第十三章
一人の少女が、冷たい夜の闇の中を、たどたどしく、おぼつかない足取りで進んでいった。
月明かりが、石造りの街を銀色に照らし出す。周りの建物は、どれも聳えるように高く、影で黒く塗りつぶされ、どこか重々しい。その間の路地裏を、彼女はぐったりとして、今にも倒れそうになりながらも、一歩、また一歩、前方へとふらついていった。
ゼェゼェ、ゼェゼェと、絶え絶えになった息を吐く。全身の深い切り傷から、鮮血が滴り落ちている。黒いボロ切れが、肌を切るように冷たい風の中ではためく。前にかがみこんで、震える手で細い杖をつき、冷たい石の上を、裸足で歩いていく。その後ろに、満月を映し出す血痕が、点々と続いていった。
肩までの、黒い、ボサボサの髪。死んだように虚ろな目。少女の歳は精々、十二、十三といったぐらいだった。白い息を切れ切れに吐き、目の端に涙を浮かべながらも、彼女はゆっくりと、ゆっくりと、ボロボロの身体を引きずっていった。途中何度も立ち止まりかけるが、その度に、独り言のように、自分の役目なんだと、伝えないといけないんだと、自らにブツブツと呟いては、強引に身体を前に押し出した。
やがて、建物の間を抜けて、彼女は広場の中心へと辿り着いた。白銀の十二鉄塔が、周りに円状に聳えている。そして広場の向こう側、二本の鉄塔の間に挟まれた、サン=キリエル司教座聖堂。彼女はそのまま杖に寄り掛かって歩いていき、その門の前で立ち止まった。
少女は、すーっと息を吸い込み、呼吸を整え――はっきりと囁いた。
「私の名前は吟遊詩人……番犬と戯れし、黒山羊の落とし子……恒常・経常・正常・平常……牙を剥かずに誘わん」
そして、少女はその場で、掻き消すように消えた。
その聖堂の内側――本堂から抜け、倉庫室へ入り、三重の扉を抜けて地下へと下り、迷宮のように広がる地下通路を通ってゆけば、やがて、一つの、重々しい扉が現れる。通常の人間に、通常の手段では、決して開けることができない扉だ。そして、それを抜けた者、いや抜けることができる限られた者の前には、隠された景色が広がる――
都市直下の空間にくり抜かれた、巨大な地下洞窟。
床にはそこら中に、無数の巨大な羊皮紙が、所狭しと絨毯のように広げられている。何十人という魔女が、忙しなくその間の通路を移動してゆく。洞窟のアーチ状の壁にはそこら中にぽっかりと穴が開き、何階にも分けて小部屋が形成されていた。どの部屋の中でも、魔女たちが、積み上げられた本に目を通していったり、互いと金切声で議論し合ったり、新しい薬を調合しようと、散らばった材料と格闘したり、それぞれ独自に忙しなく動いていた。
何人かの魔女が、箒に乗って、上空の部屋から部屋へと移動している。天井の中央、アーチが集結するところには、太陽系を模した小さな立体モデルが輝いて、洞窟全体を覆うに十分な、眩い光を放っていた。
そして、その洞窟の奥の方に、壁に寄り沿う形、半ば埋め込まれるかのようにして、淡い紫のヴェールに囲まれた、どこか妖しげな小部屋があった。上空も天蓋がついており、どこからも中身が見えない。そして何故か誰も、どんなに忙しなく動いても、それにだけは近づこうとしない。
サンドリーヌ・ファミリーのアジトは、サン=キリエルの真下に広がっている。まるで地下に張られた、巨大な女郎蜘蛛の巣のように。
床に敷いてあった、巨大な羊皮紙の魔方陣の一つから、突然、空色の光の筒が垂直に噴き出した。ボロボロの少女が、その中から、ふらついて歩き出した。
少女はなおも、ゼェゼェと息を荒げていた。前に一歩踏み出し、歩こうとして、足元が崩れ、よろける。杖が手から滑り、少女は、小さな声を上げて、その場に倒れ込んだ。
「――ミシェール!」
近くを通りかかっていた魔女の一人が、その場から飛び出し、地面すれすれで少女を受け止めた。抱きかかえたまま地面に突っ伏す。周りに、彼女が運んでいた、何束もの魔導書がぷかぷかと浮いている。さらりと長い黒髪が、心配そうに少女を覗き込む顔の周りで、包み込むように垂れ下がる。緑色の目に、動揺が走っている。
「どうしたんだ……ミシェール」
「うぅ……」
ミシェールと呼ばれた少女がゆっくりと目を開ける。
「アストリッド……様……?」
「……っ」
黒魔女アストリッドは、傷だらけ、血だらけのミシェールの身体を見下ろした。
「酷い怪我だ……誰が、こんなことを……」
「アストリッド様ぁ……あたし……恐ろしい……あんな……化け物ぉ」
ミシェールは、呼吸すらままならない様子だった。今にも気を失いかねない。
「……っ」
アストリッドは唾を飲み込み、後ろを振り返った。周りにいる魔女たちに叫ぶ。
「おい、お前たち! 何をしている。ミシェールを運んで治療しろ、今すぐだ!」
「ははっ――」
一斉に何人もの魔女が集まって、ミシェールのか細い、ぐったりとした身体を抱きかかえた。と――ミシェールが、口を開き、か細い声で囁いた。
「おやめ……くださいっ」
「な――何を言っているミシェールっ」
アストリッドが叫ぶ。
「治療室はすぐそこだ……そんな無理はしなくていい……今は休め! お前は……」
「駄目です……どうしても……今すぐサンドリーヌ様に伝えないと……っ」
アストリッドは心配そうに顔を歪めた。死にかけた我が子を見るような眼だ。
「……ファミリー全体が危ないんです……」
ミシェールの声はかすれていたが、その目は本気だった。
「治療の時間なんて無いんです……今すぐ伝えないと……それが元々、あたしの役目……緊急の用なんです……皆の為に死ぬなら、あたし、本望です……っ」
「この……馬鹿者っ」
アストリッドは動揺し、しばらく死にそうな顔でミシェールを見つめていたが――やがて、決心したように、向こうを向いて、いいだろう、と呟いた。
「お前もまた誇り高き、サンドリーヌ・ファミリーの黒魔女ならば……それを止めるわけにはいかん。だが、報告を済ませたら、すぐに治療を受けるのだぞ。約束だ」
「……ありがとうございます……アストリッド様ぁ……っ」
ミシェールを御前に連れて行け、と、アストリッドが魔女たちに命令した。魔女たちは、ミシェールのボロボロの身体を運んで行った――洞窟の壁にくっついている、そのヴェールの部屋の前まで。そこで、ミシェールをそっと降ろす。
ミシェールは、力なく地面に倒れ込んだ。全身の深い切り傷から血が流れ出している。なんとか、震えながら体勢を直して、その前で座り上がる。
「……えへへ」
ミシェールは虚ろな笑いを浮かべていた。
「ただいま、戻りました……サンドリーヌ、様ぁ」
「……」
ヴェールの向こうで、地面から湧き上がる影が折り重なるようにして、何かが形成されていった。椅子に座りこんでいる、ほっそりとした女性のシルエットだ。
「どうした……ミシェール」
艶めかしい、流れる河のような声だが――どこか、心配にも満ちている。
「……何があった……」
「それが――大変なことが、沢山……どこから言えばいいのやら……」
「傷は……」
「大丈夫です……これ、失敗をしちゃった、あたし自身への罰なんです……今は、耐えますから。えっと、まず……」
ミシェールは、相変わらず虚ろな笑顔のまま、額から垂れてくる血を拭った。
「サン=ノエルの聖職者たちは、全滅しました」
ヴェールの向こうのサンドリーヌの影は、頷いた。少し心配そうに首を傾けるが、相手の姿勢に同調し、敢えて怪我については何も言わなかった。
「一人残らず……か。エドガールも含めて、ということだな」
「はい……」
「あぁ……まぁいい、可能性としては元からあった。水晶玉も破壊されたのか?」
「はい……でなければわざわざ、ここまで一人で徒歩でなんか来ませんもの。水晶玉どころか、地下室の物、多分全部木端微塵にやられちゃってます」
「やったのは……」
「白魔女の……『K』……です。いや……もう、白魔女ではないですけど」
「白魔女では、ない……? 待て、どういうことだ」
「はい……ミカエリスを殺した時点では、確かに反応上白魔女だったんですが……」
ミシェールが瞬きをする。
「いや、でも、その時点から何故か、使う技だけは黒魔術ばかりでした。それもかなり上級の」
「――というと?」
「えっと……」
ミシェールがぼんやりと上を向き、記憶を辿り返す。
「波長を後から辿った限り、ですけど。周りの一般聖職者たちを殺すのに、三発の《イボラジミエルの火薬庫》と二発の《バ・ハールの斬首刑》。ミカエリスに対して、一発の《アジルザラントの黒否妻》、と……止めに使ったのは、確か、《マリスエボルの底なし沼》……」
マリスエボル、と聞いて、それまでずっと冷静に聞いていたサンドリーヌの影が少しぴくついた。
「マリスエボルだと? 間違いないのか」
「はい……床に噴き出した自分の血を、運動術で操作して、大きな魔方陣を作って……」
分かりやすく解説しようとしているのか、ミシェールは、相変わらず虚ろな笑顔のまま、自らの指先から滴る血で地面に図形を描いた。砂場で遊ぶ子供のように。
「信じられませんでした。彼女は……詠唱無しで、あれを発動したんです」
「……黒魔女化した経緯は、どのような物だった……?」
「実は……」
ミシェールの顔が、急にくしゃっとなった。と――大粒の涙を、流し始めた。
「どうした――」
「それが、あたしの……あたしの、せいも……入ってるんですぅ」
「……なに?」
「えっと……つまり……」
涙を必死に拭う。
「あたし……Kを、殺そうと思ったんです。その時は、修道女に化けてましたから。ミカエリスが殺された時、周りの家々を叫んで回って、民衆を集めたんです。それで、騒ぎを煽って、他の聖職者たちも呼び寄せました。あたしの思い通りに、ミカエリスとの戦闘で重傷を負っていたKは、そいつらを動員して簡単に捕まえられました。そうしたら……周りが、馬鹿で。火炙りにする前に、拷問するとか言い始めたんですぅ!」
肩を震わせた。
「あたし、その、止めようとしたんですけど、皆聞く耳を持たなくて。聖職者達が、調子乗って、あいつの身体をぐちゃぐちゃにしたんです。色々拷問したんですよ。そうして火炙りにしようとしたら、突然、よくわかんない真っ黒い魔力が、そいつの身体から沢山溢れ出して。それで、周りの聖職者が、一斉に切り刻まれたんですぅ……あたしも、この傷を負って。なんとか気付かれずに逃げ延びましたけど……うぅ」
「拷問が、契機……か」
ヴェールの向こうで、サンドリーヌが溜息をついた。
「――奴は、以前の段階から過去の恐怖記憶や悪夢に悩まされ、元々あまり健全な精神状態ではなかったのだろう。ましてや彼女は、ここしばらく、相当な精神的外傷を日常的に受け続けている。一般人ならばもうとっくのとうに墜ちているだろうな、相当持ったと考えるべきだろうが……幾らあのヴェロニック・ウェルティコディアの継承者と言えど、そんなタイミングで無駄な拷問を加えたら、必然的な結果……」
ハッとする。
「ミシェール――!」
ミシェールがくらくらと倒れ込んだ。まだ息はあるが、もう座り込む力すらないらしい。
「うぅ……サンドリーヌ様ぁ……ご無礼、申し訳ございません……お許し……くだ……さ……」
「……礼儀などという物に……」
サンドリーヌの影が、ヴェールに近づいていった。
「命に代える価値は無い……なんという大怪我だ……そこまでして私に忠誠を誓うというのか……」
それは絶句に近かった。
「お前はよくやった……精一杯私の為に、任務を遂行してくれたのだろう……」
「いいえ……あたしは、どうしょうもないダメ魔女ですよぉ……民衆の反応のことまで計算できなかったんですからぁ、あたしは……うぅ……皆のために、役に立てなくて、ごめんなさい……せめて最後に、これの……この情報の伝達だけ、やり遂げようって……」
にっこりと、精一杯の笑顔を見せた。涙がこぼれる。
「ごめんなさい、サンドリーヌ様……最後まで、迷惑ばかりかけて……でも、このファミリーにいたことは……本当に……幸せな……」
「馬鹿者!」
サンドリーヌが声を荒げた。
「やめろ……何を卑下する……死ぬな……お前はまだいくらでも輝ける! お前は……」
そして、少し躊躇した後、まるで子供に語りかける母親のような声で、囁いた。
「こちらへ……来なさい」
「へ?」
床に突っ伏したミシェールが顔を上げて、目をぱちくりさせた。
「え……サンドリーヌ様、あの、もしかして……」
ハッとして、首を振る。声を上ずらせる。
「めぇぇっ、めっ、滅相も無い……サンドリーヌ様ぁ、こんな、下品で、馬鹿で、どうしようもないあたしなんて……そんなことには、及びませんから……」
「お前は下品でも、馬鹿でもない」
サンドリーヌが囁いた。
「いいや、どうしようもなくはあるがな……どうしようもなく……見ていて、愛くるしいぞ」
ミシェールの顔がカーッと真っ赤になった。
「サンドリーヌ……様ぁ……?」
震えながら彼女は、片手を前に差し伸べた。そして次の瞬間、その目が、驚きに見開かれた。彼女だけでは無かった――その瞬間、まるで電撃が洞窟全体に迸ったかのように、魔女達全員が、一斉に彼女のいるところ、ヴェールの方を向いた。
その、ヴェールの向こうから――ほっそりとした、美しい手が伸びた。ゆっくりと、徐々に、なめらかな動きで。魔女達は皆、息を飲み、その手に釘付けになった。まるで陶器のようにすべすべとした、きめ細かい、真っ白な手。美しい――。
手が、ミシェールの血塗れの手首を優しく握る。ミシェールが小さく、喘ぎ声を上げた。手は、ミシェールを前へとエスコートすると、ヴェールを少しばかりもたげ、ミシェールの全身を内側に包み込む形で、またふわりと下ろした。
魔女達は皆、そこから視線が離せなかった。中には、羨ましい、などと、静かに囁く者もいた。
ミシェールとサンドリーヌは、ヴェールの向こう側で、二人きりになったのだ。
「サンドリーヌ……様……ぁ」
「分かっているよ……ミシェール。お前の気持ちはよく分かる」
サンドリーヌの声がした。
「だがその必要は無い……私は、私の傘下の全ての魔女を愛している……死を選ぶ必要などなかろう……生きることこそが……その欲求のみが……我々黒魔女の幸せなのだから」
小さな嗚咽――喘ぎ声にも近い――が、ヴェールの向こうから漏れた。ミシェールの声だった。辛うじて見えるシルエットが、すらっとした腕に抱えられながら、わずかに、仰け反っている。
「サンドリーヌ……様ぁっ……あぁっ……だめですぅっ……」
「ふふっ」
サンドリーヌの笑いが、少し聞こえた。
「お前は可愛い子だ、ミシェール。とってもできる子だ」
押し殺すような、ミシェールの喘ぎ声が、サンドリーヌの名前を呼ぶ声が響く。魔女達は、ヴェールの周りに集まって、固唾を飲んで、それを見守っていた。
「今回のそれは、お前の責任ではない……無理に自らを卑下する必要など、全く以てありはしない……最初っからそうだ……どんなに優秀な者でも、決して『完璧』にはなり得ないのだから。そもそもだからこそ私は、このファミリーを作ったのではないか」
「ふわぁぁっ……あぁっ……は……ひぃっ」
「そうだ……だからお前はそれでいい。お前はまだ若い……こうも純真で初心にしてうら若い。自らですら気付けぬ、大いなる可能性を秘めている。それは今宵より、幾らでも広がってゆける……さぁ……傷は、もう……癒えたかな?」
「はい……サンドリーヌ様……本当に……うっ、あぁっ……ああぁぁあぁっ」
「よろしい……」
チュッ、と、小さな、粘つく音がした。魔女達は顔を見合わせた。ヴェールが少し開き、その間から、ミシェールがよろめき出た。傷は全て癒え、ボロボロだった服も元通りになっている。顔を真っ赤に上気させ、ハァハァと息を吐き、目は潤い、ほのかに夢心地の、蕩けた笑顔を浮かべていた。
「サンドリーヌ……さまぁ……ありがとう……ございますぅ……ぅえ……えへへ、へ……」
「礼などよい」
サンドリーヌの影が、かすかに笑いながら座り込んだ。皆が落ちつくのを待ってから、口を開いた。
「……最後に対峙すべき敵は決定された。ヴェロニック・ウェルティコディアの継承者、奴もどうやら堕落したようだな。『黒魔女K』とでも呼ぶべきか――以後は更なる解析段階に入る。所詮ただ一日足止めするだけで構わんが、何にせよ明日の術式の時に何かされるのだけは厄介だ。先ずは過去のデータバンクを元に――」
その時だった。三階の部屋の一つから、甲高い悲鳴が響いた。皆、そちらの方を向いた。
「なんだ、どうした!? サンドリーヌ様を遮って……」
地上のアストリッドが叫んだ。
「……エステレイアか!?」
「は、はひ――も、申し訳ございません、アストリッド様! しかし、た……大変なぁっ」
部屋の中から何人かの魔女が駈け出して、ジャンプし、空中で箒に飛び乗り、急いで地上に着地した。そのまま箒を手の中に戻し、サンドリーヌの前へと駆け寄る。周りを魔女たちで囲まれて、ミシェールが彼女らの顔をおろおろと見回す。
「……サンドリーヌ様……先程のご無礼、どうかお許し下さい……」
「なに、多少話を遮った程度で、私がいちいち気を悪くするとでも思うか。よいのだ――何があった?」
「はい……実は……」
魔女たちは、皆、互いの顔を見合わせた。誰がそれを言うべきか、誰も分からないのだ。やがてそのリーダー――赤ぶちの眼鏡をかけた、白いナイトキャップを被った背の低めの女性、魔力解析班班長、先程アストリッドに声を掛けられたエーステレレ・エステレイア――が、意を決したように顔を上げ、前に進み出て、お辞儀をした。冷や汗がその顔を滴り落ちる。
「サン=ノエル司教座聖堂で、保管されていた灰が」
彼女が囁いた。
「全て、Kに奪われました」
沈黙が流れた。
サンドリーヌの動きが、止まっていた。
他の魔女も、誰一人、動こうとはしなかった。
「……エドガールに」
サンドリーヌの声は死んだように静かだった――が、誰もがそれを聞いて凍りつかずにはいられなかった。まずい声だ。嵐の前の、静けさのような……
「エドガールに……管理を任せたはずだったが……」
「それが……」
エステレイアは、ガタガタと震え、縮こまっていた。
「彼が……あの、その……Kに……」
「……命乞いでもして……差し出したというのか……」
「……は……はい……」
完全な沈黙が継続してゆく。誰も、何も言わなかった。言うことができなかった。
サンドリーヌは何もしなかった。何か反応を示すこともなかった。
アストリッドは無表情で、その主君の様子を見つめていた。しばらく経っても、サンドリーヌは何も言わない。俯いたままだ。そして、かすかに、その影が――震えている。顔を手で覆っている。これは――
(抑えていらっしゃる……)
アストリッドは目を細めた。
(必死に――抑えていらっしゃる。自らのお力を)
支配者たる者、常に冷静でなければならない。怒りに身を任せようものなら、その瞬間その者は、自らを集団の支配者足らしめる物全てを失うこととなる。サンドリーヌは、黒魔女としては、いや一般のどんな者と比較しても遥かに常日頃から落ち着いていて、自らの内なる激情を制御することが得意でこそあったが――そんな彼女にですら、限界はある。あまりにも腐った出来事が起きた時。あまりにも予想外、予測不能の、理不尽な事態に見舞われた時。彼女は自らを、抑えられなくなりそうになる。百五十年も前から、アストリッドは知っていた。
一人の女には、やはり限界がある。それはどうにも、どうしようもない。仮に、ただ指を鳴らして軽く念じただけで、山を谷に変え、都市を廃墟と成し、森林を枯らすことができるような、サンドリーヌのような偉大なる黒魔女であったとしても、「完璧」な存在とはなりえない。そう――サンドリーヌの言う通り、一人一人が不完全であるからこそ、「組織」というものは強い。互い互いの弱点を補い合うという意味で作られたのが、このサンドリーヌ・ファミリーなのだ。
(そして、その中における、私の役目は……)
アストリッドは、目を閉じ、決意を固め――また、その目を見開いた。
「サンドリーヌ様」
彼女が呼んだ。鋭く、堂々とした、はっきりと通る声だ。皆が彼女の方を向く。
「ご無礼、承知の上――お時間、よろしいでしょうか」
「……」
サンドリーヌは俯いたままだったが、やがて、ぼそり、ぼそりと、呟いた。
「……分かった……いいだろう……アストリッド」
「はっ」
既に備えていたアストリッドは、自らの主君の前に立ち、お辞儀をした。
「……こちらへ、来い……」
「承知致しました」
アストリッドは何の躊躇いもなく、きっぱりとした表情でヴェールの中へと入っていった。魔女たちが唾を飲み込む。何人かが冷や汗を流す。彼女だけは特別なことは、彼女たちも知っていた。そして、彼女があの中へと招かれたということは――何か、重要な決断が下される。
何か予期せぬ事態が起きた時。今後一切を決定する、ファミリーの全体方針を模索すべき時。サンドリーヌは、アストリッドを個人的に呼び出す。アストリッドは、彼女の側近中の側近、まさに右腕のような存在で、絶対的な信頼を置かれ、絶対的な服従を誓っていた。その一つの証拠が、アストリッドの名字だった。
アストリッドのフルネームは、アストリッド・メロディという。彼女は、サンドリーヌの、義理の双子なる存在だった。
魔女たちは、サンドリーヌとアストリッドの過去について、詳細こそ聞いてはいなかったが、一つだけは彼女らの会話から知っていた。聞くところによると、幼き日のサンドリーヌとアストリッドは、たった二人きりで、地獄のような世界の中を生き抜いて行ったらしい。血縁関係は無かったが、二人とも孤児だったため、互いを家族と認識するようになっていった。そして、互いに優劣をつけることもできず、またお互いに自分の本当の誕生日も正確な年齢も知らなかったので、義理の双子という特殊な間柄になることを決めたのだという。後に二人は黒魔女となり、互いに強大な力を身につけ、そして自らが踏み越えてきた廃墟と瓦礫と死体の山の中から、今やフランス南部の裏社会全体を揺り動かす、この巨大組織を創り上げたのだ。
しかしアストリッドは、ただの幼馴染だとか旧友だとか、そういう理由だけで組織のナンバー2に抜擢されているわけでは無かった。魔女としての実力も、他の比ではない。外見こそ飾らず(尖った耳の先につけた小さな銀色のピアスと、それぞれの指の爪に違う色のマニキュアを施していること以外は、何の拘った装飾も身に付けてはいなかった)、一見何の変哲もない魔女、外見だけでは他の魔女とも何も変わらない存在にすら見える彼女だが、その堅実な力量は何よりも確かな物だった。
そもそも、サンドリーヌの顔を直接見たことのある魔女自体少ない。努力を認められた者、特別に気に入られた者、或いはただ単に、サンドリーヌの気分次第で選ばれた者――。今日そのリストに、遂にミシェールが名を連ねたが、合計してもその数は十人にすら至らないだろう。そんな中、アストリッドだけは、日常的にサンドリーヌと二人きりで話をしていた。彼女は皆の憧れであり、多くにとっての師でもあり、時には育ての母ですらあった。
アストリッドは、淡い桃色のヴェールの内側へと、静かに、そっと踏み込んだ。だが既にそこには、サンドリーヌはいなかった。
天蓋付きの柔らかいベッド。床には、色とりどりの落書きが乱雑に描かれた羊皮紙の山。材質の良い、小洒落た木の椅子――そこまで特別な代物というわけではないのだが、五十年前にとある市での土産として貰って以来、気に入ったのか、ずっと使われている。アストリッドが、木の机の上に目をやると、食べかけのイチゴケーキの皿の横に、蜂蜜の入ったガラスの小瓶が置いてあった。閉め忘れている。アストリッドはため息をつき、ほっそりとした指先で小瓶とその蓋を手に取り、その蓋を閉めてやった。少しだけ指先についた、蓋の裏にこびりついていた蜂蜜を、口元に近づけて舐めとる。大方、ミシェールとこれで遊んだのだろう。
アストリッドは、向こう側の壁、洞窟の壁面となっているところに描かれた、赤い紋章の魔方陣の上に、指の細長い手を添えた。色とりどりのマニキュアが煌めく。目を閉じ、小声で古代ヘブライ語の短い詠唱を囁き、右手の小指――白いマニキュアの爪――で、魔方陣の中心を、小さくたたいた。そのまま前に歩きだし、壁に進み込むと、彼女はその中へと透過するようにして消えた。
アストリッドが目を開けると、そこは薄暗い部屋だった。真ん中に置かれた一本の蝋燭だけが、揺らめきながら、ぼんやりとした灯りを発している。その横にうずくまり、顔を手で覆っている彼女に、アストリッドは声をかけた。
「サンドリーヌ様」
サンドリーヌが、ゆっくりとその顔をもたげたが、影のせいで表情が見えない。薄いヴェールを身体に羽織り、生身のほっそりとした足や腕の上では蝋燭の光が妖しく揺らめいている。
「……アストリッド」
声は震えていた。
「よく……気付いてくれたな」
アストリッドは無表情で、それに応えた。
「礼には及びませぬ」
沈黙が流れていた。蝋燭の光だけが揺れる。サンドリーヌはガタガタとため息をついて、頭を抱えた。
「あの……あの、腐れ外道がぁ……!」
サンドリーヌの唸り声が響いた。アストリッドは、やはり、無表情だった。彼女は黙ってそれを聞いていた。
「大馬鹿者が……何をしてくれたあぁぁぁっ!」
サンドリーヌはゼェゼェと息を荒げ、しゃがみ込んでいるせいで床まで垂れる髪を、手でくしゃくしゃと掻き回した。
「ジャン=ジャック・エドガール・ミカエリス……『司教』……もう少し、せめてもう多少程はまともな男だと思っていた……私の判断の誤りだった……くそっ……愚か者めぇぇっ……裏切者めぇぇぇっ!」
アストリッドは目を床にやった。サンドリーヌは苛立たしげに震えている。
「計画が……滅茶苦茶だ……」
サンドリーヌが、頭を小さく横に振る。
「ならなかった……あの灰を失うことだけは……くそっ……あぁ、まずい……召喚が間に合わん……どうすればいい……このままでは、明日……」
彼女の声は震えていた。
「《色の無い悪魔》が……召喚できん」
それは、簡単な理由からだった。
確かにサンドリーヌが量産した黒魔女が民間人を殺戮した位置は、一見殺戮魔方陣を描いているように見える。しかしこれはそもそもダミーだった――敵を撹乱させるためのただの囮だった。別にサンドリーヌは、この殺戮が他魔方陣を使って《色の無い悪魔》を召喚しようとは思っていなかった。
実際に彼女が《色の無い悪魔》の召喚に使おうと思っていたのは、魔女の灰――特に黒魔女の灰は、多量の魔力を含み、ありとあらゆる悪魔術の術式において重宝される。サン=ノエルに黒魔女を量産させ、そこの教会と手を組めば、合法的に大量の魔女の灰を手に入れることができる。自らの手を汚すことなく。
本来これは一種、ウェルティコディアへの挑戦状としての意味合いが大きかった。そもそもミカエリスに、ウェルティコディアの元にあの聖職者達を送り込むよう指示したのも、計画開始から一週間してもなお、ウェルティコディアが何の動きも見せなかったからだった。今となってはこのダミー、あのウェルティコディアの二人の継承者に対して有効ではあるようだが……
しかし――ミカエリスの裏切りによって、本来の計画自体が、実行不可能になってしまった。
裏切り者のせいで、本来《色の無い悪魔》の召喚に使われるはずだった灰は、あろうことか全て、敵の手に渡り、吸収されてしまった。
アストリッドは、悲しげにサンドリーヌを見つめていた。やがて、口を開いた。
「魔女の灰が無ければ、媒体を失った、明日の《色の無い悪魔》の召喚は中止……そしてあれだけの大虐殺がサン=ノエルであったのですから、間違いなく、教皇庁から直接に調査隊が派遣され。……となると」
「あぁ……」
サンドリーヌが、顔をまた掻き毟る。
「我々のことが嗅ぎつけられる……このサンドリーヌ・ファミリーが連続事件に加担していることがバレてしまう、いやそして場合によってはそれこそ、我々が何を目論んでいたかまで、全て知られてしまう……! その場合だけはまずい……絶対にまずい……! なんとしてでも止めなければならないが……しかし……くそっ……!」
「魔女の灰を取り込んだ魔女が死ぬときには、その体内の灰が全て放出されます。Kさえ殺せば、万事は解決致しますでしょう」
アストリッドが提案すると、サンドリーヌは、結局のところそれしかないだろうがな、と躊躇いがちに呟いた。
「無論そうだろうが……黒魔女のKとやらが普通の輩なら、私も即座にそう考えていたが……相手は、堕落が最終段階に達するより前の時点で、それも詠唱無しで《マリスエボルの底なし沼》を発動させたような女だぞ。その上、白魔女時代のことならばいざ知らず、現在の奴の力量に関する情報は何かと不足気味だ。正面から挑んでは、部下たちが何人犠牲になるか……あまり考えたくはないな。
……となると、どうするべきか……」
サンドリーヌが、何かを思い出すかのように、せせら笑った。
「……アストリッド……お前はどう思う? かくなる上は、私自ら――」
「――魔女の灰が、必要なのでしょう」
「……なに?」
サンドリーヌが顔をもたげた。
「おい、アストリッド――まさか――」
「あれだけの数の生贄が必要だったのは、所詮彼女らが大量生産の、出来そこないの黒魔女だったからのこと。そもそもクロックワーケス自身、最低ランクの契約悪魔しか召喚していないと言っていました」
アストリッドが囁く。
「より力を持つ魔女の灰ならば、あれほどの数にならずとも済む……皆賛同してくださるでしょう。少なくとも、私は」
彼女が目を閉じ、傾けた首筋の内側にそっと手を当てる。右親指の、赤いマニキュアがぎらめく。
「たとえどれほどに微細な可能性であるとしても、サンドリーヌ様の身を危険にさらすわけにはいきません。サンドリーヌ様のためとあらば、何時でもこの身を……」
「――やめろ!」
サンドリーヌが、アストリッドの膝に、縋りつくようにして掴みかかった。震える顔を上げる。
「やめるんだアストリッド……馬鹿な真似はよせ。お前が死んだら、お前たちが消えてしまったら、仮に《色の無い悪魔》を召喚してこの世界が手に入ったところで、そこに何が残る……? 目的と手段を履き違えるな……!」
「……では」
アストリッドはそっと笑った。
「サンドリーヌ様は、多くの者と共に、ここにお残り下さい。私たちが、全てを終わらせてきますから」
「……っ……はは」
サンドリーヌが顔を背けた。
「ははは……」
蝋燭の炎が、暗闇の中で揺れていた。サンドリーヌは、顔を膝に埋めて、肩を震わせて笑っていた。
「……しかし、全くお前も……何故わざわざさっきのような大それたことを……悪魔召喚術師を孤独にしようなどと、いちいち心臓に悪いぞ……」
「――あなた様の心臓は」
アストリッドが肩を竦める。
「たとえ純銀の剣で貫かれても、無事であるというのに?」
「……痛いところを突くな」
「成せば成るということを、伝えただけでございます。我々は皆、あなた様の駒として使われる事に生き甲斐を見出している愚か者たちですから、とことん使い潰しきってくださいませ。何が何でも、今宵、あなた様の理想の世界を誕生させるのでしょう?」
「……ははは」
サンドリーヌは悲しく笑った。
「瓦礫の山に佇む泥まみれの小娘二人が、よくもまぁこんなところまでのし上がった物だ。お前は本当にどこまでも私を悩ませ苦しませる。何時だってこうだ」
「悪い子とおっしゃいますか」
「ふん」
サンドリーヌは目を閉じて、息を長く吹き出し、やがて仄かな笑みを浮かべた。
「最高の褒め言葉という意味を込めて、な」
彼女は立ち上がった。向こうの暗闇を向いて。
「アストリッド……私が《色の無い悪魔》を召喚し、それとの契約を結んだとして……仮に私が黙示録の獣に成り果て、暴虐を以て君臨し、皆に支配の刻印を刻み込もうとしたとして……お前だけは私を、ずっと見守っていてくれるか? 私を恐れずに、寄り添っていてくれるか? 私が正真正銘の化け物になる前に……私を諭し、宥めてくれるか?」
「無論ですとも」
アストリッドは、サンドリーヌの後ろから、その肩に手を回し、髪をそっと撫でた。
「私はいつまでも、サンドリーヌ様と共にいますから」
「……ありがとう、アストリッド」
「孤独な獣になるのはやはり、何より怖い物ですか」
「恐ろしいよ。心底恐ろしい。群れるのは弱い者の特権だよ。……どんな最強の黒魔術も、心の痛みを消せはしない。皮肉な物だ。『悪魔召喚術』、この道を究めれば究めるほどに、最強に近づけば近づくほどに、私は孤独に怯えるようになる。自らの能力の限界を感じ、仲間に依存するようになる。認めたくはないが、所詮皆『魔女』である限り、心の弱さは免れん。全てはそれを自覚しているかしていないかの違いだ。だが、故にこそ私は、全ての白魔女をこの世から消さねばならん。あの罪に無自覚な、愚かな連中を」
「あなた様にもやはり、後悔はあるのですか」
「反省はしているが、後悔はしていない」
サンドリーヌが微笑んだ。魔女とは思えぬほど、悲しげに。
「自らが積み重ねてきた居城を、歩んできた道を、そう簡単に今更全否定できるものかよ。人は何かを失わずに何かを得ることはできない。私は自らの全てを捨てた。やはり得た物は大きいが、過ぎ去った遠き日の思い出に浸ることほど辛いことは無い」
「女の子、ですものね」
「己が悩みを聞いてもらうのが世界一大好きな生き物だ。それさえ全て済んでしまえば、真の解決なんぞ求めんのだ。お前をここに何千回と呼び寄せて、真面目な議論をしたことが何度あることやら。それでも私は、お前が好きだよ」
サンドリーヌは、アストリッドに向き直った。そして、その頬に、そっとキスをした。
「唇には、してくださらないのですね」
「馬鹿者。それは次に会った時だ」
「次に会えるかも、分からないのに」
「だからこそということだ」
「何としてでも、再会すると」
「あぁ。それこそが、私の意思」
「素敵なお方」
アストリッドは目を閉じた。
「私の永遠の女王様」
「ならば行くぞ、私の永遠のお姫様」
サンドリーヌが囁いた。
「明日の夜に向けて、我らが舞踏会の準備だ」




