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黒魔女 K  作者: Darkplant
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第九章

=白魔女・黒魔女の戦闘技能③=

 戦闘技能の面から見た場合、総じて白魔女は「バランス型」或いは「防御型」の個体が多く、対して黒魔女は「攻撃特化型」が大半を占める。よって、高位の白魔女ならば攻撃力を、高位の黒魔女ならば防御力をそれぞれ極力磨き、戦闘能力の完成を図る。

 下級・中級の白魔女は、攻撃の際、「四元術」、「運動術」、「召喚術」などのいずれかを用いる。しかし、「四元術」は属性間相性で無効化される恐れがあり、「運動術」はスピードに優れる敵相手にはあまり通用せず、「召喚術」も余程熟達しなければ実践レベルには至らないなどと、いずれにも何らかの難点が存在する。そこで、十分な経験を積んだ白魔女は、長い年月をかけて、高等魔術である「万魔術」を体得する。このような上級の白魔女に対して、一般の黒魔女が勝利を収めることは、極めて困難であると考えられる。

 一方黒魔女は、通常は回復や防御の手段をほとんど持たないが、一定のレベルを超えると、「四元術」、「運動術」などを物理的防御目的で体得する者が急増する(「石の壁を作る呪文」など)。更に上に行くと、「悪魔召喚術」により、エネルギー体の悪魔を呼び出し、敵の攻撃の波動と相殺させて無効化する、「錬金術」により肉体の損傷部分を再構築するなど、白魔女にも引けを取らない耐久能力を持つ個体が現れ始めるが、これ程に強力な黒魔女は実に極稀であり、最上級クラスに限ると言って過言ではない(更に言えば、これらの分野の才能を持つ者は元から極めて限られるので、極めて強力な黒魔女の中にも、防御技能があまり高くない者はかなり多いと推測されている)。

 当然、実際の戦闘となれば、「互いの得意とする魔術分野の相性」「環境」「戦闘センス」「時の運」など、様々な要素がこれらに加えて絡まってくるので、白魔女であるか、黒魔女であるかだけで、戦闘の結果を予測するということは、通常は不可能に近い。




 目が覚めた。朝だった。

 あたしは、見慣れた、居慣れた、あのあたしの寝室の中にいた。

 一瞬訳が分からなかった。あたしは、黒魔女と戦って、シャルルを庇って攻撃を受けて。ジネットに治してもらって、でも、彼女は、罪悪感に苦しんでいて――。

 あたしは元々は、奴隷市場にいたんだ。そこから、あの化け物と戦闘して。えっと……海の底? 違う、それは夢の中の話だ……その後、ウェルティコディアの家に、ジネットによって運ばれたんだ。そうしてそこで、少し会話をして。今度はここに連れ帰されて……。

「おはよう」

 ハッとした。横を向くと、戸口にはシャルルが立っていた。一瞬あの変な夢の続きかとも思って、困惑したけど、こっちは本物のシャルルだし、そもそもここは浅い海の底なんかじゃない。

 でも、彼を見ても、あたしの心は晴れなかった。あの、弾けてそのまま飛んで行ってしまいそうな、彼へのときめきが――今は、苦くて辛い痛みを伴って、グサグサと心に刺さりこんでくる。それに、彼の左腕に巻かれた包帯は、あの日の傷の……

「……おはよう」

 あたしはぼそりと呟いた。声にも体にも、力が入らなかった。でも――一応、確かめないといけないことがある。

「あれ……あの、市は――」

「えっ……寝ぼけないでよ、もう。船で帰ったじゃないか。あの時、君は起きてたよ」

「えっ……嘘?」

 あたしの記憶とは食い違うけれど、ジネットの言っていた『細工』だろう。

 そう。つまりは――。

「だって、逆に考えてよ。あんなことがあって、市が続くはずがないじゃないか」

 シャルルは頭を掻いた。

「サン=キリエルでも、市はもう中止だよ。二人の魔女が、突然、戦闘を始めたんだもの。母さん、怒ってたな……商談が全部潰れたって」

「……あぁ……うん」

「そうだ……僕、実は……魔女の一人を見たんだ」

 シャルルが、少し身震いした。

「攻撃を受けて、僕の前に地面に、炎に包まれて落っこちてきたんだ。焼けただれた顔で、こっちの方を向いて……心なしか、僕の名前を読んだかのように思えたんだ。怖かったよ。普通に考えたらあり得ないんだけど、何せ魔女だし、心を読むか何かしたのかも――」

「ごめん、シャルル」

 あたしは下を向いたまま囁いた。

「ちょっと、具合悪いの。行かせて」

「えっ――わ、分かっ――」

 そして、彼の横を振り切るようにして通り抜け、あたしはもう、向こうへと駆け出していた。




 そうだ、と、思い出した。

 生きるってそう言えば、こんなにも、つまらなかったや。

 シャルルがいなくなってしまったら、あたしの世界はどうなるのだろうかと、昔っからずっと思っていた。その答えが今、はっきりと分かった気がした。

 揺れる緑の草木も、煌めく太陽も、澄み切った青空も、もう最早なにもかも、虚ろな灰色に染まっているようにしか、あたしの目には写らなかった。あたしはその日、『主人』に命令された仕事をすることを、何の苦とも思わなかった。というのも、仮にそれをやめたとして、休んだとして、自由だったとして――やりたいことも、世界における楽しみも、もう何一つとしてなくなってしまったからだ。

 あたしにだって分かってる。シャルルには何ら悪気は無く、そして、罪もないのだ。それどころか、シャルルが魔女を憎むことは、至極当然――なにせシャルルは、ギルドの恩師やクラスメートを、魔女のせいで失っているのだから。そして白魔女だなんていう存在は元から知らない。「K」としてのあたしを、万死に値する化物だと感じても、元から何ら無理はないのだろう。ある意味それは、こっちにしてみればたちが悪い――何せ、この強烈な感情を誰かにぶつけたいと思っても、誰も責めることができないのだから。

 ――あぁ、もう! なんて歯がゆいんだろう。世界に向けて叫びたい。せめてシャルルにだけでもいいから、打ち明けたい。あたしは、クリスティアーナは、白魔女の「K」なんだ。皆の為に、世界の為に、必死に、命をかけて、邪悪な黒魔女達と戦っているんだ! シャルルの命だって救ってるんだ。あたしがいなければ彼は死んでたんだ! 頑張ってるでしょ? ねぇ、あたし、偉いでしょ!?

 誰か聞いてよ。あたし、偉いんだよ!? 人を救ったんだよ。命を守ったんだよ! あんなひどい痛みを、自らに受けて! あたしは化け物なんかじゃないんだ。立派な、立派な、白魔女なんだ!

 あんたら皆偽善者じゃない! 世界に溢れてる人たち、皆。あたしよりよっぽど酷い偽善者。どういう理由があっても戦おうとすらしない! どうせあたしと同じ立場に立っても、こんなこと出来ないでしょ!? できるわけないでしょ!?

 ねぇ誰か褒めてよ。ねぇ、誰か助けてよ! あんなひどい思いをしたのに、世界も、シャルルも、気付いてはくれないんだ。彼から見たら、「K」としてのあたしは、他と何にも変わらない、同じ穴の(むじな)の、恐ろしい災厄の魔女なんだ! それって、そんな酷いのって、無いよね!? 少しは感謝しなさいよ! あんたらの命救ったんだよ!?

 ……あーあ。

 あたしって、屑なのね。




 その日以降あたしは、シャルルと話すことがめっきり少なくなった。向こうに悪意がないことは、こちらだって十二分にわかってはいるんだけれど、一緒にいるだけで心が痛んでならなかった。決して嫌いになったわけじゃない。以前と同じく好きだった。でも、好きになれば好きになるほどに、本当は嘘同士でしか分かりあえないのだと、本当の意味で結ばれることだなんて永遠にないのだという事実が、激しくあたしに突き付けられて、心がズタズタになってゆく。それが本当に辛かった。ある意味、隠し事なんてしなくてよかった昔の頃の方が、よっぽど健全で、ちゃんとした関係だった。


 あたしは、もう。

 戦わなくて、良くなった。

 自らの全てが、元の日常に戻ったハズなんだ。

 もうあたしは、あんな苦痛を、二度と味わわなくていい。報われもせずに、義務のようにして、人々を助ける必要も無くなった。あたしは解放されたんだ。後は全部、ジネットに任せればいい。そう言われた。

 だったら。

 ……だったら。

 なんで、こんなに、苦しいのだろう?

 なんで、こんなにも――涙が溢れてきて、止まらないのだろう?

 そうだ……やり遂げられなかったんだ。きっと、だからだ。結局あたしに、何ができた? 何が残った? これから何ができる?

 白魔女になったと知った時、あたしの中に沸き起こった、あの純粋無垢なワクワクは、これからはあたしにも可能性があるのだと、こんな神様を憎むだけの惨めな人生に、やっと意味が、意義が、目的が与えられたのだと、そう感じたからだった。どんな辛い道であっても、笑顔で精一杯歩んでいこうと、あたしはあの日心に誓ったのだった。シャルルがいる世界を守るために。

 なのに。

 なのに――。


 当然、もう一つあたしの中で気がかりだったのは、無論、そのサンドリーヌ・メロディなる魔女が打ちたてているらしい計画だった。大地を覆い尽くし、このサン=ノエルを丸ごと飲み込む、あの巨大な魔方陣。偶然なわけがない。大変なことが起きるんだ。シャルルも、あたしも、皆死んでしまうかもしれない。なのに戦えない。全てをジネットに任すしかない!

 あんなに自分に辛く当たらなくてもいいのに、と、あたしは、ジネットについて思った。あれだけ頑なに身の上話をしようとしないのだから、何かしらあるのかもしれない。自分が元黒魔女だったとも言っていたけれど、それがどういうことなのかも、どうやってそこからウェルティコディアの弟子になったのかも、何もまだ、分からないし。それに――

 ひょっとすると。いや――確実に。あたしは確信していた。

 ジネットは、自分が『右手の後継者』に選ばれなかったことを、気に病んでいるんだ。

 『弟子』。普通に考えたら、弟子っていうぐらいなんだから、それはウェルティコディアの後継のはずだ。なのに何故、ウェルティコディアは、彼女ではなく、見ず知らずのあたしに継承を施したのだろう?

 たまたまその場にいたから、という事で、一応の説明はつくかもしれない。彼女がもし本当に世界で最後の白魔女だったのなら、何が何でも継承を優先させるはずだからだ。ジネットはどうせ、時間こそかかれど、いつかは白魔女として成熟する。だからあたしにも継承を施すことで、白魔女の数を二人に保ち、質より数を選んだということか……

 それでも恐らくジネットは、心の底では、深く、深く傷ついている。ひょっとすると、自分が、経歴が故に信頼されていなかったのだと思っているのかもしれない。そしてその傷はきっと、あたしには、絶対に治せない傷だろう。何故なら、彼女にその傷をつけてしまったおおもとの原因は、他でもない、このあたし自身だからだ。

 ジネットは、きっと強い。でも果たして、サンドリーヌ・メロディに勝つことはできるのだろうか? もうこの段階に来たら、「一つ一つの魔女事件を止めようとすること」程度では、《色の無い悪魔》の召喚は防げない。また何度も何度も黒魔女を送り込まれて、いずれかはその一人が、殺人に成功してしまうだろうから。

 ともなれば――。あの告白の後、ジネットが言っていた内容を思い出す。

 サンドリーヌの野望を食い止め、サン=ノエルを守りきるためには、サンドリーヌ本人を倒すしかない。

 サンドリーヌの配下の使い魔の数も、それによって産み出される量産型の黒魔女の数も、文字通り無尽蔵だ。倒しても倒しても湧いてくるだろう。だが母体は結局彼女サンドリーヌただ一人。そこを叩く。

 ジネットは軽い口調で言っていたが、あの様子を見れば、誰にでもわかる――ジネットは、自分が成功するとは思っていない。あの、自らに言い聞かせるかのような断定口調。見開いた眼。頬を伝う冷や汗。あの引きつった笑み。

 ジネットは死に向かおうとしている。きっと、罪悪感と使命感とに押しつぶされて、飲み込まれて、押し流されて、もう自らの命だとか、成功する確率だとかは、どうでもよくなってきてしまっているんだ。それってでも、彼女のせいじゃないのに!

 あぁ――可哀想! あたしも苦しいけど、彼女ももっと苦しいんだ。今までの色んな疑問が、頭の中で繋がっていく。と同時に、ジネットは、世界で最もか弱く、純粋で、どうしようもなく可哀そうな存在に思えてきた。

 なんで、人を守る使命を背負うあたしたちが、こんな過酷な目にばかり遭わなければならないのだろう。希望は無いのだろうか? この世界の、どこにも?

 あぁ――お願い。誰か、助けて。誰か、あたしたちを、ここから救い出して!

 でも、どんなに願っても、何も起きなかったし、そもそも、起きるはずがなかった。元からそれは、分かりきったことだった。

 なにせ、神様は。

 本当は、あたしたちの為に、いいことだなんて、何一つ、してくれはしないのだから。

 ずっとずっと、完全な沈黙を決め込んでいる、ただひたすらそのままなのだから。




 ジネットが戦っているということ――そして今のところ、思った以上によくできているということ――を知ったのは、三日後の正午だった。シャルルが、あたしに、突然話しかけてきたのだ。

「……これ、見た?」

 庭で薪割をしていたあたしの元に、ビラを持ったシャルルがやってきたのだ。

「サン=キリエルで、魔女の戦闘がもう何件かあったっていうんだ」

 あたしはビラを手に取り、覗きこんだ。

「『サン=キリエル司教座聖堂の公式発表によると、先日深夜より本日未明にかけて、サン=キリエル市付近の農村部・森林地帯において、合計三件の魔女同士の戦闘が確認された。戦闘の推定発生時刻から、教会は、同一の魔女が複数の他の魔女と連続的に戦闘を行った物であり、また、おとといの深夜に発生した類似事件とも同一の魔女による犯行である可能性が高いとの見解を示した。今のところ一般人の死傷者は確認されておらず、魔女同士の勢力争いの一環であると思われ』……」

 あたしはつばをごくりと飲み込んだ。ジネット、……戦ってるんだ。勝ってるんだ。

 きっと今彼女は、必死に、探しているのだろう。サンドリーヌ・メロディの本拠地を。そしてそこに攻め込むつもりなんだ。

 あぁ――! 戦いたい! あたしも一緒に戦いたい。修行して、強くなって、ジネットと一緒に一生懸命、サンドリーヌたちと戦うんだ。奴らのアジトを見つけ出して、迫りくる悪魔の波また波を焼き払って、奥へ奥へと突き進んでゆく。そしてやがては、彼女の元に辿り着き、その胸に杖を突き立てて――。

 突然、ぞくりとした感覚が、あたしを襲った。そうだ。もし戦えれば、もしもっと強くなれれば、もしサンドリーヌ・メロディを殺せれば。その殺し方はどうしよう? そいつには罰が必要だ。何百人もの人の命を、平然と奪い去ったことへの罰。あたしとジネットとを、こんなひどい目に合わせた罰。指を一本一本引き千切ってやる。身体を輪切りにしていって、ゆっくりゆっくり、苦しませてやる。眼玉をくり抜いて、食わせてやっても良い。じっくりと、たっぷりと、殺してやる。

 待てよ……! あたしは思わず目を見開いた。そうだ。白魔術が使える! 体の部位を切り落としては、白魔術で再生させて、また切り落とす、みたいなことだってできるんだ! わぁ――それっていいだろうな。楽しいだろうな。黒魔女に報いを。あたしをこんな目に遭わせた、天罰を!

 そうだ――楽しみだ! あたしも、一緒に、戦って――

「……ねぇ……」

 シャルルが、心配そうな顔で、あたしの顔を覗き込んだ。彼の目に明らかな動揺が走っている。

「……どう……したの……?」

「え……」

 あたしは我に返った。と同時に、一瞬前まで自分はどんな顔をしていたのだろうと、途端に恐ろしくなった。

 何……今の……? あたしの、今の思考。こんなこと、思うのなんて――

 おかしい。正常じゃない。何が……

「……な……なんでも、ないよ」

 あたしは引きつった声で笑った。

「いや、その……変だなぁ、って……思ってさ。魔女同士が……戦うだ……なんて」

「……」

 シャルルは少し、相変わらず、怪しいとでも言いたげな顔をしたが、やがて、あたしから目を背けた。

「魔女同士の戦いだもんね。……あいつらは、あいつら同士だけで好き勝手戦っていれば、それでいいのに」

「ほんと――そうだよ、ね……」

 言いながら、何かが、心の中で、ズキンと痛んだ。

 あぁ――なんて無力なんだろう、あたしは。

 どんなに願ったって、あたしには世界は変えられない。弱いから。所詮無力だから。サンドリーヌを止めることも、ジネットにまかせっきりにするしかない程に。

 けれど、だとしたらあたしは、一体何のために白魔女になったっていうんだ?

 そうだ。あたしは、絶対に、強くならなければならない。強くならなければ、愛する人を守ることだって、友達を助けることだってできない。所詮この悪意に満ちた世界、弱者は地に這いつくばって、ただ強者によって踏みにじられ、蹂躙されるしかない――以前のあたし、あの日のあたしがそうだったように。

 けれど、今のまま強くなるためには、白魔女として戦うしかない。そして、それが禁じられている以上、もうあたしには手段なんて残されていない。

 なんてもどかしいんだろう。なんとしてでも――強く、なりたいのに。




 ジネットに「Kになるな」とは言われたが、魔導書を読むなとは言われなかった。むしろ、万が一敵に見つかった場合のために、あたしは極力知識を吸収しておくべきだと言われた。ただし、白魔女に変身して読むのは駄目だ、探知される危険が伴う――その夜も、あたしは、魔導書を読んでこそいたけれど、それは至難の技だった。なにせ、魔術を一切使わずに、人間態で読まないといけない。集中力も切れて、内容が全然、頭に入ってこない。それに、灯りも無いから、月明かりだけが頼りで、読みにくいったらありゃしない。

 それでもあたしには一つ、どうしても、調べなきゃいけないことがあった。完全に、ジネットに聞きそびれていたこと――どうして、あの「敗北者(エンガルフト)」との戦いで、あたしの白魔術に副作用が伴ったのか。

 でも、どんなに調べても、どうも答えらしい答えが無い。単に呪文を間違えたのか、精神に問題があったのかなどと考えもしたけれど、それですら、とあるページの欄外の注釈によって全部一気に否定された――「術式の失敗に伴っては、防御膜が弾けてしまう」。それ以外には書いていなかったし、もし生死にかかわる、あんな心臓に激痛が走り呼吸困難に陥るような失敗例があれば、書いているはずだ。あの副作用は、明らかにおかしい。

 レティシア・オラールとの戦いの時にも、似たようなことがあった。あの時は白魔術ではなく、その逆、ジネットが黒魔術だと推測していた、あの圧倒的な破壊の攻撃――あれを放とうとして、失敗したのだったけれど。それとこれとに、関係があるのかどうかすら、今のあたしには分からない。

 『白魔術の基礎的心得』を横に置いたあたしは、唾を飲み込み、目を伏せた。全身が震えている。冷たい汗が頬を伝い落ちる。まさか。この疑惑が、もし、当たってるなら――

 その時だった。

 床の上に置いていたペンダントが、カタカタと振動しはじめた。見てみると、ほのかに、点滅する光を発している。あたしはそれを手に取った。ジネットちゃん……?

「ジネットちゃん――」

 あたしは呼びかけたが、返答が無い。ひたすら、あたしの手の中で、ペンダントが振動し続けている。と――そこから何か、声が聞こえてきた。

 呻き声。嗚咽――恐怖を堪えるような。何か、ぬるぬるした物が、這いずり回るような音。歯がガチガチと鳴る音。

『……やめろぉ……来るなぁっ』

 ハッとした――ジネットの声だ! これ……一体、何が――

「ジネットちゃん――」

 と、その時だった。

 恐ろしい絶叫が鳴り響いた。あたしはびくりとして、思わずペンダントを離してしまった。ペンダントが地面に転げ落ち、跳ね回っている。ジネットが泣き叫ぶ声が聞こえる。

「ジネットちゃん!? どうしたの!? ちょ、ちょっと――」

 ペンダントを触り――ぞっとした。何かまるで、全身が冷たくなったような感覚があったのだ。これって……

 嘘だ……まさか……

 いや……そんなわけ、ない……

 ペンダントは静かだ。完全に静か。そして、その向こうから相変わらず、ぬめぬめした何かが、這いずり回る音。沼の中で動くような……

「……っ……」

 あたしはペンダントを握り締めた。今は変身できないかもしれない――でもそれでも、魔術道具自体の効力で、せめてこれぐらいなら!

 目をギュッと閉じる。ペンダントを胸元に抱え、強く念じる。どこだ――ジネットは今、どこにいるんだ――!?

 瞼の裏で、この屋敷から続く光景が疾走していった。畑の間に曲がりくねる狭い夜道を駆け抜けていった。森に沿って。森に沿って。そして最終的に、森の中へ――。

 そこで、それが、闇に包まれた。

 そこだ!

 あたしは戸口を駆けだした。ジネットの忠告なんて聞いていられない。死んだら元も子もないと言ったのは、ジネット自身だもの! 

 前の別れ際、あたしはジネットに《ホルネの合鍵》と呼ばれる魔術道具――曰く、どんな錠にも対応して嵌る、特殊な鍵なんだそうだ――を渡されている。鍵の自動開閉呪文ぐらい、普段の魔女形態のあたしなら難なく使いこなせるのだが、この《合鍵》の最も特筆すべき点は、それが世の中でも数少ない「変身せずにして扱える魔術道具」、つまるところ、誰にも探知されずにして使用可能な魔術道具であるということだ。あたしは《合鍵》を懐から引っ張り出し、門の鍵をこじ開け、夜道の中へと迷わず駆け出して行った。

 息が上がり、汗が頬を滴り落ちる。夜の霧のような臭いが、ひんやりと鼻を突く。フクロウの鳴き声が、どこからかぼんやりと響いては消えて、そこら中の鈴虫の囁き声が、畑の植物をざわざわと揺らす。

 家々や畑の間を、曲がりくねっていく坂道のような道を、必死に一人きりで走っていく。ジネットの気配が分かる。何か、鼓動のような物が、はっきりと、どんどんどんどん、迫ってくる。一体何分全速力で走っただろう、もう息が上がり、くたくたのあたしは、ふと立ち止まり――横に、森の中の、細いけもの道を見つけた。普通なら気付かない程の、細い、目だたない道で、入口も草木に覆われてしまっているが、先程の探知から察するに、ジネットはこの中にいるに違いない。迷わず、飛び込んだ。

 藪の中を走ってゆく。蜘蛛の巣が髪に絡まる。足がツタに引っ掛かり、何度か倒れ、一回、木の幹にぶつかりかけた。それでもその度に、膝の泥を拭って立ちあがり、進んでいくと、けもの道の向こうに、何か、木々のない空き地が見えてきた。それに、これは――濃霧? 紫色の……空き地全体を覆っている……

「ジネットちゃん!」

 紫色の濃霧の前で立ち止まり、呼びかける。

「ジネットちゃん! ジネットちゃん! いるなら返事をして! ねぇ!」

 霧の中から、答えは返ってこない。下手に叫べば、敵に見つかるかもしれないことぐらい、分かっていた。でもどうでもよかった。ともかく、ジネットを助けないと。

 相変わらず、重苦しい沈黙が、深い霧と共に、辺りで渦巻いていた。鳥や虫の声さえも、いつの間にか全く聞こえない。

「ジネット……ちゃん……?」

 空気が氷のように冷たい。心の奥まで凍らせるような、肌にゾクゾクと鳥肌を立たせる、そんな霧。

 空き地に足を踏み入れた。地面はほんのりと湿っていて、まるで沼の入り口のようだった。その中を、恐る恐る、一歩一歩歩いていく。ぴちゃ、ぺちゃ、ぴちゃ、と、泥の上で足音が粘つく。

 すると。

 突然、下の湿った地面から、何かがボコリと飛び出した。地面の下から伸びてくるように。そして、そいつがあたしの、右の足首を――掴んだ。

 ぎょっとして下を見る。腐りきった手が、あたしを捉えて離さない。ぬめぬめとした、むくんだ感触が伝わる――。

「ひっ……ぃやぁあぁぁっ」

 恐怖に駆られ、必死に足を抜こうとするが、手は一向にその力を緩めない。もう一本の手がその近くから伸び、今度は左脚をぐっと掴んだ。腐りきった異臭が、あたしの全身を、舐め回るようにして覆い尽くして行く。ゆっくりと、ゆっくりと、そう、沼の底から抜けるような、ボコッ、ボコッという音とともに、その下にいた者達が、顔を泥の中から覗き出した。

 まずでてきたのは右だった――朽ち果てた、女性の頭蓋骨。まだところどころ、生々しく肉が残り、髪も、大半抜け落ちてこそいるが、一部はぐしゃぐしゃと生えているままだ――栗色の癖っ毛が。緑色のカビが、全身を覆い尽くしている。残った目玉が、ぶちゅっと音を立てて潰れ、中から蛆虫やミミズが湧き出した。

 もう片方の頭蓋骨、左の方は、人間とは思えない程歪みきっていた。頭からは、短い角が飛び出し、口は裂け、首にまで届いている。目の奥から、プスプスと煙が上がっている。更に――もう五本の手が、地面から飛び出して、あたしに掴みかかり、引っ張り始めた。

 嘘だ。これって、まさか。嫌――

 レティシア・オラール……それに、あの敗北者(エンガルフト)の……

 あたしが殺した、魔女達――。

「ぁ……ぁ……うぁ……ぁ」

 声が声にならなかった。顎がうまく動かない。ガクガクと膝が震えて、そのまま崩れ落ちそうだ。心臓が、これまでにないほど、バクバクと激しく鳴っている。

「ご……ごめん……な……さ……」

 必死に声を絞り出す。どちらの死骸も、目――いや、目が元々あった、今はもうどこまでも真黒なだけの穴――に、憎しみと、そして、飢えとをぎらつかせ、あたしの言葉に耳を貸すことも無く、あたしを引っ張り込んでいっていた。

「あっ……あぁぁぁぁああぁ」

 ずぶっ、ぐしゃっ、と、生々しい音を立てて、あたしの足が、足首まで、沼の中に沈み込んだ。

「あぁぁあぁぁあぁ……」

 手が伸ばされ、あたしの腰を掴む。けれど何もやりかえせない。手が恐怖で動かなかった。杖が、あたしの震える手を離れ、ベチャッ、と、音を立てて、沼に落ち――沈み込んだ。でも最早それすら、あたしの、恐怖で塗り潰された頭には、ろくに入ってこなかった。

 地面が一斉に、蠢き始めた。まるでその表面の膜のほんの少し下で、大量の小さい物が、興奮してざわめいているかのように。ところどころ、地面が盛り上がり――弾けると同時に、何千、何万という数の蛆虫が、一気に、そこから溢れ出した。

「うぁぁっ、あっ、あぁぁあぁ――」

 蛆虫たちが、地面を覆い尽くしていく。そこら中から蛆虫が湧き出している。腐敗した肉と、泥と、ぬめぬめした蛆虫との臭いが鼻をつく。瞬く間に、地面はのたうつ蛆虫で覆い尽くされ、それが何層にも何層にも、辺りに溢れていく。足に纏わりつく。足を上ってくる!

「ごめん……な……さ……い……ごめん……な……さい……」

 掠れた声、あまりの恐怖にまともな息にすらならない声が、無数の蛆虫が互いの上をのたうつ音に掻き消された。蛆虫たちが、あたしの全身を這い上り、覆い尽くしていく。朽ちかけた腕が更に力を強め、あたしを沼の中へと引きずり込んでいく。

「あぁっ……ぁ……ジネット……ち……ゃ……ぁぁぁあん」

 必死に手を上に伸ばす。

「ジネット……ちゃ……あぁぁぁ……ん……」

 涙がこぼれる。伸ばされた手がガクガクと震える。

「助けて……よ……ねぇ……助……けて……よぉ……ぉ……」

 身体が腰まで沼に浸かっている。そして――あぁあぁあぁぁ! 沼の中にまで! 沼の中にまで、何百何千という蛆虫が、あたしの周りで蠢いて、身体にかじりついてきているんだ――

「ぎ……ゃ……あ……ぁぁっ――あぁっ――!」

 あたしの身体が食べられていく。蛆虫が、あたしの肉にかじりつき、皮膚を突き破り、内側に入ってくる! 自分の肉が、ぶよぶよになっていくような感覚がある。まるで――あたし自身まで、腐りはじめてきたかのような――。いやぁ――内側で、暴れてる――

 肉の奥に潜り込んだ蛆虫たちが、今度はあたしを内側から貪り始めた。脚の肉が、ぐじゅぐじゅに食い破られていく。もう何も分からない。

 二人の黒魔女が、あたしの身体を手繰り寄せ、口を開いた。その喉の内側から、太った虫が転がり出す。そして、その二人の頭蓋骨が――嬉々として――あたしの腹に、かぶりついた。

「か……はぁぁ……っ……あぁあぁぁ! あぁぁ――」

 目を見開いて泣き叫んだ。肉がむしゃむしゃと食い千切られてゆく。黒魔女たちの、腐り黄ばんだ歯の間から、あたし自身の血が吹き出す。二人の頭蓋骨は、あたしの腹を食い破り、内側の内臓を、ぷるぷるしたピンク色のロープのように両手で引っ張り出しながら、貪り始めた。

「――あぁぁあぁぁ――」

 自分自身の血の臭い。あたりを埋め尽くす泥の臭い。ずぶり、ずぶりと、みるみるうちに、あたしの身体が沼に沈み込んで行く。もう足の膝より先は、完全に食われきっていた。やがて、足の骨が、関節から食いちぎられ、奥のどこかへとうずもれていく。泥が、そして蛆虫が、あたしを胸元まで、首元まで――包み込んでいき――

 一気に、口に、なだれ込んだ。

「お……ごご……っ……お……ご……っ」

 涙がにじむ。蛆虫と泥の味が、口いっぱいに広がる。舌の上で、一匹一匹が興奮してのたうち、奥へ奥へと転がり込んでゆく。苦しいけど、次から次へと入り込んできて、口が閉じられない。大量の蛆虫たちは、喉の奥の粘膜をぬるぬるとのたうちながら通って、あたしの内臓の中へと転がり落ちていっては、内側からあたしを食い破り始めた。相変わらず、地面の下では、蛆虫たちと二人の黒魔女の死骸が、あたしの身体を貪っている。

 目元まで蛆虫に覆われた。さらに蠢きあがる。必死にもがいている右の手だけが、蛆虫の海の中からつき出ている状態だ。それにさえ群がられ、グッと一回、最後に、強く引きずり込まれ――

 絶望の闇が、あたしの全身を包み込んだ。

 泥と蛆虫に口元まで覆われ、絶叫を上げることすらできない。

 あたしは、死んだ。




 あたしは、明るい場所にいた。

 (まばゆ)い太陽の光が、上空から降り注いでいる。手は、目を、光から覆っているらしかった。巨大な水車のような音と、カモメの鳴き声が聞こえる。あたしは、手をどけ、見上げ――ハッとした。

 青空の下、あたしは、巨大な木造の船に乗って、デッキの縁で空を見上げていた。眩しい太陽の周りを、カモメが、鳴きながら旋回していた。あたしはぽかんとして、その場で突っ立っていた。大海原が、見渡す限り、ずっと、広く、広がっていた。

 ……ここ……どこ……?

「おい、クリスティアーナ!」

 横から、やけに明るく、そして、幼い声がした。あたしはそっちを向いた。ただ――待てよ、何、この声? 誰? あたしの本名で、あたしを呼ぶのは――? そんなこと、ここ三年――

「どうしたんだよお前! ボーっとしちまってよぉ――」

 ニヤニヤとあたしに笑いかけてきていたのは、あたしより二、三年幼い少年だった。短い茶髪が、太陽を受けて輝く。顔はそばかすだらけで、目を爛々とさせて笑っている。よく見るとそこら中、甲板の上には、何百人もの少年少女たちががやがやと騒いでいた。

「え……えっと……」

 声が上手く出ない。頭が混乱している。なんだ? さっきのあれは、夢だったのか? だとしたらそれに越したことはない。けれど、同時に――一体、これは何だろう?

 この、鼻を突く潮の臭い。頭上のカモメの声。沢山の子供達。奇妙な落ち着き。いや、違うんだ。これって。

 まさか――。

 震えながら、自らの手を見つめた。心なしか、今より少し小さく見える。あたしの身長自体、若干縮んでいる。腕には傷一つない。痣も怪我も無い、まっさらとすべすべの手。そんなこと、この三年間で、魔女になった時を除いては、一度も無かったっていうのに。

 服は綺麗な、白いワンピースだった。風の中でひらひらとゆれている。そうだ――思い出した。お母さんが作ってくれた、ワンピースだ。

 三年前に死んだ、お母さんが。

 あたしは、絶望と共に気付いた。悪夢はまだ終わっていないんだ。それどころかいや、ひょっとするとまだ、たった今始まったばかりなのかもしれない。

 これは。

 ――あたしの過去だ。


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