九十六:封書の行方
壁に掛かった時計がボォン……と厳かに鐘を鳴らし始めた。ボォン、ボォンと続けざまに八つ打ってから、一転、平然とまた静かに時を刻むに戻った。
その余韻がすっかり消えるのを待ってから、蛇川が再び口を開く。
まるで頭の中にチートシートでも仕込んでいるかのように淀みなく、程よく低くよく通る声が、形のいい唇の上を滑り出て行く。
「政府が社会主義を弾圧しようとしていることは、さすがにあんたも知っているだろう。当然、鴻上誠一郎からすれば、己が愚息が社会主義に傾倒している証拠が世に出回りでもすれば、大層困ったことになる。うっかり手紙を挟んだままの雑誌が古書店に流れたことを知れば、その在り処を血眼になって捜したろう……そしてようやく捜し求めた雑誌に、肝心の手紙が挟まっていなかったとなれば」
「どこで、何に紛れたとも知れない手紙を、その存在ごと抹消すべく、例の古書店ごと丸焼きにしてしまった……そういうことか」
ぐう、と喉を鳴らしながら、吾妻が癖毛をかき上げた。こぼれる黒髪から覗く垂れた目には、強い困惑の色が浮かんでいる。
「しかし先生、なぜ鴻上の息子が鳳なんだ? 鴻上誠一郎は陸軍の権力者だろう。その息子が婿養子なんかにいくか?」
対する蛇川は、ますます呆れたような顔で、
「莫迦。鳳誠治は鴻上誠治の芸のないペンネームだ。鴻の字の別読みはオオトリ、常識だろう」
「……俺の知っている常識と違う」
「嘆かわしい。学問の崩壊、文明の衰退。福澤諭吉も草葉の陰で泣いているぞ」
「己の無学は認めるが、しかしお前さんの該博ぶりもまた常人の域を超える。そう軽々しく比較してくれるなよ」
髪をかき上げた手を額に押し当てたまま、薄っすらと疲弊を見せて吾妻が首を振った。
しかしようやく、吾妻にも蛇川の考えが読めてきた。
仮に、蛇川の推論通り、鴻上誠一郎が古書店に付け火した真犯人だったとして。
鴻上誠一郎が何としてでも消し去りたい手紙が、炎を逃れ、今もなお第三者の手に保管されている。
広告を通じてそれを知れば、鴻上は、必ずや記載の住所へと現れるだろう。そして今度こそ確実に、手紙の存在をこの世から消してしまおうとする。
その手紙と引き換えに、蛇川がどんな条件を提示しようというのかはまだ知れない。
古書店再建のために必要資金を巻き上げようというのか、はたまた、己の推論が合っているかさえ知れれば満足し、何も求めず立ち去るつもりなのか。
仮に後者だったとしても、鴻上誠一郎は納得すまい。ただ知的好奇心を満たすためだけに、圧倒的な権力者たる己の存在を暴き出し、誘き寄せようという命知らずな粋狂者がいようなどとは、到底思えないからだ。
しかし蛇川はそういう男だ。
ただ興味がある、好奇心が刺激される。それが法をも犯す理由になり得る。
彼が恐れるのは権力でも民意でもなく、暴力でもなければ法律ですらもない。ただ唯一、己の牙が折れることのみを恐れる。無為な日々は、彼の研ぎ上げた牙をじわじわと侵食し、やがてぽきりと折りかねない。
手紙の受け渡し場所に指定した喫茶店が、今後使えなくなる可能性を考えているということは、何かしらを鴻上側に要求し、敵として認識されるのを見越してのことだろう。ならば、何を要求するのか。
彼の思考をなぞるような真似は吾妻にはできないが、しかし彼の目的が、鴻上の罪を暴くことでないことぐらいは容易に分かる。
残念ながら、蛇川は正義の徒ではない。
いかに鴻上誠一郎が罪を犯したところで、捕縛されようが、はたまた権力の座に居続けようがどうだっていいはずだ。
彼にとっては、どんな事件も難解な積み木遊びでしかない。己が知見と知力を尽くし、慎重に、且つ迅速にそのピースを積み上げていく。やがて出来上がった真実の形がどのようなものか、それは彼の興味の範疇にない。
しかし、吾妻の場合は違う。
強きが弱きを虐げ、更にその事実を権力のヴェルで覆い隠してしまうような非道は、何がどうあっても見過ごせない。弱き者の声に耳を塞いでいては、カス札のごときヤクザ者に成り下がってしまう。それだけは彼の矜持が許さない。
それに今回は、更にのっぴきならない理由が他にもあった。
「――先生。一蓮会が嫌な動きをしていることは伝えたろう。その背後で暗躍する協力者の存在のことも」
「そういえば言っていたな」
「その協力者のというのが、十中八九、鴻上誠一郎だ」
さすがに意表を突かれたと見え、蛇川が薄く口を開き、何も言わぬまままた閉じた。呆れればいいのか、驚けばいいのか、はたまた再び激昂すればいいのかを、珍しく迷っているらしい。
「ほれみろ。交わっちまったじゃねえか」
「……莫迦言え。偶々重なっただけだ」
「つれねえの」
結局のところ、怒っている。
◆ ◆
小肥りの部下が、ただでさえ脂ぎった顔をいっそう光らせて持ってきた新聞を受け取るや、鴻上誠一郎の角張った顔から色が失せた。
――オオトリ殿。オ手軽オ預カリシテオリマス。
ごくごく短いその一文。その素っ気なさが、しかし不気味さをいやましにしている。
発端は、不出来な次男が書いた莫迦な手紙だった。
つまらないものに傾倒するのはよせと、あれほど強く言ったにも関わらず、まだ愚かしい遊びに現を抜かしていたとは。
嘆かわしい――いや、それはこの際どうでもいい。問題は、あの手紙が、どうやら事情を知っているらしい者の手に渡ってしまったということだ。
仮に雑誌ごと余人の手に渡ったとしても、貴重な時間を小説などと無益な空想の世界に遊ばせ費やすような愚か者だ。いかに中身を見たところで、若僧が熱に浮かされて書いた、よくある手紙だと吐き棄てて終わるに違いない。
それに、部下の話によれば、古書店の店主は見るからに愚鈍な男であったという。これも、手紙を拾ったところで何の支障もないはずだ。
それでも念には念を入れ、古書店ごと燃やしてしまったというのに、何故。
オオトリ殿、とわざわざ片仮名に開かれた名前が、この広告主が鳳誠治と鴻上誠一郎の関係性に気付いていることを表している。
実に憎々しい。決まった版で刷られた、決まった字体にも関わらず、その短い広告文は、まるで唇の端を吊り上げて鴻上誠一郎を嘲笑っているようにさえ見える。
皺だらけになった新聞をデスクへと叩きつけ、白いものが混じり出した眉毛の下から睨め上げると、部下の木田は醜くたるんだ身体を震わせた。
「……確実に奪い返せ」
「は、はいッ」
「そこに居た人間は全員始末しろ。女だろうが、子供だろうが構わん」
唸るように低い声でそう言うと、一転、ああ、とついでのように軽く声を上げて、
「勿論、短慮なことはしてくれるなよ。どこまでを知っていて、何を企んでいたのか、全て吐かせたうえで……だ。分かっているな? よろしく頼むよ、木田君」
木田がバネ人形のように背筋を伸ばす。まるでそこにだけ霧雨が吹き付けているかのように、その顔面は濡れに濡れている。
汗だくの両手で握り締めたために、変な具合に皺がついた木田のジャケットの裾に一瞥を呉れ、鴻上誠一郎は冷ややかな笑みを浮かべた。




