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【旧版】骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第四章 銀座奇譚
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九十七:封書の行方




 汗をかきやすい体質は、母親譲りだと思っている。

 記憶の中にある母の思い出は、夏も冬も、いつもほんのりと湿っている。


 早くも(ぬめ)り始めた手の汗を、木田はいつものようにジャケットの裾にこすりつけた。

 歳を重ねるごとに口喧しくなってきた妻がまた文句を垂れるだろうが、どうだっていい。木田は毎日、時には己の命を張ってまであくせく金を稼いでいるのだ。その間、あの女は、どうせまたくだらない雑誌を読みながら、下品な音を立てて煎餅でも齧っているのだろう。木田が帰ると取り澄ました態度を見せるが、畳の目に埋まった煎餅の食べカスが、だらしのない女の昼の顔を物語っている。


 あの時はあまりに腹が立ち、思わず手を上げてしまったが、それで少しはしおらしくするかと思いきや、むしろ反抗的な顔を見せたので、悪いと思う気持ちも失せてしまった。


 打たれた頬を押さえて此方を屹と睨み返してきた、あの、ぬらりとした瞳。道端でゲゲと鳴く蛙のような、粘着質なぬるい温度。


 まったく、なぜこんな女を娶ってしまったのだろう。出世したい一心で、上官の行き遅れた娘などを引き取ったのがいけなかった。

 結局その上官は馬蹄銀分捕事件で失脚してしまい、木田はいま鴻上(こうかみ)誠一郎のもとで働いている。失脚した上官の娘など、それも多少なりとも器量良しならばともかく我の強い粗野な女、すぐにも追い出してしまいたいが、今でも陸軍上層部には彼の同期が多く在籍している。そうそう無碍にすることもできない。


 ともかく――鴻上誠一郎。

 その名を思い出しただけで、手のひらの汗が冷え、薄ら寒いものを覚える。


 若い頃には恐ろしく端正だったというその容貌には、加齢とともに貫禄が加わり、目鼻立ちにはかつての美男ぶりを色濃く残したまま、暴風などものともせずに、凛と根を張る巨木のごとき威圧感を宿している。


 その叡智の聡明なるは、幼少の頃より既に周囲に鳴り響いていたが、陸軍に入隊して以降、その切れは更に鋭さを増した。

 何より鴻上誠一郎が恐ろしいのは、執念深いとすら言える念の入れようと、能無きものを躊躇なく切り捨てるその冷酷さにあった。そのふたつを武器に、彼はたちまち階級を駆け上がり、今では同年の木田を顎で使える立場にいる。


「ここでまたヘマをしたら、俺自身が危ういんだ……なんとしても、しくじるわけにはいかない」


 ぶつぶつと、口の中で木田が呟く。


 手紙奪還のために、鴻上派閥の男達を八人借り受けている。いずれも腕の立つ、剛の者だ。悪目立ちしないよう、三名ずつの少人数で目的地へと向かわせている。


 鴻上からは、相手が金を要求するならば、ひとまず条件を呑んでもよいと言われている。渡すだけ渡しておいて、その後また回収(・・)すればいいだけの話だ。ある程度の額も、左手に提げた鞄に詰めてある。

 人は、勝利を確信した瞬間にこそ、最も脆くなるものだ。まやかしの勝利で相手を酔わすことなど造作もない。


 広告に記載されていた住所に向かうにつれ、建物の数が減り始めた。人通りもまるでない。相手の思惑かもしれなかったが、こちらとしても好都合だ。


 ()(がれ)時の薄闇の中を音もなく進む。無意識のうちに、足音すらも殺している。


 住所の場所には寂れた店があった。

 見たところカッフェらしく、窓に色硝子をあしらうなど小粋な装いを見せているが、しかし、人の笑い声から遠ざかって久しいことがひと目で分かる。空気が打ち沈んでいるのだ。


 既に到着していた仲間と合流し、小さく頷きを交わしあう。

 行動開始の合図に、店の裏口、側面へと、各所へ人数が散らばっていく。


 入り口側に残ったのは、木田を含めて四人。

 もったいぶった動作でポケットから手を抜き、木田が残りの面々を見回した。


「打ち合わせ通り、中に入るのは私と、君のふたりだけだ。下手に警戒させても面倒だからな」


 その言葉にいちいち頷く男達に、木田は内心得意になっている。

 まるで、極秘任務を任された一隊の長ではないか。いや、まさにその通り。これは間違いなく極秘任務で、それを率いているのは他ならぬ己だ。


 今夜は、あの女に酌をさせながら、この勇姿を語って聞かせようか。夫への溢れるような強い尊敬を思い出し、少しは愛敬が戻るかもしれない。


「よし……。では、参ろう」


 突如鷹揚さを増したその口振りに、何人かが苦い顔を浮かべたが、しかし木田は気付いていない。昂揚を無理に押し留め、錆びた把手へと手をかける……



 店内は暗闇に満ちていた。


 窓という窓には分厚いカーテンがかけられ、仄かな明かりが通り抜けることをすら拒んでいる。お蔭でその色すらも判然としない。


 ごく平凡な二階建てかと思っていたら、二階部分は床面積にしておよそ三分の一程度の広さしかなく、一階をぐるりと取り囲み、見下ろすような構造となっている。


 一階にも二階部分にも、各所に木箱やテーブル、椅子などが積み重ねられている。しかし、人影はどこにもない。


 不意に背後で木の軋む音が聞こえた。


 弾かれたように振り返ったが、なんということはない、連れの男がドアを閉めただけだ。


 驚かせるな、と目線で叱りつけてみるも、男がそれに気付いた様子はない。木田同様、店内の異様な空気に少し呑まれているらしい。


「ぎゃッ」


 突然、額に軽い衝撃を受けて、木田が喉を引き攣らせた。踏まれた蛙のごとき悲鳴が、天井の高い店内に響く。


 額で跳ね、こつり、と床に落ちたのは木の弾だった。

 思わず目で追う木田に向かって、二階から声が投げかけられる。


「右手にテーブルがあるだろう。そこに銃をすべて置け。左手の鞄もだ」


 男の声だ。その声音は若すぎず、しかし老いてはいない。やけにくぐもって聞こえるのは、マスクか何かを着けているためだろう。


 動きがないことに苛立ったものか、声は続けて、


「あるいは、もう一度弾を受けるか? 次に跳ぶものはもう少し痛いぞ」


 木田と男は暗闇の中で目配せを交わした。


 ようやく気持ちが落ち着いてきた。作り上げられた濃密な闇と、突然の衝撃に少し動転してしまったが、しかし気を据えて考えてみれば、どちらも浅はかな小細工だ。

 木の弾はパチンコで飛ばされたものだろう。驚きはあっても殺傷力はない。可愛い児戯のようなものだ。


「分かった、まあ、落ち着け。今銃を置くから。……平和的に、建設的に対話しようじゃないか」


 背広の胸ポケットから拳銃を取り出し、一度顔の横へと掲げて見せてからテーブルの上に乗せる。


 大仰な身振りでゆっくりテーブルから離れようとすると、


「阿呆。すべてや言うたやろ。脹脛(ふくらはぎ)につけとる分もや」


 訛りの強い声がそれを制した。こちらも同様にくぐもった、また別な男の声である。


 今度こそ木田と男はぎょっとして顔を見合わせた。確かに、右の脹脛にもベルトで拳銃を固定している。しかし、この暗闇でなぜそれが察知された?


 顔を突き合わせたまま硬直するふたりに、また最初の男が、笑いを含んだ声で告げる。


「見上げた『平和』だな。ならばその平和の象徴たる鉛玉を額に受けるか?」


 その言葉と同時に、ガチリと金属音が鳴った。

 間違いない。あれは、撃鉄を起こす音だ。敵は銃を持っている。


「こちらとしては、別に構わない。あんたらがいなくなったところで、次はもう少しまともな奴が出てくるだけのことだからな」


 かっと頭に血が昇るのを感じ、木田は衝動的にスラックスの裾を捲り上げた。ベルトから拳銃を取り外し、荒々しくテーブルの上に並べる。

 その行動に、連れの男が小さく舌打ちを漏らした。


「知らぬ存ぜぬで押し通すこともできたものを……」


 押し殺した声で吐き棄てながら、仕方なく己も拳銃を取り上げる。


 テーブルに四つの拳銃と、金を入れた鞄とを残してその場を離れたところで、ようやく二階に動きがあった。木箱の背後から現れた影が、ゆっくりと階段を降りてくる。


 コツ……コツ……


 革靴が床を叩く音が、規則的に聞こえてくる。

 随分と軽い音だ。影は決して小さくはないから、それだけ細身なのだろう。


 少し間を置いて、それよりもずっと重い足音が後に続いた。影を見るだけでも分かる、かなり大柄な人物だ。


 ようよう暗闇に慣れてきた目が、暗闇の中に敵の姿を捉える。


 男達は、どちらもマスクをつけていた。双方、顔全体を覆う類のものだ。


 大柄な方が着けているのは、木田も目にしたことがある。能で使用される、真蛇(しんじゃ)の面だ。

 嫉妬に狂う女を表した般若面よりも罪業深く、飛び出した目はぎらつき、頬骨が出で、耳まで裂けた深紅の口からは醜悪な牙が覗いている。


 細身の方が着けたマスクこそ異様だった。

 一見すると、人間の胴体に、鳥の頭が生えたようなその風貌。突き出した長い嘴部分は皮の糸でもって縫合され、その上に丸い硝子が二枚並んで嵌められている。黒死病が蔓延した時代、西欧で活躍したペスト医師らが着けていたもの――ペストマスクだ。


「さあ、建設的にいこう」


 ペストマスクがくぐもった声を上げる。嘲笑の声を上げた男の声だ。ということは、真蛇面が関西弁の男か。


「こちらの要望はふたつ。ひとつ、あんたらが燃やした古書店に対し、義援金として相応の金を渡すこと。ひとつ――銀座の土地整理から手を引くこと」


「なッ……」


 思わず上擦った声を上げてしまい、木田は慌てて唇を噛んだ。


 こんな事は想定していなかった。


 確かに、鴻上誠一郎が銀座に手を伸ばしていることは事実だ。しかし、実際に事を進めているのは鴻上の息がかかったヤクザ者――一蓮会だ。鴻上誠一郎自身が動くことはない。

 なのに何故、この男はそれを知っている?


「これらが果たされなかった場合、手紙は然るべき場へ公表させてもらう。そうなれば己の主人がどうなるか、それくらいはさすがに分かるだろう。あんたの主人が間違いなく務めを果たしたならば、手紙の存在が公になることはない。保険として預からせてはいただくがね……約束を決して違えない者が、それを厳重に保管する。そちらが妙な動きをしない限り、手紙は永遠に葬られたも同然だ」


「ま、待て! そんな要求が呑めるか、どう考えても対等じゃない!」


 唾を飛ばしながら喚く木田に、ペストマスクが、長い嘴をついと持ち上げた。


「対等? そんな立場が許されるとでも思ったのか。第一、多少なりとも頭の働く奴であれば、この条件がいかに恵まれているかを理解できるはずだがね。こちらは鴻上誠一郎の息子の不始末、及びそれを揉み消そうと古書店を焼いた罪のみならず、一蓮会との繋がりをも掴んでいるんだぞ? それを黙っておいてやるというのだ、これ以上の条件はあるまい」


 木田が冷や汗を浮かべていると、二階の窓が開く音がした。

 カーテンが揺れたものか、僅かに光が射し込んできて、すぐに消える。このうえまだ敵が潜んでいたというのか。


 かと思えば、何かが二階から降ってきた。

 ばらばらと降ってきたそれは、湿った音を立てて床に落ちる……


「ひぃッ! み、耳……ッ」


 そう、落ちてきたのは耳だった。

 依然、店内は暗闇に包まれているというのに、鮮血の滴るその断面の赤さが、木田の眼底にまで一直線に飛び込んでくる。


「我々がここを出てからきっかり一時間。あんたらが動いていいのはそれからだ。妙な気は起こさないことだ、我々は、そちらが思っている以上に周到に網を張っている。刻限を破る動きを見せれば、こちらの要望を呑まなかった時と同じ結果が待っている」


「そんな……む、無茶だ、待ってくれ……」


「要望は伝えた。では、平和的で建設的な対応を期待しているよ――木田君」


 何気ない調子で付け加えられた男の言葉に、全身を駆け巡っていた熱がすとんと鳩尾の辺りに落ちた。溜まり溜まって雫となった汗が、指の先からぽたりと落ちる。


 凍てついた頭とは裏腹に、両腿が温く濡れてゆく。

 再び視界が暗く閉ざされていく。待て、頼む、これ以上深い闇があってたまるか。これ以上深い、これ以上昏い……




 その日以来、帝都で木田の姿を見た者はいない。





〈封書の行方  了〉

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