第十四章
朝が来た。
あたしの部屋に、壁の木材の隙間から、スリット状の朝日が差し込んでくる。空中の埃が金色に輝く。周りの藁の中から、虫がカサコソいう音が聞こえてきて、目が覚めたのだと実感した。
空気は冷たかったが、額を覆う腕に当たる、ほのかな日の光が心地よかった。包み込んでくれるような暖かさ。あたしはぼんやりと口を開け、しばらくそのままぐったりとしていたが、やがて起き上がり、服代わりのボロ切れのそこら中にちくちく刺さっている藁を傷だらけの手で払いながら、暗いボロ小屋を抜けた。涼しい風が、髪の間を吹き抜ける。
ふと空を見上げる。灰色の雲間から、太陽の光が眩しく照り輝いて、緑の森や、シャルルの赤レンガの屋敷をキラキラと照らしていた。綺麗な景色だ。あたしはそっと微笑んだ。
と、すぐにその雲間が閉じきった。赤レンガの色が黒ずみ、森も、周りの芝生も、より色が深く、暗くなる。空が暗雲に覆われた。
冬の訪れを感じさせる風が、凍るように冷たく、あたしの髪を揺らす。
まるで、世界が、あたしを歓迎していないかのようだ。
どこか嘲るような笑いが漏れた。何を嘲っているのかは、自分自身分からなかった――自分? 世界? 神様? ――けど、どことなく笑わずにはいられなくなったのだ。
もう既に、変化が始まっているということか。
けれど、それを実感する時間なんて、もうあたしにはきっと残されていない。
これが、恐らく――
あたしにとって、人生最後の一日。
いつものようにして、あたしは屋敷へと向かった。裏口から入り、薄暗い木の廊下を通ってゆく。幾つもの部屋を通り過ぎ、居間に入ろうとし――そこの扉から漏れる声を聞いて、ふと立ち止まった。耳を扉にそばだてる。そして、ゆっくりとその扉をほんの少しだけ開いて、片目だけでその隙間から覗きこんだ(堂々と入らなかった理由は、別に何も『主人』に嫌われてるからだけじゃなく、もしあたしがその場にいると知ったら、きっとシャルルがあたしに気を遣ってしまうと思ったからだった。それだけはやっぱり嫌だった)。
シャルルが何やら、『主人』と会話をしている――この距離だから、詳しい内容までは聞き取れないけど、やっぱり、ところどころで俯いたり、言葉に詰まったり、とてつもなく不安げな様子で。手には、『主人』に手渡されたばかりらしい号外を握り締めている。
普段はどんな事件に対しても、あんなに無関係そうにふるまう『主人』ですら、この今回の号外の内容ばかりは予想外だったようだ。驚きを禁じ得ず、また、それを隠しきれてもいなかった。必死にシャルルを宥めようとしているものの、本人も信じられない程の量の冷や汗を流し、しきりにあたりを見回している。
あたしは密かにせせら笑った。当然の反応だ。
号外の内容は、おおよその予想はつく。
やがてシャルルが、号外をダイニングテーブルに置き、信じられないといった様子で首を振りながら、こちらへ向かって歩いてきた。あたしはハッとして、急いでドアから離れ、近くの適当な部屋に逃げ込んだ。シャルルが過ぎ去るのを待つ。しばらくしてから、やっと、そろりそろりと居間に入っていく。
「お、おはようございま――」
「ん?」
主人が目を細めていた。
「あんた」
『主人』が大股で歩いてくる。
「その服、どうしたってんだい」
「ぇ……あっ、すいません……」
しまった――服の後ろが破れたままだった! そうだ、あまりにも沢山のことがあって完全に直し忘れていた。昨日、あの聖職者に掴みかかられた時に破けたんだった。
「えっと、その、昨日の夜中起きたら、背中がすごい痒くて、服の上から掻いてたら破けちゃったんです」
咄嗟に嘘をついた。シャルルがいたらこんな恥ずかしい感じの嘘つけないけど、もうここにはいない以上別に構わない。
「本当に、ごめんなさい……その時あたし、もうご主人様も皆既にお眠りなさっていたので言えなくて、今から言おうと――」
「違うよ!」
「へっ?」
「お前さん、自分の前見てみな」
あたしは、言われた通りに、下を見てみた。
えっ……
何、これ――
出血している――それも、股の間から。なんだか違和感がすると思ったら……でも……
一瞬パニックに陥りかけたが、すぐに冷静になれと自らを言い聞かせた。確か、これは……うん……こういう、物なんだ。
十一歳か……大体、これぐらいなのかな……? でも、なんか、よりによってこんな日にってなると、なんというか、不気味な……。
「……今日はお前は、使いもんにならないね」
『主人』が目を細めて唸った。
「自分の身体に感謝しな。それの大体の意味は、もうあんたも知ってんだろ」
「え……はい……ありがとうございます」
「分かったらそんな恰好でうろついてんじゃないよ、汚らしい。予備にでも変えな」
「す、すいません……」
「ちゃんとその服だけ綺麗にするんだよ」
そのまま『主人』はあたしから離れ、ブツブツ文句を言いながら向こうへと歩いていった。
けれどあたしは、内心、ぽかんとしていた。
……仕事、免除されちゃった。
なんだろう……運がいい、のか? でも少し気分が悪い……お母さんも言ってたっけ、こういう日はそんな感じだって。なんだか心なしかだるい。こういう物なのかな?
……そうだ――。
あたしはシャルルがいた場所に歩いていき、号外を手に取った。そして思わず、口元を抑えた。思いっきり高笑いをあげそうになった自分がいたからだ。
「先日深夜から本日未明にかけて……サン=ノエル中心街において、未確認の黒魔女による大規模戦闘が行われ……同市配属の武装聖職者……計、百五十七名……」
内容に目を走らせて行く。心臓が高鳴り、息が荒ぐ。
「……全……滅……っ!」
あたしは堪えきれなくなって、思わずくるりと身をひるがえし、そのまま居間を飛び出した。顔を押さえたまま廊下を駆け抜けてゆき、裏口を飛び出して庭に躍り出た。自らの部屋に駆け込み、口から手を離し――
絶叫するようにして、甲高く、笑い転げた。
笑いが止まらない。快感作用が全身を駆け巡る。あぁ、こんなにいい気分、こんなに満ち足りた気分、一体いつ以来だろう! やっとだ、やっとあたしにも、こんな残酷なことができた!
あぁ――死んだ。死んだ! 全員あたしが殺したんだ。あたしが。あたしが! ははっ! あぁ、もう最高の気分だ! こんなにも思いっきり解き放つことができたんだ。自らの内側でずっと眠っていた、この獣のような本性を! 堪らなく心地いい。どこまでも満たされる。
恐れていた罪悪感だなんて、あたしには微塵も無かった。あたしはあの力を、あの感覚を取り戻したんだ! これであたしは、あいつらともタメを張って戦える! あぁ、なんて素晴らしいんだろう。まるで生きながら天国に揺蕩うかのように。この迸る昂揚感。血の海の中でのたうつことの快感。
然るべき報いだ……あんな最低最悪の屑共には。聖職者の癖に、あんな黒魔女たちと手を組んだ奴らだ――万死に値する。そして実際にあたしが断罪した! こんなに思いっきり楽しめるだなんて想像すらしなかった……! 今頃、サン=ノエルの市民全員があたしの影に怯えている……あぁそうだ、精々怯えていればいいさ。揃いも揃って、あたしをあんなにも拷問して、焼き殺そうとした屑野郎共だ。
ミカエリスは死んだ……残りの奴らも、全員、このあたしが殺した……! 今まであたしが憎んできたあの神様の代行者らとやらは、一人も残さず切り刻んでやった……! 後はあいつらだけだ……サンドリーヌ・メロディ、そしてそいつが支配する連中……あのふざけた大家族とやらを血祭りにあげてやる。そうすればこのあたしの世界から、全てのカス共が完全に消去される……!
これだけ強ければシャルルだって守れる。サンドリーヌの計画だって、もうこれで終わりだ。どういう形であれ、あたしの目的は絶対に達成される!
いざこうなってみると、黒魔術というのは本当に便利な物だ。世界を、自らの思い通りに刻み、削り、造形する力。自らと敵対するものをすべて排除する、絶対なる暴力。指を鳴らせば人が死ぬ、それぐらいの軽い気持ちで全てを蹂躙できる。あのヴェロニック・ウェルティコディアは切れ者だったのかもしれないが、最後の最後にとんだ過ちを犯したようだ。あたしみたいなどうしようもない奴に、その力を受け渡すなんて! いいやそれとも、あぁそうか、ここまでそいつの意思なのか? あたしが教会の奴らを抹殺し、サンドリーヌまで血祭りにあげれば、それこそウェルティコディアの望んだ世界が訪れるのかもしれない。闇を以て闇を、暴虐を以て暴虐を、悪を以て悪を制す、そういうやり方だとしても。
……ふん。今となっては、あんな奴のことはどうだっていい。わざわざあたしをこんなにも強烈に、こんなにも残酷に巻き込んでおっ死にやがったんだ。この力含めて、精々利用させてもらうとするか……。
戦いにおいて、白魔女の拘りを捨てるとなると、本当に気楽で都合がいい。ミカエリスは確か、奴隷を用いた人体実験を行って功績を上げたんだそうだが、彼に倣って、昨夜あの後、あたしも色々と実験をしてみた。逃げ惑う聖職者たちを、最良の実験材料として。
以前、ウェルティコディアの家で《色の無い悪魔》についてジネットと調べていた時に、悪魔召喚術に関して多少の知識は仕入れていた。そして、Kとしてのあたしは、何事をも決して忘れない、明晰な完全記憶能力を持つ。詳細まで思い起こし、色々とその内容を実践してみると、なかなかに使えることが分かった。
夜通しの「実験」のお蔭で、元からいる使い魔に加え、今は多くの悪魔が召喚できる。様々な用途別に分類を整理し、状況に応じて術式内容を使い分けることも可能で、とにかく応用が効く。加え、使い魔たちのおおよその性能や、力の限界も理解できた――予想以上に便利な、かわいらしい連中だ。
サンドリーヌ・ファミリーは、間違いなく物量で攻めてくるだろう。その点において、悪魔召喚術というのは非常に都合がいい――なにせこちら側の数を増やすことができるわけだから。集団での戦闘に必要となる兵力、補給力、そして魔女同士の戦闘においては何よりも重要な、相手の得手不得手の詳細を把握する能力……全て揃った、或いはこれから揃わせる策がある。無数の手駒を操れるわけだから、一人で戦うのとはわけが違う。黒魔女になってから、どうもあたしは頭の回転が速いように、全体的になんだか冴えているように感じる(尤も、単に力が湧いてきて、気分が高揚してるだけなのかもしれないけど。魔力の増幅は、脳内麻薬的な役割を持つと、ジネットが以前言っていた)。
兵力、補給力なら問題ない。あたしには何百何千、いや何万何十万何百万という頼もしい味方、あの無尽蔵の使い魔達がいる。あいつらは幾らでも湧いてくる。確かにサンドリーヌもそれは同じかもしれないけれど、こちらは、サン=ノエルは、あたしの縄張りだ。地の利ならこちらにある。
一番問題になってくるのは機動力、或いはあたし自身の移動手段だ。一口にサン=ノエルと言っても中々に広い。戦闘が一か所で終わる可能性はまずないと考えていい……敵の追っ手の動きを読みながら、状況に応じて、最適の方向に動き続けてゆく必要がある。壁を伝って走ったりだとか、屋根から屋根へ飛び移ったりだとか、そういう二次元的なレベルで物事を考えていたら絶対に積む。環境に依存しない、三次元的な動きが必要だ。
あたしに箒は使えない。でも、悪魔はあたしに翼をくれる。それどころかあたしが呼び出す悪魔は、どうも皆翼を持つ個体のようで、そのうち大柄な連中の背中にでも乗れば、箒がなくとも飛ぶことはできる。そういった悪魔は元から飛び方を知っているから、基礎的命令さえ下せば、わざわざあたしが熟達しなくとも飛行の技能が得られるのだ。ただし、背中から振り落とされないようにするのには、束縛系の運動術が必要だ――昨日の夜、これの練習だけは多少しておいた。本格的な実践はぶっつけ本番の気も強いが、まぁ時間が無いんだからしょうがない。
敵は大勢でやってくる以上、こちらもやはり相当な数の悪魔を動員しなければならない。あたしが目を付けたのは、《地獄の進軍》の呪文――切り札として使うことになるだろう。自らのほとんどの魔力を悪魔召喚術用のエネルギーに変換して、地獄の門を開き、何百、何千という悪魔を、一斉に無作為に呼び出す技だ。通常の悪魔召喚術の弱点である、一匹一匹呼び出すのにかかる手間の問題を解決してくれる。余りの危険性と規模が故に、黒魔女の間でも原則禁術扱いらしいが、今はそんなことは気にしていられない。あたしの目的の達成のためなら。
目的……そう、目的。それはあくまでもサンドリーヌの計画の中断。何もあたしが「勝つ」必要なんてない。それどころか、何もあたしが生き残る必要も、サンドリーヌを討つのがあたしである必要もない。あたしが死ぬ可能性は極めて高いかもしれないと思ったし、それは仕方のないことだろう。サンドリーヌを殺せても、それまでにあたしもズタボロになっているはず。そこに、彼女の配下だった百人以上の魔女たちが、一斉に牙を剥いて襲い掛かってくるとなったら――。逃げ切るなんて、きっと無理だ。
そうとなると全てはタイミングの問題だ。悪魔をありったけ呼び出せば、何等かの打撃を与え、少なくとも時間稼ぎはして、術式を中断できるだろう(星が揃う瞬間、などと言っていたのだから、きっと《色の無い悪魔》の召喚には何らかの条件があると考えて間違いない。その特別なタイミングを逃させることにさえ成功すればいいのだ)。そうすれば教皇庁が、そこに座す教皇が、そしてそいつが指揮する聖痕者達が動く。流石のサンドリーヌも、ここまで大規模な計画は隠しきれない。サンドリーヌ・メロディも、そしてあのファミリーも、いくら強いとは言ったって、教皇庁本部――つまりは大陸全土――との全面戦争になったら、どうなるかは分からない。全滅とまではいかずとも、少なくとも壊滅的な打撃は受ける筈。
そう、そうだ……聖痕者の前では、黒魔女であるあたしだって、たちまちに探知されて、滅ぼされてしまうだろう。だからどうせそのタイミングで、あたしは殺されるか、この街を出るか、選択を強いられることになるだろうし、サンドリーヌに完全勝利して変に生きながらえても、なんだか正直しょうがない(だから尚更、昨夜の宴を満喫できたわけでもあるけれど)。
一度あんなことをしておいて、今更今までの生活に戻れるとは思えない。いや、(一般人が聞いたらぞっとするかもしれないけど、)別にあの聖職者たちを殺したことへの「罪悪感」なんかがあるわけじゃない――あれだけの数の人を殺したというのに、自分自身驚くほど冷静だ――ただ単に、あたしは、シャルルにこれ以上嘘をつき続けるのが嫌なんだ。
黒魔女となったことで、あたしがシャルルに隠さなければならない罪は、以前の何倍にも、何十倍にも、何百倍にも増えた。いや、それどころの話じゃない――最早ほんの少しでも漏れてしまったら終わりだ。あたしがシャルルから拒絶されてしまう云々以上に、自分がそれまで頑張って、親切に尽くしてきた女の子、自分の家でずっと暮らしてきた女の子が、こんなに罪深くて、こんなに歪んだ奴だったなんて知ったら――きっと、シャルル自身が、それへの罪悪感に溺れて死んでしまうことだろう。シャルルはそういう人だ。あまりに優し過ぎて、きっと本当は、とてつもなく脆く、か弱い。だからこそ、守りたくなる――暖かい希望をくれる、そのお礼に。
そのシャルルを、あたし自身が傷つけてしまったらと思うと、心底恐ろしい。そして、あたしが生き残ることは、それ自体が、その可能性を未来に大きく残すことになるのだ。
あたしにとって最も幸福なのは、今夜の戦いで死ぬことなのかもしれない。
不思議とそこに恐怖は無い……最早無念は無いからだ。思い残すことなど何一つありはしない。今夜あたしはサンドリーヌの野望を挫き、そしてきっと自らも死ぬ。それで全て、完全に丸く収まる。シャルルが安全に暮らせる世界が誕生するんだ。
ある意味幸せだ。変に生き延びても、あたしにのしかかる幾億もの義務は、重圧は、そしてこの途方もなく膨れ上がった罪の数々は、きっといつかあたしの心を押しつぶして壊してしまう。その前に、何としてでも死ぬべきだ。それぐらいの心持ちでいた。
あたしは、罪を背負いて、罪を引き受け、そして、その罪と共に滅び去る。
それで、満足だから。
今日、こんな思いがけない理由で仕事を休めたのは幸いだった。体力を蓄え、考える時間を得ることができたからだ。今でこそ若干具合が悪いが、今までの例から言って、黒魔女の形態に戻ればそれも回復するだろう。
サンドリーヌが今どこにいるかは分からない。が、今夜このサン=ノエルに来ることは分かっている。何せ――。ジネットの地図を、思い出す。
生贄の殺害地点によって描かれた魔方陣の中央に、一か所、『開いたスペース』があった。不自然な程の空洞だ。間違いなく意味がある。
そしてそれが、それこそが、あのサン=ノエル司教座聖堂だった。
「サン=ノエル中心街」という括りで見た場合には、ここ数週間かで数え切れないほどの事件が起きている。けれど、その中でも最も中央、聖堂の半径約三十メートル以内のみ、何故だか何も起きていなかったのだ。幾らなんでも、これは不自然だ。
召喚術の理屈を元にして多少考えてみれば、これの意図を理解することはそう難しくはない。召喚用魔方陣は、内部の存在を隷属させる能力を持つ、「次元の低い」空間と見なされる。そのため魔女は、召喚用魔方陣として機能する空間の中に入ってはならないという原則がある――入ればそれは、召喚した存在と同じ次元に立ってしまうことを意味し、たちまち召喚対象への制御が効かなくなるのだ。
ならば、このサンドリーヌが描いた魔方陣の中央の空間は。このほんの小さな、空洞は……悪魔召喚の際に、サンドリーヌが、『足場』とする空間ということになるのだろう。ここにいる限り、《色の無い悪魔》に対しての命令が、一方的に、正当に下せるというわけだ。
今日と明日とを繋ぐ夜、サンドリーヌ・メロディは、必ずこのサン=ノエルにやってくるだろう。ここの聖堂に降り立ち、そこで《色の無い悪魔》を呼び出し、意のままに使役しようとするのだろう。
その直前に、そう簡単に、彼女が隙を見せるとも思いにくい。けれど、万に一つのその可能性に賭けるしか、今のあたしには術はない。なんとしてでも、意地でも、死んででも――シャルルのいるこの世界を、あたしは守り抜かないと。
夜だ。
あたしは杖を持って、戸口から出た。ペンダントも、念のために。使うことは無いだろうけれど――何だか、置いていく気にだけはなれなかった。そんなことをしたら、それはつまり、自分にとっての最後の希望を、自主的に捨ててしまうことになるような気がしたからだ。連絡が来たらすぐに気付けるように、服の中には仕舞わず、敢えて首にかけた。
あたしは裏庭に出て、少し深呼吸をした。銀色の世界、フクロウの声。森の木々が揺れる。あたしの髪を、冷たい風が揺らす。
あたしは、哀しく、笑った。
恐らくもう、あたしは、ここには帰ってこない。
……なんだかんだ言ってあたし、もしかして、幸せだったのかな。
誰もが、この辛い世界の中を生き抜いていっている。力強く、そう、どこまでも力強く。奴隷として生きるのは辛かったけど、せめてもの希望はあった――それのお蔭で、どんな痛みにも耐えられた。こんな歪んだ世界にも、絶えず、希望を持ち続けることができた。
あんなにも眩いそれが、失う直前になって初めて気づく。如何にあたしが幸せだったのか、如何にあたしが恵まれていたのか――。でもきっとこれは、こうなるべくして、こうなってしまったんだ。
今更後悔だなんて、何の意味もない。あたし自身が選んだ道だ。それでも、あたしの頬を、一筋の涙が垂れた。
本当は、せめて最後に、シャルルに、「さよなら」だけは言いたかったな。
最後の会話があれだっただなんて。最後の肌の触れ合いが、あんな形だっただなんて。まともに謝ることすらできなかった。
そこだけは、心残りだな。
「……今まで、ありがとうね」
あたしは呟いた。前方の、ティエール家の屋敷に向けて。きっと今眠りについている、あたしの愛しのシャルルに向けて。
「……ごめんなさい」
そのまましばらく、俯いて、目を閉じて、あたしはその場で佇んでいた。銀色の月明かりの水たまりの中で。ぴんと下に伸ばされて、腿あたりの自分のボロボロの服をギュッと掴んでいる両手が、自分が一人ぼっちであることを嫌というほど実感させる。最後に誰かと、手と手で触れあったのって、一体いつのことだったっけ。
でももう、今更。
……どうしようも、無いよね。
溜息をついた。ゆっくりと目を開けた。あたしはもう無表情の仮面を、自らに無理やりに被せていた。感情を表に出したら、その場で泣き叫んで、崩れ込んでしまいそうだったから。
踵を返し、そして、後ろを向いた。どうせもう誰も居ない。永遠に、これで、この場所とも別れて――
――ハッとした。
目の前の光景が、信じられなかった。思わず口をぽかんと開けた。
そこには、シャルルが立っていた。
シャルルは、あたしの顔を、真っ直ぐに見つめていた。唇を結び、両拳を握りしめ――目にはやはり、悲しみと戸惑いを浮かべつつ。
あたしは呆然としていた。開いた口が塞がらなかった。何秒間か、ひたすら、シャルルと見つめ合っていた。やがてシャルルが、躊躇いがちに、その口を開いた。
「……どこへ、行くつもりなの?」
あたしは何も答えられなかった。脳味噌が、目の前の光景を理解できていない。
「……本当に、ごめんね。僕……」
シャルルが下を向いた。
「最後まで、こんなでさ。……でも、何があっても、これ、絶対に言いだせなかった。互いの為にならないような気がして。ただ、逃げてただけなのにね」
「……シャルル?」
「僕……見ちゃったんだ」
シャルルが顔を上げる。涙がその両目に溜まっている。
「昨日の夜……ここに、君に、謝りに行こうと思ったんだ。昨日、色々、探ろうとし過ぎたって……そうしたら、ベッドが、空っぽで。君が、いなくてさ……」
嘘――。あたしはガクガクと震えていた。駄目。絶対に駄目。だって、それって、まさか――。
「……逃げたんだと思った……君が、この家から……こんなひどいことばかりされて、僕だって、君のことを支えることが出来なくて。仕方がないと思ったよ。
でも、今日の朝、君はまたここに戻ってきていたんだ……不自然、だよね。……それで、さ……あの、号外が……届いたんだ」
「――シャルル――!」
彼の肩に掴みかかる。支離滅裂な言葉が、喉の奥から次々せり上がってくる。
「あたしのこと、信じて……。お願い……やめて……! あたし……あたし……お願いだから。あたし悪くないの。皆間違ってるの! あたしは――」
「いや、何も……大丈夫だよ。僕は……敢えて、何も言わないし……何も、訊かない」
シャルルは首を振った。どこか暗い淀みを、その目に浮かべて。
「ねぇ、こちらこそ信じて欲しいんだけど、僕、君のこと……好きだよ。それは今も変わらない。君が、一方的に悪いことをするとは思えないし、君が何をしたにせよ、きっと何かきちんとした理由があったんだとも思う。敢えてそれに深く首を突っ込むようなことはしないよ。きっと正しいのは君だ。僕は、教会の奴らなんかより……君を信じる」
あたしは何も答えられずに、それを聞いていた。シャルルは知ってしまったんだ……あたしが何に成り果てたのか。心臓が早鐘のように鼓膜に打ち付けている。膝がガクガクと震える。何が……でも、どうして……
「……最初は、やっぱり、戸惑ったし……にわかには、信じられなかったけど」
シャルルが、そっと、悲しく笑った。
「ある種、合点がいったかもしれない。むしろ、なんで今まで気付かんかったんだろうって、不思議なぐらい……。本当の君が知れたようで……どこか、嬉しかったかもしれない。変かな、僕……ははは……君のために、結局……何もできなかったのにさ――」
「――シャルル――」
あたしは、一歩前に踏み出した。
「違うよ。そんなの違う。全然そんなことない! シャルル……すごく、助けになってくれてる。本当だよ! シャルルがいなかったら、あたし――」
「でも……!」
シャルルが顔を上げ、声を絞り出した。目を大きく見開いて、引きつった笑いを浮かべる。
「……だって……元とは言えば、だって……そうだよね……知らないもんね。……本当……最低だよ……僕って奴は……っ……」
「……シャルル……?」
シャルルは震えていた。ゆっくりと、首を振る。
「……君は……そうだよ……僕の本性について何も知らないから、そんなことが言えるんだ。僕……とんでもない奴だよ? 本当に……だって……さ。
今なら……素直に、なれるかな。言うなら、今日しかない気がする。君のことを、裏まで知ってしまった、今日しか。本当はこんなこと、元から隠すべきじゃなかったのに。隠し事だなんて……。……ごめんね」
「……え?」
あたしは瞬いた。
「隠し事って……何」
シャルルが、深く俯いたまま、肩を震わせた。あたしは口を開いた。
「違うよ、シャルル……誰だって嘘はつくよ。誰だって誰かに隠し事をしてる。あたしだって今までずっと、あなたにこうしてしてきたじゃない。あたしは……自分のことが、いいとは思わないけど、悪いとも思わない。シャルルもそれでいいんだよ」
「駄目だよ……僕は悪い奴だ。――君には伝えないといけないんだ」
シャルルは囁いた。この声――少し、上ずって――
……泣いて、いるの……?
「今までずっと黙ってきたんだ、互いの為にならないと思って。でもせめて今聞いて欲しいんだ……互いに、正直者同士でありたいから。
僕は、君の希望なんかじゃない。そんなの全部嘘だ、ただの僕のエゴだ。いいかい……君を、『買った』のは……君を、こんな家に連れて来てしまったのは……元とは言えば――」
膝から、地面に崩れ込んだ。
「僕なんだ」
あたしはその場で突っ立っていた。目の前で、シャルルが自身の頭を抱えて、肩を振るわせている。
「三年前……僕がまだ九歳だった時」
涙を、指の間から流しながら話した。
「奴隷市場で母さんと歩いていた時に、君を見かけたんだ。あのボロボロの家畜小屋みたいなところで、藁の上にぐったりと寝かされていた。周りにも沢山の奴隷はいたけれど、君だけが気になって気になって、本当にどうしようもなかった。母さんは、今はもう家に十分いるから奴隷は要らないって言って、そのままそこを通り抜けていこうとしたんだけど、僕は君を見てどうしても欲しくなったんだ」
「……あたし、でも……」
「覚えてないって? 覚えてるわけないよ。だって君はその時、死んだようにぐったりしてた。寝てたのか気を失ってたのか分からないけれど、ともかく起きてはいなかった」
シャルルは呻いた。
「僕は君が欲しくなったんだ。分かるかい? ……まるで家具だとか本だとか、そういう物と同列に、君という存在を所有してみたくなったんだ。奴隷が人間だなんてこと、きっと辛い思いをしてるんだなんてこと、僕には分からなかった、理解できなかった、そんなこと思いもしなかった! 君は僕の目にはまるで、可愛いお人形さんみたいに映ったんだ……傷ついてて、儚くて、なんだか今にも壊れてしまいそうで、だからこそ、とっても素敵に思った。君を自分の物にして、色んなあのガラクタと一緒に、部屋のガラスケースの中に飾ってみたいと思ったんだ」
あたしは無言で彼を見つめていた。シャルルは相変わらず、あたしの膝元で、震えながら涙を流している。
「母さんにお願いしたんだ。お願いだから買ってって。駄々をこねて、しつこくお願いして、やっと君が買って貰えた。僕は、君が僕の物になったっていって喜んだ。……その時まだ、こんなことになるだなんて知らなかった!」
シャルルがあたしの顔を見上げた。顔が涙でぐしゃぐしゃになっている。
「君が家に来て初めて、君が人間だったんだってやっと気付いた。君だって痛いことをされれば痛いし、皮膚が切れれば血が出るし、嬉しい時は眩しく笑って、悲しい時は涙を流す、れっきとしたちゃんとした一人の人間だったんだ! 君は本当に傷ついていた……僕が想像していたよりか、いやそれどころか、そもそもの僕が発想できた限界よりか、遥かに深い傷を負っていた! 君は、心も体もボロボロで、この家で働き始めた。あんなひどい仕打ちを受けて。愕然としたよ……絶望したよ。自分がどんなことをしてしまったのか。罪悪感で気が狂いそうだった。でもその時はもう遅かった。君は、こんな滅茶苦茶な場所に閉じ込められたんだ……全部、僕のせいで」
「……シャルル……」
「僕は母さんに逆らうことができない。そんな強い意思だなんて、僕には絶対に宿せない。だからせめて君を守ってやろうとしたんだ。全て僕の責任でこんなことになったから。励まそうと、心の支えになってやろうとしたけれど、そんな、馬鹿だよね僕、僕にそんなことができるわけないのに! だって君を買った張本人なんだもん。君を幸せにすることだなんてできるわけないじゃないか! 僕はただの偽善者だ。君のために精一杯尽くそうとする、この心は本物だけど……それだってただの罪滅ぼしに過ぎない、本当にプラスマイナスゼロになることなんて永久にあり得ない! 自分が悪人だって思いたくないから……ただそれだけなんだよ……僕は……」
彼はあたしの足元でうずくまっていた。
「ごめんね、本当に。本当にごめんなさい……耐えきれなかったんだ。君に伝えないとどうにかなってしまいそうだった。いい人だと思われることが苦痛なんだ」
彼は首を振った。
「あぁ、いや、駄目だ……こんなこと言ったって、でも君にはどうしようもないのに。また自分勝手だ。僕は何を……こんなこと、伝えて……誰が……」
「知ってたよ」
シャルルは、ふと顔をあげ、瞬きをした。
「……ぇ?」
「知ってたよ」
あたしは彼に囁いた。精一杯笑顔を作ろうとしたけれど、なんだかシャルルの様子を見ていると嬉し涙が滲んできて、頬を伝った。
「あたし、ずっと知ってた、そのこと」
白銀の風が吹き、ぽかんとしているシャルルの髪をほのかに揺らした。あたしの髪も、周りで揺れた。木々のシルエットが、闇の中でざわめく。芝生の上を、優しい波が走ってゆく。フクロウの声が、二人きりの夜を包み込んでいる暗闇に、どこからか遠くから響いてくる。
「だって、あたし、あの時ずっと起きてたよ」
あたしは照れくさく笑った。
「はっきりと覚えてる。あたしね、それ知ってたけど黙ってた。別に言う必要も無かったから。確かにそう、なんだかあの時は落ち込んじゃって、ぐったり、ぼんやりしてたけど、ちゃんと意識はあった。シャルルの声が、聞こえた。あたしを買おうって最初に言ったのが、シャルルだったってことなら、あたし、知ってるよ」
シャルルは呆然としていた。目をぱちぱちさせ、信じられない様子だ。
「でも……じゃあなんで、普段……僕に、嫌な様子、見せないの?」
「あは……最初はね、正直、あたしのことをしつこく買いたい買いたい言ってる様子が、なんだか嫌な奴だなって思った」
「やっぱりね……」
「――でも」
あたしは思い出しながら、そっと笑った。
「いざここの家に来てみると、最初にあたしのこと心配してくれたの、シャルルだったじゃない。まぁ、最初の方はあたしだって、あんな目に遭ってたし、心が荒んでて、誰も好きになれなかった。皆嫌な奴だって思ってた……シャルルも、含めて。色々、あんなに優しくされたのに、あなたをやっと素直に好きになれたのって、本当は出会ってから一年か、もうちょっとしてからのことだよ。でも、一度好きになったら、もう止まらないの。そっからの二年間、毎日毎日、どんどんシャルルのことが好きになっていったよ」
「……」
シャルルは俯いた。
「……恨んで、ないの」
「恨んでるわけないじゃない。いつも、一緒にいるだけで嬉しくなる。そもそもシャルル、後からだとしても気付いてくれた時点で、それってすごいことだと思うよ。奴隷のこと、元から人間として見てる人なんていないって。それに、シャルルがあたしを買ってなくても、どうせ別の誰かが買ってる。どう転んだって誰かの奴隷になってたわけなんだから。だったらあたし、シャルルのいるこの家が、世界で一番好き」
「……嘘でしょ」
シャルルは震えていた。やがて必死の形相で顔を上げ、あたしの膝に、ガッと掴みかかった。
「嘘だ……! わざわざ今の僕を気遣う必要なんてないんだ。正直に言ってよ、僕、そんな奴じゃ――そんなこと――嘘に決まってる……僕に、優しくしないでよ――」
「嘘じゃないって、ね。シャルル、自分のこと駄目に考え過ぎだよ」
「……でも、ははっ……そりゃそうだよ。それぐらいの方がいい」
シャルルは引きつった笑いを浮かべた。
「普通、自分が如何に、無意識に嫌な奴なのかって、毎回後になってから気付く物だろ……? きっと皆そうだ。いっつも僕はそれに悩まされる。呪いみたいなもんだよ。今だって僕はきっと、無意識のうちに君を傷つけてしまっている。ひょっとすると一生それに気づかない可能性だってある。だからそうだ、生きている限り、自分のことを好きになるなんてあり得ない。そんな楽観的になるのは自分に対して甘すぎる。他の人ならともかく、僕は君をこんな目に遭わせたんだ。僕にそんな資格は無い」
あたしは悲しく笑った。シャルル……この人も、同じなのね。
「あたし、あなたとすっごく似てる人知ってる」
あたしは宥めるようにシャルルの髪を撫でながら言った。
「同じようなこと言ってた。誰よりも優しくて、とっても強くて、表では明るくて、いつでも、なんだか人生楽しそうで。でも本当はその人、裏では自分のことを悪く考え過ぎてて、それのせいで影で一人ぼっちで苦しんでる人だった。見ててすっごく可哀想だった。でも心配しないで。その人と同じ、シャルルは悪い人じゃないよ。あたしがそれを、一番よく知ってるから」
「……っ……」
シャルルの肩がびくついていた。
「……ひぐっ」
「だって、シャルルのお蔭だもん。あたしが今まで、生きてこれたのって。シャルルがあたしに、生きる勇気を、生きる目的をくれた。世界に光を灯してくれた。それが偽善だなんて思わない。それはもう立派な、最高の正義だよ」
あたしは、震えるシャルルの手をそっと握った。囁くようにして笑った。
「……立って」
あたしが優しく手を上に持ち上げると、シャルルがつられるようにしてふらっと立ち上がった。銀色の光のシャワーの中で。二人っきりで。二人っきりの世界で。
あたしは、彼のふらつく身体を抱えた。そして、腕を相手の身体に回し――ギュッと、精一杯、抱きしめた。
シャルルがハッとした。顔が真っ赤になり、唇を噛む。おどおどと、あたしの後ろに腕を回し、自らに寄せた。あたしも顔を赤らめた。彼の肩の上に顎を乗せて、愛しさを込めて埋もれる。腕に更に、力を入れる。思いっきり、全身で抱きしめる。離れたくない。本当なら、このまま、ずっと一緒にいたい。彼のぬくもりに抱かれたまま。
「シャルル……」
あたしは彼の耳元で囁いた。
「一つだけ……言わせて。あたしはシャルルを愛してる。シャルルがいなければ、あたし、とっくのとうに死んでしまってた。世界に希望を抱けずに。シャルルのお蔭で、今のあたしがいる。何になっても、シャルルが好きな気持ちは、永遠にあたし、変わらないから。
あたしはきっと、シャルルが思ってる以上に、残酷で、どうしようもない、醜い存在なんだと思う。でもあたしは、どんな風になったって、絶対にシャルルのことを愛し続ける。今だって、シャルルのことを思って戦ってる。シャルルがいるから、どんな辛いことだって、苦しいことだって超えられる。どんな痛みだって耐えられる。
シャルルが愛する世界を、あたしは壊しなんかしない。絶対に、そう、あいつらに壊しなんかさせない。あたしはあいつらとは違う。だから……心配しないで」
「……」
シャルルはきっと、あたしを呼ぼうとしたのだろう。けれどあたしの名が呼べない。あたしのことを、気遣ってくれるせいで。あたしはそっと笑った。
「……そんな必要、ないよ」
シャルルが瞬きをした。
「……え?」
「あたしの名前、言わないようにするの。言って頂戴」
シャルルが唾を飲み込んだ。
「……いいの?」
「……いいの。ほら、呼んで」
「じゃあ……」
顔を赤らめながら、彼が、ゆっくりと発音した。
「クリスティアーナ」
なんだか満たされる気持ちだった。名前で呼ばれて、嬉しくなっただなんて、三年ぶりのことだ。本当に今まで、迷惑をかけてきたんだと実感した。
「ありがとう、シャルル」
あたしは囁いた。彼の方に、顔を埋めながら。もうあたしは、これ以上、迷うことなんてない。
「これから――行ってくるの、あたし。シャルルを守るために、この世界を守るために、行かないといけないところがあるの。シャルルのために戦うの。どんなことがあっても」
シャルルがハッとした。申し訳なさそうに顔を歪める。
「……もしかして……前、街で」
シャルルの声は震えていた。
「サン=キリエルで、僕を守ってくれたのって……君なの……?」
「さぁ」
あたしは肩を竦めた。今更あんなこと気にならない。
「……どうかしらね」
「僕……」
シャルルが目を見開く。涙が流れる。
「……間違ってたんだ! ごめん……本当に、勘違いして……君を、傷つけたりしちゃって……ごめんなさい……僕、また……」
「いいの」
あたしは、片手を彼の背中から離して、彼の涙を優しく拭いてやった。そっと笑う。
「戦うことの見返りなんか、あたしは求めてないから」
シャルルの、あたしに抱き着く腕が、力を更にぎゅっと強めた。身体が震えているのが分かった。
「……っ……戦う時は……一人なの?」
「……うん」
「世界の為に……たった一人で、戦うの……?」
「……うん」
「……死ぬかも、しれないん……だろ……?」
「……うん」
「そんな……」
シャルルが顔を歪めた。
「……僕は……」
身体の奥底、心の奥底から、絞り出すような声だった。
「……君が死ぬ世界なんか、見たくない……!」
あたしは悲しく笑って、彼の肩から顎を離した。目で目を見つめて、そっと瞬きをする。シャルルがあたしを見つめ返した。心配と不安の混ざった表情で。真っ赤な顔に、そのはっきりとした願い、ほとんど縋る様な気持ちが書いてあった。彼が口にした言葉。
そして、その時あたしは、やっと悟った。
あたしはずっと馬鹿だった。自分勝手だった、独りよがりだった。相打ちだの時間稼ぎだの、一体何を思っていたんだろう。そんな未来をあたしが歩んで、シャルルが幸せになるわけがない。
仮にサンドリーヌを倒し、この街と世界とを破滅から救えても、あたしが死んだのなら、どうせシャルルは救われない。彼はきっと一生、罪悪感に苦しめられ続けることになるだろう。
こんなにも悲痛に、彼は、あたしが生きることを願っている。そして、これ程に嬉しいこと、これ程に心が満たされることなんて、きっとこの世界には、これの他にはありはしない。
だからもうあたしは、心を決めた。
――死ねないと。
絶対にこの戦いを生き延びて見せる。
そしてこれは、きっと、その証になる――。
あたしは精一杯つま先立ちになった。深呼吸をして、少しだけ目線が近くなったシャルルの顔を、上目づかいで見上げる。シャルルが一瞬、ぽかんとした。その顔が可愛くて、堪えられなくなった。
ギュッと目を閉じた。そして首を傾け、そのシャルルの唇に、そっと、優しく、キスをした。
シャルルがハッとするのが分かった。おどおどと、それを受け入れる。そのまましばらく、互いと精一杯抱き合って、その場でじっと佇んでいた。月明かりがあたしたちを祝福する。フクロウの声が響く。全身に、シャルルの身体の暖かさを感じていた。唇に、彼の愛を感じていた。幸せな。心から幸せな。暖かい光の海に満たされるような――。
二人とも、どのタイミングで離れればいいのかわからないまま、何十秒と過ぎた。どれぐらい時間がたったのか分からない――二、三分は軽いかもしれない。やがてやっと、じっとりと湿った唇を離し合った。目を開けて、互いに見つめ合う。両者顔が真っ赤だ。そのままあたしは、もう一度、彼に折り重なるようにして抱き着いた。
「ありがとう」
あたしは囁いた。
「心配しないで、シャルル。あたし、もう決めた。絶対に死なない。あたし、絶対に……生きて、帰ってくるから」
「約束だよ、クリスティアーナ」
「うん。約束」
もう一度キスをした。なんだか癖になりそう。もう少し探検してみる――舌を内側でこね回して、絡ませて。どうすれば良いのか分からないから、探りながらだけど、気持ちいい。
やがてそれも終わると、一つ決心がついた。今日の戦いを生き延びれば、シャルルとまだまだ暮らすことができる。まだまだ二人で一緒になれる。そうとなったら何度でも、こうやってキスができる。あたしが生き延びる理由だなんて、それだけで十分だ。
「……じゃあ、あたし、行ってくる」
あたしはそっと笑った。
「明日の朝、また会おうね。……じゃあね」
名残惜しげに、腕をシャルルの背中から離す。シャルルもつられて腕を緩めた。あたしは彼から何歩か離れ、一回耐えきれずに振り返り、シャルルの顔をまた見つめ――そして、立ち去ろうとした、その時だった。
「あっ……忘れてた」
シャルルが駆け寄ってきた。
「ちょっと、待って――」
「え、何?」
シャルルが、ポケットの中を探った。
「戦いに行くんでしょ。渡そうと思ってたんだ。これ……持って行ってよ」
渡したい物――何だろう? お守りか、それとも武器か――でも、武器だなんて、シャルルは持ってない筈――一体、何を――? 少しばかり考えを巡らせていたあたしは、取り出されたそれが何なのかを見て、はっと息を飲んだ。
シャルルが、革製のカバーから抜き出して、あたしにそっと手渡したのは、あの純銀製のナイフだった。普段は彼の部屋に飾ってあるナイフ。
父さんの、形見の――。
「……これって――」
「うん、そうだよ」
シャルルの目は決意に満ちていた。あたしは思わず、首を振った。
「だ――駄目だよ! そんな、あたしに、こんな大事な――」
「いいや、君にこれを託したい。何かの役に、立つかもしれないから。帰ってくるって約束したんだ……だから、僕も……これぐらいしかできないけど……助けてやりたいんだ」
「シャルル……」
あたしはナイフを受け取った。握りやすい革が捲かれた柄に、まだシャルルの体温の暖かさが、仄かに残っている。
「……ありがとう」
ふと見るとナイフの側面に、何か書いてある。文字が、彫り込まれている。
「これ、えっと……」
「『Faire ce que vous pensez est justice』――『己が信じる道を行け』」
シャルルが苦笑いした。
「別に何も、特別な内容じゃないよ。でも、誰でも思いつくような簡単な内容こそ、一番重要で且つ、実践するのが難しいとかって、父さんは言ってたんだって」
「……そうかもね。あたしもそう思う。……ありがとう」
「気を付けて」
シャルルがあたしに呼んだ。
「頑張って。絶対に、死なないで。……生きて、帰ってきてよね。帰ってこなかったら、僕、絶対……許さないから。僕も、君のこと――愛してるから」
そして、顔を赤らめて、付け加えた。
「明日の朝……また、キス、してくれるかな」
「……うん。勿論だよ」
あたしは笑った。
「絶対に……絶対に――帰ってくる」
あたしが横に手をやると、あたしの手の中に、真っ黒い粒が螺旋状に集まるようにして、ウェルティコディアの杖が現れた。あたしはそれを自らの前にかざし、目を閉じて、そっと念じた。
あたしの身体が、暖かい光に包まれる。それは、肌を鋭く刺す激痛とも、燃え盛る怒りとも、海のように深い憎しみとも無縁の、純粋な愛の光。それが晴れると、あたしの服は、私の服は、あの魔女の服、あのさらさらとした黒いワンピースに変わっていた。頭の上には、あの曲がった帽子が深く被られていた。
シャルルの方を向いた。悲しく笑う。シャルルも、にやりと笑った。
「カッコいいじゃん、それ」
「……そうかなぁ」
ナイフをワンピースの中に仕舞った。自らの恰好を見下ろしてみる――黒いワンピースのスカート部分の端を、少し指でつまんでみたり。
「あんまり、カッコいいとか、そういう視点で見たことないから……」
けれど、言われてみると、確かに……こんな私も、いいかもしれない。
「じゃあ……行ってきます」
「行ってらっしゃい」
私が力を込め、横の地面に杖をかざすと、そこの土が爆裂し、中から溶け出すようにして、屈んだ姿勢の女性の悪魔が現れた。墨のように黒い肌で、頭は鴉のそれだ。背中からは、真っ黒な大きな翼が生えている。
私は、屈んでいるそれに飛び乗った。最後に一回だけ、シャルルの方を向き、手を振った。シャルルが、ほのかな笑顔で手を振りかえす。私は、自らが乗る悪魔に対して、飛べ、と短く、命令を念じた。翼を両側に大きく広げ、爆風を巻き上げ、一気に上空に飛び立つ。下のシャルルが、どんどんどんどん小さくなって行き、やがて見えなくなった。私は深呼吸をし、前を向き、そしてサン=ノエルに向けて驀進した。
もう、覚悟は決めた。
覚悟とはいっても、以前とは違う。死への覚悟なんて持ったって、本当は正直どうしようもないんだ。大切なのは生きること――きちんと生還して、愛する者と再び出会うこと。私は死を覚悟してたんじゃない。生還を諦めていただけなんだ。そう考えるとそれってただ単に、自分に甘いだけだった。自己犠牲が尊いんだって自分勝手に錯覚して、目的を見失い、一人でただ酔いしれてるだけだった。
私はもう迷わない。絶対に生き延びて見せる。サンドリーヌも、彼女のあのファミリーも、何もかも打ち倒して、今夜の《色の無い悪魔》の召喚を絶対に防いでみせる。明日の朝にはこうして再び、シャルルの元を訪れる。もう一度愛し合ってキスをする。
その世界一の幸せの、そのための覚悟を決めた。




