔達の攻撃を一斉に食らうことになるだろう。ローカストの顔ににやけが広がった。よし、このままいけば、勝てる――
その時だった。
Kが突然、前に杖を降り出した。閃光が集結する。ローカストはハッとした。まさか――。
閃光が回転し、轟音と共に爆裂した。その前の建物が丸ごと吹き飛び、凄まじい爆炎が全方向に噴き出した。何人かの魔女たちが、悲鳴を上げながら吹き飛ばされてゆく。イナゴ達の大半はなんとか踏みとどまり、急いで逆方向に退却したが、最前列の幾らかは、苦しげに脚を振り回しながら焼け死んでいった。
「おい、アイツ――正気か!?」
ローカストが毒づきながら喚く。
「アイツ仮にも元白魔女だろっ!? 建物ぶっ壊して、逃走経路を開くなんて……もうそんな思い切ったことできるってのかよ!」
「まさしく手段を選ばない……」
V―7が、ローカストの横に降り立った。
「成程、完全に黒魔女が板についてきましたね。流石は百五十名超の聖職者を血祭りにあげた女。そしてもう一つ分かったこと――これは所謂『最悪の可能性』って言われてた奴ですが。……よく周りを見て下さい」
「よく……?」
ローカストは立ち止まり、辺りを見回した。なんだ、何もないじゃないか――いや――
……何……?
ローカストは、息を飲み、絶句した。
そこら中に存在した。上空にも。壁の隙間にも。空中そこら中にも。目に見えるだけで何百、何千、何万という、小さな蝙蝠のような生き物。姿が半透明で、余程目を凝らさなければ見えないが……これは……
「使い魔……」
ローカストの声は、消え入るように小さかった。
「Kの、使い魔……!」
「サン=ノエル全域に、この密度で配置されていると仮定して」
V―7が暗い声で囁く。
「全部で合計何匹になることやら……随分と贅沢な力の使い方をする物ですね」
「サンドリーヌ様と同じ戦法だ」
ローカストが、片手で、髪をぐしゃぐしゃと掻き回した。
「ヤバいぞこれ……あたしたちのすることなすこと、全部全部筒抜けだ! 作戦もきっと読まれてる!」
「今夜の作戦において、サン=ノエル市内での会話を全てラテン語に統一するという命令は――」
V―7が頷いた。
「これを警戒してのことだったのでしょう。最低限、会話の盗聴の無力化には成功しましたが……場所が全て把握されてしまっていては、奇襲は困難を極めますし……」
彼女が指を鳴らすと、空中の使い魔の一匹が電撃を食らったように震え、完全に実体化した。そして、V―7の右の掌の中にぽとりと落ちた。V―7は、その頭についた沢山の目を指差して、付け加えた。
「私達、常に見られていますね」
ローカストの額を冷や汗が流れ落ちた。こうなったら、不意打ちも待ち伏せも、あのK相手には、絶対に効くわけがない。「戦場の霧」……今のKにはそれが通用しないんだ。通常時の自分達の戦術を、そのまんま使ってきやがった――彼女は実質的にこの街の支配者なんだ!
「この数では、幾らクロックワーケスやあなたがいても、とても殲滅しきれないでしょう」
手から使い魔を下に投げ捨てながら、V―7が首を傾けた。
「とにかく、追いますよ」
「分かってる! 召喚術師とは言え、相手は一人なんだ。こっちのこの数なら最悪、正攻法でもなんとか――」
『待て! 第二第三部隊、今お前達の元に、合計二十体の中級悪魔が接近している』
アストリッドの声だ。二人はハッとした。
「二十体……!?」
『お前達だけではない、他の部隊も皆黒魔女Kの攻撃を受けている。全ては防ぎきれんし、今そちらに援軍は向かわせられない。今は各自持ちこたえてくれ!』
「了解!」
ローカストらが上を見上げるのと、二十体の悪魔が真上に現れるのとはほぼ同時だった。どれも同じ姿をしている。身体は、手足が長めで、肌が病的に見えるほど純粋に真っ白なことを除けば、人間の女と何も変わらない――が、本来人の首があるべきところからは、五本の白鳥のそれが生えていて、それぞれ別の方向を向いて泣き喚いていた。両肩から生えた大きな翼も、まさしく白鳥を思わせる。腹部には巨大な横向きの目が開き、腰の後ろからは、色とりどりの斑模様の触手のような長い尻尾が、何十本と生えていた。それら悪魔が一斉に、合計百の首を地上の獲物達の方に向け――泣き喚く赤ん坊のような奇声を上げながら、身体を広げ、迫って来た。
「見ツケタヨ! 見ツケタヨ!」
「殺ソウヨ! 殺ソウヨ!」
「こんにゃろぉぉっ!」
ローカストが横の壁を殴りつけると、壁のそこら中から溶け出すようにして何百というイナゴがざわめきだし、上空に羽ばたいていった。何匹かの白鳥の悪魔が逃げ遅れ、全身噛みつかれ、女性の断末魔の様な声をあげながら食いつくされてゆく。刺激的な明るい青の血が噴き出し、地面にあたってはジュージューと音を立てる。だが、よく見ると酸性の血に侵されて、どんどんイナゴ達も溶けだしていた。やがてどのイナゴも、完全に溶けて消え去ってしまい――表面的な怪我こそ負ったものの、命に別状はなさそうな悪魔たちが、高笑いしながら再度迫って来た。
「まじぃ、これあたしが苦手なタイプだ!」
ローカストが歯を食いしばった。
「V―7、頼む!」
「言われなくとも分かってますよ」
V―7が、自らの首筋に指を走らせた。
「何のために今まで、一度もこれを使ってないと思うんですか」
V―7が、服の胸元から、長めの羽ペンを取り出した。凄まじいスピードで、周りの空中に、それで金色の線を描いてゆく。完璧な象形に。幾つもの、金色の線で創られた、立体的な大砲の形に。合計五門。
「耳を塞いでください」
ローカストが、V―7に言われた通りにした瞬間、V―7が指を鳴らした。大砲が一斉に実体化し、発射され、上空で白鳥の悪魔たちが奇声と共に爆散した。と同時に、V―7が素早く羽ペンを動かし、二人の前に二つの盾を描きだした。目の前で固まり、降り注ぐ酸の雨が防がれる。
「合計七つまで」
ローカストが引き攣った笑いを浮かべる。
「イメージを実体化させる、錬金術の高等術式……やっぱ便利なもんだな。ありがと」
「礼には及びませんよ」
盾が消えた時には、既に大砲も消えていたが、代わりに五本の槍が空中に現れ、一斉に上に向かって放たれた。槍が刺さった五匹とも、爆散して吹っ飛んだ。華麗に舞うようにして象形を描いてゆくV―7の羽ペンが、空中を駆け巡り、鋭く唸る。
残り十匹が襲いかかってくるところで、V―7の周りに、五つもの複雑な魔方陣が完成した。それらが、伸縮し、空中を円盤のように飛翔し、白鳥の悪魔たちに覆いかぶさった――一つの魔方陣に着き、二匹を絡め捕るような形で。そしてどの魔方陣内部でも、悪魔達は互いに強引に押しつぶされ、結合し、対消滅していった。降りかかる酸の雨を、なおも形成された、二つの盾が防いだ。
「では」
V―7が囁いた。羽ペンを宙に回し、片手を長い髪にさらりと通す。
「次へと急ぎましょうか」
収まりつつある炎の中を、ローカストとV―7率いる二つの部隊が突っ切っていった。数は減れども、士気が落ちることは無い。その少し上空を、イナゴの渦が飛んでゆく。若干の遅れこそ出たが、Kのスピードになら追いつけるはずだ。強力には違いないが、Kにはまだ、上級悪魔を召喚できるほどの知識も経験も無い――だから、その速度には限界がある。魔女たちが、前方に目を凝らすと――
「あそこです!」
ローカストの部下の一人が指差した先には、翼を生やした悪魔の上に乗って逃げ回っている、あの忌々しい少女がいた。勢いを付けながら、どんどん距離を離していっている――何らか風の魔法を使っているのかもしれない。魔術反応も間違いない、彼女の強さとおおよそ一致する。
「おっしゃ、ありがとさん(メルシヴィヤン)ッ! アストリッド様、目標再確認しましたァ!」
『確認した、ローカスト。第四、第七部隊、〇壱伍(015)作戦開始!』
ローカストは次に何をすべきか考えた。元々第二・第三部隊の基本的任務は、敵のひとまずの様子を窺い、データを採取すること。及び場合によっては、多くの黒魔術の術式を使わせることで敵の魔力を削ぎ、後に仕留めやすくすることだ。イナゴならいくらでも湧いてくる。ローカストは指を鳴らした。
「特攻しろ!」
周りのイナゴの渦が、一斉にKに向かって突っ込んでゆく。Kが振り向いた。真っ赤な目が燃え盛る。夜の闇の中に浮かび上がる彼女のシルエットの周りには、沢山の蝙蝠のような小さな化け物が舞い狂っている。彼女の使い魔が、彼女の周りに、無尽蔵に湧き出し始めているんだ。
Kが指先を前に向ける。そこから何百もの細かい鎌鼬のような風の衝撃波が飛び散り、イナゴ達をいとも簡単に切断していった。切断されたイナゴは、いずれも形が崩壊し、砂へと爆散してゆく。Kが、どんどん遠くへと、遠くへと、そのまま加速してゆく――。
「ん……なんだ、あれ? 《サイデラークの疾風》か……」
ローカストが唸るが、横のV―7は、違います、と首を振った。
「魔術反応式が微妙に異なります。どういうことでしょう、いや、まさか――」
ハッとして、声を上げる。
「来ます!」
「何――」
Kが、突如全身を捻り、こちらに向けて強く踏み込んだ。杖を前に突き出し、目を見開く。その瞬間、杖の先端からローカストたちに向けて、凄まじい風の螺旋が巻き起こり、空中を迫り来た。周りのイナゴたちがなすすべもなく巻き込まれ、回転に飲まれてゆく。
「――ぐおっ!?」
ローカストの足元が宙に浮き、まともに叫ぶ間もなく、身体ごと真後ろに吹っ飛ばされた。V―7も、ペンが動かせない程の風圧の中では、何もなすすべがない。二人とも、部下達もろとも、後ろへと吹き飛んでゆき――そこに聳える、石造りの建物の壁に、そのまま思いっきり突っ込んでゆきそうになり――
しかしローカストは、にっと笑い、その壁に向けて片手を繰り出した。指を大きく開き、強く魂に念じる。
壁に手がついた瞬間、三階建ての巨大な連結商店の建物全体が、無数のイナゴの群れとなって爆散した。あたり一面、一斉に、何万というイナゴたちに埋め尽くされる。イナゴたちは、収まりつつある竜巻をものともせず、Kに向けて一丸となって空中を駆け巡ってゆく。
「所詮はまだまだ青臭ぇガキっつーこったなぁッ! ヒャハハハハ!」
ローカストが、空中で両手を広げながら、高らかに吼えた。
「こんなこともできんだよ! これがこのローカスト様の力だ、思い知れバーカ!」
「あ――ありがとうございますっ、ローカスト様っ――!」
部下の一人が、心臓を撫で下ろしながら、隣に飛んできた。
「今のがなかったら――あたしたち――」
「へっ、もっと褒めてもいいんだぜ! 全部あたしに任せとけ! 市街地での戦闘だったらゼッテーに負けねぇよ!」
数え切れぬほどのイナゴたちが、Kの下へと向かって、全方向から羽ばたいてゆく。流石のKも、これには驚いたらしく、口を開けてあたふたとあたりを見回している。
と――全て一気に迎え撃つのが不可能と判断したのか――次の瞬間、彼女は、急いでくるりと踵を返し、更に速度を上げて、向こうへと飛んで行った。その後に続き、そこら中の闇から溶け出すようにして、無数の蝙蝠のような使い魔が空中へと巻き上がってゆき、ローカストたちの追跡経路を塞ぎ尽くす。何重にも重なりあう、真っ黒な防御壁。牙が噛み合い、色とりどりの目がぎらつく。
「――衝突、します――」
V―7が言いかけたが、その横でローカストが、上等じゃねぇか糞餓鬼、と笑った。
「売られた喧嘩は買わなきゃな。ちょっち援護頼むぜッ、V―7(ブイ・セット)ォ!」
V―7が、どこか困ったような苦笑いを浮かべた。ローカストと顔を見合わせ、確認し合うようにして、軽く頷く。
そして次の瞬間、ローカストが操るイナゴたちの巨大螺旋が、Kの使い魔の海の中へと、正面から突っ込んでいった。
Kの使い魔たちが、甲高い奇声を上げながら、空中でイナゴたちとぶつかり合い、噛みつきあい、切り裂きあう。肉が千切れ、岩の関節が砕け、色とりどりの目玉が飛び散る。血や砂が宙を舞い、あたりの空を赤茶色に染め上げる。そして、どこまでも続くその混沌の中から、空中を突っ切って、巨大な馬車が飛び出した――まるでおとぎ話の中から抜け出してきたかのような、カボチャを思わせる形状の、金色細工の馬車。馬車が地面に衝突する寸前、その中から二人の魔女が強く蹴りだし、空中へと舞い上がり――片方は、近くの商館の壁の中から突然溶け出した、巨大なイナゴの背に着地した。もう片方は、背中の半透明な翼を広げ、鎖骨の少し下の、服の細かいしわを調節し、前方をきっと見据えた。
後から続いて、もう何台かの、同様の形状の馬車が現れた。破壊が荒れ狂う渦の中を安全に飛び出し、地面に衝突しようというその時、それらの中からも配下の魔女たちが顔を見せ、箒に乗って飛び出し――空中を縦横無尽に駆け巡り、二人の後ろに集まった。
合計七台の金細工の馬車が、一斉に地面に衝突し、砕け散る。金色の糸状繊維や、光の粒のようになって分解され、あたりへと粉々に舞い上がる。
黒魔女Kは、相変わらず悪魔に乗って、遠くへ、遠くへと逃げ去ろうとしている。こちらの音に気づき、はっと振り返り――顔に驚愕を浮かべる。まさかこんなにも早く、防衛線が突破されるとは思わなかったのだろう。ローカストとV―7が率いる部隊は、見る見るその距離を縮めてゆく。あたりの景色が、めまぐるしく流れてゆく。
「……クソッ……流石に、疲れるな……」
ローカストが、口元を拭い、息をゼェゼェと切らしながら、横のV―7に小声で囁いた。
「あんだけデッケェ建物全体の分解は……ちと、魔力が……使い、過ぎ……ッ――」
ギザギザした歯を食いしばり、苦しげに咳き込む。真っ赤な血と、微量の灰が、ローカストの手のひらに散らばった。悪態をつき、荒々しく唸る。
「……部下たちには内緒な」
「――無理しないでくださいよ」
「分かってる……クソッ……あンの餓鬼……」
横で、自分の血と灰とを、手から長い舌で舐め上げるローカストを見つめながら(僅かな灰でも、取り込むに越したことはない)、V―7は多少頭の中で考えを巡らせた。前を向き直り、ペンを手に取り、空中、目にもとまらぬ速さで、幾つもの魔方陣を描き出す。
「――エヌ・ウム・サプラ・デイル・ヴェリウス・オン・フォーリンターレス――」
V―7が、羽ペンを空中で縦横無尽に動かしながら、静かな声で囁く。黄金色の魔方陣が、あたりの空中に何重にも展開されてゆく。
「サラサンヴェリサ・エトケルサプラ――キルス・ケルス・ポール・ドン・ヴォークス……サイケル・フェリグダース・ケプレ・ルーズ・ダス・マイラス――……」
連なる魔方陣が完成し、V―7のペン先が、その動きを一度ぴたりと止めた。ペンを指の間で華麗に回してゆき、黒魔女Kに向けて繰り出し、黄金の目を細める。
「――エス・ケルバ・パサラ」
魔方陣が歯車のように一斉に回転し、金色の閃光を発する。いや、閃光ではない――鎖だ。光が顕在化したかのような、眩く煌めく鎖。あたりに黄金細工の羽根吹雪を撒き散らしながら、前方へと真っ直ぐに突き進んでゆく――受け止めようと飛び込んできた蝙蝠のような使い魔たちをものともせずに貫いてゆきながら、黒魔女Kに向けて一直線。Kが何か声を上げたが、もう遅い。鎖が、彼女の四肢や、下の悪魔の全身に絡みつき、彼女をその場で強く固定した。
Kが、歯ぎしりをして、必死に両腕を動かそうとしている。杖に魔力を込め、何らかの呪文を唱え始めている――そして、それに影響されてか、周りの黄金色の鎖も、段々と朽ち落ち始めてきてはいる、が――完全に解き放たれるまでには、まだもう数秒間はかかる。魔女同士の戦闘においては、あまりに十分すぎるほどの時間だ。これで勝ったも同然。
と、いうのも。
「いたぞ!」
上空から声がして、ローカストは口元を拭いながら、ハッと上を向いた。その場に到着した第四、第七部隊が、Kの真上で、各自の飛行道具に乗って並走している。皆杖を下に掲げ、やっと鎖を振りほどき、息を切らしている様子のKに向けて、次なる攻撃を放とうとしている。
一斉に、唱える。
「鼓動する祭壇よ、羽飾りの心臓よ! つま弾く刀よ、巻き上がる炎塵よ! 紅の角笛・朱き巫女の乱舞・イフリート、サラマンドラ、諸侯なる聖炎よ! 崇拝、招来、顕現をせしめよ! 火砕流たる言霊よ!」
ビキィ、と、何かが割れて炸裂する音がした。Kを取り囲むようにして、完璧な球体を描き、真っ赤な炎の線が空中を駆け巡った。Kが驚いた表情であたりを見回した時には、もう既に時は遅く――彼女を中心とする、完璧な牢獄が出来上がっていた。
やった、と、ローカストは、心の中でガッツポーズをした。合計十人以上の魔女の連携によって初めて成り立つ大技、最高四元術《聖炎諸侯の娯楽処刑》だ! これをまともに喰らって無事でいられる魔女はこの世には存在しない!
上空の魔女たちが、炎の牢獄を取り囲んだ。Kが必死に杖の先から疾風を迸らせるが、炎の柵によって、無慈悲と思えるほど簡単に打ち消される。あたりをさかんにキョロキョロと見回し、目を見開き、歯をガタガタ鳴らしている。顔が汗まみれだ。
魔女たちが一斉に杖を牢獄に向け、一喝した。
「殲!」
牢獄が炸裂した。一斉に内側に圧縮され、爆散した。Kの短い断末魔が、轟音に掻き消される。衝撃波が吹き荒れ、爆風が渦巻く。残されたイナゴ達が空中で精一杯とどまっている。ローカストはその場で飛びあがった。やったぞ、勝った! まだ「星が揃う瞬間」まではゆうに一時間以上ある。後は灰を掻き集めれば――
……ば……?
上空で、信じられないことが起こった。
第四、第七部隊、総勢十一名。全員の首が、ザザザザザッとざわめくような音を立てて、連鎖的に切断された。
ローカストはぽかんとしていた。目の前の光景が、宙を舞ってゆく十一の首の意味が理解できなかった。嘘だ、だって、確かに、絶対に、Kは殺したはずなのに――。
「危ないっ!」
V―7がローカストの身体に突っ込んだ。足元がイナゴの背から浮きあがり、ローカストは、うわっ、と驚きの声を上げたが、次の瞬間にはそのありがたみを思い知らされた。彼女の首が一瞬前まであった場所を、鋭い銀色の円盤が、風を切って突き抜けていったのだ。円盤は何十枚と飛んできたらしく、その一つがV―7の肩をかすめた。V―7が、声を引きつらせ、血飛沫を上げる肩を押さえた。
「あぁっ、V―7すまねぇ! お前大丈夫か――」
「私は、大丈夫ですが……」
血塗れの肩を抑えながら、V―7が上を見上げる。十一体の首無し死体が、みるみる箒から落下し、屋根の上にぶつかって、力なく跳ね、地上へと落下していった。そこら中に血の雨が降り注ぎ、一部が、うずくまった二人の身体の上にも降りかかった。
待てよ。
瞬きをする。
先程の攻撃。
先程の攻撃の、先には――。
ローカストは、恐る恐る、後ろを振り向いた。どうか無事であってくれと願ったが、そんな都合のいい祈り、ましてや黒魔女の祈りが、聞き入れられる筈もない。
部下たちは全員、バラバラの肉の塊になって散らばっていた。
「……あぁっ――あぁ……」
ローカストが、首を振りながら、片手を額にあてた。
「……ぁ……クッソ……この――この――!」
がっくりと膝をついて、その場に蹲る。細長い、震える指の隙間から、血走った緑の目が覗く。
「この――こンの――糞餓鬼ィ――!」
「……今のは……」
V―7が、血だらけの肩を押さえながら起き上る。
「……一体、何が……」
「っ――知るか――! 大体……意味が……分からな……」
イナゴの背にもう一度乗り、ローカストが頭を振る。
「おいおいおいおいおい冗っ談じゃねぇぞ――なんであいつ《娯楽処刑》受けて生きてんだよ、ちょっとマジで待てよ意っ味分かんねぇよ畜生――何が――何が――!」
ハッとした。目の前、しばらく先のところで、空間がしきりにぐにゃぐにゃと歪み、ざわめいている。爆発寸前のように。はちきれるように――。
そしてそれが晴れた。吹き飛んだ。無数のそれらが、全方向、そこら中に溢れ出した――蝙蝠のような翼、幾つもの目、血を滴らせる口、そして、刻々と色が移り変わってゆく皮膚。
使い魔。
Kの、使い魔。
そして、その透明な使い魔の膜に隠されていた空間から、偽の景色の写された壁が徐々に取り払われるようにして、それらの主たる黒魔女が現れた。驚愕を隠しきれぬローカストと、苦々しい表情のV―7の目の前に。
彼女はその全身から、真っ黒な触手のような、おどろおどろしいオーラを放っていた。漆黒のワンピースを纏い、自身より長い杖をつき、深く俯いて、せせら笑っている少女――黒魔女Kだ。彼女の横では、何匹かの、まるで小人の全身骨格を黒く塗って小さな翼をつけたような不気味な悪魔が、銀色の円盤を持って踊りまわっていた。どれも、破裂しそうなほど巨大な目の焦点も合わせず、翼を無駄に羽ばたかせ、彼女の周りで愉快気に飛び回っていた。
「……そういうことですか」
V―7が目を細め、頷いた。
「あなたの使い魔、中々使えますね」
Kがゆっくりと、だるそうに顔を上げる。答える気は無いらしい。V―7は続けた。
「決して別に、透明なわけではない。色が自由に変えられる結果、カメレオンの要領で擬態してそう見えるのでしょう……先程殺された『K』は、使い魔を密集させることで創り出された、あなたの完璧なコピーだったわけですね」
「つ、使い魔でコピーを作るだと……!?」
ローカストが目を瞬かせた。
「嘘だ、そんなことできるはずねぇだろ!」
「全ての個体が連携すれば、外見は擬態できますでしょう。あとは魔力量を調節するために内部個体数を圧縮さえすればなんとでもなるのでは。黒魔女K、あなた自身の発する魔力量がそこまでの物ではないですから、単体では探知されにくい使い魔でも、何百匹と集まれば似たような波長になるのではないかと……しかしいやはや、たまげました。何にせよその働きに必要な精密性、統率力、使い魔のネットワークに対する情報把握能力、いずれも並大抵のものではありませんが」
「……」
Kは不快そうな顔だった。杖を掲げる。たった一言だけ、ボソリと呟いた。
「……邪魔」
ローカストの中で、何かがプツンと切れた。気付くと、V―7の制止も振り切って前に駆け出し、指を突き立て、イナゴ達に攻撃司令を出していた。
「殺せ!」
周りの地面が揺らめく。そこら中から何百というイナゴが噴き出し、一斉にKめがけて羽ばたいてゆく。
「何としてでも殺せ――」
ローカストが唸り狂う。
「奴を喰い殺せ! 地獄に墜とせ!」
「……汚い」
Kが苛立ったような声を出した。周りの円盤の悪魔達が、一斉に奇声をあげ、円盤を放つ。イナゴ達が、一斉に、真っ二つに切り開かれてゆき――
とは、いかなかった。
最初のイナゴに当たった瞬間、円盤があらぬ方向にはじかれてすっ飛んで行った。Kの横の悪魔たちが、一斉に、しきりに喚き始める。迫ってくるイナゴ達は、頭に若干の傷こそついたが、皆健在だ。Kが少しぽかんと、驚いた顔をする。
「やっと気付いたか糞野郎っ!」
ローカストが怒鳴った。
「そいつらァそもそもイナゴじゃねぇ、イナゴの形をした土の精霊なんだよ! 今お前に差し向けた奴らの『材料』はこの壁や地面の石、それも圧縮に圧縮を重ねて魔術で強化済みだ! 即席の奴とは強度が違うんだよ強度がぁ!」
「……めんどくさい!」
Kが顔を上げて喚いた。尖った歯が並び、虹彩は真っ赤にぎらめき、最早彼女は黒魔女以外の何者でもない。杖を振りかざし、前へと突きだす。
「邪魔なの!」
幾つもの刃物の円盤が、イナゴ達の群れを突っ切って、ローカストとV―7に直接飛んで行った。だが二人とも動かなかった。二人が前に、防御的に構えた腕に、円盤が衝突し――刺さらず、宙に跳ねていった。
「な――!?」
「よく見な糞餓鬼!」
ローカストも、V―7も、腕の表面、いや全身の表面に、真っ黒い層が固まり始めていた。防御用に、地面から錬成された石の盾だ。ローカストが勝ち誇った笑みを浮かべる。
「あたしは四元術の地属性においてなら文字通りファミリー内最強の魔女だ! 経験もテメェの比じゃねぇんだよ! 部下達の仇は、今ここで討ってやる!」
「だったらなんだ! 早く死ね!」
Kが目を見開きながら叫んだ。
「あんたたちに付き合ってる暇はないの!」
「餓鬼がほざく台詞じゃねーんだよぉ!」
ローカストが声を張り上げて怒鳴りつけるのと、イナゴ達がKに到達するのとはほぼ同時だった。イナゴ達が、一斉に、幾重にも細かい歯が並んだ口を開き、Kの身体にかぶりつき始めた。Kが恐ろしい悲鳴を上げる。無我夢中のイナゴ達に、柔らかい肉が食い千切られてゆく。全身びっしりと覆い尽くされ、イナゴ達が蠢きまわる。
「やめて! 痛い! 痛い!」
Kが喚く。
「助けて――助けて――」
「誰が助けるか! 当然の報いだ!」
ローカストが怒鳴り散らした。
「こんだけの奴ら殺したんだ。全員あたしの大切な仲間だったんだ! テメェ責任取ってもらうからな、ホントは何回何十回何百回殺したって殺し足りねぇ!」
「ち――違います!」
V―7がローカストの腕を掴んだ。
「こ、これは――」
「何――」
ローカストは絶句した。
「嘘……だろ……?」
「ローカスト――」
Kが断末魔を上げる。
「ローカスト――様ぁ――」
そのまま地面に崩れ落ちた。最早息をしていない。けれどそれは、黒魔女Kではなかった。
先程切り刻まれて死んだはずの、第二番隊のメンバーの一人だった。その横で、けたたましく笑う悪魔が、宙に消えていった。道化師のような姿の悪魔。指先から、垂れた糸が舞っている。まるで、そう、操り人形を弄んでいたかのように……
「な……何が……」
ローカストは震えていた。目の前で起きていることが信じられない。顔の面影が残っている……死体に、あの部下の顔の面影が……
ローカストの、黒魔女としての、経験と、本能とが告げていた――こんなこと、本来、起こる筈が無い。奴はまだ未熟の筈。経験が圧倒的に足りない筈。こんな幻術が使用できるような、先程のような上級悪魔なんて、本来、絶対に召喚できない筈――なのに――。
起こる筈のない現実が、眼前に突きつけられている。この黒魔女Kは、本来初心者の黒魔女には不可能なはずのそれを可能にしてしまった。今彼女は、たった単騎で、それもこのサンドリーヌ・ファミリー半数の勢力を相手にして、傷一つなく立ち回り――一方的な虐殺を繰り広げている。
規格外。イレギュラーどころの騒ぎじゃない。黒魔女の常識を根底から覆す、そんな存在とまで言えるだろう。一世紀以上の戦闘経験を積んだ、熟練の魔女というのならばまだ頷ける――だが奴は未だ黒魔女になったばかり、それどころか魔術を初めて行使したことですら、ここ一か月以内のことの筈だ。一体どれ程に狂いきった感情、どれ程に歪みきった欲望があれば、これほどの魔力が引き出せるのか。いや、違う――ここまでくると――
それだけだとは、思えない――。
「……どこだ」
ローカストが、震える声で囁いた。
「Kは……どこだ……! 殺してやる……絶対に、あたしが……!」
「Kは私達のことが眼中にすら無いようですね」
V―7が、苦々しい表情で上を見上げる。
「彼女はただ単に、サンドリーヌ様を止めようとしている……他の存在ははっきり言ってどうでもいいんでしょう。彼女はそもそも我々を、ただのサンドリーヌ様の親衛隊程度にしか思っていないんです。邪魔をして欲しくないだけ。だから適当に撹乱していればいい……そういう考え方でしょう。本気で取り合ってすらくれません」
「はぁ!? ってこたぁ本物はどこに――」
「恐らくですが……」
V―7が上を指差した。
「アストリッド様の元へ」
私は徐々に、勝利を確信し始めていた。
勝てる。勝てる! あのサンドリーヌ・ファミリーに勝てる。全て完全に私の思い通りに事が進んでいる。気持ちいいぐらいに。快感なぐらいに。こんなにも心地よく、安心感を持って戦えるのは初めてだ。黒魔女としての私は文字通り最強になった!
サン=ノエル全体を監視する能力……奴らの行動はすべて私に筒抜けだ。会話がフランス語じゃないせいで盗聴機能が通用しないのは想定の範囲内――最初から期待などしていない。相手の現在位置が全てわかるだけでも、相手の作戦を理解し、その場で対策を立てるには十分。
なぁに、私は別に誰一人一般人は殺していない。少なくとも殺したつもりはない。逃走経路を開くために、幾つかの建物を爆破はしたが、いずれも空き屋か、倉庫かだ(流石に、幾らシャルルと再会するという大義名分があるにせよ、一般人を巻き込む気にはなれなかった)。確かに黒魔女なら殺しまくったし、騙しまくったが、相手が相手である以上、所謂それも悪ではあるまい。生憎私は黒魔女に対して優しくなれるような聖人ではないらしい、というより、むしろ徹底的にやっているぐらいだ。
というのも、なんだかこのサンドリーヌ・ファミリーを見ていると、私はどうしようもなく腹が立ってきたのだ。どうやら使い魔達を通じて私の脳に入ってくる彼女らの様子から察するに、この「サンドリーヌ・ファミリー」とやら、思った以上に家族らしい――この組織は恐怖による支配ではなく、強固且つ純粋な信頼関係や、姉妹間・母子間のそれすらをも髣髴とさせるメンバー同士の無償の愛によって構築されているのだ。そういった物を見て、ひょっとすると一部の人は意外に思い、また彼女らと共感し、それを賞賛するのかもしれない。彼女らは黒魔女でこそあっても、悪い奴らではないに違いないと。
けれど。
私はそうは思わなかった。
理由は簡単だ――自分が好きな人に優しくするっていうことは、本当に誰にだってできるだろう。当たり前のそれが、普通の黒魔女にはできない。サンドリーヌ・ファミリーにはそれができた、でもだからといって、関係ない人間なら殺していいって考え方は、やっぱり間違っている。根底から潰すべきだ。話にもなりはしない。このサンドリーヌ・ファミリーの面々を平然と欺き、互いに互いを殺させることに、私は文字通り一刹那も躊躇せず、また何一つの罪悪感をも覚えなかった。
全てを指揮している魔女がこのどこかにいることは明白だった。仮にサンドリーヌがサン=キリエルにいた場合、ここの様子は間接的にしか理解できない。現場監督を置いた方がよっぽど効率的だろう。
サンドリーヌは、私と同じく、一つの都市全体を監視できるほどの数の使い魔を呼び出すことができると、以前ジネットは言っていた。いや、能力で言えば同じどころか私以上と考えていい。となるとだが逆に、これを元に一つの推察が可能となる。
サンドリーヌは、まだここには来ていないということだ。
……理由は簡単だ。だって。今、やけに有利過ぎないか?
今私が優勢なのは、全て、この使い魔を操る力のお蔭。私を超える使役能力を誇るサンドリーヌがこの場にいれば、そう、もしも私の動向も全て知られていたら、こんな風にすべて順調に行くわけがないんだ。
サンドリーヌは、一向にこちらに来ようとしていない。まるで、持ち場を離れたくないとでもいうかのように、サン=キリエルに、未だ留まっている。おかしい……奴は確実に、今夜このサン=ノエルに来るはずなのに。まぁだが、ひとまず今の指揮官を倒せば、何かのヒントは掴めるか……
悪魔に乗り天を駆けてゆく。上空、サン=ノエルの中心の遥か真上に見える、何人かの魔女達。指揮官らに違いない。取り敢えず、殺そう。そこに向かって飛んでゆく。
今の私は、使い魔達のヴェールを纏って、外からは絶対に視認できない状態になっている。一応探知妨害呪文も使ってはみた――本当に探知が得意な奴に掛ったらどうせすぐバレてしまうだろうが、ただの時間稼ぎだ、どうだっていい。どんどん、どんどん、迫ってゆく――。
段々と指揮官の魔女たちの姿がはっきりしてきた。中心に立つ黒魔女は、男なら誰でもイチコロにできそうなぐらい美しい顔立ちである他はこれといった特徴も無い、極めて一般的な黒魔女の装いをしているが、魔術探知に切り替えれば、正直今の私でも驚くほどに強力な魔力の波動を発している。まるで緑色の太陽のような。その横にいるのは一人だけ――赤ぶち眼鏡で、白いガウンとナイトキャップを着た、幼い少女だ。そいつが突如、私の方をぐるりと向いて、叫んだ。
「黒魔女K、確認ッッ!」
「いたぞぉっ!」
そこら中から声が轟いた。一斉に、私を取り囲むようにして、全方向から何十もの悪魔が集結し始めた。魔女達も迫り来ようとするが、皆同時に何かに気付いた様子で、ハッとしては距離をまた離してゆく。私が接近しようとしていたあの頭上の指揮官らしき黒魔女が、何やら小声でささやいている。指示を出しているのだろう――私に、不用意に近づくなと。
あたりを見回す。クロックワーケスとか呼ばれていた魔女(会話内容は分からなくても、人名は分かる)が召喚していた、大量の銀色の立体を組み合わせたような悪魔達――恐らく、あのレティシア・オラールと契約したのと同一の分類だろう――が、そこら中の空間から見る見る湧き出してきている。まずい、こいつら思ったより数が多い。やはり向こうも悪魔を使ってくると、互いにうじゃうじゃと湧いてきてきりがない。かと言って、もう一度あの波動の攻撃を放ったら、今度はタイムラグで攻撃が防げなくなる。何をするべきか……
――僕を使え。
内側から声がした。さっきからずっと、私を導いてくれている声。おおよその作戦こそ私が考えているが、魔術に必要な詠唱は、この声が教えてくれる。あの黒髪の少年の声。
詠唱はフランス語とは限らない。けれど問題ない。様々な言語、私が知りすらしない言語の呪文まで、この少年が勝手に私の口を動かして、ひとりでに詠唱させてくれるのだ。
「私が産まれて初めて使った奴でお願い」
私は内側に語るように囁いた。
「聖職者達を吹き飛ばした奴!」
――《産声》だ!
声が叫んだ。
――僕の産声。《サムザリエルの産声》!
「うはあああああっ!」
嬉々として杖を前方に振り出した。水晶玉の中で、ぎゅるりぎゅるりと、胎児が回転する。その目がカッと見開かれ、一瞬私にははっきりと聞こえた。耳をつんざくように甲高く禍々しい、そして同時にこんなにも愛くるしい産声。狂おしい程に満たされる感覚。湧き上がるエネルギー。そうだ、今の私は、まさに破壊神そのものだ!
炸裂した。消し飛んだ。私の半径二十メートル以内、全ての物質、跡形もなく。あの時と同じ感覚、同じこの征服感、漲る高揚感、最強の気分。
世界を破壊する能力。
効果範囲内の一切の物質は消滅する――空気すらも含めて。そのいわばぽっかりと空いた空間に流れ込むようにして周りの気流が乱れ狂い、そして私にめがけて、箒のコントロールを失った魔女達が一斉に迫ってくる。呆気にとられ、反応をする間もない。私が指を鳴らす。高らかに叫ぶ。
「死ねっ、黒魔女共ッ!」
――バ・ハールの斬首刑!
周りの魔女達、悪魔たち、全員の首が瞬時に吹っ飛ばされる。私は構わず高笑いしながら、頭上の二人に迫っていった。二人とも驚いた様子だ――背の高い方は、せいぜい口を少し開けて何度か唸りながら頷く程度だった――目だけは驚かず、平然としている――が、小さい方は、半分怖気づいたかのような、防御的な姿勢になって、歯をガタガタ言わせ、大きい方にしがみついている。
「ア、アストリッド様ぁ」
小さい方が、相方に言葉を漏らした。いや、フランス語ではないが――人名なら分かる、はっきりと聞き取れた。長身の方は、アストリッドというらしい――このあたり、フランス語圏ではよくある名前だ(それに、盗聴していた魔女達の会話でも、アストリッドという単語はたびたび耳にした)。そしてこの長身の方、このアストリッドとやらが指揮官なのだと考えて間違いない。
「あんたが指揮官か!」
私は叫んだ。こっちのフランス語でも、向こうには通じる。
「アストリッド? それともサンドリーヌの偽名か!?」
「アストリッド」
怯えきった横の魔女とは対照的に、彼女は堂々と名乗った。あのぎらつくエメラルドのような鋭い眼光には、揺るぎない自信が見て取れる。成程、指揮官なだけのことはある、どうやらコイツは他とはレベルが違うらしい。けれどどうせ、私の敵じゃない――そう思ったのもつかの間、彼女が衝撃的な一言を付け加え、私はハッとした。
「アストリッド・メロディ」
な――
……なんだって……?
アストリッド・メロディと名乗った魔女が、ゆっくりと片手をもたげた――何か重々しく溜息をつきながら。指先が、それぞれ違う色の、眩く砕けて弾ける魔力を帯び始める。
まずい――何か来る! 直感的に悟った。これはまずい。何か、絶対に、よくわからないけれど大変な何かが来る!
私が命令を吠えると、杖の先から真黒な電撃が迸った。《黒否妻》――《アジルザラントの黒否妻》だ。ミカエリス戦の時よりよっぽど強化した奴を、アストリッドに向けて何十本と放つ。横の魔女は悲鳴を上げたが、アストリッドは動じなかった。右手の小指を、ぺろりと舐め――それを前にかざした。
電撃が襲いかかり、彼女の四方に飛び散る。起爆し、そして、漆黒に爆散する。爆風が膨らみ、弾け、溢れ出し、あたりに広がる。それが徐々に晴れてゆく――。
愕然とした。
アストリッドは、傷一つ負っていない。
彼女は首を傾けた。
「それだけか」
彼女は両手を胸元に交差させて引き寄せ、指先の爪を一つ一つ、艶めかしい舌で舐めていった。それぞれの指についた、違う色のマニキュアがぎらめく。
アストリッドが、指を折りたたみ、両手それぞれの親指と人差し指だけを出した。右親指が赤、右人差し指が青、左親指が緑、左人差し指が橙。それらを互いにこすり合わせ、逆向きに合体させ、長方形を形作り――自らの前に、私の方向に向けて突き出した。
そこから、四色の破壊の渦が、私に向かって飛び出した。
燃え盛る炎、荒れ狂う水流、吹き荒れる疾風、土砂の螺旋。どれも、内側に小さな妖精のような物が、高笑いしながら渦を巻いて迫ってくるのが見える。コイツ――
四種類の四元精霊術、全部使えるのか……!
急いで防御に切り替える。呪文を素早く唱えると、私の周りに紫色の魔方陣が展開され、真黒い霧のような物が噴き出し、私の前を覆う――エネルギーへと変換した中級悪魔の盾だ。それに四色のエネルギーが衝突する。必死に持ちこたえようとするが――あぁ、駄目だ――まずい――
押される……!
なんてことだ、嘘だ……! アストリッドは平然と立っている。冷たい目で私を見据えている。一切の疲労の様子がない!
それでこの威力……!? 嘘――あり得ない! 幻影でも偽物でもない、本物の私だってさっきから何度も攻撃を受けてきたけど、平然とどれでも、予め張っていた防御結界の作用だけで防げたのに。このアストリッドは次元が違う。まさかそれこそ、サンドリーヌにも届くほどに……!?
歯を食いしばり、更に力を込める。本当はここでこんなに力を使いたくない――なにせ、後で本命のサンドリーヌがやってくるんだから。でも今はこうでもしなければ、さらにひどいことになる。防御膜形成が追いつかない! どうすれば――
その時だった。アストリッドがゆっくりと、指で作った長方形を分解した。攻撃が止まるかと思ったがそんなことはない、彼女がそれを発生させたところから相変わらず私に向かってぶつけられてくる。そして更にアストリッドは、自らの左中指――銀色の爪――に唾液をつけて、長方形を、とん、と軽く押した。
衝撃が加わった。あり得ないほどの衝撃が。そして激痛――焼けるような。あの時と同じ。聖水だとか、十字架だとか、聖書だとかの時と同じ。まさか、これって――
万魔術……!
そして敗北した。防御膜が壊れた。ガラスのようにひび割れ、砕け、見開かれた目の前で虚しく舞い散る。足元の悪魔が消し飛び、私まで吹っ飛ばされた。気付いた時には私はもうバランスを崩し、真っ逆さまに、加速だとかそういう次元じゃない、理性や感覚がぶっ飛ぶほどの速度で落下していっていた。地面が迫ってくる。悲鳴を上げる暇すらもない。風圧で呼吸ができない。足元が何もない。杖が手から離れそうだ!
反射的に何かを念じたのだろう、杖を持つ右手に、何か無数の刃物が刺さるような痛みが走った。だが、それが何なのか確認できる前に、私は、サン=ノエル司教座聖堂の中央の塔に、そのまま突っ込んでいった。
天井を、ぶち破る。
幾層にも連なる木材は勿論、大理石の床でさえ、そのまま私はぶち抜けてゆく。爆風と粉塵が四方に荒れ狂う中を、真っ逆さまに落ちてゆく。視界が目まぐるしく変わってゆく――階から階へ、天井の模様も、全て。階をぶち破る度に、私の身体が衝撃を受け、内側で何かが砕ける感覚に襲われた。そのまま突っ込んでゆき、地下室へ。そして上を見て、ぎょっとした――落ちてくる。私の上に、頭上に、全ての階の瓦礫が降り注いでくる――!
嫌だ! そんなの――こんなところで、こんな形で、そんなに呆気なく潰されて、今夜死んでなるものか! 生き延びないといけないんだ、私は、だって、シャルルと、約束して――。目をギュッと閉じた。嫌だ! 誰か助けて――。
轟音が世界を覆い尽くす。垂直落下する瓦礫の嵐。爆発音にすら近い。鼓膜が破けそうだ。振動が大地を揺らす。大地震のように。最早これでは、起き上がることすら――
……待てよ。
おかしい。
一秒……二秒……三秒……四秒……五秒。
死なない……?
音が段々と収まってきた。ゆっくりと、目を開ける。
杖が上に向けられていた。反射的に、生存本能が、私の腕をつき動かしたのかもしれない。瓦礫は私には降りかかっていなかった。私の身体は潰れてはいなかった。私の半径二メートルほどだけ、何も瓦礫が落ちていないが――そこをほんの少しでも抜ければ、円を描くようにして、巨大な大理石の塊がそこら中に重たくずっしりと落ちている。
助かった……のか……?
私は息を荒く荒げ、口をパクパクさせ、必死に状況を飲みこもうとしていた。粉塵を吸いこんでしまい、咳き込む。チクチクする目を開ける。どうやら……私は、全ての階を貫通したようだ。遥か上空に、最上階の塔の天井の穴から、鍵穴のような夜空が見える。
そして――その時だった。一つ、不気味なことに気づいてしまった。思わず、ひっ、と、声を出す。
……私の、手。
先ほど念じた……これを離したくないと。確かに私はそう念じたかもしれない。そしてその願い自体は聞き入れられた。でも……
……こんな、形で……!?
私が握っていた杖からは、何本もの金属の刃が飛び出して、肉も、骨も、全て、私の右手を貫通していた。血が流れ、腕を伝ってゆく。服に徐々にしみ込んでゆく。
痛みが遅れてやってきた。切り裂かれるような痛み。手がガタガタと震える。痙攣する。口を開き、嗚咽を漏らす。歯を食いしばる。涙が滲む――。けれど、それすら、新たなる恐怖にとって代わられた。
刃が徐々にしぼんでゆく。そしてその代わりに、何本もの細長い触手が、杖の持っている部分から生え始めた。私の右手を覆い始める。
「……っ……ぁぁ」
冷たい……ぬるぬるしてる……嫌……!
「ぁ……あぁぁぁあぁぁ」
びっしりと張り付いてくる……嫌だ、何、これぇ……!
触手が私の右手を覆い尽くしてゆく。離れないように。ずっと一緒なように。決して、どんな衝撃が加わっても、私がこれを離すことがないように。
私は信じられずにそれを見つめていた。こんな、こんな物が……!?
――君の願い、聞いてあげたよ。
サムザリエルの声がした。
――君を助けてあげた。杖だってくっ付けてあげたよ。嫌、かい?
「……嫌ぁ」
私の声は震えていた。
「嫌……やめて……」
今になって初めて、はっきりと気付く。いや、ずっと前から気付いていはいたんだけれど、やっと、それを実感として受け入れた……私が話しているこの少年は、そもそも人間じゃないんだ。思考回路がまるっきり違う……!
――しょうがないなぁ。
触手が段々としぼんでゆき、杖の中へとうごめきながら引き戻された。私は未だに信じられずに、己が手と杖を見つめていた(サムザリエルのお陰か、刃が刺さったことによる傷は癒え、痛みも段々和らいでいくが、それすらも皮膚の内側で柔らかい何かが蠢くような感触を伴っていて気持ち悪い)。なんだか今は、本当に心底、この私の内側に巣くう存在のことが怖い。自分が如何に危険な橋を渡っているのか、やっと再認識する。
サン=キリエルの競売市を襲撃した、あのマリィという《敗北者》。私がああなる危険性だって常にある。悪魔の力に頼りすぎた黒魔女はいずれか取り込まれて滅びる。そうだ……冷静になれ、K。精神を強く持たなければ……シャルルを、救うことだってできない……。
ゆっくりと身体を起こすと、全身を激痛が襲った。小さく悲鳴を上げる。痛みを堪えながら、ワンピースの首辺りを前に引っ張って、中の素肌を覗き込む――なかなかに傷だらけ、血だらけだ。もうある種、見慣れた光景ではあるかもしれないが。
黒魔女になって、私が唯一弱体化したのが、この回復能力だ。魔力量が増えたおかげで、物理的ダメージへの耐性は大幅に強化された(あの速度で大理石の床に衝突して、私じゃなくて床の方が砕けるぐらいなんだ――相当な強度だろう)。だが、傷がつきにくくなった代わりに、ひとたびついた傷は戻りにくい……黒魔女が傷を回復するための専門の術式(以前読んだところによると、物質化した魔力で傷口を塞ぐ仕組みらしい)には、相当な時間が必要となる上に、かなりの魔力量を消費するので、今は発動できない。耐えてゆくしかなさそうだ。
立ち上がり、壁に寄りかかり――思わず、新しく腹部を駆け巡った痛みで目を見開いた。息が息にならない。腹部から血が流れ出す。内側で……手で押さえる。内側で、肋骨が……一本か二本、折れてるかもしれない。だとすると相当、まずい……痛い……!
幸いなことに、肺や他の臓器に接触はしていなさそうだけれど……内側で肉に食い込んで、本当に痛い。内側でかき回されるように。あまりの痛みに、呼吸を整えることさえできない。この状態で戦うのは、私には無理だ。集中力が……意識が……血が……
こうなったら……っ!
思わず鳥肌が立つ。想像するだけで恐ろしい。それこそ意識が飛びそうになるほどの痛みを伴うかもしれない……けれど……私に残された手は、文字通りこれだけだ……
やるしかない!
自らの腹に手を添える。口から、ぼそりぼそりと、片言のように、呪文の言葉が流れ出す。でもそれは黒魔術じゃない。悪魔召喚術でもない。
白魔術だ。
詠唱が完成した瞬間、頭が割れそうな痛みに襲われる。口を思わず開けど、何も言葉がでてこない。舌が痙攣する。目の焦点が狂う。私はバランスを崩し、地面に倒れ込み、叫ぼうとした。叫びたいのに、呼吸すらままならないせいで、それすらもかすれた声にしかならない。全身が震える。火の中のように熱いかと思えば、凍えるように寒くなる。意識が朦朧とし、飛びそうになる。何も考えられない。痛い――
どれほどその状態が続いたのだろう、やっと息を取り戻した。徐々に、ぼんやりと、視界が返ってくる。腹を見ると、段々と、傷が癒えていっている。内側の痛みが、治まってくる……が……
頭を振る。まだ頭痛が残っていて、最悪の気分だ。吐き気がする、いや、しすぎる……必死に安静にしているが、ここから動いただけで吐いてしまいそうだ。惨めだ。本当に気分が悪い。
それと……あれ……なんだ……? 何かがちょっと、頭から抜け落ちた感じがする……なんだろう……意識が朦朧として分からない。まぁいいか……
そして、取り敢えず大変だ……
まだ一つとして、あのアストリッド・メロディに、攻撃を与えられていない……
頭の中で対抗策を練ろうとするが、有効な手段が思いつかない。予想をはるかに超えて強力な魔女だ……百人の魔女集団のナンバー2を勤めているだけのことはある(或いは、ナンバー2は推測だが、そうでないにしろ、相当上位だろう)。精霊を交えた四元術が全て繰り出せるとなるとなかなか相手として厳しいし、そもそも、小指一本で攻撃を防ぎやがった。聖職者であるミカエリスには通用しなかった《黒否妻》でも、防御力に劣る黒魔女になら通じると思ったけれど……レベルの低い魔法ではないはずなのに。おまけに万魔術が使える。黒魔女や悪魔と戦闘する場合、最も有効な攻撃手段――それを、四元術に混ぜ込んで、錬成した形で繰り出せる。正直、こんな奴に勝てるビジョンが見えない……最悪、《色の無い悪魔》の召喚だけ妨害して逃げるという手段もある。
そろそろサンドリーヌがやってくる頃合いか? だとしたら彼女を優先的に殺すべきだろうが……だが果たして今の私に、そんなことができるだろうか?
というより、そもそもだ。サンドリーヌ以前に、そろそろ、アストリッドの方が私に追い打ちをかけに来ても、おかしくはな――
地面が激しく揺れ、爆裂音がした。ハッとして上を向く。感じる……魔力の波長を。上の階からでも分かる、天井を突き抜けるほどに強い――視界が霞むぐらいでっかい、緑色の何かのオーラが迫ってきている。きっと一階から入って来たんだ。あのアストリッド・メロディが!
必死に吐き気と戦いながら起き上った。鼻から血が伝ってきているのを拭く。口の中も少し血の味がする。やっぱり白魔術は、今の身体と反発してしまう――できることなら、もう使うのは止そう。
どうしよう――どうするべきだ? 迎撃するか、自分から行くか、ここは一旦引くべきか……
後ろのドアの元へよろめいていき、その前にある瓦礫を、幾らか運動術でどける。そして、ドアノブに手をかけ、それをゆっくりと開けた。私の後に、血の足跡が続いてゆく。
私は廊下へと転がり出て、杖をつきながら、よろよろと逃げていった。いや、だが、これでは逃げ切れるわけがない。第一地上に出ればバレる。どうすれば……
後ろを向く。ここで決めるしかない。なんとかして全てを終わらせる!
そうだ! 《進軍》だ! 《地獄の進軍》の最上級呪文! あれがもし発動できれば、この場で、全ての戦況をひっくり返すことができる! せっかく切り札として取っておいたんだ……今こそ発動するに相応しい。幸い魔力は相当残してある――本来もうちょっとアストリッドの攻撃を防ぐのに費やすつもりだったが、あんなに簡単に圧倒されたお陰で、却って無駄に消費せずに済んだ……不幸中の幸いという奴か。
全ての魔力を込めてやる。絶対的な一撃を繰り出してやる。だから今度は、正面からじゃなく、不意を突かないといけない。
呪文を唱え始めた。囁くような声で。バレてはならない、悟られてはならない、予測さえされてはならない……迎え撃つ……アストリッドが下りてきた瞬間に、何百何千という悪魔を呼びだして、一斉に殺しにかかってやる――。
その時だった。
何か、唸る羽音のような物が、後ろから聞こえた気がした。
え……何が、起こって――
「こんの糞野郎ぉおおぉぉおぉっ!」
怒鳴り声が響き、ハッとした。まさか。あれ、あれ、なんで今まで気付かなかったの、ここまで近くに来てたのに、見張ってたはずなのに、あれどうして、どうして、そうだ、なんで、監視が消えてるの、
使い魔が――!
気付いた時にはもう遅かった。後ろの壁が爆散し、怒鳴り声を上げるローカスト率いる何十もの魔女が一斉になだれ込んできた。私は開いた口が塞がらなかった。しまった――なんてことをしたんだ!
白魔術を使った時だ……記憶を辿り返す。あのときまでははっきりとサン=ノエル全域が見渡せたんだ。それが白魔術を使ったときに、一回意識が途切れて……その時に使い魔達とのコンタクトが切れたんだ!
或いは、白魔術を黒魔女が使うときのデメリット効果かもしれない。何れにせよこれは大失態だ。だって使い魔が消えて、あの広範囲の視点を失ったせいで、背後から迫って来たこいつらにすら気付けなかった!
私の両脚に、何か鋭い物が突き刺さった。痛みに悲鳴を上げて、見てみると、銀色の杭のような物が皮膚から突き出している。そして、それが突き刺さった瞬間――私はぞっとした。呪文から、重みが消えたのだ。
重みが消える……なんて言えばいいんだろう。きっと実際に魔法を使ったことが無い人には分からない感覚だろうけれど、呪文を唱えている時は、その言葉が妙な重みを以て発音されるように感じる。普通の会話とはまるっきり違う感覚だ、言葉では表現できない。なのに。なのに! 今は――
それが突然「消えた」。さっきまで唱えていた《地獄の進軍》の詠唱が、一瞬のうちに、普通に言葉を発しているのと同じ状態に次元が落ちた――はっきりとした、そんな感覚があった。そして悟った――もう私の詠唱は、意味を成さない。言葉が喉に詰まった。
「《詠唱遮断》、完了致しました……」
後ろから刺々しい、鋭い声がした。白と黒の仮面――フクロウがモチーフなのだろうか、目の部分が毒々しい程に大きく、嘴らしきものが付いている――を被り、背骨が砕けそうな程に酷い猫背で、全身黒いボロ布を羽織った魔女だ。白と黒、二色の髪が、床まで垂れさがっている。ヴェールの間から見える、骨ばった腕――真っ黒な入れ墨だらけだ――の先に、私の脚に刺さっているのと同じような杭が何本も握られている。
「他に何か……追加注文はございますでしょうか、アストリッド様。《視覚遮断》……《完全麻痺》……《痛覚増加》……いくらでもございます」
「いいや、これでいい。十分どころか十分すぎるぞ。礼を言うぞラプター」
前からあの声がした。堂々とした、勝ち誇った声。
「まさかお前が生きていたとはなぁ、黒魔女のK」
振り向くと丁度、指揮官の黒魔女、あのアストリッド・メロディが扉を抜けて通路に入ってくるところだった。こちらを見て、冷ややかにせせら笑う。魔力探知に切り替えれば、あの緑色の太陽のような、絶望的に眩い波動が、相変わらず全身から漲って、あたりに弾け回っている。後ろには、あの少女のような魔女もくっついていた。
「よくやってくれた、エステレイア。お前が微弱な反応の存在を確定してくれるまで、死んだと思って疑わなかった――なにせ使い魔まで全て消え去ったのだからな」
アストリッドが、横の魔女の頭を優しく撫でた。褒められた魔女が、嬉しそうに赤面する。
「てへへ……探知しか能がないんですから、それぐらいきちんとやりますよぉ」
「そんな言い方をすることもないだろうに」
アストリッドが相変わらず笑いながら、右手の指先をこちらに向けた。様々な色の光が、指先に集まり始める。後ろを振り向くと、周りの大理石より錬成されたイナゴの群れが、そこら中の壁にびっしりと堪らなく飢えた目でこちらを見つめている。
「ひっ……」
「あんだけの数の仲間を殺したんだ!」
後ろでローカストが牙を剥く。
「逃がすわけにゃあいかねーんだよ! この怒りは正当だ!」
「……なんだ……それはっ」
私は思わず彼女に食って掛かった。
「この偽善者共! 何も分かってないくせに! 自分らが――」
「死人に口は無い」
後ろから囁く声が聞こえた。振り返ると、アストリッドの指先が帯びている光が、はちきれんばかりに膨れ上がって渦を巻いていた。
「私はこれからお前を殺す。お前が振りかざし信じる正義は、今から私が打ち砕く。さらばだ、黒魔女K――次なる世界の礎となりて、己の弱さを呪いながら死ね」
信じられなかった。こんなにも呆気ないのか!? 四方敵に囲まれ、完全に一人ぼっちだ。こんなところで、こんなにも惨めに、こんなにも残酷に殺されるのか!?
嫌だ! 私はまだ生き延びないといけないんだ。会いたい人がいるんだ! 約束をしたんだ! 初めてこの世界を愛してるって気付いたんだ。なのに!
助けて……誰か、助けて。でも最早私には仲間はいない。今ここで助けてくれる仲間は。
いや……
その時、懐の中で何かが、私の肌に触れた。
あのぎらめきを思い出した。彼がくれた言葉。私は決心した。
役に立たせてみせる!
「うわああああああ」
懐からそれを取り出した。空中に振りかざした。銀色の閃光が宙を駆け抜ける。血だらけの、ボロボロの手に握られたそれを、目の前の敵に、思いっきり投げつける。
「なんだと――」
アストリッドが驚いた顔をしたが、もう既に遅かった。ナイフはそのまま、なんの妨害も無く宙を駆けていった。正直、最も驚いていたのは他でもない私自身だったけれど、きっと奇跡が起きたのだろう、そのナイフは、シャルルのくれたナイフは、
――アストリッドの右肩に、ぶっ刺さった!
「がぁっ――!?」
「アストリッド様!」
「アストリッド様、あぁっ、あたしがそばにいながら――」
「黒魔女K――貴様ぁっ――」
アストリッドが倒れ込んだ。傷口から真っ赤な血が噴き出している。顔を歪め、震える手で、ナイフを引っ張り出した。カタンカタンと、音を立てて地面に落ちる。
「なんだ……これは……っ」
アストリッドが震える片手をあげる。何やら様子がおかしい――皮膚が煙を上げて焦げてゆく。まるでヒビが入っていくようだ。
「純銀製……」
横にいたエステレイアが、顔を覆った。
「祝福儀礼済み……!? そんな……」
カッと私を睨みつける。
「貴様、黒魔女K、なぜこんな物を――!」
私は、動揺している彼女らの隙をついて更に攻撃しようとした。たとえ呪文が使えずとも、せめてこの杖の力だけで――。反射的に杖を前に出した。だがその瞬間、頭から全て消し飛んでしまった――どうすれば何ができるのか。
あれ……
なんだ……この、感覚……絶望的なまでの無力感……まるで、変身が解けたかと錯覚するかのように、全身から、力が、抜け……
見ると、右手から、一本の杭が突き出ていた。先程とは違う、真っ赤な杭だ。そこから発せられる電撃が、私の腕の上を駆け昇ってゆく。顔からさーっと血の気が引いた。これって……もしかして……
「あ……」
「貴様より……」
後ろより冷たい声がした。
「《解放術》の『感覚』を奪った……」
恐る恐る振り返る。あのラプターと呼ばれた仮面の魔女だ。手に、同じような赤い杭を何本も持って――いつの間にか種類をすり替えている――私のことを、仮面の虚ろな目で、食い入るようにして見つめている。
「案ずることはない……なんのことはない……貴様の『感覚』など……じきに全て消えるのだ……」
「ぁあ……」
私は震えていた。考えがまとまらない。気が狂ってしまいそうだ……駄目だ……相手がこの人数……囲まれてる……ナイフももう投げた……どうすれば……
反射的に握り締めていた……胸元の、ペンダント。綺麗な黒曜石。ジネットの贈り物……でも、そんなものじゃ……本人が、だって、ジネットが来てくれないと……
「黒魔女……K……」
アストリッドがゼェゼェ言いながら起き上がった。
「見くびっていたようだ……いいや強いのではない、悪あがきが過ぎる……」
指先に再び光が集まり始める。
「それとも信念の強さと見るか……いずれにせよ厄介だ……お前は、今、ここで――!」
「あぁっ」
突然、彼女の横にいたエステレイアがびくりとした。
あまりにも状況に不自然な、素っ頓狂な声で、私は思わずそれを見て瞬きをした。
「どうしたエステレイア!?」
アストリッドが呼ぶと、エステレイアは、首を振った。
「その……えっと……何か、来ます」
「何……!?」
「方向は西……魔力自体はそこまでの強さではないですが……」
明らかな動揺を浮かべている。
「なんですか、これ……あの……」
「早く言え――」
「サン=ノエルの周り、全体に」
エステレイアが愕然として囁いた。
「魔方陣が発動してます」
「な――!?」
アストリッドが驚きで目を見開く。私もハッとして、思わず上を見上げた。まさか――え――嘘――サンドリーヌの結界が、発動した……!?
なんてことだ……《色の無い悪魔》が召喚されるんだ! もう既に時が満ちてしまったんだ! サンドリーヌは、私の抹殺を待たずに、召喚術式を……
だって考えてみればそうだ、地下室とは言え、ここはサン=ノエル司教座聖堂だ! ってことはここは生贄にされないんだ! 部下達を安全にしつつ《色の無い悪魔》を召喚する、奴らにとってはこれが最高の策だ! なんで気付かなかった!? 私は、まんまとサンドリーヌの罠に引っ掛かって――
……待てよ。
だったら、なんで、当のアストリッド達が驚いてるんだ……?
それに……
この、私の指の間から漏れてるこの光は、一体……?
震えながら見つめた。指の中の黒曜石。ジネットから貰ったペンダント。通信用の道具。
そして、その時だった。
『いいか……K!』
ペンダントから声がした。私はハッとした。信じられなかった。思わず涙が滲んだ。この、この声は――この懐かしい声は――!
『このペンダントを離すな! ずっと握ってろ、じっとしてろ! 今――今、助けてやる!』
「ジ、ジネットちゃん――!」
「させるか!」
アストリッドが両腕を交差させ、私に向けて突きだした。雄たけびをあげると、全てのマニキュアが閃光を発し、何か信じられないようなエネルギー、ぞっとするような破壊の力が、その指先から吹き出しかけた。一瞬、私を襲いかけた。
だが、それは、叶わなかった。何故なら。
次の瞬間のことだった。
彼女が、電撃に撃たれたようにして、痙攣した。顔に驚愕が浮かぶ。その場で回転し、ふらつき、そのまま力なく倒れ込んでしまった。周りの魔女たちも一斉に倒れてゆく。ばたばたと、一斉に、まるで捨てられてゆく人形のように。何が――あたりを見回す。わけがわからない。何が、起きている――!?
私の指の間から漏れる光が、徐々に収まってきた。と――代わりに何か、ぷしゅーっと音を立てて、赤い霧のような物が溢れ出し始めた。徐々にそれが、私の肌の上を撫でて行くようにして広がってゆく。やがて赤い霧が、完全に、私の全身を包み込んだ。
何故だかパニックが収まっていた。痛みも何も感じない。私は安らかに目を閉じた。なんだろう、これ……暖かい。優しい……ほのかに、皮膚を温めてくれるような。安らぐ……眠い……このまま、寝てしまいそうな……
と、ハッとすると、
――魔女たちは皆、既に消えていた。跡形もなく、完全に。
私だけがその場に取り残されていた。先程と同じ姿勢、突っ立ったままだ。沈黙が流れていた。私は目をぱちくりした。何が起こったんだ? わけがわからない……
何か違和感を覚え、よくよく見てみると――視界が復活している。使い魔達の視界。今はサン=ノエル全体が、再び見渡せるようになっている。裏路地から、建物の内部から、外側から、何まで。
これは……
身体を見下ろすと、杭が全て抜けていた。傷も、全部、完璧に癒えている。今の私自身、見違えるように意識が冴えている。戦いに行く前と同じぐらいに。
えっ――
……えっと……どうなったんだっけ!?
その時私は、ふと横を見た。そしてぎょっとした。横の壁に、真っ赤なインクで、文章が描かれていた(一瞬血かと思ってびっくりしたのだったが、よくみると匂いが普通のインクだ)。私宛の文章。真実を語る言葉。以前はよく目にした、この癖が強くて読みにくいけれど、なんだか彼女っぽくてどことなく好きだった、独特の字体。最後に書かれた、差出人の名前。
これは。
彼女が、私に宛てて書いてくれた文章だ。
そして、その、中身は――。
「第二部隊、通信途絶! 第三、第五、続いて反応が停止――」
「連鎖的な反応です! まるで一斉に……」
「総員、誰でもいい、至急応答せよ! おい、聞こえてるのか――」
「何が……何が、あいつらに――」
洞窟内のそこら中に、慌ただしい焦燥が飛び交っていた。誰も、何が起こっているのか分からない。
「サンドリーヌ様!」
魔女の一人が、ヴェールに囲まれた部屋に向かって叫び声をあげる。目には焦りが浮かんでいる。
「サンドリーヌ様、一体何が! 皆――皆――もしかして――我々に、ご指示を――」
「いや、待て。待つのだ」
サンドリーヌの声が響いた。それは至って自然に冷静だった。そのいつも通りの声を聞き、皆、やっと平常心を取り戻した。
しばらく、ヴェールの向こうのサンドリーヌの影は、何やら考え事をしているようだった。誰も話さぬまま一分が過ぎ、二分が過ぎ、そして三分が過ぎた。だがやがて、サンドリーヌが、成程、と頷き、囁いた。
「安心していいだろう。部隊が一斉に帰ってくるぞ」
「え……帰ってきてるん、ですか……?」
ヴェールの前の魔女が、目をしばたたかせた。周りの魔女たちの顔にも、困惑が走る。
「あぁ、そうだ」
ヴェールの向こうで、サンドリーヌの影が動いた。
「このサン=キリエルの周りに配置した使い魔たちが、彼女たちの存在を探知した。既にここに向かってきている。すぐに着くだろう」
「でも、どうして……何の成果も無しに、勝手に逃げ帰ってきたんですか――」
「私の事前の指示による物だ。通信魔法が遮断されれば、この戦法は通用しないからな」
サンドリーヌの声は、やはり、落ち着いていた。
「そんな事態の場合には、ただちに退却せよと予め命じてある……問題は、どうやって奴が、我々の通信魔法を途絶したかだな。本来、あの『K』のような魔女に妨げられるようなちゃちな代物ではない。戦法の要なわけだからな、私もこれには相当な力を入れているつもりだ。もし使い魔の能力なら、厄介な相手と言わざるを得ないだろうが」
「成程……」
「……いや」
突然、ヴェールの向こうの影が、おもむろに立ち上がった。
「待て……これは……『違う』、か……?」
「……どうか、致しましたか?」
「……いや……」
サンドリーヌの声は、静寂その物と同化していた。
「静かに、してくれ……」
声量は極めて小さかったが、効果は絶大だった。一斉に、洞窟内の、全ての動きが止まり、完全な沈黙が張り詰めて訪れた。ヴェールの向こうのサンドリーヌの影は、辺りを見回すかのような動作をした。考え込むようにして腕を組む。
するとやがて、その声が、再び響いた。
「……総員」
氷のような声。
「戦闘準備」
一斉に、まるで尻に火が付いたように、魔女たちはそこら中を駆け回り始めた。音が復活し、そこら中を駆け巡る。通信用魔方陣の絨毯が一気に自動的に畳まれ、宙を飛び仕舞われてゆく。各自の杖やら、箒やら、その他魔術的武装やらを、皆掻き集め始めた。
彼女たちは、その命令が何故の物なのかとも、一体何があったのかとも、一切訊かなかった。訊く必要自体、感じてはいなかった。サンドリーヌの命令は、絶対の物であったし、今までたったの一度も、それが誤りだったことは無かったのだから。絶対信頼なくして、絶対服従はあり得ない。
「簡潔に説明する……」
サンドリーヌの声が、作業する皆の耳にこだまする。
「魔女部隊の、異常な飛行速度……及び、とある外部の魔女が彼女らの中に紛れているのが発見されたことにより……断定する。彼女たちは皆、洗脳術にかかっている」
配置につくべく駆けまわっていた魔女たちの多くは、それを聞き、作業中ながら、思わず目を見開いた。何か言いたくなった者もいたかもしれない。が、皆、それを抑えた。
「その魔女は――」
既に大勢の魔女が、洞窟を抜け、上の階のサン=キリエル司教座聖堂の本堂、或いは地下通路を通って周りの十二鉄塔の内部に移動していっていたが、サンドリーヌの声だけは、彼女たちを追いかけていっていた。
「総勢五十名余りの部隊を全員一斉に洗脳せしめた、その黒魔女の名前は――」
サンドリーヌ・ファミリーの黒魔女たちが、一斉に地上に溢れ出る。聖堂の門を飛び越え、箒を手に持った何十人もの彼女らが、カラスの群れのようにして地面に降り立つ。あたりの鉄塔の全ての階から、魔女達が上半身を乗り出し、杖やら、魔術道具として改造された弓矢やマスケット銃やら、様々な遠距離攻撃用の魔術装備を手に持って、空に向けて構えた。悪魔や使い魔が、街のそこら中から溢れ出す。下水道の蓋をぶち破って蠢き出す者、ネズミの群れの中から姿を現す者、大小様々の悪魔・使い魔が、霧がかった裏路地を駆け抜け、飛び上がっては、広場の周りの建物の屋根を、びっしりと覆い尽くす。
そして、あの真っ黒な空の向こうから、今はその彼女が率いる何十もの魔女達が、翼に、杖に、両の眼に、凶々(まがまが)しい殺気を漲らせ、一斉に一丸と迫りきた。風を切り裂いて、蒼穹を駆けてきた。破滅を呼ぶ、にがよもぎの流星群の如く。
彼女らを率いるその魔女は、箒の上に凛として立ち、夜空を舞い狂う荒々しい風の中で、紅蓮の乱れ髪を後ろになびかせていた。サン=キリエルの遥かなる上空より、聖堂を、その周りに集まった宿敵たちを、その真っ赤に燃えるような隻眼でぎらぎらと睥睨する、その魔女の名は――
「――ジネット」
サンドリーヌの声が囁いた。それは、冷たかった。
「ジネット・レッド・ベネット」
そして、紅蓮が率いる者達が、一斉に、サン=キリエルに襲い掛かった。




