九十八:美人画の女
こんな唄を聴いた。
ひとつ 困れば あにさまへ
ふたつ 困れば かかさまへ
みっつ 困れば ととさまへ
よっつ 困れば 鳥籠へ
それでも 無理なら 骨董屋
ビスク・ドオルが お出迎え
確かに芳子は困っていた。
二十三年生きてきて、これ以上ないほど困っていた。
もしも蟻が、その巣の入り口に大きなビィ玉で蓋をされたとしても、きっと今の芳子ほどには困らなかったに違いない。
兄に相談したが、芸術家とはそういうものだと言うばかりで、何も分かってはくれなかった。
両親には、この結婚を押し切った折に絶縁を言い渡されてしまっているので、二番目三番目は飛ばすしかない。
それで駐在所を訪れたのだが、警官はジジと音を立てる手炙りに両の手を翳したまま、面倒くさそうにこう説教した。
――奥さん、そりゃあ、奥さんがご亭主をすっかり満足させてやれていないからじゃあありませんかね。
そして、下卑た笑みを浮かべながらこうも続けたのだ。
――いつから交番は、夫婦喧嘩の愚痴を持ち込むような場所に成り下がっちまったもんかなあ。
その時はすぐにかっとなるようなことはなく、ただ訳もなく恥ずかしく、申し訳ない気持ちになったのだけれど、家に帰って夕食用の青菜を刻んでいるうちに、不意に堪らなく悔しくなって、腹立たしくて、包丁を握ったままでわんわん泣いた。
幼い頃から、芳子はいつもそうだった。何をするにも、周りから一拍遅れていた。
お祭りで激しく鳴らされた爆竹にきゃっと悲鳴を上げるのも、紙芝居のおじさんの大仰な身振り手振りに笑うのも、いつも芳子だけがひと呼吸分遅れていた。
何か、私の周りは透明なヴェルのようなもので覆われていて、それで、見える景色や聞こえる物音が、少し遅れて入ってくるのではないかしら。だとすれば、そのために向けられる嘲笑や呆れの声なんかも、半分くらいはそのヴェルが吸い取ってくれればいいのに。
ともかく芳子は困っていた。
唄の、四番めでも駄目だった。
だから、骨董屋を頼るほかなかった。
「きゃあッ」
入り口のドアを開けた途端、とんでもなく大きな音が耳を突き抜け、思わず芳子はたたらを踏んだ。
引き開けたドアの動きにつられ、踊り場へと流れ出てきた珈琲の薫りが、まるで蛇のように芳子へとまとわりつき、そのまま店内へとするする引っ張って行ってしまう。大音量にすっかり腰は引けているというのに、足だけは勝手に前へ進むから、上体がぐらぐらと揺れて堪らない。
ふらつきながら店内に転がり込んだ芳子の背後で、ドアがぱたりと独りでに閉じた。
なんと異質な空間だろう。
ぽってりとした唇を薄く開き、芳子は呆然と店内を見渡した。
どこを見ても紙、紙、紙。デスクの上も、ソファの上も、床の上にも紙がわんさか落ちている。
きちんと背が留められて本の形になっているものもあれば、頁だけがばらばらと落ちているものもあり、印字された上から何か書き殴った跡のあるものも見える。
ビスクドオルがお出迎え、なんていうから、西洋の人形がたくさん陳列された小洒落た店を想像していたのに。
それどころか、ここには店らしい雰囲気がまるでない。何しろ、商品らしきものがどこにもないのだ。まさか、床にまで散らばる謎の書類が売り物というわけではないだろう。
ここはまるで、偏屈な学者か研究者がこもる書斎のようだ。
芳子はがっくりと肩を落とした。
偏屈で気難しい人に相談なんて、とてもじゃないけどやってられない。下品で頓珍漢なアドヴァイスをもらうのはもう懲り懲り。それに、さっきから鳴り止まないこの音ときたら。頭がおかしくなりそう。もう、帰ろうかしら。
しかし芳子は見た。
奥のデスクに、人形のように美しい顔を心持ち俯けて座る男の姿を。
薄い目蓋に真直ぐ生えた長い睫毛が、男の瞳を覆っている。一心に見つめるその手元には、小さな鑢が握られていて、それで爪を整えているらしい。
ふうと爪に息を吹きかけ、男がゆっくりと目を上げる。
半身を夕暮れに染めて、灰褐色の瞳が徐々に芳子の姿を映していく様が、まるで自動幻画のコマを送るように緩やかに見えた。
その瞬間、ひたすら耳障りに思えた大きな音が、美しい旋律をなぞる男の声へと生まれ変わった。
円みと力強さを併せ持った声。エンリコ・カルーソー。曲名は、なんといったかしら。確か、リゴレットとかいうオペラの楽曲だったように思う……
「引いてしまったらば、僕の客だな」
男の声は、しかし鳴り響くテノール歌手の歌声の中でもはっきりと芳子の耳に届いた。
ぶつ、と音を立てて蓄音機の針が上げられ、エンリコ・カルーソーの声が止まった。
持ち上げた針にしばらく視線を落としていた男は、椅子に座ったまま芳子に向き直ると、ゆっくりと両腕を広げて見せた。
「ようこそ、骨董屋・がらん堂へ」
◆ ◆
女は田崎芳子と名乗った。
肌は白いもち肌で、少し丸みの目立つ頰は熟れた林檎のように赤く、それが、恐らくは二十代であろう彼女の顔を初心な少女に見せている。
またその動作も、まず前提に恥じらいがあって、次に迷いと遠慮が見え、それからようやく細い声を絞り出したり、円髷に結った髪を撫でつけたりするものだから、どうにもおぼこく見えてしまう。
心のうちにふつふつと湧き上がってくる苛立ちを苦心して収め、蛇川は女が話し出すのを根気強く待った。
「あのう……」
「なんでしょう」
「……あの。先程はどうして、あんなに大きな音でオペラを聴いてらしたのですか」
お好きなのですか、と遠慮がちに訊く芳子に、蛇川は苛立ちの上に加虐心が覆い被さってくるのを感じた。
なにやら覚えのあるその感情に、ふと記憶を思い起こしていれば、小肥りでうだつの上がらない中年巡査の姿が浮かんだ。ああ、なるほどそういうことか。この女はどこか山岡巡査に似ている。
「訓練ですよ」
「訓練?」
「ええ。いつ如何なる時でも平常心を保てるように」
相棒の極道・吾妻が聞けば、思わずふきだしそうな科白をさらりと吐く。常に渦巻く激情が人の形を成せばこうなろう、とでもいうような男だ、平常心などあったものではない。
しかしそうとも知らない芳子は、はあ、それはすごいですねなどとただ単純に感心している。
「大音量でオペラを聴くのが、平常心を保つ訓練になりますか」
「なります。本当はもっと、激しくて耳障りなものがよかったのですがね。喧しければ喧しいほどいい。子供の喚き声、あれを流せられれば最上です。僕は子供の甲高い声が大嫌いでね。耳をあの音に慣れさせることが出来るのであれば、そのための努力は惜しみません」
芳子は曖昧に微笑んで見せた。とりあえず相槌を打っておくのも躊躇われたのだろう。そりゃあ、大嫌いな音をわざわざ大音量で聴き続けたいなどという欲求は、常人には理解できないはずだ。
「それよりも、奥さん。なにも、世間話をしにここへ来たわけじゃあないでしょう。貴女は何か――ちょっとばかり妙な困りごとを抱えている。だからここへ来た」
小さく首肯き、帯の前で組んだ指をもぞりと動かす。ようやく本題に入れると踏んだか、蛇川は前のめりになってデスクに肘をついた。
「あのう……夫の田崎のことなんですが。近頃どうにも様子がおかしいんです」
「様子がおかしいとは」
「恥ずかしながら、田崎は画家をやっておりまして、個展で作品を売ったりして生計を立てているのですが。ある絵を描き始めてから、どうにも人が変わってしまったみたいで」
作業場にこもり、行燈の灯りに顔を染めた夫の姿。
ひとたび作品に取り掛かれば、まるで精も魂もすべて筆に託したかのように、髪を振り乱し、汗を滴らせて筆を走らせるのはいつものことだが、今回ばかりは様子が違う。
目はぎらつき、眉は吊りあがり、噛み締めた唇からは血を流してまで作品に没頭している。いつもの鬼気迫る勢いとはまたわけが違う、なにか、得体の知れない恐怖のようなものすら感じるその姿……
「その絵とは、いったいどんな?」
「最初は美人画だろうと思っていました。でも、描き進めるうちに、女のひとの顔がまるで――まるで、幽鬼のように恐ろしい形相になっていって。……田崎は、己が筆の生み出したあの女のひとに、取り憑かれているようなのです」
言って、芳子は躊躇いがちに蛇川を見上げた。
そう言うと、兄は訳知り顔で呆れて見せた。
駐在所では、やれやれとばかりに苦笑いされた。
また、同じような顔をされるのだろうか。
しかしこの男は違った。
黒い革手袋の指を組み、そこに鼻を乗せているので顔半分が隠れているが、しかし弧を描いた目を見ると、どうやら笑っているらしい。
ただ、それは兄が浮かべた薄い笑みとも、巡査が見せた嘲笑いとも違っていた。目は確かに笑っているのに、その瞳には、なにか背筋をぞくりとさせる光が浮かんでいる。
「それは困りましたね。しかし、その絵とやらを見てみないことには始まらない。ご自宅はどちらです?」
「京橋のほうです」
「近いな。では行きましょう、今すぐに!」
蛇川はコート掛けからインバネスコートを取り上げると、嬉々としてその袖に腕を通した。