第十二章
=フランス南部の農村に伝わる童話『野ネズミと天使様』=
昔々、とある緑の原っぱに、一匹の野ネズミが棲んでおりました。野ネズミは、とても仲のいい友達のネズミたちと一緒に暮らしていましたが、決して平穏な生活とは言えませんでした。というのも、野ネズミたちの原っぱには、沢山の恐ろしい黒猫がやってきて、よくネズミを捕まえては食べていってしまったからです。
ある夜、皆が寝静まったのを確認すると、野ネズミは月を見上げて、天使様に祈りを捧げました。「どうか私に、あなたのような、美しい翼を授けてください。翼があれば、黒猫に食べられることもありませんから。」
野ネズミの生活を知っていた天使様は、これを聞いて可哀想に思い、夜空の雲の上から下りてきました。銀色の月明かりが照らす中、天使様は原っぱに降り立つと、野ネズミに向けて、そっと言いました。
「あなたの生活が苦しいことを、私は知っています。そして私には、あなたの願い通り、あなたに翼を与えることができます。しかし、仮にあなた一人に翼を与えたとしても、仲間達は皆黒猫に食べられて、死んでしまうでしょう。あなたはそれでいいのですか。」
「いいえ、天使様、違うのです。私は、皆を助けるために、翼が欲しいのです。」
と、野ネズミは言いました。
「今の私は、とても非力で、誰かを救うことなどできません。しかしもし美しい翼があれば、私は友達を腕に抱えて、空へと舞い上がって逃げることができます。私だけでなく、皆が死なずに済むのです。」
これを聞いて、天使様は感動しました。
「なんて素晴らしい、愛らしい野ネズミなんでしょう。あなたの願いを叶えます。私と同じ翼を、あなたに授けてあげましょう。ただし、この翼をあなたに授けたのが私であることは、皆に秘密にしていてくださいね。」
そうして、野ネズミは、美しい翼を授かりました。普段は、今までと変わらない野ネズミの姿のままでしたが、もしも黒猫が現れて、友達が食べられそうになったら、野ネズミはたちまち翼を生やして、空を舞うことができるのです。そうすれば、きっと、皆を助けることができるでしょう――。
それから先の何日間かの記憶は、どこかぼんやりとしている。記憶する価値も無かったということか、それとも新しい出来事を記憶する程の気力ですら、その時のあたしには無かったということか。一日と一日の間の区別がつかなくなっていった。ひたすら同じ、薄暗い毎日の繰り返し。
ジネットの支えを失ったこと――そして、あれをもう一度体験させられた事。二つのことが折り重なって、あたしは毎晩悪夢にうなされた。夢の中では、あたしは傷つけられ、汚され、何度も何度も犯され、殺された。ジネットはそこにはいなかった。いたとして、あたしのことを、遠くから無表情で見つめているだけだった。あたしは惨めで恐ろしかった。そのまま本当に死んでしまいたかった。
ジネットの過去……垣間見た瞬間には、もう既に後悔が始まっていた。彼女は……だって……
まるであたしそっくりだったんだ。
ジネットの方も、そう、神様に裏切られていたんだ。気味悪がられた異邦人との混血の娘、両親の病死直後に修道院に引き取られた哀れな孤児が、やがては使用人となり、更にやがてはその修道院にて裏でこき使われる、一人の名も無き奴隷と化した。その修道院には、神への信仰など無く、ジネットがそのような虚ろな幻想を信じられるはずも無かった。少女の人生の希望は、修道士見習いの、とある心優しい少年一人だけ。
少年は、ジネットを、人知れずいたわった。彼女の食事が十分でない時は、自分の少ない分け前から、惜しまずに分け与えた。過酷な労働を強いられ、苦しい時には、それを共に手伝った。大人たちには知られぬよう、全て、密かに。二人きりの秘密に。
けれどそれも、ある日には突然崩れ去った。少年は、食事をジネットに分け与えている現場を見つかり、生意気だとして殴られ、鞭で打たれ、果てはジネットが会えぬ場所に監禁された。ジネットへの仕打ちは、更にそれから、日に日に、日に日に、凄惨を極めていった。
そんなある日に、ジネットは夢を見た。虹色の目をした、恐ろしい魔女の夢。目の中から、眩い七色の光が飛び散っていた、そんな不気味な黒魔女だ。そいつはジネットに契約をせがんだ。お前には才能があると。全てに復讐することができると。そしてジネットはそれを、自分から受け入れてしまった。黒魔女に覚醒した。
ジネットは、衝動的に、自らの人生を滅茶苦茶にした奴ら全員に報復した。自身の黒魔女の力で、修道院はおろか、住んでいた集落全体を燃やし尽くし、木端微塵に破壊した。住民は皆殺しだった。力に飲まれたジネットが、心行くまで堪能しながら、一人とも残さず抹殺した。そして、自分を唯一大切にしてくれた、あの心優しい少年ですらも殺めてしまったのだと分かった時には、もう既に後の祭りで、どうすることもできなかった。
ジネットは、その「虹色の目の魔女」に匿われた。自らの一番弟子とするために。しかしジネットは、耐えきれず、逃げ出した。自らのことが怖くなったのだ。罪に怯えて、生より楽な死を望んだのだ。そして彼女は捕まる。教会に。火刑に処せられ、まさに殺されようというところを――
ヴェロニック・ウェルティコディアが、救出した。
どうしてウェルティコディアがそんなことをしたのか。この虹色の目の魔女が、一体誰なのか。あたしには何もかもわからない。ただ一つ、はっきりしたことがあるとしたら、それは、どうしてジネットが、あたしとシャルルの話題になる度に、あんなに複雑な顔をするのかだった。自らの過去と、現在のあたしと――あまりに似過ぎたこの境遇、重ね合わせない方が、無理があるというものだ。
それでもあたしには、ジネットが悪いとは思えなかった。いや、当然、彼女は罪を犯したんだ。何百人と殺し、それを隠してきた。きっとこれなんて半分、あたしが強引に彼女を正当化しようとしてるだけなんだろう。彼女が悪人だと思いたくないだけなんだろう。
けれど、どうしても考えてしまう。仮にもしあたしが最初、白魔女じゃなくて、あのジネットのように、黒魔女になっていたら――と。
きっと、あたしもあの破壊願望に取りつかれていたことだろう。全てを破壊しようとしただろう。シャルルすら含め。
仮にその事件に、明確な「悪」があるとしたら、それは悪魔そのもの、契約という行為そのものだ。なすすべもなく運命に飲まれ、闇に縋る以外の手立てを失い、それによって人生を狂わされる、そういった弱い人たちを――安易に、邪悪だと決めつけていいのか?
言ってしまえば、それはある種、自らの考え方を根底から覆す物にも近かった。世の中の黒魔女を殺すことで、本当に何かが変わるのだろうか? ただのその場しのぎに過ぎないような気がする。以前のあたしは、仮にじゃあ黒魔女時代のジネットと戦っていたら、彼女を殺していたのか……?
きっと、そうに違いない。
そう考えると、ジネットがこんな「勝ち組」のあたしを見て、一緒にいることに耐えられなくなった理由も、なんとなく分かる気がした。
この世界は、果てしなく醜い。
きっと、あたしよりよっぽど深い闇を抱えている人間なんて、この世には数えきれないほど存在するんだろう。
やがてあたしは、眠ることすらできなくなっていった。毎晩、ずっと、暗闇の中で、目を必死に瞑り、耳を塞ぎ、一人でうずくまっていた。それでも、あの幻影が、あたしが怯えるときには必ず現れる幻が、あたしに呼びかけ続けてきた。周りの世界が、敵意を以て、あたしに襲ってくるように思える。
魔導書は読まなくなった。ウェルティコディアの杖と一緒に、ベッドの下に仕舞い込んでしまった。読むことが苦痛になったのだ――「これさえ無ければ」、と、無意味に考えてしまうから。その代わり毎晩、あの黒曜石のペンダントに、しつこく、しつこく、話しかけた――助けてって、戻ってきてって、まだあたしたち、やり直せるって。でもジネットからの返答は一回も無かった。彼女の気配を感じることすら、できなくなってしまった。きっと相互の精神リンクが、切られてしまったんだろう。
あたしに何か起こっているらしいということは、シャルルも気付いていたようだった。ある日の朝、あたしが庭で草の刈り込みをしていた時、彼はあたしのところにやってきて、唐突に聞いてきた。
「あの……さ」
「……何……?」
「いや……」
最近シャルルは、あたしに対する態度が、少し違う。別に嫌ってるわけじゃない。心配して、気にかけてくれる様子は、むしろ前より顕著なぐらいだ。でも、明らかに、何か違和感がある――まるで、何かに――怯えているような。あたし自身、目の下にくまができていたし、誰が見ても明白なぐらいに落ち込んで、悲しみに暮れていただろうから、当たり前の反応だろう。
「最近……前よりも、もっと、元気が無いように見えるよ。ホントに、大丈夫?」
「何でもないよ。あたし、大丈夫だから」
あたしは精いっぱいの笑顔を作った。
世界一辛い笑顔だった。
「……大丈夫なわけないよっ」
シャルルが首を振る。悲痛な声だ。
「ねぇ……何で、僕に黙ってるのさ……嫌なんだよ、君が……これ以上酷い目に遭うのは。もしかして……母さんに、また何かされたりしたの? それのこと僕には言うなって、言われたの……?」
「だから」
あたしは笑おうとしたが、目の端に、涙が滲んできてしまった。声が、上ずらないように、必死に堪える。
「あたし、何も――」
シャルルが口を結んだ。
「……ねぇ」
彼が呟いた。
「君が、苦しんでるのって――」
「……何?」
「……僕の、せい?」
ハッとした。違う。駄目。違うの。そういうわけじゃないの!
あぁ――シャルル! 彼は何も悪くないのに。あたしを魔女と罵った時も、きちんとした理由があってだし、そもそもあたしだとは、未だに気付いていないのに。
なんで――なんで、そんなこと――
「……変に……訊きすぎたかも、しれない」
シャルルが下を向く。
「駄目だよね、僕……。君の悩みが訊きたかったんだ。助けてやりたかったんだ。でもそれって、言うなれば、僕の、ただの自己満足で……偽善だったりしたのかもしれない。だってもし、君が僕に何にも話したくないのなら、それっておせっかい通り過ぎて、ただのねちっこい尋問だもんね」
「――違うよ!」
あたしは泣き叫んだ。叫んでから初めて、涙がこぼれていることに気付いた。
「シャルルは悪くないの! ……嬉しいよ……そうやって、あたしのこと気にかけてくれてる人なんて、もう世界にシャルルたった一人しか残っていないんだもん! 凄く支えになってるよ。これ、全部、本当だよ」
「っ――それでも――助けさせてはくれないの」
シャルルがあたしの肩を掴む。必死の形相だ。
「僕に何を言ったっていい! 絶対に誰にも言わないから。君が嫌なら別にいいけど、もし僕にそれが迷惑だとか考えて、単にただそれだけの理由で黙ってるんだっていうだけなら、そんな考えは捨てていい! 確かに、押しつけがましいだけだし、どれぐらい力になれるかは分からないけれど、僕、君を、どうしても助けたいんだ! できることはなんでもするから。僕にはその責任があるんだ! お願いだから、助けさせ――」
「やめてよ!」
あたしは絶叫した。もうその優しさが耐えられなかった。自らがその申し出を、受け入れてしまいそうで。彼を巻き込む、彼をこの世界に引っ張り込んでしまう、その誘惑に負けそうで嫌だった。
パチン、と、音がした。
自分がしたことに、しばらく、気付けなかった。
手にじんとした感触があった。
ゆっくりと、恐る恐る、顔を上げた。
頬を打たれたシャルルが、そのままのよろめいたような体勢で、呆然としていた。震える手で頬を触り、あたしを見る。
傷ついた、目だった。
あたしは瞬きをした。目を見開いた。
死んでしまいたかった。
「……ご」
声がかすれた。
「ごめんなさい……」
「……分かった……よ……」
シャルルが呟いた。深く俯いてしまっていて、表情が見えない。
「悪かったよ。……気付いてあげられなくて、ごめんね……」
彼は向こうの方を向いてしまった。
「これでも一応、君の為になろうとしたつもりだったんだ……僕が、悪かったよ」
あたしは何も言えなかった。しゃべりたいのに。全部打ち明けたいのに。唇が動かない。
「僕……部屋に、戻るよ」
シャルルが押し殺したような声で言った。
「……ごめんね」
彼がとぼとぼと歩き去っていく。あたしから離れていく。離れていってしまう!
あぁ――どうしよう!
あたしは彼を呼び止めたかった。ごめんなさいと叫びたかった。あたし、ずっと隠し事してたの。あたし本当は魔女なの、白魔女なの、それのせいで苦しんでるの、あなたの命を救ったことだってあるんだよ!? だからお願い、あたしを助けて。あたしのズタズタの心を元に戻して。あたしを救い出して。お願いだから、行かないで――。
でも引き留められない。あたしには何もできない。手を伸ばしても、もう彼はこっちの方を向きさえしていない。ドアの向こうに消えてしまった。あぁ、行かないで!
涙が頬を流れ落ちた。嗚咽を漏らして崩れ込んだ。涙をぬぐい、咽び、声を絞り出した。
朝露の中の、沈黙。
鳥のさえずりだけが、どこからともなく、苛々する程に明るく、響いてきた。
自分の頬を、はたいた。思いっきり、可能な限り、強く。横によろけ、倒れ込む。芝生の露が、全身に仄かにしみ込んだ。綺麗な土のような匂い。残酷だ。あたしはしゃくりあげた。
爪を両腕に突き立てる。血がにじむ。そのままその爪を、思いっきり腕に走らせる。引っ掻き傷が、皮膚の上を走っていく。せめてそれぐらいしないと気が済まなかった。本当はもっとしたかった。
あたしは一体何をした? どうしてあたしはこうなってしまった? もう嫌だ。もう逃げ出したい。
辛すぎてもう耐えられない。もう何もかも捨て去りたい。全てをリセットしてしまいたい。もうたくさんだ。もう疲れたの。本当はとっくのとうに、こんなこと、諦めていたはずなのに。
あたしの目に、薪場に落ちている、斧が映り込んだ。
何秒間かの間、あたしは、何も考えず、何も考えられず、それに釘付けになっていた。
やがて、ふらつくようにして近づいていき、あたしはそれを手に取った。持ち上げ、太陽の光をぼんやりと反射する刃先を、しげしげと眺める。
……お母さん。
ジョーゼフ。カトリーヌ。あの日々の友達の皆。
ジネットちゃん。
シャルル。
……もう、これでも、いいよね。
しょうがないよね。
きっと、誰だって。
ここまできたら、こう、しちゃうよね――。
もう、疲れた。斧を掲げた。どうやって振り下ろそうか。どうせなら楽なのがいい。このまま頭に振り下ろしたら、頭蓋骨が上手く砕けなくて、沢山苦しむかもしれない。
首を、切り落とそうか。
首の横に斧の刃を持っていく。不思議と恐怖は無い。それどころか、今までの人生のいつよりも、心が平静で、幸せだ。なんだろう――諦めるっていうのも、意外と、楽でいいなのかもしれない。
なんだか、まるで、重い鎖の山から解き放たれたような感じがあった。あぁ、救済ってもしかして、これのことを言うのね。だとしたらそれって、すっごい皮肉。でも、最後の最後まで、あたし、こうだったのね。これがあたしの辿り着いたところなのね。
あたしは、これで、おしまい。
一足先に、おやすみなさい。
目を閉じた。かすかな微笑が広がる。斧を横に振りかぶり――
それを、自らの首に向けて、躊躇なく、切り下ろした。
自らの首の前で、それが、ピタリと止まった。
一筋だけの血が、冷たい金属がほんのり当たっている、糸のような傷口から、ゆっくりと流れ出し、したたり落ちた。
あたしはへなへなと崩れ込んだ。斧が横にどさりと落ちた。
あたしは、赤ん坊のように、泣きだした。
涙が止まらなかった。止めたいのに、全部、何もかも止めてしまいたいのに。なんで? なんで、死ねないの? こんなに死にたいのに! だって――死なせてよ!
勇気が無いの? 絶望が足りないの? ただのか弱い、臆病な意気地なしなの? あぁもう、もう最悪。なんて地獄なんだろう。生き地獄。いい加減、楽になりたい。
あたしって、何のために、生きてるんだろう。
生きるって、どういう、ことなんだろう――。
「あんた」
後ろから唸り声が聞こえた。
「何やってるんだい」
ハッとした時にはもう遅かった。鉄のような腕が、あたしを首の後ろに掴みかかって、あたしを空中に持ち上げた。あたしは小さな悲鳴を上げた。
「勝手に死ぬだなんて許さないんだからね」
『主人』があたしを、片手で軽々と持ち上げていた。豆粒のような眼が殺意を帯びてぎらめく。あたしは、掴まれた服で首が絞められて、喉を掻き毟った。苦しい――
「いいかい……」
『主人』があたしに顔を近づける。じっとりとした息が、あたしの顔にかかる。
「あんたはあたしの所有物なんだ。あんたがあたしの所有物を壊すことは、絶対に禁じられてるんだよ。そんな方法で逃げようとしないことだね」
「……ごめんな……さ……」
「フン」
『主人』が手を離して、あたしは地面に崩れ込んだ。ゲホゲホと咳き込む。涙が滲む。
「これから教会で全体集会があるんだってね。あんたも行くことになってる。あんたの大好きなミカエリス司教様だよ」
あたしは歯を食いしばり、よろけながら姿勢を起こした。『主人』が遠ざかっていく。
「……クソッ」
十分『主人』が離れてから、あたしは小声で呟いた。唾液を唇から拭い、肩を震わせる。
今度はなんだ……? 司教は何を企んでいる? ウェルティコディアの殺害計画といい、サン=キリエルへの市場の移動と示し合わせたような敗北者の襲撃といい、今までのこと全てから言って、ジャン=ジャック・エドガール・ミカエリス、あいつがサンドリーヌ・ファミリーと関係してることは間違いない。今度は何をするつもりだ……?
死への願望は、何時になく強い。でも、それでも……何かがあたしを、きっと繋ぎとめているんだ。それこそ首の皮一枚で。それが希望なのか、勇気なのか、それとも……白魔女としての責任感という名の、ただの投げやりな「偽善」なのか。
けれど今は、そんなことはどうでもいい。ひとまずは……行くしか、無いのか。
街までは馬車で行く。あたしたち奴隷なんて、基本的にはこんな待遇は受けられないけれど、移動の時には特別だ――歩かせたら、逃げ出したりするかもしれないし、目を離しているうちに他の連中に襲われて、そのまま盗まれるかもしれないからだ。あたしも例外じゃなくて、一応街へ行くには馬車を使わせてもらった(とは言っても、人が乗る用の馬車じゃなくて、荷物用の大きな箱の中だから、環境が悪いことに変わりはない)。他の奴隷達と一緒に乗り込み、砂利の敷かれた道を揺られて、街へと向かってゆく。
藁の敷かれた馬車の中は、薄暗く、蠅が飛び回り、全体的に汚らしかった。周りの奴隷たちは、皆無言だった。特に何かを思い浮かべる様子もなく、ガタガタと激しく揺られてゆく。埃を溜まらせた、古い日光の臭いが、鼻孔の中に充満する。
あたしの周りに、いる人達――。『主人』の家には、あたしの他にも、もう何人かの奴隷がいる。あたしのような仕打ちを受けるのはあたしだけだけれど、総合的労働量でいえば他の皆の方が多いだろう(他の皆は大人だからだ)。女が二人、男が三人。初めてあたしがこの家に来たときは(とは言っても、その時とは少し面子が変わっているけど)、皆少しあたしのことを可哀想に見つめたりもしたが、やがてそれも無くなった。あたしのことを気にするそぶりを見せ過ぎたら『主人』に何をされるかが怖いからだ。それに、どうやらあたしがここに来たことによって一種の役割分担が発生して、周りへの体罰があたしに吸収されたらしい。損な役回りは、素直に、あたしに背負わせるままでいるつもりなのだろう。
だからこの二年間ぐらい、するべき仕事の内容を訊く以外で、この人達と親しく会話したことはない。
馬車の揺れ方が変わった――徐々に、馬が石の上を歩き始めたような感覚があって、街の中に入ったことが分かった。周りの音も、騒がしい人の声で溢れかえり始める。やがて、もう何分かすると、馬車が止まった。外から、降りろ、と、『主人』の怒鳴り声が聞こえた。あたしたちが降りると、そこは教会広場の近くの、馬車の駐留所で、周りには沢山の馬車が繋がれていた。石造りの建物が、そこら中に建っている。
あたしたちは『主人』に連れられて、司教座聖堂の方へと歩いて行った。シャルルも、『主人』の隣にいたけれど、あたしの方をあまり見ようとはしなかった。一度だけ目があったけれど、シャルルは、すぐにさっと向こうを向いてしまった。あたしは俯いた。心が痛んだ。――今なんかじゃ、謝れない。
やがて、あたしたちは、聖堂の前に到着した。
あたしたちの住んでいるティエール家の邸宅も大きいけれど、地方一番の巨大施設であるサン=ノエル司教座聖堂に比べると、それですら矮小な掘っ立て小屋程度に思えた。中央の本堂と、そこら中に張り巡らされた、幾つもの聳える鉄塔や空中回廊とが連結し、四方に複雑に広がっている。真っ白な大理石には、そこら中に天使や聖人の彫刻が彫り込まれ、恐らくは敬虔な信徒の目には、それ全体が美しい芸術作品として映るのだろう。けれどあたしは無感動だった。なにせ、これの付け足し工事に使われている費用の中には、あたしや、他の子供達を、売りとばして得た税収も入っているわけだから。他にもきっと、沢山の汚い金がつぎ込まれているに違いない。
冷めた見方ととられても、おかしくないかもしれないけれど。
本堂の中へと進み込む。色とりどりのステンドグラス張りの、広々とした空間だ。既に人でごった返しているけれど、天井が高いからか、あまり圧迫感は無い。
人が十分集まったようだった。あたり一面、人でぎっしりと埋め尽くされている。やがて、前の方の祭壇の上に、一人の男が現れた。横には、甲冑に包まれた、護衛の騎士が付いている。男は全体的にひょろ長く、白い修道服を見に纏い、薄い、長い白髪の上に、細長い司教冠を被っていた。目は大きく、染みついたような笑顔を振りまいている。
あたしは歯ぎしりをした。拳を握らずにはいられない。この笑顔だ――苛つく。見る度に殺したくなる。未だに決して許せはしない。
ジャン=ジャック・エドガール・ミカエリス司教。この街の支配者。
あたしの奴隷としての運命を決定づけた、張本人。
それに、カトリーヌは――コイツの手で――
「……司教様にぃ――」
横の騎士たちが雄叫びを上げる。
「一同――敬礼っ!」
皆お辞儀をした。あたしもいやいや頭を下げた。こんなふざけた習慣、他のところの司教領でもあるのだろうか?
「お顔をあげてください」
ミカエリス司教が囁いた。あたしたちが顔を上げる。あたしは彼の顔を睨みつけた。相も変わらず、ミカエリスは、顔面に微笑を染みつかせている。
「お集まり下さってありがとうございます……皆さん。今宵皆様方に集まっていただいたのは、他でもない……ここ一週間続いている新たな連続事件、魔女同士の縄張り争いの主犯を、特定することに成功したからであります」
ざわめきが走る。あたしは唾を飲み込んだ。
「『赤毛の魔女』とでもお呼び致しましょうか。未だ幼い少女のようですが」
ミカエリスが声を上げる。
「この都市に住まう者ではありません……例の東の森の中に住んでいた魔女の弟子ということでございました。彼女の魔力の波長の解析に成功致しましたから、街に現れ次第、我々には探知できるということです。見つけ次第、征伐いたしましょう」
歓声が上がった。誰も疑問を抱かない。あたしは周りの馬鹿さ加減に腹が立ってならなかった。全身が怒りで震えた。
冷静に考えて見ろ、と、周りに呼びかけたかった。この魔女について、今何を言われた!? ここ四日間このあたりで確認されている、その魔女の事件は、全部魔女同士の戦いなんたぞ! 人的被害は、一人も出ていないんだ。魔女が殺されるだけなんだ! なのに誰も、誰一人としても、この魔女が皆の仲間だって可能性には、気付いてはあげられないのか!?
洗脳だ、と、思った。こんな馬鹿馬鹿しい空間、早く抜け出したい。だって周りの奴ら皆、産まれた時からずっと教会の絶対性を信じ込まされて、誰一人として司教の言葉を疑おうとは思わないんだ! 盲目的に従うだけの存在。あぁ、なんて馬鹿なの――まるで昔のあたしみたい!
そのまま幾らかミカエリスが話し、その日の集会は終了した。屋敷に帰る時、馬車の中、埃っぽくて薄暗い、狭い空間の中で揺られながら、あたしはなんだかふと思いたった。
あの司教は、ミカエリスは、どう考えてもクロだ――それを最早あたしから隠そうともしていない。ジネットはそいつに狙われた。彼女まで動けなくなった。そして、あたしとジネット、もし両者動けなくなったとしたら、どちらの方が死ぬのが良いか。答えは簡単だ。簡単すぎる。
もうそろそろ、あたしは、命を捨ててもいいのかもしれない――。
その夜、屋敷に戻ったあたしは、全てを賭ける覚悟を決めた。そして心に誓った。今度こそ、今夜こそ――やり遂げて見せると。何に換えても。
どうやらもうあたしは、自らの幸せだなんて物を手に入れることは、一生出来そうにないらしい。ひょっとするとそもそも、その発想自体が間違っていたのかもしれない。周りを助けつつ自分も幸せになるだなんて、そんな都合の良すぎる話、元からうまくいくわけがないのだ。あたしはもう、幸せにはなり得ない。喜びだなんて掴めない。もう何だか、何もかも、どうでもよくなってきちゃった。泣きながら、笑えるぐらいに。
ならばどうする? あたしはどうなる? このまま死んでも、それでもいい。それだって一つの道だろう――だけれど今は、それだけはできない。あたしが選んだこの運命は、皆のために生きるという、この白魔女の進むべき棘道だったのだから。
どうせなら、それを歩もう――。それは半ば投げやりな諦めの産物だった。ある種それは神様への挑戦状、自らの運命への壮絶な皮肉、世界その物へのどうしようもない嘲笑だった。最早、皮膚が切り裂かれ血が流れようと、骨が砕けようと目が潰れようと、十字架にかけられて、この身が炎に焼かれようと――もう、それでもいいや。どうなったっていい。
サンドリーヌを止めることができれば、少なくともシャルルの命は救われる。彼はあたしの最後の希望になってくれた人だった。だからせめて、その恩だけはきちっと返してから死んでやる。ジネットちゃんだって、死なせたくはない。このままじゃきっと彼女は、無謀に特攻して死んでしまう――あたしにはそんな感じがした。それは嫌だった。
サンドリーヌ・メロディについて、あたしは、詳しくは何も知らない。当然と言えば当然だろう――黒魔女の巨大組織の頂点に立つ女だ、そんな簡単に手の内を明かしたりはしないだろう。けれどこのサン=ノエル司教座聖堂にいる部下なら、果たしてどうだ? うまく忍びこめば、少しぐらい、あたしにでも情報が盗めるかもしれない。
白魔女にならなくても、人間態でも、それぐらいのことはできるかもしれない。出来なかったら、見つかったら、それはそれでそれまでだ。死のう。自らの命への諦めなら、もうとっくのとうについている。執着は捨てている。その絶望が、あたしに、行動力をくれる。眩しい勇気の代わりに。
逆に清々しいぐらいだった。何も捨てる物が無くなると、全ての恐怖が霧となって消えてしまう。これがもしあたしにとって最後の幸せなのならば、それって本当に、皮肉。
あたしは、杖とペンダントを、きちんと収納して持っていくことにした。敵に探知されてしまうから、変身するのは最終手段だろうが、万が一って時の為に、持っていくに越したことはない。あたしは柵へと走っていき、《ホルネの合鍵》で鍵を解除すると、屋敷をこっそりと抜け出して、サン=ノエル司教座聖堂へと向かった。
ありがたいことに、サン=ノエルは、数あるこのあたりの都市でも本当に珍しく、全体を囲む城壁がない。理由は二つあって、一つ目はまず、街の人口が増加の一途を辿っていて、常に領域を外側に広げていかないとどうしようもないということだ。二つ目は、そもそも、壁の必要がなかったから――今まで歴史上、このサン=ノエルには、ほとんど魔女の襲撃がなかったのだ。ジネット曰く、ウェルティコディアが街を守っていたおかげらしいが、逆にだからこそ、そのウェルティコディアがいなくなってしまった今、城壁がないこと――つまるところ、特定の出入口を見張れないこと――が、この街の平和を脅かしている。
……まぁ、そのおかげで、あたしの侵入が楽になったというのも、また事実だけれど。
家々の合間の、狭苦しい路地裏を走りぬけてゆく。月明かりが世界を銀色に照らす。あたしの息が、空中で真っ白に煌めいては、消えてゆく。
空気がやっぱり、ひんやりと冷たい。今のあたしは、白魔女じゃない、ただのボロ切れをまとった奴隷少女だ。走りながら、凍えそうになる。両手の指先がかじかむ。足なんて裸足だから、尚更のことだ。でも、今はそんなこと、どうだっていい。
どれぐらい走ったのだろう、やっと街の中心広場に辿り着いた。そっと覗きこむと、もうそこに聳えている――本日実に二回目の、サン=ノエル司教座聖堂。
確かにそれは、荘厳な建物だ。けれど……内部に巣くう奴らのことを考えると、きっとそれは、悪魔の巣窟に近い。
こちらはその裏側だった。二人の聖職者が、小さな扉の近くをこそこそと歩いていた。不安げにあたりに視線をやり、二人とも落ち着かない様子だ。あたしは、路地裏に置いてあった樽――横は確かワインの店だから、要らなくなった物をほっぽり出しているのだろう――の後ろにうずくまって、じっとその様子を窺っていた。どうも何か、よからぬことをしようとしているらしい。
やがて、その聖堂の前にいた男達は、その小さな扉を開け――何やら物置のようだ――聖堂の中に入っていった。
あたしは恐る恐る、その男達の後に続いた。広場の明かりの中を、恐ろしく無防備につけてゆくが、幸い誰にもまだ気付かれてはいない。あたしは扉の前に来ると、《合鍵》をさっと取り出して、鍵を解除した。ドアを、軋まぬようにそっと開ける。男達の頭の後ろが、地下へと続く階段の暗闇の中へ消えてゆくところだった。あたしは思わずにやけを浮かべた。そして、抜き足差し足で、そのあとをついていった。
なんだ、これ――やけに順調じゃないか。まるで全部、運があたしの味方になってるかのように。男達は、後ろを一度も振り返りもせずに、黙々と歩いていく。油断しているのか、ただ単に馬鹿なのか……でもどちらにせよ、あたしにとってそれは都合がいい。
男達はそのまま、冷たい階段を下っていった。あたしも後をつけてゆく。やがて階段が終わり、地下の通路に出ると、男達は扉を一つ見つけ、中に滑り込んだ。そしてそこで、足音が、ピタリとやんだ。
どうやら、ここの部屋に、何かがあるらしい。
あたしは扉のそばに歩いていき、ドアに耳をくっ付け、集中した。しゃべっている声が聞こえる。
「――つまり、そいつの弟子ってことになるわけだが――」
「――力は生前系統でしか受け継いでないんだろう? 力の継承ですら不完全な白魔女見習い如きが、なんだって何人刺客を送り込んでも殺せないんだ――」
「奴は他とはわけが違う。仮にもあのウェルティコディアの力だって多少受け継いでいるし、サンドリーヌ様の話だって聞いてるだろう。わざわざ御自ら見込んだだなんて……多少飛び抜けた才能があってもおかしくは無い」
ハッとする。ジネットの話題だ。しかも――知っているんだ。白魔女の存在を知っているんだ! その上で、殺すだとか、「刺客」を送り込んだけど失敗しただとか。
こいつらも――間違いなく、クロだ。
「リベリアはいい線行ってたのになぁ」
「あぁ、どうやって倒したのか是非知りたい……相性的には最悪のはずだが……そうだ、ところで、継承者の方はどう思う?」
「継承者ぁ? あぁ、ありゃあ脅威にはならない。まだろくに知識量が無いし、仮に今から修行しても、明日の夜の儀式の完成には到底間に合うわけがないだろ」
下品な笑いが響いた。あたしは目をしばたたかせた。聞こえてくる内容が信じられなかった。明日!? 術式は――《色の無い悪魔》の召喚魔法は――明日にはもう、完成してしまっているって言うのか!? ジネットは、このことを、知っているのだろうか? 以前のジネットの話だと、あの魔方陣の完成まで、もう一か月ぐらいはかかるって……
「んで、話題を戻すぞ。赤毛の方はどうなってる」
「今日も取り逃がしたらしいぜ。当日割り込まれると面倒だ」
「どうかな? サンドリーヌ様の配下の魔女が、皆一斉に集結する。総勢百名超だ。ともなれば流石にひとたまりも――」
「そう簡単に考えるな」
ハッとした。今の声――男の声じゃない。冷たい、女の人の声だ。美しい、透き通った、歌うような声――でも、その内側で渦巻く深い、深い闇が、ところどころから滲み出し、その歌を薄暗い霧に包み込んでいるようだった。
「あの魔女を……ジネット・レッド・ベネットを、甘く考えるな……彼女はいつ爆発するか分からぬ、火薬庫のような物だ……」
「ははっ! サンドリーヌ、様――」
えっ!? あたしは思わず、自らの耳を疑った。サンドリーヌ!? じゃあ、この扉の向こうにいるのは――
「勘違いするなよ、フェルディナン……」
声は鋭い刃物のような冷たさを持っていたが、まるで首筋をなぞる様な艶めかしさも秘めていた。人を妖しく魅了するような声。
「今お前は、私の言葉に……『動揺』……したな……彼女など所詮、数多の雑魚の一人に過ぎないと……」
「め、滅相もございません、サンドリーヌ――」
「いいや、それでよい。お前の考えは正しいからだ……そうだ……私は今の彼女が強力であると言っているのではない。強力なのではなく……脅威と成り得るほどに……『危険』なのだ」
扉の向こうの物への好奇心が、あたしの内側で膨らみに膨らんでいた。なんだかもう、堪えられそうになかった。
あたしはここで、危険な賭けに出た。
扉を少しだけ、開けたのだ。
中を覗き込む。
部屋はそこら中に、無数の蝋燭が並べられていた。壁にはぎっしりと蝋燭が並び、テーブルの上もほとんどが蝋燭だ。無数の影が、そこら中で、ゆらりゆらりと揺らめいている。異様な雰囲気の部屋ではあるけれど――おかしい。女性の人影はない。二人の男は、地面に這いつくばり、何やら何かを拝んでいるように見えた。
黒曜石をくり抜いて作られたテーブルの上に、悪魔の像が置いてある。禍々しい像だ――よく見ると一柱の悪魔じゃなくて、沢山の悪魔が密着して一つの集合体のようになっている物だった。そして、その前に、紫色の、小さな、綺麗な布が置かれ――その上には、水晶玉があった。
「あの赤毛の小娘の本当の問題点は……むしろその『精神的な弱さ』に……『秘めたる脆さ』にこそ、ある……才能はあり、意志も強いが、客観性が伴わない……そして半分しか黒魔女でなく、半分しか白魔女でないのだ……彼女は歪んだ双生児のような物だ……あの状態で、長生きするわけがない……」
相変わらず声がする。どこだ? どこだ? ――そこだ。
その水晶玉の中で、何かが禍々しく渦巻いていた。揺らめく、踊りまわる、影法師。水の中にインクを垂らしたような染みが、水晶玉の中で動き回っているのだ。
「彼女は……継承者の白魔女との関係を、自ら断った……」
声は水晶玉から響いていた。
「今の彼女は、孤独で、惨めで、絶望に墜ちている……考えても見ろ……彼女を待ち受ける運命が、如何なる物となるか……」
男の一人が顔を上げた。
「……敗北者……ですか」
「そうとなったら、厄介だ……」
彼女がしゃべるのに合わせて、影が無作為に踊りまわった。
「……彼女への対処に、それ相応の人員を割くことを考えると、術式には支障が出る可能性が極めて高いだろう……もし万が一、星が揃う瞬間を逃しでもしたら……次に時が満ちるのは三か月も先だ。その間に、教皇庁の上層部の連中に目を付けられたら……面倒なことになる。ミカエリスの計らいあっても、所詮奴の権力程度では隠しきれはしない。『聖痕者』共と戦えど、私個人が負けることは無いだろうが……部下たちの方には、甚大な被害が出るだろう。それはならん」
「ははっ……」
「我々は、社会の闇と同化することで、今までずっと、破滅の炎を免れてきた……だがこの術式の存在が知られたら、流石にもうそうとも行かない……余裕を持って戦うのは、得策ではないぞ……全力を注ぐべきだ。遊びで危険な橋を渡るべきではない。ミカエリスは失態を犯した。いつもここぞという時で使えない」
「心得ております。こちらからもきちんと――」
「そこでだ、フェルディナン……もう十分だ。その扉の外の白魔女を捕まえろ」
ハッとした。声を上げそうになる。急いで振り返り、逃げようとするが、後ろから太い腕が伸びて、あたしの服を後ろで掴んだ。悲鳴を上げる。必死に蹴り出すつま先が宙に浮く。あたしは男に捕まれて宙づりになった。そのまま――喚きながら、駆け出す。
あまりにも元からボロボロなうえ、今日は一度、そこで掴まれてぶら下げられている。もう服の強度が持たなかった。あたしが前に飛び出すと、後ろの首のところの服がビリビリと音を立てて破れた。男が驚きの声を上げる。あたしはパニックになって、わけもわからず、近くにあった階段を駆け上がった。よくみると、さっきの、倉庫に続く階段とは別の奴だ。どこに繋がっているか分からない。でももうこの際、どうだっていい。
「逃がすな!」
サンドリーヌの声が轟いた。
「殺せ! 奴を仕留めよ!」
あたしは涙ぐみながら、前のめりになりながら、必死に階段を上がっていった。すると頭上から、喚き声がぞろぞろと入って来た――何人もの聖職者たちが、地上階に駆け込んだのだ。ぎらめく銀製の武器を構え、あたしに迫ってくる。
「うわああああああ」
あたしは服の中に手を突っ込み、みるみる実体化してゆく杖を引っ張り出した。そして、それを頭上に掲げて、力の解放を絶叫した。
階段が爆発した。精神が吹っ飛んだ。粉砕された石の破片が、一斉に宙を舞った。あたしの中で、真黒な炎が燃え盛り、あたしを包み込んで同化した。影が形を取り、少年の姿となって、あたしを抱き込み、抱え寄せ、額に優しく、キスをした。
私は、爆炎の中から、黒のワンピースを身にまとい、雄たけびを上げながら飛び出した。聖職者たちが声を上げようとし、その場で硬直し、痙攣する。私が床を蹴り出し、彼らの頭上を舞い、一回宙返りをして、その後ろにざっと降り立った。男達が炎に包まれ、起爆し、一斉に爆散した。爆風が、私の髪の中を駆け抜ける。私は尖りかけた歯の間から息を吐き、後ろを振り返った。
階段の下から、もう何人かが駆け上がってくる。さっきの部屋にいた二人だ。私は杖を振り下げ、またも叫んだ。と――男達がその場で凍りつき、震え――頭が、弾け飛んだ。大量の血が噴水のように噴き出し、一部が、ぴちゃぴちゃっと、私の頬についた。ぞくっとした寒気が、私の背筋を凍らす。首を失った男達は、よろよろとその場で回転するようにして歩き回り、階段で足を引っ掛けてすっ転んだ。そのまま、何段も跳ねながら、ぶざまな人形のように転げ落ちて行き、下の階の床に血塗れの塊となってぺちゃんこに崩れ、動かなくなった。その周りに血の海が広がってゆく。
はーっ、はーっと、私は荒い息を吐いた。震える手が、頬についた血をなぞり、拭き取る。心臓が爆発しそうなほど高鳴り、歯がガチガチと鳴っている。
いや……え……
なんだ……!?
ちょっと待って……わけがわからない……自分でやってることなのに。弾け飛べとは念じた。確かにそいつらに死ねとは願った。元々魔術の本質は、精神の願望の顕在化――結果論で言えばこれでいい。けれどあぁ、やっぱりだ、やっぱりそうだ、こんなこと白魔女にできるはずがない! いや、一体、私って、本当に、何なんだ――何に変わっていってしまってるんだ――!?
でも今考えている余裕はない。私は何としてでも、このことをジネットに伝えないといけない。たとえ私が、どんなことになっても。どんな目に遭っても。たとえどうして、この心と身体が、何に成り果てていようとも!
私はあたりを見回した。出てきたこの部屋は、どうやら本堂に続く準備室らしい。今殺した男達の血がそこら中に噴き出していて、元の雰囲気は分かりづらいが……薄暗い月明かりに照らされ、ミサ用の色んな道具が置いてある――杯だの、聖書だの、それと沢山の羊皮紙。本棚に陳列された分厚い書物。それと……なんだ……机の上に……焼け焦げた、これは……頭蓋骨?
けれど、と思って、そこから目を逸らした。所詮この部屋はどうでもいい。ここが準備室だとすれば、この前に続く扉……これが本堂に続くと考えて間違いない。なんとかして、この建物から逃げ出さないと!
私はドアノブに手をかけ、こじ開け、駆け出した。相変わらずだだっ広く、どこまでも天井が高い本堂が現れる。ステンドグラスが四方を囲み、月明かりの中で不気味に浮かび上がり、骨組のような影を床に落としている。
私はその中を駆け抜けて行った。白魔女の作用で体力が増強されているお蔭で、自分でも信じられないスピードだ。扉が迫ってくる。左手に魔力を宿し、鍵を開ける準備を整え始める(魔術道具を取り出す作業が面倒だ)。もう少しで扉だ――と――その時。
前方の扉に、カチリ、と、勝手に鍵がかかった。その時何故だろう、私は、瞬間的に悟った――これは――
私程度の魔力じゃ――恐らくは、外せない。
そしてその時、後ろから、私の背中に、激痛が突き刺さって炸裂した。
「――――!」
目を見開いた。口が開き、パクパクする。唾液が飛び出す。私はそのまま何メートルも吹っ飛ばされ、大理石の床の上で弾けるようにして何回も跳ね、滑って行った。ぴくぴくと痙攣する。杖だけは、辛うじて、右手にまだ握られていた。
右腕の皮膚が擦れて、血が滲んでいる。左手の小指が、おかしな角度に曲がっている。けれど――一番、痛いのは――
背中の皮膚が焼けるようだ。まるで燃え盛るナイフに抉られるように。しかも、ただずっと痛いんじゃない、まるで鼓動するように、ざくり、ざくりと、断続的に刺さりこんでくる。のけぞり、身体をよじった。震える手を後ろに伸ばす。痛い――痛いよぉ――
私は息を荒げながら、激痛と戦いながら、なんとかして杖をついて立ち上がった。涙が滲み、唾液が垂れるのを、片手で拭き取り、前を睨みつける。こいつは――。
「サンドリーヌ様、どうかご安心を。侵入者は確実に生きては帰れませぬ。私が直々に、この手を以て、この小娘を殺しますゆえ」
嫌に訊き覚えがある、あの白々しい声。生ぬるい、語りかけてくるような、厭味ったらしい声。私は舌打ちをし、横に唾を吐いた。
ジャン=ジャック・エドガール・ミカエリス司教が、その真っ白なローブを床に引きずらせながら、ゆっくりゆっくりと歩み寄ってきた。不敵な笑みが、その顔に広がっている。
「初めまして、白魔女のK。罪の懺悔にでも来たのかね?」
「……っ」
私は答える気にもなれなかった。激痛がじんじんと背中に響くのを無視しながら、杖を掲げ、彼に向けた。目を細めて、唸る。
この時私は、計画を変更した。逃げるのが最優先というのは、一旦もうやめにした。そんな悠長なことを……最早、言っている場合じゃない。
血に塗れた記憶が、頭の中を駆け巡る。コイツのせいで起こったこと全て。期待に満ちた大海原。裏切りと焦燥。私の目の前で頭を割られて死んだジョーゼフの、あの最後の唇の儚い囁き。乱暴に汚された私の身体。後に聞いたカトリーヌの最期。それから先の三年間、私が味わってきた全ての痛みと悲しみ! 神様を憎まざるを得なくなるほどの、激しい、この絶望――。
コイツは今、ここで殺す!
後ろに杖を振りかぶる。その先端に、純粋な破壊の力が迸る。周りの光が、束状になって水晶に吸い込まれてゆき、ミカエリスが感心したように頷いた。
「死ね!」
私は泣き叫んだ。それが私の意思の、願いの、文字通り全てだった。杖が回転する閃光を発し、前にそれを振りかざすと同時に、真黒な電撃が放たれた。
ジグザグに迸りながら、ミカエリスに向かって、破壊のエネルギーが駆け巡っていく。大理石の床が割れ、それらの破片が宙を舞う。どんどんどんどん、彼に迫ってゆく。ミカエリスはただそこに突っ立って、せせら笑っていた。私の顔に、勝ち誇った笑みが浮かぶ。いける。これなら、殺せる!
と――
バシィッ、と、弾くような音がした。私はハッとして、目を瞬いた。ミカエリスの周りに、薄い金色の防御膜が形成され、攻撃が受け流されている。後ろの大理石の祭壇に、電撃がぶちこまれては、砕け散った破片が空中を飛んでゆくが――本人はなんともなく、その破壊の波の中を、こちらに向けて歩いてくる!
「――ッ!」
歯を食いしばる。なんだ、コイツ――強い――けれど、絶望とは違う。今私の心の中に燃え上がっていたのは、もどかしさ、そして、途方もない怒りだった。こんな糞野郎が、こんな屑の極みみたいな奴が、目の前にいるにも拘わらず、どうしてだ、どうして殺せない――!?
「無駄だよ」
彼が歩く音が、冷たく響く。
「無駄だ、無駄だ……知っているだろう……『奇跡』の力……これは如何なる魔法の存在に対しても猛毒のように働く。そこはあるのは、まさしく絶対不可逆の関係……お前が何になろうとも、どんな手を使おうとも、この私に勝つことなど未来永劫出来はしないのだよ」
私の頬を、汗が流れ落ちた。もどかしい――歯がゆい――とっとと死んじまえ!
「しかしお前の顔……どこかで見たことがあるような気がするぞ」
ミカエリスの指先に、光が集まり始めた。まずい――来る!
「さぁて」
彼が冷笑を浮かべる。
「どこだったかなぁ」
真っ白な光線が、私に向かって、一直線上に放たれた。私は横に思いっきりダイブして、それを避けようとし――ハッとした。にやけを浮かべたミカエリスが、その腕を大きく振るう。と、光線が、その動きに合わせて鞭のように回転した。大理石の床を切り裂きながら、一気に迫ってくる!
勢いよく杖を前に出し、私は力の言葉を叫んだ。呪文を省略してしまっては、大した力が出ないことぐらい分かってる――けれど、今はもう本当にそれぐらいしか、詠唱する余裕が無い。私の周りにピンク色の膜が展開されるけれど、光線が当たると、それは私の目の前で、ガラスのように砕け散ってしまった。そのまま光線が振り下ろされ――私の身体を、切り裂いた。
全身が眩い光と痛みとに包まれ、凄まじい勢いで後ろに吹っ飛ばされる。壁に派手に激突し、思いっきりめり込む。血を吐き、咳き込み、地面に倒れこんだ。
全身から血が流れ出している。それに混じって、煙まで、そこら中から噴き出している。頭がズキズキと痛む。視界がぼやけ、耳鳴りがする。堪えきれず、咳き込むと、更に床に、血が広がった。
震えながら、ふらつきながら、なんとか起き上がった。杖を弱弱しく振りかざし、もう一度命令を下そうとして――心臓に、一気に激痛が走った。叫び声をあげ――地面に突っ伏し――左胸を、死にもの狂いで掻きむしる。杖がカランカランと音を立てて、横に転がって落ちる。だめ――苦しい――何、これぇ――!
「私を他と同列に考えてもらっては困るよ、小娘。今まで葬ってきた強大な魔女たちに比べれば、お前のような若造如き、取るに足らん雑魚だ」
ミカエリスがゆっくりと歩いてくる。
「奇跡の御業《聖エザイル=アグルの浸食閃光》の真価は……命中時の一時的ダメージではない。それは半永続的に、そう、私が死なない限り、命中した敵の魔力を蝕んでゆくのだ。魔力とは即ち、魔女の生命力……お前は見る見るうちに、その生命エネルギーを吸い取られていっているのだよ」
信じられない。こんな、こんな、こんなところで――! 自らの、ガクガクと震える手を見つめる。手首の傷から、煙が燻って湧きあがっている。こんな、こんな――嘘だ――こんなことがあってたまるか――!
諦めていた筈なのに。もうどうでもよくなった筈なのに! こいつに負けるのだけは、こいつに殺されるのだけは、本当に心底嫌なんだ! 何がなんでも、勝たないといけないんだ! だって――そうでもしなければ――。
「全くお馬鹿な小娘様だ」
ミカエリスの足音が、前方から響く。
「ティエール家の奴隷娘だったかな。……お前が今日の昼の集会に出席するであろうことは分かっていた。赤毛の小娘の話を持ち出せば、お前が動じ、ここにやってくるとも思った……全ては計算ずく……お前を誘導するための罠、こちら側の作戦だ。お前はまんまとここにやってきて……私と戦う破目になった。だが私を誰だと心得る……司教様だぞ……この都市全体の管轄を任されている男だ……三十年間もの長きに渡りなぁ」
私は、震えながら顔をあげ、彼の顔を思いっきり睨みつけた。
「だから……どうしたぁっ……っ」
「つまりはだな」
ミカエリスは私の前で立ち止まった。
「お前のような生意気な魔女の小娘との間には……まるで天と地のような……力の差があるということだよっ!」
骨ばった指が、私の髪の毛を掴む。私は小さな悲鳴を上げた。私は全身を持ち上げられ、老人とは思えない怪力で振り回され、もう一度壁に派手に叩きつけられた。肋骨が折れるような感覚が、バキバキと腹部を襲う。
「……っげぇ」
私は、何もできないボロボロの塊となって、その場にどしゃりと崩れ込んだ。ミカエリスの言っていた通りだ、はっきりと感じる――自分の生命が吸い取られてゆくのが、みるみる尽きてゆくのが。もう意識が朦朧としている。震えながら、顔をあげた。
地面そこら中に、私の血が散りばめられている。こんな身体に、こんなに沢山の血が入っていたのかと、正直びっくりするぐらいだ。あぁ、やっぱり、死にたくない! なんて私は浅はかだったんだろう……嫌だ……こんなこと……いや――待てよ。
突然、とある、アイデアが閃いた。
……可能、だろうか?
捨て身の戦法だ。諸刃の剣だ。途中で殺されればそれまでだ。そもそも成功したとして、その後生き残れるとは限らない。でも。
それでも、きっと、こうでもしなければ勝てない。
「……思い出したぞ」
ミカエリスがせせら笑った。
「奴隷とするとお前、あれの一人か。あの例の少年十字軍の」
「……っ……」
私は肩を震わせた。
「だったら……なんだぁ……っ!」
「ハハハハハ」
ミカエリスが私の胸倉を掴み、私を上に持ち上げていった。この怪力――やっぱり、恐らく、その『奇跡』とやらによる物に違いない。
「皮肉な運命だなぁ、白魔女のK。だがお前は愚かな小娘に過ぎない。我々の前に立ち塞がる愚か者は皆滅ぼされる運命にある。神の威信を持つ我々教会こそが、絶対の世界の支配者なのだ!」
「はは……っ……やっぱ……神様は」
私は彼をあざ笑った。息をゼェゼェと吐く。
「あんたらにとっちゃ……ただの道具に過ぎないわけだな」
「だとしてなにかね!」
ミカエリスが私の顎を強く殴り上げた。力なく上に吹っ飛ばされ、落下する私を、更にもう一回殴りつけ、蹴り上げ、蹴り倒す。
「腐っているとほざく! 愚かしいと、おかしいなどと叫ぶ! 神が、我々を、選んでいるわけがないと、お前達は、いつも、そのように喚き散らす!」
拳が、脚が、私に容赦なく襲いかかる。肋骨が更に砕け、内側で内臓に突き刺さる。吐きそうになる。意識が飛びかける。一発一発が、私の小さな生命をぶち抜いていく。血が噴き出し、あたりに飛び散る。
「分かっている、分かっているぞ! 我々は――教会は――元より、そんなことは、どうでも――よい! 支配者は我々だ! 永遠にそうなのだ! お前達白魔女は、そのために、邪魔だったのだ! だから滅ぼした! 我々の先代たちが! 正当なる支配の為に!」
朦朧とした私の頭が、ガン、ガンと、何度も蹴り倒された。私は、自分の吐瀉物と、血の海の中で震えていた。ミカエリスは意地悪い笑みを浮かべて、私を見降ろしている。
「復讐に来たのなら失敗に終わったなぁ、白魔女のK」
どこから話しかけられているのかわからない。方向感覚が失われている。
「さぁて……お前はどのようにして殺そうか。このままにしていても、どうせ浸食作用で死に至るだろうが……お前のような奴が苦しむ様を見るのが楽しいということについてだけは、あのリベリア・ラ・レイビィズとも同感だな。地下には全て揃っているぞ……鎖も、鞭も、なんならそれこそ鉄の処女もある。懐かしい……若き日はよくあれらで遊んだものだが……」
「……屑野郎っ」
「ほざけ」
もう一度踏み倒された。ぐりぐりと靴が、私の血まみれの後頭部を地面に押し込む。私は震える嗚咽を絞り出した。涙が溢れる。脳味噌が、頭蓋骨ごと潰されそうだ――!
「私がどうやって司教にまで上り詰めたのか教えてやろうか、小娘」
「……っ……ぁぁ……ぎ……ひっぎ……ぁ……ぁぁぁあぁ」
「世の中には、想像以上に、貧しい者共が多くてな。奴隷として売り出される少年少女の大半は、金のために家から追放された者達だ。私は昔から少女を甚振るのが好きだった……そして、『奇跡』を操る才能もあった。聖職者として、まだ駆け出しだった頃、私は教会から貰った金でよく彼女らを買ってきては、この地下室で実験を行ったのだよ」
私は恐る恐る顔を上げた。言っている内容が信じられない。まさか、ここまで――だとすると、猶更――
「奴隷は文字通り絶対に、主人の言葉を聞かなければならない」
司教の顔は、歪みに歪んでいた。
「私は彼女らに、悪魔と契約することをも強制した……! そしてそこに現れた黒魔女達を、新しく編みだした、対悪魔術式の実験台として使用したのだ! 教皇庁や王立大学の研究施設なんぞよりよっぽど効率が良い。その場で試してみることができるのだからな。あのサンドリーヌ様と出会ったのはそれの途中だった……彼女は私の下に沢山の悪魔を派遣してくださった。実験が、黒魔女の生成が滞らないように。代わりに私は彼女に義捐金を送り、また、ファミリーの魔女達に危害を加えないという約束をした。私は様々な新しい術式を発明し、その功績を称えられ司祭となり、神父となり、そしてやがてはここへまで、この司教の座へとまで昇り詰めた……」
「この……野郎……地獄に……堕ちろぉっ」
私はもう、息をすることすらままならなかった。
「カトリーヌは……お前に……お前みたいな奴に……ッ……」
「カトリーヌ? お前の旧き仲間か? あの少年十字軍の一員か?」
ミカエリスが顔を引き裂くような笑みを浮かべる。
「まぁ、私とていちいち、名前までは記録に残してはいないが――そうだろうな。もし公には『教会に引き取られた』ということになっているのならば、一人残らず実験に利用させてもらったよ」
「今まで……こんな、こと……ばかり……して」
歯の間から息が漏れる。
「今度は……この《色の無い悪魔》の、時は……どうする……つもりだ?」
「簡単だよ。この街の者達は全員死ぬ」
ミカエリスは、私のボロボロになった腹の傷口に指をぐっと突っ込み、中身をいじくりまわし始めた。私は絶叫し、震えた。皮膚より奥に、私の内部で、ミカエリスの指が、私の肉を、内臓を、かき回している。痛い――痛い!
「皆私を信じ込みながら死んでゆくのだ……」
ミカエリスが私の絶叫に聴き惚れながら囁いた。
「皆私の助けを待ちながら死ぬ。だが実際には私は、サンドリーヌ様と共に、この世界を支配する王となるのだ……黒の女王、白の王。サンドリーヌ様は寛大にも、私にそう約束してくださった。全く皆どうしようもない愚民共だ。私を愛してやまない! ……なに……待てよ……」
ミカエリスが目を細める。
「これは。なんだ……おかしいぞ……内臓の様子で分かる。お前……魔力の消耗が、やけに、激しい……ような……」
彼が、やっと、ハッとした。
後ろを、振り返り――息を飲んだ。
地面一面、おびただしい量に流れている私の血が、そこら中でぬらぬらと動き回っていた。一つの巨大な象形を、床一面に形成していく。
私の血で描かれた、半径何メートルにも及ぶ魔方陣だ。複雑な象形文字が、幾何学的に入り乱れ、意味を成し――彼の死を告げている。
「馬鹿……な……」
ミカエリスの目が驚愕で歪んでいる。
「これ……は……」
「やっと……気づいたか」
私は勝ち誇った笑みを浮かべた。血が、私の頭の上から垂れてきて、視界を赤く濁らせる。
「あんたが……おしゃべりなお陰で、助かった……基礎的運動術ぐらいなら……今の私でも、扱える……っ……今までの痛み……私の人生を滅茶苦茶にした代償……全て……この場で……払わせてやるっ……!」
「やめろ――」
ミカエリスが拳を振り上げ、そこに光が集中し始めた。
「やめろ! 今すぐやめるんだ! この――汚らわしい小娘がぁぁぁぁ!」
でもそれはもう遅かった。横から一斉に、赤黒いエネルギーが噴き出した。それがミカエリスの上に覆いかぶさり、彼が悲鳴を上げる。次の瞬間、それは彼を覆い尽くし、完全に呑み込んでしまった。そのまま魔方陣へと、ずるずると引きずり込まれてゆく。
「ぎぃやぁぁぁああぁぁぁぁ」
ミカエリスがのたうちまわる。赤黒い泥のような波がその上に覆いかぶさり、彼に執拗に粘つきまわる。それも、術式の行使者たる私にはわかるけれど――激しい痛みと共に。
「やめろ……やめろぉ……ぎぃ……やあぁあぁぁぁあ」
魔方陣全体から溢れ出している、赤黒い泥の波の中から、無数の人影が蠢きだした。皆、沢山の、私と同じぐらいか、一回り幼いかぐらいの歳の、どろどろとした少女達の輪郭だ。目や口は、ただの、ぽっかりと空いた穴。伸ばされた手からも、赤黒い泥が垂れる。溶けては内側から湧いてくる身体を、周りの沼の中を引きずるようにして、ミカエリスの元に、ゆっくりと迫ってくる。
「よくも私を……殺したな……許さない……許さない……」
「怖いよ……ママ……怖いよ……助けてよぉ」
「あんたなんか……あんたなんか……地獄に、墜ちれば、いいんだぁ」
「死んでしまえ……死んでしまえ! お前なんか……お前なんか……!」
「やめろ! やめてくれ! 白魔女K!」
ミカエリスが辛うじて、顔と上半身だけを波の中から突き出し、私に泣き叫んだ。
「お願いだ! なんでもする! そうだ! なんでもだ!」
「今更あんたの罪が……それでどうにかなるとでも思ってるのか」
私はゆっくりと起き上った。引きちぎられた内臓の一部が、べちゃりと、床に落ちた。全身血まみれで、意識も朦朧だ。立つことすらもままならない。でも、せめて――勝った。
「あんたは死ぬべきだ……何万回、何億回死んだって、その罪は拭われない……無様な命乞いはやめて、素直に運命を受け入れるんだな」
「嫌だ!」
ミカエリスが泣き喚き――ハッとした。その顔に、にやけが浮かぶ。
「そうだ、白魔女K! お前に教えてやろうか。サンドリーヌのことだ! 色々と情報をくれてやろう。どうだ!? それでどうだ!? 例えば……」
私は黙りこくっていた。そのまま、赤黒い少女達が、彼に掴みかかみ、肉に噛みつき始めた。
「やめろ!」
ミカエリスが涙を流す。顔が鼻水と冷や汗でぐちゃぐちゃだ。だらしない。反吐が出る。
「考え直せ白魔女K! いいのか!? 私は沢山のことを知っているぞ!」
「もう既に……さっき、あんたの部下から聴いたから」
私はぼそりと呟いた。
「もう……いらない」
「いや、待て! 考え直せ、畜生……っ……いや、そうだ! これだけは知らないだろう!?」
ミカエリスは引き攣った笑いを浮かべ、最後の力を振り絞るようにして、死者の波の中を泳いで行った。祭壇の方に向かって。私は目を細めた――何をする気だ?
ミカエリスが祭壇に縋るように両手を当てて、何らかの言語で叫んだ。大理石が砕け散り、その中から巨大な黒い箱が姿を現す。まるで棺桶のような大きさだ。冷や汗だらけの彼が、死に物狂いの必死の形相でそれの蓋を開け、中身を指さして、私に向けて大声を上げた。
「これの中には何百人か分の魔女の灰が入っている。死んだ後の灰だ、分かるな!? つまりサンドリーヌは明日の夜、《色の無い悪魔》を召喚するために、これらを使うということだ! 魔女の灰には力が宿るからな……これを魔術回路に組み込んで、《色の無い悪魔》の召喚用のエネルギーを賄うのだ!
本来私は、これを守れと言われている。しかし今理解した、あんな奴に従うことは聖職者としてあってはならない! 罪は全て償おう。これは全てくれてやろう! お願いだから頼む、私の命だけは。命だけは!」
私は箱をしげしげと眺めた。確かに、今こうして箱が開かれると、物凄い魔力が内側から湧き出しているのが分かる。
「……私、そこまでは知らなかった」
私は素直に認めた。
「いい……有益な、情報ね」
「だろう!?」
ミカエリスの顔ににやけが広がった。
「そうだろう、そうだろう白魔女K! 私は使えるぞ、とてもいい仲間になる。経験と知識量ならばとことんあるぞ。サンドリーヌの黒魔女だって何人も同時に相手にできる! 早くお願いだからこの亡者共を取り消せ! お願いだ! あぁ、やめろ!」
彼の後をどろどろと追いかけていた少女達の亡霊が、彼に一斉に追いついた。全身を取り囲み、引きずり込み始める。
「怖いよぉ……助けてよぉ……」
「許さない……殺してやる……」
「あたしの……ママの、お人形……いい加減……返しなさいよぉ!」
一人の少女の輪郭が、ひときわ強く、彼に掴みかかった。私にははっきりと、それが誰だか、瞬時に分かった。その輪郭が、こちらを向いて、笑ったように見えた。
「……ありがとう、クリスティアーナ……!」
「ひぃ……ひぃいぃぃっ」
ミカエリスが腕を振り回すが、そこら中に少女達がまとわりついて離れない。そのまま彼は、ずぶりずぶりと、赤黒い沼の中に沈み込んでいった。
泥の波が、外側の方から、徐々に内側へと引いてゆく。彼が沈みゆくその場所へと、段々と集約されてゆく。ひび割れだらけの床が、その下から現れてゆく。ところどころ、ひび割れの間には、まだ赤黒い泥が残っているけれど。
もう、奴の身体は完全に沈み込んだ。ミカエリスの腕だけが、赤黒い小さな沼の中、助けを求めて力なくもがいていた。やがてその上にも、赤黒い波が覆いかぶさり――そうやって、そのまま地面の中に吸い込まれるようにして、ミカエリスも、その赤黒い沼も――
完全に、消えてしまった。
重苦しく、沈黙が流れた。
ステンドグラスを通した月明かりが、ひび割れだらけの大理石の上に、仄かに差し込んで照らしていた。
私の全身から、血と吐瀉物が混ざった物が、ぽたり、ぽたりと、床に滴った。
私の足元が、くらりと、ふらついた。
私は、力なく、崩れ込んだ。
息が絶え絶えだ――絶え絶えだなんてもんじゃない。ヒュー、ヒューと、風が通り抜けるだけのようだ。下腹部がぐちゃぐちゃだ。肉が裂け、内臓だって少し飛び出している。全身血だらけ、吐瀉物まみれで、もうろくな力なんて残っていない。
血を失い過ぎたせいで、全身が、どうしようもなく肌寒い。と同時に、どこか妙に、内側が燃えるように熱い。震えながらもたげた片手の肌は、青白く――ぞっとした――まるで、死人を思わせた。
畜生……っ……
涙がこぼれる。氷のような寒さに震えながら。
死んで、たまるか……!
まだ、シャルルがいるんだ……ジネットも生きてるんだ……どこかで戦ってるんだ……どうにかしないといけないんだ……!
どうすればいい……どうすればいい……?
鍵は閉められている……開けられそうにない。そもそも私には最早、微塵の魔力も残ってはいない……それすら、段々と、風の中の蝋燭のように消えてゆく……
……そうだ……
これなら……どうだろう……?
私は震える手を伸ばし、前に進みだした。全身を引きずり、ゆっくりと、ゆっくりと、前に進んでゆく。意識が切れ、真っ暗になりながらも、ずっと、ずっと、わけもわからずに進む。私が自らの身体を引きずって行ったあと、床の上に、おびただしい量の血と肉片が、まるでナメクジかカタツムリかの通り道のように、びちゃびちゃと汚らしく続いていく。それでも止まるわけにはいかなかった。執着が、失ったはずの執着が、私を突き動かしていた。絶対に、死んではならないと。
目の前にやっと迫ってくる。あぁ、あと、もうすぐだ! 一体この状態でどれほど力を振り絞り、どれほど進んだことだろう。もう両脚の感覚がない。上半身だけで動いている。私は震えながら、祭壇の前に崩れ込んだ。
……この、箱だ。
この箱の中の、その、魔女の灰……。
それが手にできれば……これさえ、手に入れば……生き残ることは……できるはず。せめて……せめて……せめて……!
もう目を開ける力すらろくに残っていない。痙攣する手を伸ばし、手探りで箱を探す。ない……ない……あった! 指先の感覚が、滑らかなそれを捉えた。精一杯身体をもたげ、その中に、ゆっくりと、血まみれの手を伸ばす――。
その時だった。
後ろから、爆音が轟いた。
「いたぞ!」
「魔女だ!」
「あぁ――ミカエリス司教様! いったい、何が――」
一斉に声がなだれ込んでくる。ハッとした。ぞくっとした。まさか――。
恐る恐る、後ろを振り返る。聖堂の入口がぶち壊されていた。そこから、月明かりを背景に、無数の男達のシルエットが浮かび上がる。農具や武器を持った沢山の男達、女達が、聖職者たちに率いられて、壊された入口から駆け出し、あたりに広がってきた。私は茫然としていた。何もできなかった。
「司教様……司教様ぁっ」
一人の修道女が、ヒステリックな声を上げながら、あたりを駆け回っていた。やがて震えながら、私の方を向いたその顔は、額に青筋が浮かび上がり、目は吊りあがり、歯茎は露出し、まるで悪魔のようだった。
「魔女……貴様ぁぁぁっ……!」
「よくもミカエリス様を! よくも司教様を!」
周りで男女たちが泣き喚いて武器を振り上げた。
「死ね! 魔女め! 悪魔の手先め!」
「……」
一瞬、ショックで、私は何も言えなかった。やがて、震える口を、開いた。
「違うの……」
枯れかけた涙が、私の頬を伝っていた。
「皆、違うのぉ……私……皆を、助けたんだよぉ」
「うるさい! 魔女の言うことなんて信じないぞ!」
一人の幼い子供が、私に向かって石を投げつけた。私のこめかみに命中し、私は短い悲鳴を上げた。血が流れ落ちてくる。目が、眼窩の後ろに回り込みかける。私は崩れ込んだ。涙が滴り落ちる。
どうして……ねぇ――どうして――。
「もう逃げられないぞ、汚らわしい魔女め!」
修道士の一人が私の元に歩いてきて、私を髪の毛で掴んだ。そのままひっぱりあげられる。私はもう抵抗する力が、微塵も残っていなかった。浮き上った右手の、親指と人差し指の間に、ほんの少しだけの魔女の灰が、辛うじて摘ままれていたけれど、その手をこれ以上持ち上げることすら、私にはできなかった。
「今からお前を処刑する」
怒りに満ちた声だった。
「こっちへ来い!」
私は床の上を、来た道を、引きちぎられた人形のように引きずられていった。もう何も考えられなかった。もう何も分からなかった。
「魔女!」
「よくも司教様を!」
「悪魔!」
「死ね!」
人々の中を引きずられていく私に、容赦ない罵声が浴びせられる。石が投げられ、体中に突き刺さる。私の両目から涙が流れたけれど、それを拭き取る力すら、最早私にはありはしない。
叫びたかった。違うと泣き喚きたかった。私は皆を助けたんだ。黒魔女じゃない、白魔女なんだ! 皆教会に騙されているんだ。皆このままじゃ死んでしまうんだ!
でも、私を睨みつける目は、どれも、怒りと、憎しみと、嫌悪感とに満ち満ちて溢れていた。私はどうしようもなく無力だった。それは紛れもない絶望だった。
私は本堂から引きずり出され、更にその横に設置されている処刑台の上に、乱暴に投げ出された。処刑台と言っても、ただの地面より少し高いだけの石造りの台に過ぎないが、魔女、異端、異教徒などといった宗教的罪人の公開処刑は、いつもここで執り行われることになっている。
「この女こそ! 我らが司教・ジャン=ジャック・エドガール・ミカエリス様を、許し難くも殺害した張本人! 神の国への冒涜を成した、アンチキリストの化け物なり!」
私はもう一度、髪の毛で掴みあげられた。声を絞り出されるようにして呻く。私を持ち上げている男の怒号が耳に響いて痛い。脳みそがじんじんする……。
「殺せ!」
聖堂の前に集まった民衆が一斉に喚き散らす。
「殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ!」
「まずは魔女としての証を示す!」
私は、二人掛かりで、前へと少し引きずられ、その前に何やら桶が置かれた。桶の中を覗き込むと、それは一見、ただの水のように思えた。けれど――
……待てよ……
「ひっ……」
歯がガチガチと鳴る。これって、もしかして――いやだ――
今の私には、ウェルティコディアの杖がない……ミカエリスとの戦闘の途中で手から放したまま、聖堂に置いてきてしまった……まずい……力がない……今の私は……ただの弱っちい、ごく一般の魔女に過ぎない……!
桶が、私の頭上に掲げられる。私は、力なく首を振った。
「嫌……やめて。やめて……お願いだから……助け……」
けれど、そんな声が聞き入れられるはずもなかった。桶の中身が、私の上に被さる。
肌が焼ける。全身が焼けただれる。絶叫し、その場で、のたうちまわる。私のざまを嘲笑う声が、そこら中からこだまする。ありとあらゆる傷口にしみ込んで、まるで、鋭いナイフで全身を切り刻まれる様だ――。
「聖別されたばかりの聖水だ。魔女にはよく効く」
男の一人がせせら笑った。再び大衆の方を向き、声を大きく張り上げる。
「これを以て証と成す! この汚らわしき女は魔女である。どうすべきか。今民衆に問う!」
「殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ!」
「いいや!」
別の声が群衆の中から飛び出した。一人の乱暴そうな男が、意地悪い笑みを浮かべて私を睨みつけている。
「その前にもっと苦しませろ。司教様を殺した罰だ!」
「そうだ! その方がいい! そうしろ!」
「……あぁぁああぁぁ」
私は首を振った。
「やめて……助けて……」
「拷問の上処刑!」
私の頭上から声が轟く。
「これでよろしいか!」
「よろしい! よろしい! よろしい! よろしい!」
「ならば決定である!」
男が屈みこみ、ふと、私の耳の中に囁いた。
「残念だったな白魔女。お前の完全なる敗北だ」
ひっ、と声を上げた。コイツ――
「サンドリーヌ様はさぞお喜びになるだろう……明日の宴は楽しいことになるぞ」
男が、私から顔を離し、高笑いしながら後ろに歩いて行った。私はその場にどさりと倒れ込んだ。声が声にならない。見上げる頭上の夜空から、ゆっくりと星々が消えてゆく。暗雲が、引き戻らないような暗雲が、私の世界に立ち込め始めていた。
神様、と、呟いた。最早そう呟くしかなかった。
――助けて、神様。
醜い喜びに満ちた顔が、私の周りで渦巻き始める。鎖の枷が、音を立てながら、手首にも足首に嵌り、私は何かの中を落ちてゆくような、堕ちてゆくような、そんな感覚に襲われた。流した涙が、血の海に混ざり込んだ。
そして、神様は、
またも、私を助けては、くれなかった。
それから先起こったことは、私自身よく覚えていない。
完全記憶の力が備わっている以上、魔女形態で体験したことを、通常は忘れるだなんてあり得ない。っていうことは、きっとこの時――私は半分、発狂しかけていたんだと思う。
痛みだけは覚えている――何よりもはっきりと。焼かれ、砕かれ、切り裂かれ、磨り潰され。記憶が残っていないのは、きっと何よりも幸いだ。それまで経験してきた様々な痛みをも、それが遥かに超えていたこと、それだけは、絶対に忘れ得ない。
鉄の鎖に四肢を縛られ、狂った民衆の罵声や歓喜の声を浴びる中、私にどんなことが起こったのか、その過程ははっきりとしない。けれどその結果だけは覚えていて、正直なところでいえば、それも同じぐらいに忘れたい。
巨大な木製の十字架が用意され、私は、そこにかけられた。
鉄釘が両手首に打ち込まれていた。それだけでは足りないからだろう、更に手には鎖が巻きつき、決して私が剥がれ落ちないようになっていた。骨が砕かれきった両脚はだらりと下に垂れ、私は俯いて、涙と鼻水と唾液と吐瀉物と血で塗れた顔を、地面に向けていた。
けれど、私の視界には、どんな景色だって飛び込んではこなかった。
両目は既に、抉られてしまっていた。
罵声が絶え間なく私を襲う。誰一人私を助けようともしない。私が気の毒だとも誰一人思わない。誰一人真実を知らず、そしてきっと誰一人、明日の惨劇を逃れられはしない。
今になって、どうしようもないのに、昔の顔が蘇ってくる。生きている人も死んでいる人も、今まで私が愛してきた人たち全部、その顔が、浮かび上がっては消えてゆく。
お母さん、と、呼びかけた。ごめんなさい。せっかく育ててくれたのに。私、こんなところで、こんな形で、何もできないで死んじゃうのね。覚えてる……? 笑顔で約束したのに。かっこよくて優しい人と結婚して、たっくさん子供産んで、苦労もしても幸せに生きて、おばあちゃんになって、孫達に囲まれて、そうやって綺麗に死ぬんだって、私、約束したのに。そうやって満足に、明るく楽しく死ぬんだって。そう、言ってたのに――。
――とんだ親不孝者。ごめんなさい。
ジョーゼフ、カトリーヌ、昔の友達の皆。……一体何人が生きているんだろう、何人が死んだんだろう。生きている人は、せめて、幸せになって。ジョーゼフ、ごめんなさい。せっかく助けてもらったのに、私、ここで終わりなの。カトリーヌも……せめてあれで、許して。これでも、私……精一杯、やろうとしたつもりなの。
シャルル……あぁ、シャルル。何も知らないシャルル。明日の朝どうなるんだろう。いなくなった私を探して、もしかしてここにまで来たりでもしたら……こんなことになった、私の亡骸の残骸を、その目で見ることになってしまったら――。
最後にした会話が、あんなだったなんて。最後に触れあったのが、あんな形だったなんて! ぶったこと、まともに謝れてすらいないのに。シャルル……あんなに、大好きだったのに……! シャルル……ごめんなさい……!
ジネットも、本当に……ごめんなさい。私また一緒になりたいけれど、最後の最後まで、あなたにだけは、何もできなかった。私、分かってるの。救ってあげられたのに……これから先、私が死んだら、ジネットはどうなってしまうんだろう……?
あぁ――
私の足元に、死が灯る。
下に敷き詰められた枝や薪に、炎が燃え移っていくのがわかる。私は最早、涙を流すことすらもできない。仮に今叫ぼうと思ったって、舌が根元から切られているのだから、それすらも叶わない。
……神様ぁ。
最後の最後には、結局神頼みだ。どんなに嫌いでも、どんなに憎んでも、最後には結局はこれなんだ! だから嫌なんだ。だからこんなにも惨めなんだ! でも私はなんとしてでも、もう誰に頼ってでも助かりたいんだ。あぁ、どうしよう、どうやったら抜け出せる!? 私は今夜を生き抜かないと。明日の夜の惨劇を止めないと!
あぁ……本当に、誰でもいいから……
助けて――。
ドン、ドン、ドンドン。ドアを叩くような、くぐもった音がする。
虚ろな強弱の呻き声が、全方向から、淡く響き渡る。あたしは、耳を塞いで、自らの顔を膝にうずめて、藁のベッドの上に座り込んでいた。水流の中で、あたしの長い黒髪が、ふわりふわりと揺れている。
それは、浅い海の底。平たい砂の上に、ぽつりと佇んでいるあたしの寝室。その中の藁のベッドの上で、あたしがそうしてうずくまっている。頭上では、雨が降っている。そこまでは同じだった。
けれどそこからは、いつもとは違った。
頭上では、雷が容赦なく轟き、寝室全体を揺らしていた。降ってくる雨は、血の雨だ。水面が赤く濁り、あたしの周りまで染み込んでくる。赤黒さが、海の水に混じる。血生臭い。こんなの嫌だ。気持ち悪い……。
寝室の入り口のところ、本来無防備な戸口には、ガラスの板が張ってあった。まるで世界を侵入を拒む、透明な防御膜のように。そして、その向こうにいるから分かるのだけれど、寝室の全方向から――
彼らが、襲って来ていた。
それは死体の群れだった。街の人々の死体。水面にも一面、びっしりと浮かんでいるのだが――そのせいで、周りの景色が、普段にもまして暗い――更に多くの死体が、砂の上を歩きまわり、あたしのこの寝室の周りに、群がってきている。幾層にも重なりあって、全ての方向から歩いてくる。
「入れておくれ」
ガラスのところから、くぐもった声がした。口から泡を漏れ出させながら、何人もの死体が、腐りかけた拳で、ガラスを叩いていた。小さな魚が、彼らの空っぽな眼窩に、青緑に変色したふやけた皮膚に、齧りついている。
「入れておくれ」
「嫌だ」
あたしは首を振った。
「やめて。来ないで……誰か、あたしを助けて」
「入れておくれ」
死体達が、顔面をガラスに張り付けて、入ろうとしてくる。
「入れておくれ」
「やめて!」
耳を更に塞ぐけれど、声は執拗に、全方向から聞こえてくる。
「入れておくれ」
「嫌だ……助けて」
「入れておくれ」
「本当に……誰か……」
「入れておくれ」
「入れておくれ」
「入れておくれ」
「入れておくれ」
そして、あたしの耳元で、また、声がした。
「入ったよ」
ぞっとした。ひっ、と声を出す。横を振り向き、泣き叫ぶ。
天井に穴が開いていた。一人の死体が、そこから入り込んできていた。あたしの目の前に、ちゅうぶらりんで、逆さまの死体の顔が揺れている。
「入ったよ」
また別の声がした。今度は砂の中から、何人かの死体が自らの朽ちかけた身体を引っ張り出し、中に入って来た。
「入ったよ」
「やめて!」
あたしは泣き喚いて、死体の一人に殴りかかった。拳が、勢い余って胸を突き抜け、ぞっとするような気持ち悪い感覚が右腕を襲う。ぶちゃぶちゃに潰れた、腐りかけた肉。内側で蠢くイトミミズの群れ。
「ひ……やぁぁっ」
あたしは腕を引っこ抜いて、無我夢中で振り回した。手にこびりついた肉片が、あたりに舞い散り、赤黒い深い霧を巻き上げながら、ゆっくりと流れ落ちてゆく。すると――後ろから腐った手が伸びて、あたしの肩を掴んだ。粘つく、ぶよぶよとした感触が、あたしの肩に伝わる。
「入ったよ」
「いやああああああああ」
あたしは泣き叫んだ。ドアのガラスが割れていた。一斉にぞろぞろと、揺らめく死体達が入ってくる。
「入ったよ」
「入ったよ」
「入ったよ」
「入ったよ」
「やめて! 来ないで! 誰か、誰か助けて!」
あたしは泣き喚いた。後ろに下がろうとして、足を躓かせて転んでしまい、尻もちをつき、耳を覆う。
「ねぇ、誰か、来てよ! 助けてよ! ねぇ!」
「入ったよ」
「入ったよ」
「入ったよ」
「入ったよ」
「嫌だ! ねぇ! 誰も! シャルル! ジネットちゃん! 皆――」
ハッとした。
ぞっとした。
それは、目の前の死体の一人だった。大半の髪の毛は皮膚ごと腐り落ちてしまっているが、残っているそれは、淡い金色だ。この背丈。この服装……
「入ったよ」
「……いやぁ」
あたしは首を振った。
「違う! いやぁ!」
「入ったよ」
後ろからした、別の声の方を振り向く。ボロボロの赤いジャケットとスカート。虫に食われた跡だらけの、黒いニーソックス。左側が焼けただれた頭蓋骨。赤い髪が、水流で揺れ、あたりにゆらゆらと舞っている。
「やめて!」
あたしはその場にうずくまった。全てを振り払いたいのに、振り払えない。
「嫌だ! 誰か! お願いだから! ねぇ!」
《僕がいるじゃないか》
瞬きをした。え……今の、声――
《僕を呼ぶんだ》
それはあの声だった。紛れもなく、あの声。でも、一体――
「どこに……いるのぉ」
涙ぐんでいた。あたりでは死体達が、あたしのことを覗き込んでいる。
《君の中さ》
「でも……だってぇ、ここ自体が、あたしの心の中なのにぃ」
《その中でも君の中さ。僕は君にとって、最も重要な、必要不可欠な存在。君と結びついて、永遠に離れない。今だって一緒にいるんだ》
あたしは口をつぐんだ。
「どうやったら……出てきてくれるの?」
《名前を呼ぶんだよ。僕の名前》
「……名前……?」
《覚えているかい? あの時に教えてあげたじゃないか。君は、僕の世界の女神様だから》
あたしは、ゆっくりと頷いた。涙を必死に堪えながら。狂いそうな恐怖に耐えながら。
「うん、覚えてる。……助けて」
《じゃあ、呼ぶんだ》
あたしはこくりと頷いた。両耳を塞ぐ。深呼吸をする。
あたりの死体達が、びくつくそぶりを見せた。皆、立ち止まり――何が起こったか、あたしが何をしようとしているのか気付いたのだろう、次の瞬間、牙をむいて、一斉に襲いかかってきた。でもそんなこと気にしない。もう全て助けに委ねる!
あたしは息を吸い込んだ。目を瞑り、全力で、彼の名を泣き叫んだ。その叫び声は、きっとその時、世界全体に広がった。
「サムザリエル!!」
何かが割れるような感覚があった。まるで表裏ひっくりかえるような。わけこそはわからなかったけれど、何故だかそれは、途方もなくしっくりきた。
私の胸の中から、荒れ狂う何かが、凄まじい轟音とともに噴き出した。あたりを覆い尽くし、蹂躙する。周りで群衆の悲鳴が聞こえる。聖職者たちが、驚きの声を上げる。
私の前で、全世界が、過去から今に至るまでずっと、遡って行った。荒れ狂う大地。溶岩を噴き出す火山。大地を包み込む洪水。世界を駆け巡る竜巻。高速で作り上げられてゆき、また荒れ果て、やがて崩れてゆく砂漠都市。光。闇。日食。月食。そしてその果てに、その遥かなる果てに、ただ二人だけが存在している。私と、彼と。クリスティアーナと、サムザリエルと。
私は溺れていた。何か、艶めかしく擦れ合う、肌と肌の中で。裸のその少年が、裸の私を抱き寄せていた。私はその胸にうずまり、どこまでも幸せだった。愛しいその名を、何度も何度も、喘ぐようにして呼んでいた。
「なんだ……!」
「何が起きている!?」
「おい、あいつ――」
下からざわめきが巻き起こる。一人が私を指さし、泣き叫んだ。
「目があるぞ!」
その言葉の通りだった。私には目があった。だが、虚ろに上を見上げてこそいたが、この今のことなど、そこには映ってはいなかった。遥か太古よりの歴史が、その全ての英知が、私の目の前を駆け巡ってゆく。あぁ、と、理解した。これが、それか。こんなことって、あるんだ。なんだか、おかしいな。
私の両手を縛りつけた鎖に亀裂が走り、弾け飛び、粉砕された。私は、支えを失い、炎の中にどさりと崩れ落ちた。その炎が一刹那、爆発するようにして、燃え盛り燃え上がり――掻き消すように晴れると、完全に消えていた。薪から、僅かな煙が、プスプスと上がるだけだ。
私はゆっくりと立ち上がった。全ての骨が砕かれたはずの両足が、何の問題もなく元に戻っている。腹の傷は癒えていた。他の、無数の、拷問の痕も。舌だって元通りだ。確認のために、口の中で舐めまわす。
そして、私の手の中には、あのウェルティコディアの杖が握られていた。
「な、何が――」
聖職者の一人が、手をかざし、私に攻撃を食らわせようとした。が、できなかった。何故なら。
その時にはもう既に、その身体は、千切りになっていた。
全方向に血が飛び散った。床には放射状に吹き出し、周りにも飛び散った。群衆の上に降りかかり、皆の顔を濡らしてゆく。私の頬にも、少しぺちゃっとついた。
沈黙が、流れた。
一瞬、誰もが、何が起こったのか、分からないでいた。
そこら中から、血が滴り落ちていた。ぽたり、ぽたり、ぽたり――と。
次の瞬間、広場が、瞬く間に、何百もの絶叫に飲みこまれた。
逃げてゆく人々。純粋な恐怖に駆られている。我先に我先にと逃げてゆく中で、一部は逃げ遅れて踏みつけられ、さっきまで共に騒ぎを楽しんでいた者達によって踏み潰されてゆく。残りはなんとか逃げ果せ、どんどん遠ざかって行った。が、私は無表情だった。別に特段、何とも思いはしなかったし、気にもしなかった。瞬く間に人々は消えて行く。路地の中へと逃げ込んでゆく。やがて、集まっていた民衆は、皆、いなくなってしまった。
周りの聖職者たちだけが、未だに完全に硬直していた。きっと皆逃げたいのだろうが、逃げることができない。金縛りのように、動けないでいる。
ざっと数えてみる――やはりだ、数が足りない。この街には確か合計百五十人ぐらい、聖職者が配属されている筈だ。この場にいない、おおよそ三分の二を閉める連中の方は……まぁ、後で片付ければいいか。
私は首を傾け、溜息をついた。杖をゆっくりと頭上に掲げて、水晶玉の中を覗き込んだ。
その内側には、赤黒い炎が灯っていた。前回見た時もそうだったが、それは糸を引く、立体的なシミのような物だった。ただ、こころなしか、前回よりか、少し大きくなっている。そして……私はどこかそれに、愛くるしさを感じた。
私は、舌を突き出した。水晶玉を、ぺろりと舐めた。内側のシミが、嬉しそうに跳ねまわった。
そして、杖から、それらが吹き出した。
それは荒れ狂う破壊の渦だった。赤黒い鎌鼬が、無数に、そこら中を吹き荒れ――男達を、一斉に、切断した。そこら中で、綺麗に、皆、真っ二つに、真っ二つにと、切り刻まれていく。無数に宙を舞う真っ赤なサイコロのように。おびただしい量の血が、彼らがいた場所から噴き出して、私の全身を染め上げる。
いや――違う。鎌鼬じゃない。
私の杖の先から、無数の小さな、赤黒い翼が、吹き出しては、辺りを、目にも止まらない速さで飛び回っているのだ。小さな破壊の翼。でもそれは、私の眼には、とっても綺麗な物として映った。可愛らしい物。
周りで破壊の嵐が吹き荒れる中、私はただひたすらずっとぼんやりと突っ立っていた。全身に返り血が降りかかる。おびただしく。絶え間なく。地獄の鮮血のシャワーのように。
嵐は止まない。竜巻は消えない。私が消えろと、そう念じない限り――。けれどそろそろ、もういいや。やがて私は左手をもたげ、パチン、と、指を鳴らした。
周りの「物」達が攻撃をやめる。あたりは一面、切り刻まれ過ぎてもう何の原型も留めていない聖職者達と、血の海とに一色に塗りつぶされ、横の聖堂の壁も、周りの床も、私自身の身体も、一か所の塗り残しなく、真っ赤な血に染まっていた。ボタボタ、ポタポタと、そこら中で血と贓物が垂れる音がする。私は相も変わらず呆然としていた。
周りにいたそれらが、一斉に急降下し、地面に降り立ち、そこら中の血を舐めはじめた。大理石の壁も、広場の石の地面も、びっしりとそれらに覆われる。肉片を食いちぎり、飲み込み、また食らいつく。何千もの小さな舌が、そこら中で血を舐めとっていく。彼らは私にも群がった。私に対しては害はない――血を拭き取ってくれるだけだ。全身を舐めつくされる。血が綺麗に拭き取られてゆく。くすぐったくて、生暖かく包み込まれて、これはこれで、気持ちいい。
もうそろそろ、綺麗になったかな――。それらが一斉に、私から離れた。私は満足にそく微笑み、彼らに向けて、指を指し出した。その一匹が、その指先にとまった。
吸血蝙蝠にも似ている――顔や翼なんかは、まんまそれと言っても良い。だが、その翼だって四枚あるし、口は裂け、色とりどりの目は、顔のそこら中についている。顔の上からは、蛾のような分厚い触角が伸びている。
へぇ。
――これが私の、使い魔か。
おぞましくも、可愛らしく感じた。私はそれに頬ずりをした。キーキーと喚いて、それが喜ぶ。私が指先をもたげると、それは名残惜しそうに私の方を見ながらも、私の周りを滑空する群れの中へと混ざり込んで行った。
やっと今はっきりとしたことがあった。今まで私が抱いていたあの疑惑、あの不安、全て本物だった。本物だったけれど、この際はどうでもいい。いいやむしろ、素晴らしいぐらいだ。なんて素敵なんだろう!
こんなにも気持ちいいのは、文字通り生まれて初めてだ。ただ突っ立ってるだけで快楽だ。身体の奥から、こんなにも、無尽蔵に力が溢れ出してくる。素直に、もっと早く、受け入れていればよかったんだ。なぁんだ。簡単なことじゃないか。
頭上で雷鳴が轟いた。徐々に雨が降り始めていた。瞬く間に雨が激しくなってゆき、私の全身に打ち付けた。私は目を閉じて、両腕を上に広げ、全身に雨を浴びて立っていた。心地いい。安らぐ。洗われるように。ぼんやりと消えてゆく世界と、最後のキスをするように。
私の周りの使い魔達が、一斉に螺旋状に吹き出して、ぶち抜かれた本堂の扉の中へと流れ込んでいった。まるで彼らと感覚を共有しているかのようだ――彼らが如何にして飛び回り、どう回転し、そしてどこに向かっていくのか分かる。私の指示通りに。
置き去りにされた、あの黒い大きな箱。その中に入っている、沢山の魔女の灰。使い魔達はそこに群がり、そして一斉に、中に突っ込んでいった。
灰を貪る。舐めあげて飲み込む。全身その中で、震えながらのたうち回る。それはまるで私には麻薬のようだった。激しい雨の中突っ立ったまま、私はびくつき、喘ぎ、顔を赤らめた。溺れて蕩けるような味。どんなお香より心地いい匂い……全身がぞくぞくして痺れそう。
使い魔達は、瞬く間に灰を食らい尽くしていった。食べれば食べるほど、何かが私の内側で育っていくような感覚がある。快感が増してゆく。もう、止めることができない。仮にミカエリスが一ついいことをしたとすれば、これの在り処を教えてくれたことだ……こんな物が手に入るだなんて、私は思いもしなかった!
使い魔達は、しばらくひたすら、何かの欲求に突き動かされるようにして、ひたすら灰を食べていた。やがて見ると、先程まであれだけあったというのに、もう全然残っていない。名残惜しげに、その中の僅かな粒を舐め回してゆく。箱の中身は、文字通りの空になった。
私は顔をだらしなく蕩けさせて、快感の余韻に浸っていた。あぁ……どうせならもう少し味わっていたかったなぁ。考えるべきだったかも……。
ふと、思い出すようにして横を見た。そしてわたしは、ハッとした。
杖の中。
――杖の、この水晶玉の中!
私は四つん這いになって、それを覗き込んだ。これは、この内側で渦巻くこれは。
胎児だった……赤黒い胎児。まるでお母さんの羊水の中にいるようにして、それが内側でくるくると回転している。
私はそれに見惚れていた。不思議な愛情が湧いていた。これって一体なんだろう。これって一体誰だろう?
まぁいいや、と思った。何だろうと誰だろうと関係ない。どうもこれに対し私が感じるとめどない愛情、それは母性のように思えた。母親が子供に対して抱く、無償の愛のような。だから、可愛がってあげよう。
それと……そうだ。
私にはまだ、やるべきことが、残ってるんだった……。
顔に、引き裂くような笑みが広がった。鋭く尖った歯を、舌でなぞってゆく。私は杖を持ち、前を向いて、一回軽くジャンプした。処刑台から飛び降り、広場の石の上に降り立つ。ひたりひたりと、その中を、裸足で歩いていく。
あぁ、楽しみだ。ぞくぞくする。この子に更に、餌をやるんだ……待っていろ、怯えていろ。或いは気付かずに迫ってこい。この街にはまだ沢山敵がいる。サンドリーヌとグルの聖職者達。百人はゆうに超える……鱈腹満腹になりそうだ。じゅるりと唇から垂れる涎を、私は舌で舐めとった。
あぁ、よかったわ、神様。これってほんっと楽しいのね。あんたの助けだなんて元から必要なかった。必要な力は、全て手に入った。これでこの世界は何もかも、私の思い通りに動かせる。
全身から迸る、この力は悪魔。その名こそサムザリエル。どうして気付かなかったんだろう。受け入れようとしなかったんだろう! けれどもう否定しない。諦めを諦めない!! だから私は、もう負けない。
今の私は、黒魔女Kだ!!
―――――フランス南部の農村に伝わる童話『野ネズミと天使様』
昔々、とある緑の原っぱに、一匹の野ネズミが棲んでおりました。野ネズミは、とても仲のよい友達のネズミたちと一緒に暮らしていましたが、決して平穏な生活とは言えませんでした。というのも、野ネズミたちの原っぱには、沢山の恐ろしい黒猫がやってきて、よくネズミを捕まえては食べていってしまったからです。
ある夜、皆が寝静まったのを確認すると、野ネズミは真ん丸い月を見上げて、天使様にお祈りを捧げました。「どうか私に、あなたのような、美しい翼を授けてください。翼があれば、黒猫に食べられることもありませんから。」
野ネズミの生活を知っていた天使様は、これを聞いて可哀想に思い、夜空の雲の上から下りてきました。銀色の月明かりが照らす中、天使様は原っぱに降り立つと、野ネズミに向けて、そっと言いました。
「あなたの生活が苦しいことを、私は知っています。そして私には、あなたの願い通り、あなたに翼を与えることができます。しかし、仮にあなた一人に翼を与えたとしても、仲間達は皆黒猫に食べられて、死んでしまうでしょう。あなたはそれでいいのですか。」
「いいえ、天使様、違うのです。私は、皆を助けるために、翼が欲しいのです。」
と、野ネズミは言いました。
「今の私は、とても非力で、誰かを救うことなどできません。しかしもし美しい翼があれば、私は友達を腕に抱えて、空へと舞い上がって逃げることができます。私だけでなく、皆が死なずに済むのです。」
これを聞いて、天使様は感動しました。
「なんて素晴らしい、愛らしい野ネズミなんでしょう。あなたの願いを叶えます。私と同じ翼を、あなたに授けてあげましょう。ただし、この翼をあなたに授けたのが私であることは、皆に秘密にしていてくださいね。」
そうして、野ネズミは、美しい翼を授かりました。普段は、今までと変わらない野ネズミの姿のままでしたが、もしも黒猫が現れて、友達が食べられそうになったら、野ネズミはたちまち翼を生やして、空を舞うことができるのです。そうすれば、きっと、皆を助けることができるでしょう。
その何日か後のことでした。いつものように、野ネズミと、その仲間達とを食べるために、恐ろしい黒猫が原っぱにやってきました。最も早く黒猫を発見したのは、野ネズミでした。
「大変。早く皆を連れて逃げないと、皆食べられてしまうわ。」
野ネズミはそう言うと、翼を生やし、皆のいるところへと向かいました。黒猫たちは、既にネズミたちを追いかけ回し始めていて、いつネズミたちが食べられてしまってもおかしくはありません。
「皆、私が助けに来たわ。急いで掴まって!」
翼を生やした野ネズミは、そう叫びながら、友達の元へと向かいました。しかし、どうしたことでしょう、友達は、野ネズミの手をしっかりと握るどころか、別の方向へと一目散に逃げ出してしまったのです。というのも彼には、その翼を生やして急降下して来る野ネズミの姿は、まるで自分に狙いを定めた、鷲の子供のように見えたのでした。
居もしない鷲への恐怖に駆られて逃げた、野ネズミのその友達は、そのまま、黒猫の一匹と正面から出くわし、頭を食い千切られて、食べられてしまいました。しかし、どうすることもできずに、その恐ろしい光景を見ていた野ネズミだけは、空を飛んでいたお蔭で襲われず、傷一つ負わずに済んだのでした。
獰猛な黒猫たちが去った後、残されたネズミたちは集まり、今日も殺された仲間のことを思い、泣きました。野ネズミも、今は最早美しいとは思えない翼を仕舞い込んで、皆と一緒に嘆き悲しんだのでした。すると突然、ネズミの一人が、野ネズミに向けて、怒りを込めて言いました。
「私は先程、彼が黒猫に食べられている間、この野ネズミが翼を生やして空を飛んでいるのを見たわ。どうやって翼を手に入れたのかは知らないけど、そんな力があるのに彼を助けようとしないだなんて、この野ネズミはとんでもない悪い奴よ。」
「何、お前、翼が生やせるのか。どうやって生やしたんだ。最初っから皆にも教えてくれていれば、皆死ぬことは無かったのに。」
「一人だけ助かって、ずるい!」
「なんてひどい奴なんだ!」
「殺してしまえ!」
しかし、反論がしたくても、野ネズミは何も言い返せませんでした。皆の為に、天使様に願って授かった翼が、まさかこんな結果を産んでしまうだなんて、思いもよりませんでした。あまりにも惨めで、あまりにも悲しくて、絶望に暮れて我を失った野ネズミは、泣きながら空へと舞い上がり、生まれ故郷の原っぱを離れ、どこか遠くへと逃げ去っていってしまいました。
野ネズミは、行く当てがあるわけでもなく、どこまでも逃げて行きました。ともかく、自分が暮らしていた、あの緑の原っぱから、可能な限り遠く離れたかったのでした。自分が悪いのか、仲間が悪いのかの区別すら付けられず、彼女はどこまでもどこまでも飛んでゆきました。山を越え、谷を越え、広大な森を超え、やがて彼女は、暗い、暗い洞窟の中へと、迷い込んでしまいました。そして、最早翼も疲れ果てた野ネズミは、そこから動こうとはしませんでした。
洞窟の奥の、深い暗闇の中で、幾らかの時を過ごしているうちに、野ネズミは、己の考えが固まってくるのを感じました。自分は何か悪いことをしたわけではなく、そして自分の仲間達も、ただ単に、仕方ない勘違いをしたに過ぎないのでした。自分も、仲間達も、何ら悪いわけでは無かったのです。
ともなると、全ての元凶は、あの美しい天使様だったのだろうと、野ネズミは結論づけました。翼を授かった後の野ネズミがどのような運命を辿るのか、聡明な天使様、神様の御使いである天使様には、最初から全て分かっている筈なのでした。
「私の未来を全て知ったうえで、私にこの翼を与えるだなんて、天使様はなんてひどいことをしたんだろう。許せない。もう二度と、絶対、あんな奴に祈りなんかしない。」
野ネズミは、そう心に固く誓いました。
そうしてある日のこと――或いは夜かもしれません、洞窟の中では、その区別すらつきませんから――洞窟の奥で、膨れた虫を貪っている、翼を生やした野ネズミの元に、醜い姿の悪魔が現れました。野ネズミは、最初は醜い悪魔を恐れましたが、悪魔は野ネズミには危害を加えず、代わりにこう優しく囁きました。
「ああ、何故私を恐れるのです。あなたはご覧になったでしょう。天使共は酷い連中なのです。弱いあなたをああやって甚振って、彼らは雲の上でそれを見て楽しんでいたのです。私と手を取り合い、力を合わせて、あの邪悪な連中と戦おうではありませんか。あなたの身に起きた悲劇が、もう二度と繰り返されないためにも。」
野ネズミは、全くその通りだと思いました。
そうして、翼の野ネズミは、悪魔たちの仲間入りをしました。しかし、天使たちへの激しい憎しみで、心も身体も歪みきり、嘗ては美しかった羽根も全て抜け落ち、洞窟の汚れと闇で、白かった翼も今や黒ずんでしまった野ネズミは、最早野ネズミと呼べるものではなくなってしまっていました。そこで悪魔は、彼女に「蝙蝠」という新しい名前を授け、自らの忠実な僕としました。
本来自分達を助けてくれるはずだった野ネズミを自ら追い出してしまった、あの緑の原っぱに残されたネズミたちは、恐ろしい黒猫たちによって、やがては一匹残らず喰らい尽くされてしまいました。そうしてネズミ一匹いなくなった原っぱは、害虫に覆い尽くされ、無残に荒廃し、生命のない、ただの荒れ野と成り果てました。
今でも、洞窟の奥に行けば、あの野ネズミの、あの蝙蝠の子孫たちが、深い、深い闇の中で暮らしています。蝙蝠の子孫たちは、魔女や悪魔の手先となって、いたるところの暗がりに潜み、嬉々として暗躍しています。自分達に翼を授けた張本人、あの美しい天使様を、いつまでも、赤赤と光る目で、忌み嫌い、呪い、憎み続けながら。




