第十章
=悪魔の詳細情報①=
大半の個体があまり多くを語ろうとしない、或いは語ったとしても信憑性が極めて低いことから、悪魔の性質、本質に関しては、未だに教皇庁の学会内ですら研究がほとんど進んでいない。錯綜する様々な情報を論理的に分析し、総合すると、以下のような性質が浮かび上がってくる:
・悪魔には、人間と同じく、様々な役職の概念が存在し、彼らが住まう通称「地獄帝国」には、一般人の想像を遥かに超える高度な社会が形成されている。
・地獄帝国は、「皇帝」、「王」、以下「公爵」、「侯爵」……などと続く王族・貴族階級によって支配されている。侯爵階級以上の悪魔ともなれば、多少動くだけで地殻変動を引き起こしたり、自然災害を発生させたりすることができる。サタンやベルゼビュートなどの「皇帝」クラスの悪魔が、完全な状態で地上に解放されれば、一週間のうちに世界を滅ぼすことができるとも推定されている。なお、階級という名称とは裏腹に、爵位は完全実力主義によって決定され、世襲制ではない。
・一般的な悪魔召喚術で呼び出されるのは、悪魔の中では下級から中級の個体である(それ以上のレベルの個体を召喚しようとすると、大変な手間がかかり、多くの場合は実用的でない)。
・人間との契約を行い続け、より多くの魂に「侵食」する程、悪魔の力は成長を遂げる。そして、誕生時は位の低い悪魔でも、これを通じ、貴族階級と同じぐらいの実力にまで成長すれば、爵位を授けられるケースが多い(これの最たる例が、メフィストフェレスという有名な悪魔である。彼は産まれは下級悪魔だったところを、長い年月を経て何十万人という人々と契約し、現在は公爵として地獄に君臨しているという。逆に、親が貴族階級でも、出来そこないの実力しかないような悪魔は、没落してしまう)。このため、多くの下級悪魔は、出世を求め、積極的に人間に契約を持ちかける。人間の支配層が「怠惰」の罪に陥ることが多い中、悪魔の多くが仕事熱心というのは、いささか皮肉な話である。
「おい、お前、やっぱ様子変だぞ――」
少年が頬を膨らませて、あたしをじろじろ見た。
「具合でも悪いのかよ? 長い船旅なんだから、お前それ、ヤバいぞ――」
「え、えっと……いや……違うよ……なんでも……ない、の……。はは……」
自然な笑いを浮かべようとするが、どうしても引きつってしまう。
「はは……は……」
「お前、絶対変だって!」
少年は執拗に攻めてくる。
「お医者さんならいるんだ。オレが呼んでくるから!」
違う、と、言いたかった。ここから逃げて、と、叫びたかった。あたしが動揺していたのは、この目の前の少年が、この後どういった運命を辿ることになるのか、あたしが知っているからだった。
「ありゃりゃりゃりゃ、ジョーゼフくぅ~~ん」
ピンクのふわふわの服を身にまとった少女が、後ろから小股で歩いてきた。片手では、布に綿を詰め込んだ、プックリした可愛いお人形を抱き寄せている。
この少女、カトリーヌも、あたしは知っている。この後、彼女がどうなるのかを含め。そうだ……彼女は、教会に……ミカエリスに……
「クリスティアーナに、惚れてるぅー」
「えっ、そ、そんなんじゃねーよ!」
「惚れてるぅ~~っ!」
周りの子供達まで、皆一斉に興味津々でこっちを見てきた。
「へぇ、お前クリスティアーナ好きなんだ!」
「何か怪しいとは思ってたんだよ……」
「キスしろよ! キス! ギャハハハハ!」
あたしの歯がガチガチと鳴っていた。皆、知っている顔だ。一度見たことのある流れだ。あぁ、懐かしく、そして、こんなにも恐ろしい。誰か、助けて――。
あたしはその場に、へなへなと崩れ込んだ。嫌だ。抜け出したい。この空間から、この過去から、もう抜け出してしまいたい。
恐怖で涙がこぼれる。嗚咽を漏らす。信じられずに、首を振る。
「おい、ちょ、クリスティアーナ、お前ホントに大丈夫か!?」
他の子供達もあたしの周りに集まってくる。
「ほら、お医者さんのところ連れてくからさ!」
「い……や……あぁぁ」
「え……行かなくて、いいの?」
「……ッ……や……め……て……」
皆、心の底から、あたしのことが心配だというような眼で、あたしのことを見つめていた。あぁ、嫌だ。やめて! 手で顔を覆い、首を振る。嘘だ。こんなのって嘘だ。そんな目であたしを見るな。そんな目であたしを見つめるな!
皆があたしに駆け寄ろうとする。泣き叫んで、腕を振り回し、来るなぁ、と、あたしは、半狂乱で泣き喚いた。目の端から涙が噴き出す。あたしはわけがわからない。
「あたしに寄るな! やめろ! 出ていけ! あたしを元に戻せ! 黒魔女!」
「な――クリスティアーナちゃん!?」
「そこにいるんだろう!? あたしを見て嘲ってるんだろう!? やめろ! あたしをここから出せ! ふざけるな!」
「クリスティ――」
「お前たちは全員、幻影なんだ!」
あたしは目の前の奴らを指差して泣き喚いた。
「消えろ! 消えてしまえ! うわあぁぁぁあぁあぁ!」
「しっかりしてよ! どうしちゃったの!?」
「うわあああああああ」
あたしはよろめくようにして立ち上がって、逃げ出すようにして駆け出した。呆気にとられた子供達の間を、周りに突進するようにして押しのけながら、奥へ奥へと走り去っていく。下の櫂へ下りる階段を、絶叫しながら、目をつぶって、両手で耳を塞ぎながら、駆け下りていく。
ゼェゼェと息を切らしながら、必死の形相で、あたしは自分の部屋に駆け込んだ。いや――正確に言えば、あたしの部屋じゃなくて、十人の共同部屋なのだけれど、残り九人は皆デッキの上に出ていて、あたしは今ここで一人きりだ。あたしは急いで、震える手で鍵をかけ、誰も入れないようにしてしまった。そして、自らのベッドの上に飛び乗り、頭を抱え込んで、泣き叫んだ。
あたしの世界が歪んでいくようだ。窓の外から、常に、何百という目の覗かれているような感じがする。そこら中の影が、どれも、あたしを殺すべく、じっと隙を窺って潜んでいる異形の怪物のように思えた。
普通、悪夢だなんて、醒めろと念じれば醒める。でもここは違った。黒魔女の呪いに違いない。あたしはここから、抜け出せない。もう一度体感することになるんだ!
恐ろしさで、涙が止まらなかった。歯がガチガチと鳴っている。どうしたらいい? あたしは今、どうすればいい? どうすればここから抜け出せる? そもそも抜け出せるのか? 嫌だ! やめて。本当に、本当に嫌なの。お願いだから――。
あたしはあたりを必死に見回した。常に、誰かに襲われそうな感じがする。そして、あぁ――迫ってくるんだ。あの時が。あの体験が! あたしはそれを食い止めることができない。起こると分かっているのに! あぁあぁあ――これは――生き地獄だ! 黒魔女は、あたしを敢えて、それの何時間か前に飛ばしたんだ。直接じゃなくて。あたしに全てを、思い出させるために。あたしを、八歳の時の少女、純粋無垢で、神様が大好きな少女クリスティアーナに、ゆっくりと、はっきりと戻してしまうために。
……そうだ。
何だかこの空間に来て、最初は違和感があった。そのはずなのに――今は、その違和感は消えている。単に恐怖に全てが塗り潰されているからなのか。それとももしかして――
あたしの精神が、段々、この世界のそれに戻って行っているのか?
ひゃっと声を上げる。これって。嘘。何だっけ?
あたしは、今、何歳だ? 十一歳? 十二歳? あれ――思い出せない。いや、違う、あたしは八歳だ、そうに決まってる……いや、違う! それは当時のあたしだ。今は何歳だ? あぁ、思い出せない! これって、この光景って――あたしが本来、何年前に見たものなんだ!? 三年――四年――いや――今……?
この先の未来、あたしはどうなるんだっけ? あぁ――さっきまで、分かっていたのに! ただ、漠然とした恐怖心、何かこれから恐ろしいことが起きて、全てが崩壊するのだという感覚、ただそれだけが、あたしの中に、ぼんやりと宿っている。
この先、あたしは――何だっけ――どうなるんだ? そうだ――確か――いや、思い出せない! え、じゃあ――これは誰? この、あたしの心の中にある、眩い、お日様のような、この光は?
笑顔だ。金髪。青い目。心優しい、ほほえみ。そして、彼の名前は――
ハッとした。息が詰まった。
彼の、名前が――
思い出せない!
「うぁぁあぁぁぁあ」
頭を抱え込んで、泣き叫んだ。あぁ、あたしの大切な人、愛しい人、本当の世界での、あたしの希望! 忘れたくない! 忘れたくない! あの、あの日々が、あの笑顔が、あたしから消えたら、何が残る!? お願いだから――それだけは、残させて――。
そもそもあたしは、何故ここに来た? あのデッキの上に現れる前、あたしは誰かの為に戦おうとして、でもその時、何が起きた? ぼんやりとした恐怖だけが、なんとなく記憶として残っていたけれど、いわばそれは、ただそれだけだった。
……え……ちょっと待って……あたしって、そもそも――
ずっとここに、いるじゃないか?
あたしは、呆然とした。
静寂が、訪れた。
……
未来から来た?
あたしが?
……何それ? 子供みたい。
あたし、もう八歳だもん。子供じゃないもん。そんな子供みたいな発想、あたし、信じないもん!
あたしは立ちあがった。なんだかもう、怖くないや。何だったんだっけ――今の。忘れちゃった。
確か今日の夜ぐらいには、一旦、休憩用の街に着くんたっけ。
あたしたちは、十字軍。子供達が集まった、少年十字軍だ。皆で精一杯力を合わせて、神様の土地であるイェルサレムから、悪い奴らを追い出してやるために戦う。
「奴らムスリムは、神本来の道を外れ異教に走った、愚かなる民でございます」
教会の神父様の言葉が、耳に蘇った。他の宗教を信じている人はどうして殺してもいいのかと、あたしが素直に質問した時の答えだ。
「彼らを生かしておけば、間違った考え方、悪魔の教えが、人々の間に広まってしまいます。それではいけません。病にかかった作物を、そのままそこに植えたままにしておく農家が、どこにいますでしょうか? 我々教徒は、正しき神の元に人々を救う義務を負う者達です。神の為になら、喜んでその身を捧げ、悪しき教えの芽を摘み取る者達でなければならないのです。十字軍は正義です」
あたしはそう納得した。そして、思った――あたしも、神様の為に、戦いたいと。
その願いがまさに今、叶おうとしてるんだ。あたしはこうして、たくさんの他の子供達と一緒に、聖地イェルサレムに向けて船出していた。何回にも分けて到着する予定だけど、総計では、確か二万人以上って言っていた。でももう船が疲れちゃったし、一旦、この近くの港町のサン=ノエルで、食べ物とか、武器とか、色々補給しないといけないって聞いた。
イェルサレムに着くためには、どれぐらいかかるんだろう。楽しみだなぁ。
あたしには、あたし達には、絶対に勝てるって自信がある。だってあたし達には、心強い味方がいるんだもん。世界一心強い、一番の味方。
神様だ。
あたしたちのリーダーの男の子は、神様からの手紙を貰ったとかって言ってた。奇跡も起こしたんだって、聞いたこともある。怪我や病気を治したり、色々。一度だけ、彼があたしたちの村に来たときに会ったことがあるけれど、とってもかっこよかった。背が高くて、肌も髪も真っ白で、まるで彼自身が天使みたいだった。ついていこうと、すぐに思えた。
彼は、あたしたちに言った――神様は、あたしたちと一緒にいるんだって。あたしたちこそが、イェルサレムを悪い奴らから取り返す使命を、神様から直接託されたんだって。あたしたちにとってそれは、何もできない子供達が、初めて、世界の為に、神様の為に、戦えるチャンスだった。嬉しかった。胸が高鳴った。
そうしてあたしたちはここにいる。一人の、神様に愛された少年に率いられる、二万の少年少女達の軍。きっとあたし達こそが、世界を変えられる。だからここに来た。
そう言えばあたし、どうしてこんなところにいるんだろう。どうして鍵なんかかけてしまったんだろう?
あたしは、素っ気なく鍵を開けて、急いで上に駆けあがった。友達の皆と一緒にいたい。こんな部屋に一人でいても、つまらないや。
デッキの上では、子供達が沢山、楽しそうにがやがやと騒いでいた。あたしはデッキの縁で、手すりに腕を乗っけて、遠くまでずっと続くコバルト色の海を見つめていた。隣には、ジョーゼフがいる。
「ほんっと、いい天気よねぇ」
あたしは、髪を潮風の中で気持ちよくなびかせながら、笑った。
「ずっと、とってもいい天気。あたしやっぱり、お日様が好き」
「えっ……えっと、……そう、そうだよな」
ジョーゼフが慌てたように笑う。そばかすだらけの顔が真っ赤だ。
「いい天気、……だよな」
その様子が何だかおかしくて、あたしはくすくす笑った。
「あぁ、あたしたち、やっぱり神様に見守られてるって感じがする。本当にいい天気。サン=ノエルに着いたら、あたしたちきっと、かっこいい英雄扱いよね」
「英雄、かぁ……」
ジョーゼフは嬉しそうだ。
「やっぱカッコいいなぁ……戦うってなったら、剣とか、使うのかな」
「どうだろう。あたしそこまで考えてないや。でもなんか、聞いた話だと、ドラゴンとかでてきて、それを倒したりするんだとかって」
「かっちょえーなぁ……あぁ……ところでさ」
「何?」
「いや……その」
彼は、言葉を何やら慎重に選んでいるようだった。何でだろうと思ったけど、その理由は、すぐに分かった。
「さっき……お前、ほんと、どうしたんだよ?」
「……だーかーら、さっきもう言ったじゃないの。あたし、よく覚えてない」
ジョーゼフは唇を噛んだ。
「なんか……でもさ、ほら、不安なんだよ。たまにあるだろ。悪魔が人間の身体に憑りついて、なんか変なこと喋ったりだとか……」
「でも、今あたし、何ともないもん」
「だってよぉ……」
彼は心底心配そうだった。
「もしだって、クリスティアーナに、何かあったら、オレ……」
「やだもう、ジョーゼフ――あたしのこと、好きなの?」
「そっ……」
顔がこれまでになく真っ赤になる。
「そんなんじゃ、ねぇよ……その……あのさ……単に、心配だったから……」
「ふーん」
あたしはくすくすと笑った。
「でもあたしね、さっき、カトリーヌから聞いたよ。あたしがいない時に、ホントはあたしのこと好きなんだって、言ったんでしょ!」
「え……うぁ……あーもぉーーーっ!」
彼が思いっきり首を振る。
「カトリーヌ、あいつー! ……あ、あのなぁ……」
「いいの、別に」
あたしは、顔にかかった髪をかきあげながら、そっと笑った。
「あたし、ジョーゼフのこと、嫌いじゃないよ」
「~~~~っ」
ジョーゼフは、唇を結んで、更に顔を真っ赤にしている。爆発しそうなぐらいに。
「……お、……オレ……」
「何?」
「あの……さ……」
彼は少し深呼吸した。目を閉じ、また開ける。顔つきが変わった――真面目な事を言い出すときの、あらたまった顔だ。
「何よ、そんな顔して」
「いや……オレら……あんま、実感わかないけどさ」
ジョーゼフが真剣な目をしたまま言った。
「戦争に……行くんだよな」
「……そうね」
「戦うん、だろ」
「当たり前じゃないの。どうしたの、急に」
「クリスティアーナ……」
彼は下を向いた。
「オレ、お前に、死んで欲しくないよ」
「死なないって!」
あたしは笑った。
「あたしたち神様に選ばれてるんだもん。御加護があるの。誰一人だって死なないよ」
「でも!」
彼は口をつぐんだ。
「もしも……もしも、だよ。もしも万が一、万が一のことがあったら……お前が、死にそうになったら……オレ、すっごく、嫌なんだ。だから……さ」
彼はあたしの顔をじっと見つめた。
「オレ、クリスティアーナのこと、守りたいんだ」
「やぁだ、もう」
「オレは本気なんだよ!」
彼は自分の胸を叩いた。
「オレのこと、頼っていいから。辛くなったら、苦しい目に遭ったら、オレに言ってくれていいよ。オレ、絶対、お前のこと、助けるから!」
あたしは力が抜けるようにして笑った。なんだか精一杯な彼を見るのは、変な気分でもあったけど――嬉しかった。
「もう。何言ってるのよ、馬鹿ね」
「だって――」
あたしは、彼の頬っぺたに、軽く、キスをした。
「恥ずかしいじゃないの」
「え……」
ジョーゼフが、自分の頬っぺたを擦った。目が点になっている。
ゆっくりと、その顔に、夢を見ているような、だらしない笑顔が広がった。あたしはそれを見てくすくすと笑っていた。
……守る、か。
嬉しいな。守られるのって、嬉しいんだな。なんだかそれは、とっても――幸せな、気分だった。
と、あたしは、海の向こうの方から、何か別の、とても大きな船が迫ってきているのに気付いた。こちらに向かってくる。
「ねぇ、あれ」
ジョーゼフの肩をトントン叩く。彼もそちらを向く。
「あれ、何?」
「え……なんだろ」
船は、こちらのそれと同じぐらい大きい。明らかに、あたしたちのいるこの船に向けて、やってくる。
「海賊船だったりは……しないよな……流石に」
ジョーゼフが不安げに目を細める。と、その頬っぺたを、後ろから伸びた手が、ぷにゅっと潰した。
「そんなわけなーいじゃない。お馬鹿さんねぇ」
カトリーヌが彼の後ろから現れた。人形を抱いて、くすくすと笑っている。
「あれ、サン=ノエルの商人さん達のお船よ。あたし達を迎えに来てくれるって」
「え……そなの?」
「あの旗見なさいよ」
彼女が指差したのは、確かに、サン=ノエルの商人ギルドのマークだった。
「あたしのママ、あたしに、商人だなんてみんなお金のことしか考えない嫌な奴らだって言ってたけど、ホントは優しいのね。無料であたしたちに、お食事だとか武器だとか、色々与えてくれるんでしょ?」
「ミカエリス司教様のおかげよ」
あたしは遠くを見つめた。
「サン=ノエルの司教様。すごく偉くて優しい人なんでしょ。今回のこれだって、彼が、商人さんたちと仲がよかったから、呼びかけてできたんだって聞いた」
「へぇー。あんたって意外と物知りなのね」
「別に、物知りってわけじゃ無いけど……あたし、色々話聞いたり、情報集めたりするのは、なんか好きだから」
「オレ、やっぱ剣が欲しいなぁ」
ジョーゼフが言った。
「カッコいいじゃん。英雄みたいで憧れる。オレこの戦いで有名になって、いつかは世界一の剣士になりたいのさ」
「あぁ~ら、でも剣ってとっても重いのよ」
カトリーヌがくすくす笑う。
「あんたに果たして持てるのかしら」
「も、持てらぁ!」
「それは実際に持ってみてのお楽しみねぇ~~」
二人が横で口論する中、あたしは船を見つめていた。……何だろう、この感じ。なんだか、どこか、不気味な……
今、気付いた。
既視感がある。
何だろう、この胸騒ぎは。何か変だ。あたし、もしかして、この景色、見たことある? ……そんなわけ、無いのに。なんだろう、これって?
商人側の船が、あたしたちの船の隣にやってきた。向こう側では、沢山の商人や船乗りたちが、せかせかとデッキの上を動き回っている。手には様々な武器が握られている。
「こーんにーちはー」
ジョーゼフが、手を口に当てて声を上げた。向こうの方から、明るい返事の合唱が帰ってくる。船の間に橋が掛けられ、向こう側から、商人や船乗りたちが、こっちに沢山、ぞろぞろと載ってくる。皆笑顔で、子供達と、ふれあっている――。
「やぁやぁ、君達」
商人たちは皆笑顔だったが、中でも一際際立った笑顔だった男が、声をかけた。
「サン=ノエルへようこそ。もうじきこの船は港に到着するけど、その前に君達に、ちょっとしたサプライズ・プレゼントがあるんだ。皆各自一旦、部屋に戻っていてくれ。しばらくしたら、そこにプレゼントを届けに行ってあげよう」
「はーい!」
皆、目をきらめかせ、プレゼントってなんだろう、欲しいな、などと、口々に騒ぎながら、部屋に戻り始めた。行こうぜ、と言って、ジョーゼフがあたしの腕を引っ張る。あたしは、どこか相変わらず胸騒ぎを覚えながらも、ついていった。
あたしと、ジョーゼフと、カトリーヌと、もう七人の子供達は、部屋に戻り、それぞれのぎゅうぎゅう付けのベッドに入って、彼らが部屋に入ってくるのを待った。でもどうもあたしだけは、不安が心に渦巻いていた。
そこら中に、男達が歩き回る音が聞こえてきた。オレたちまだかな、と、ワクワクした様子で、ジョーゼフが言った。
「なんだろうな、プレゼント。剣かな?」
「剣ホント好きねぇ」
「だってカッコいいじゃん、いいじゃんよー」
皆くすくすと笑っていた。あたしだけ、唇を噛んで、俯いていた。なんだろう、これ――
と、突然、そこら中の部屋から、一斉に、
恐ろしい、悲鳴が上がった。
「な……っ!?」
ジョーゼフが立ち上がる。
「なんだ、今の――」
ドアがぶち破られた。残忍な表情の、何人もの大男たちが、大股で部屋に入ってきた。
「チッ! なんかガキばっかのとこ来ちまったぜ。ハズレの部屋だ」
「どうでもいいだろンなの、貰える金は同じなんだからよ」
「な!? お、お前ら――」
ジョーゼフが叫んだ。顔に焦りが浮かんでいる。
「なんだ、お前ら!? なんで――」
「まだ分からねぇのかよ!」
男の一人が喚くように嘲った。
「商会の旦那さま方は、あんたらのそのくだらねぇ聖戦とやらを助けるつもりは元からさっぱりねぇんだとよ。お前ら餓鬼には、毛程の役にも立ちゃあしねぇ弱っちい兵隊さんじゃなくて、もっとよっぽど、世界のために働ける存在になるのが相応しいのさ」
一瞬意味が分からなかった。でも、男達の持っているもの――パイプやらロープやら、そして一人の焼きごてやらを見て、おおよそ、見当が付いた。心臓が止まりそうになった。
と同時に、思い出した。思い出してしまった。全ての記憶が、一気に、一斉に、あたしの頭蓋骨になだれ込んでくる。それこそ、最悪のタイミングで――。
これから先の全てのことが、分かってしまった。
こんな……
嘘だ……!
「い……い……やぁ……」
あたしはその場で崩れ落ちて、力なく首を振った。今のあたしはKじゃない。何の魔法も使えない、ただの弱っちい八歳の女の子だ。こいつらに逆らうための力なんて無い。この未来はあたしには変えられない!
「いやぁあ……」
醒めろと念じる。この悪夢が終わることを、ひたすらに。でも何も起こらない。明晰過ぎる。
「嘘……だ……」
ジョーゼフは怒りで震えていた。
「ンなこと……ミカエリス司教様が、黙ってるわけが――」
「んん? なんてほざいたかなぁ」
男が醜くにやける。
「この指示を出したのはあの司教サマ自身だぜ。利益の何割かは、教会様の税収だ。ちょいとした小遣い稼ぎだよ、両方得ってわけでさぁ」
ジョーゼフが呆然とした。皆一斉に息を飲む。
「そんな――」
ジョーゼフは、目を驚愕で見開かせていたが、やがてその顔が、怒りに歪んで塗り潰された。眉間に血管が浮かび上がり、拳が、関節が白くなるほど強く握る。
「こん……にゃ……ろぉぉ……」
「ははっ――やんのかよ」
ジョーゼフがあたしたちに向き直った。目の中で、怒りの炎が燃え盛っている。
「オイ、お前ら! 下がってろ! クリスティアーナも、ほら、早く! オレが戦う。オレが頑張って戦って、こいつら思いっきりぶちのめしてやる!」
「やめてジョーゼフ!」
あたしは絶叫した。絶望が、脳味噌を真っ赤に、真っ黒に塗り潰していく。記憶が。あたしのこれからの記憶が、泣き喚いて、悲鳴を上げている。
「やめて! お願いだから! そんなこと、しちゃったら――やめて、お願い――」
「うるせぇ!」
ジョーゼフが吼える。彼は知らないんだ、知る由も無いんだ、これから彼が、どうなる運命なのか。あたしは顔を手で覆った。駄目、行かないで――戦わないで――もう、決まっちゃってるのに! あぁ、どうしよう! あたし、何もかも知ってるのに、何一つそれを止められない――!
「オレはお前を助けるって誓ったんだ! だから戦うんだよ!」
ジョーゼフが吼えた。
「守って見せるっ!」
うあああああ、と、叫びながら、彼は男の一人に突進した。不意を突かれた男が、思わず吹っ飛ばされ、倒れ込む。
「こん……の……」
吹っ飛ばされた男が唾を吐きまくりながらふらふらと起き上った。
「クソガキがぁっ!」
男のパンチを、ジョーゼフが身をひるがえしてかわす。更に、そのまま、そいつの顎を、全力で蹴り上げた。男が呻き、床に崩れ落ちた。
ジョーゼフは残った男達に向き直り、荒々しい雄叫びを上げた。蹴りだし、飛び出す。一人の腹に、思いっきりパンチを食らわせる。男が口から泡を吐き、よろめきかける。ジョーゼフが勝ち誇ってにやける。もう一つの拳も、さらに突っ込もうとして――
そのジョーゼフの後頭部が、後ろから、鉄のパイプによって、打ち砕かれた。
バキィ、バキィ、と、嫌な音がした。
ジョーゼフが後ろによろけた。ぽかんとした表情だ。目が上に釣り上がり、血が、まるでシャワーのように、後ろの傷口から噴き出している。フラフラと、操り人形が揺れ動くようにして、何歩か歩き回った。回転するせいで、鮮血のシャワーが、あたしたちの顔に、全身に降りかかる。最後に一瞬、その虚ろな目が、呆然として、あたしを見つめ、捉えた。唇がわずかに動いた。ごめんな、と、言ったように見えた。
そしてその次の瞬間、彼は、あたしたちに向かって、仰け反るようにして倒れ込んだ。全身が、ぴくん、ぴくんと、小刻みに痙攣している。彼の頭の後ろから、毒々しい程に真っ赤な血が、床の上に広がり始めた。目は上を向き、口はぽかんと開いていた。片手がこちらに、伸ばされていた。
あたしはもう、何が何だかわからなかった。動くことができなかった。全身の震えが止まらなかった。あたしの心は、既に二度経験した物にも拘わらず、それを受け入れようとはしていなかった。じわりじわりと、あたしの股の間から、何かが暖かく湿広がっていった。でもそんなことですら、今はまともに頭に入ってこない。
そこら中から悲鳴が上がった。誰も信じられないでいた。皆、目の前の彼の亡骸から、顔を背けることができなかった。
「オイ、テメェ、殺してんじゃねぇよ!」
男の一人が、鉄パイプの男に怒鳴る。
「大切な商品なんだ、極力殺すなと――」
「コイツはどうせ簡単に服従するタイプじゃなかったぜ。売り物にはならなかったさ」
怒鳴られた男が、鉄の棒についていた血を振って払いながら、ブツブツと呟いた。細めた、豆粒大の黒い目には、人を一人殺した罪悪感など、微塵も宿ってはいなかった。彼が、唸るようにして口を開いた。
「いいから残りに取りかかるぞ」
あたしたちは、抵抗しようとした。皆、手を振りほどこうとし、脚で蹴ろうとし、絶叫して助けを求めた。でも、鉄のように強い腕に四肢を掴まれ、あたしたちは皆床に押し倒された。ロープが関節同士に巻きつけられ、動きが拘束される。
「残念だったなぁ、お嬢ちゃん方」
男の一人が醜い笑いを上げる。すすり泣く子供の手首を撒き付け合わせるところだった。
「神様の為に戦おうと思ったのにねぇ」
「返して! 返して! お願いだから!」
喚く声がした。両手両足を縛られたカトリーヌが、芋虫のように必死に体を動かして、目の前の男に向けて泣き叫んでいる。
「返して――ママの――」
「お前にはもう、両親はいない」
男がせせら笑い、人形の首に手をかける。
「知らなかったのか? 奴隷には家族はいねぇんだよ」
人形が、ビリビリビリィ、と、糸が破れる音と共に、首を引き千切られ、破られた。
「ぇ……」
カトリーヌは、信じられない、というような様子だった。引っ張り出された綿が、彼女の目の前で、宙を舞った。
「ぅぁ……ぁ……」
「こっちの部屋の掃除は、全員終わったか」
別の部屋の担当の男が、あたしたちの部屋を覗きこんできた。
まだだが、もうすぐだ、と、男の一人が答えた。
「一人殺っちまったけどな」
「一人? その程度ならマシな方だろ、そっちは低年齢だからな。十五、十六辺りになると、大半は手こずる。……早く、連れてこいよ」
「あーい」
男達があたしたちに向き直る。ジョーゼフに怪我を負わされた男も、怒りに全身を振るわせ、顔を真っ赤にしながら、よろよろと立ちあがった。
「畜生!」
彼が唸る。
「畜生! ガキの癖に痛ぇじゃねぇか! この野郎っ!」
ジョーゼフの顔を踏み倒す。ぐしゃり、ぶしゃっ、と、生々しい音がし、血なまぐさい臭いがさらに広がった。歪んだ喜びが、男の表情の上で踊っている。
「やめて!」
気付くとあたしは泣き叫んでいた。
「やめて! やめて……ふっ……ざけんな! やめろ! ジョーゼフから離れろ! あんたは! あんたらみたいな屑は――」
「コイツはもう死んだんだ!」
男がわめいて、あたしの胸倉にガッと掴みかかった。あたしは小さな悲鳴を上げた。
「生意気なクソガキに相応しい末路さ……。……そういやコイツ、お前のこと、気に止めてたよなぁ……」
男が後ろを見て、唸る。
「割に合わねぇんだよ」
男達は肩をすくめた。
「顔はまぁいいが、餓鬼たぁ趣味悪いな。好きにしろ」
男があたしに向き直った。目を見開いて、汚らしい、臭い息を荒く振りまきながら、あたしの足のロープを、毛むくじゃらの手で外し始めた。
一瞬、何が何だか、分からなかった。
次の瞬間、気付いた時には、もう遅かった。
「い……やぁぁぁあぁぁぁっ」
服が引き裂かれる。ワンピースが、胸倉から、ビリビリと下に破られて行く。お母さんが作ってくれた、最後の服なのに。全部、一人で、糸の一本一本編みながら、眩しい笑顔をあたしにくれた、お母さん。病気になった時も、毎日心を込めて、作ってくれたのに――。涙が頬を伝った。
何か、自分の世界が壊れていくような感覚があった。毛むくじゃらの腕が、あたしの細い体に乱暴に掴みかかった。あたしは小刻みに震えながら、何かに突き、動かされていた。身体の奥深くで、何かが絶叫を上げていた。嗚咽を漏らした。涙がこぼれた。五感が崩れ、壊れていった。
神様、と、心の中で叫んだ。助けて下さい、神様――。
何も起こらない。醜い激痛が、あたしをひたすら、襲い続ける。
……神様、お願い――。
何も変わらない。
……神……様……あ……っ
あたしは、選ばれたんじゃなかったのか? 神様のお告げを受けて、戦いに行ったんじゃないのか? どうしてこんなことになってしまったんだ? 誰もあたしを助けてはくれないのか?
あたしは汚された。心も、身体も。嘗てあたしをあたし足らしめたものは、全て蹂躙され、壊された。
――神様、あたしのこと、嫌いなの?
――信じて、いたのに。
裏切られた、という思いが、突如湧きあがった。助けてくれなかったんだ。理不尽だ。許せない。
突然絶望を、別の感情が塗り潰した。自分でも、驚くほどの変化だった。以前なら、ためらっている。こんな感情抱いちゃいけないと、自らを抑止する。でも今のあたしは違う。あたしの中でメラメラと燃え盛るこれは、教会への、世界への、神様への、途方もない怒りだった。
あたしは自由を奪われた。本当は今すぐ、全てを壊してやりたいけれど、今はそれすらも許されない。ならばせめて心の中にだけでも、根に持ち続けてやる。いつの日かきっと、この途方もない憎しみの全てを、解き放ってしまうことができるように。この思いで、この悪意に満ちた世界の何もかも、いつか、壊せるように。
――神様なんて、大っ嫌いだ!!




