第零章
黒魔女Kが、頭をもたげ、ぐわりと後ろを振り向いた。男達が悲鳴を上げ、サン=ノエルの夜の闇の中へと、一目散に逃げ出した。辺りで、人の身体が弾け、次々と切り刻まれてゆく音がする。無数の蝙蝠が羽ばたいているのが聞こえる。それらを必死に抜けて行き、通り過ぎて行き、男達は路地へと駆け込んだ。
真っ白い息が、荒く吹き撒かれる。路地裏、氷のように冷たい石の上に、弾けるような足音が響く。月明かりに照らされた、眩い銀色の世界の中を、三人の男達が、死にもの狂いで走っていく。
街には霧の匂いが立ち込めていた。道を横切ろうとした一匹の黒猫が、男達に気付き、鋭く鳴き声を上げ、飛び跳ね、闇の中へと消えてゆく。白いローブをはためかせ、よろけるように走っていく男達は、まるで夜の街を徘徊する三匹の亡霊のようだった。
爆発しそうな心臓を抑えながら、そうして彼らは走っていった。後ろを振り返る余裕などありはしない。まずはともかく、距離を離さないといけない。そして、一刻も早く、聖堂に辿り着かなければならない。仮に神に背いた化物であるならば、あそこに入れるはずはないのだから。
足音がやけに目立って響く。静かだ――不気味なほどに。追ってきているはずのあいつの足音がしない。ひょっとして、まいたのか? 俺達は、助かったのか――? だが男達は、そんな都合の良いことが起こるなどともそもそも思っていなかったし、とにかく、絶対的な死の恐怖に駆られていた。
迷宮のような小路を何分も走り続け、やっと聖堂の裏側、聖職者たちのみが鍵を持っている倉庫の裏口に辿り着いた。緊張で震える手を抑え込み、祈りを必死に唱えながら、鉄製の鍵を差し込み、戸をこじ開ける。倒れ込むようにして内側に入り、ランプに火をつけた。山積みになった羊皮紙の束やら、ミサ用の金属のグラスやらが、揺らめく炎によって暖かく照らし出される。戸が閉められ、再び鍵がかかる。
男達の心に、やっと安堵が流れ込んだ。息を整え、首から下がった十字架のネックレスに、縋るようにしてしがみ付きながら、彼らはその場で呆然と突っ立っていた。しばらくして、やっと三人のうちの一人が、建物の更に内側の本堂へと、ふらつくようにして歩いて行った。念には念を入れようと思ったのだろう――残りも彼に続いた。
本堂は、虚ろな沈黙を持って彼らを迎え入れた。ステンドグラスが白銀に輝く。三人の頭上には、聖なる十字架が、重々しく釣り下がっている。人気のない暗闇の中を、辺りをしきりに振り返りながら、三人は恐る恐る歩いて行った。相変わらずの沈黙だ。重苦しい程の。まるで、嵐の前の静けさの――。
その瞬間、正面の扉が、爆発するようにして開いた。轟音と共に、爆風が吹き抜け、男達が悲鳴を上げた。ステンドグラスが一斉に炸裂し、耳を劈くような金切声の嵐をあげながら、何百という蝙蝠が聖堂になだれ込んだ。嬉々とした眼が光る。無数の影のような翼がはばたく。ガラスが宙を舞い、散る。
恐怖と絶望で立ちすくむ男達の目の前、大きすぎる正面扉を抜けて、それは本堂へとその足を踏み入れた。眩い光の中に、彼女の姿が揺らめいて浮かび上がる。長い黒髪が乱れ、宙を舞う。自らの背丈より高い程大きな杖が、彼女の後ろに握られている。深く被ったねじれ帽子の下から、ぎらめく真っ赤な目が覗く。激しく燃え盛る憎悪の炎が、その中で艶めかしく踊り狂う。
許してくれ、と叫ぼうとしたが、男達の口は言うことを聞かない。悲鳴のまま引きつり、閉めることが出来ない。後ろの戸を思い出し、そちらへ逃げようとすると、目の前で戸がひとりでに勢いよく閉まった。地面から鎖が湧きあがり、戸を覆うようにしてそこら中に打ち込まれ、そのままそれを固定した。
逃げ道を失った男達が、恐る恐る振り返る。彼女がのらりくらりと近づいてくる。真っ赤に弾ける、強烈な眼が、彼らを捉えて離さない。
「神様」
彼女が囁いた。消え入るようでいて耳に焼き付く、不気味で、虚ろで、悲しい声だ。
「おしえてください、神様」
男達は動くことができない。冷たい大理石の床の上を、裸足の彼女が一歩一歩近づいてくる。その前に散らばったガラスの破片が、ほっそりとした、真っ白い足を避けるようにして、ふらつく彼女の両脇へと滑っていく。
「あなたは、そこにいるのですか?」
男達は思わず目を閉じた。氷の粒のような汗が全身を伝う。ただの悪夢であって欲しいと、心の底から願った。
「仔羊たちを、苦しめて……虐げて……痛みつけて……彼らもが……貴方の、息子たちなのですか……? 彼らをも、貴方は、愛するのですか……? 彼らの中にすら……貴方は……そこに、おられるのですか……?」
やめてくれと叫ぶことすら、男達には出来なかった。もうその時彼女は、すぐそこまで来ていた。
彼女の杖が、前に向けられた。その先端でぎらめく、巨大な真紅の水晶玉の中、赤黒い胎児のような物が、歪み切った目を見開いて、ゆっくりと、禍々しく、回転していた。
「私を」
どこか自嘲の色を含んだ、陰鬱たる声が響く。
「焼き殺してみなさい」
頭上の天井が赤黒く膨れ上がり、爆散したかのように思えた。そこで主の命令をずっと待ち続けていた、何百という使い魔たちが、一斉に降り注ぎ、男達を覆い尽くすようにして群がった。
悲鳴が羽音に掻き消された。救いを求めて伸ばされた腕が、なすすべもなく暗黒に吸い込まれた。血飛沫が宙を舞った。それすら空中で飲み干されていった。飛び散った肉片を、また別の口が呑み込み、疾風の如く通り過ぎては、あたりへと螺旋状に舞い上がった。
その様子のその全てを、彼女はずっと、じっとして無言で見つめていた。その顔には、表情も感情も無く、魂すら無いように見えた。死んだように虚ろな両の目の中で、冷めきった炎が揺れていた。
しばらくの後、使い魔達が群がりから離れ、再び頭上へ散らばってゆくのを見届けると、彼女は素っ気なく杖を降ろして、またゆっくりと後ろを向いた。それから、ガラスのない道の上を、ひたり、ひたりと、一歩また一歩、彷徨うようにして歩いて行った。
そうして彼女は、黒魔女Kは、夜の闇の中へと消えていった。