九十五:封書の行方
復路の足取りは、往路のそれに比べると幾分緩やかに進んだ。いかにせっかちで激情家の蛇川先生といえど、脳内の積み木を組み立てていくのに忙しいと、歩みの方は少しく疎かになるらしい。
お蔭で磯焼き屋台に立ち寄る余裕を得た吾妻はほくほく顔である。
買い求めた二個の蛤はどちらも肉厚で、その色沢やかな表面はまるで技師が磨き上げた木肌のように美しい。
「おひとついかが」
貝の乗った竹皮ごと差し出してやれば、蛇川は首だけを捩って振り向き、なんだいたのかと言いたげに一寸きょとりと目を丸くして見せ、ついで醤油の香りに顔を顰め、差し出された貝を、まるで馬糞かのように睨みつけた。
「何なんだ。あんたは何をしについてきたんだ」
「うーん、見学。だけどまあ、見事に口を挟む隙がなかったもんで、置物のようになっていたけど」
「ふん。こうも臭う傍迷惑な置物があってたまるかッ」
文句だけ言うと、蛇川は再び猛然と歩き始めた。機嫌は悪いが、どうやら考えは定まったものらしい。
向かった先は定食屋『いわた』である。再度の訪問に驚くりつ子には視線も呉れず、亭主に電話を貸してもらえるよう掛け合っている。
すぐに奥へと通され、交換手に何やら尖った声を投げ付けていたが、ややあって亭主が吾妻を呼んだ。
奥へ顔を出すと、受話器の通話口を手で覆って振り向いた蛇川が、
「あの喫茶店だが、潰れてもいいか」
と短く問う。
「……はあ?」
「何度か使ったことがあるだろう、打ち棄てられたカッフェだ。西のほう。今後、もしかすると使えなくなるやもしれんが、構わないか」
顰めた声で、しかし苛立ちを滲ませて蛇川が言う。
そこまで聞いて、ようやく吾妻にも合点がいった。西にある打ち棄てられたカッフェ。かつて、小肥りの探偵・七曲が持ち込んだ陰惨な事件を追っている折、達見六男を訊問するのにも使った場所だ。周りに人が住んでいないため、人目を忍ぶ際に都合がいい。
使えなくなる、というのが具体的に何を意味するかは分からなかったが、しかし蛇川がそう判断したのだ。この事件を突き詰めるためには必要なことなのだろう。吾妻は小さく点頭した。
蛇川も小さく肯首くと、再び受話器へと向き直る。
「いいか、文面はこうだ。『オオトリ殿、オ手紙オ預カリシテオリマス』、これだけでいい。オオトリは片仮名で。それが肝要だ。あとは住所だ、住所は……」
電話を終え、店に戻ると甘ったるい匂いがふたりを出迎えた。ココアだ。くず子である。
再び蛇川からインバネスコートを受け取ると、今度はそのまま、止められる前に台所へと入ってしまう。
しばらくして戻って来たときには、両手にトレイを持っていた。上には白磁のカップがふたつ並んでいる。中身は薫り高い珈琲とココアだ。
「あら、ありがと」
ココアを受け取った吾妻は、垂れた目を細めて少女を見上げた。
本当に気の利く、いい娘だ。初めて会った時には、その体格の大きさから必要以上に怖がらせてしまったが、今はすっかり馴染んでもらえたようで、内心嬉しい。蛇川も慌ててデスク上から脚をどけ、どこか恭しく珈琲のカップを受け取った。
「……で? いつまで見学しているつもりだ。そうそう閑なご身分でもあるまい」
温められた水出し珈琲を味わいながら、一方でさらりと毒を吐く。しかし吐きかけられた吾妻は慣れたもので、実際この程度は気さくな挨拶と同じようなものだ、ほりほりと頬を掻いて見せた。
「うん、まあ、閑ではないんだな。むしろ最近は忙しい。どうも、銀座界隈が少しきな臭くてな……それで今日もお前さんの尻を尾け回していたわけだ」
その言葉にはさすがに興味を引かれたか、蛇川が形のいい眉を持ち上げる。白磁のカップをソーサーごと手に持つと、組んだ脚を再びデスク上へと置いた。
「どういうことだ」
「一蓮会――聞き覚えがあるだろう。神妻村の外道を追っていた際、先生にもちょっかいを出してきた奴等だよ。あれが、銀座界隈の土地の権利書を巻き上げようと画策している」
「……お宅と銀座で凌ぎあっているとかいうヤクザか」
ヤクザ、という言葉に吾妻が肩を竦めてみせる。仁と義に生きる生粋の侠客たる吾妻は、ヤクザと極道の違いに五月蝿い。
「まあ、クスリに手を出そうとしている奴等だ。ヤクザ者と蔑まれても仕方がない。……二束三文で土地を脅し取り、その権利書を、今度は法外な金額で売り捌く。大金を稼ぐにはいい手段だが、しかし動く額が大きい分、ヤクザ如きが単体でいくら頑張ったところでどうにもならん」
「そりゃあそうだろう。地上げする者、そこに建物を建てる者、更にはそれを売り捌く者と買う者とが揃ってようやく成り立つような商売だ。単独で徹頭徹尾うまく捌き切れるだけの組織などそうそうあるか」
「その通り……今回のことだってそうだ。なにも一蓮会が独断で動いているわけではない」
袂に手を突っ込み、吾妻がどこか苦み走った笑みを浮かべた。
「しかし、先生を堅気にしておくのはつくづく惜しいな。うちに入ってくれりゃあ、でかい夢だって見られるだろうに」
「前にも言ったろう。僕とあんたの道は違う。交わることなど、この先百年だってありはしない」
つれないなあ、と吾妻はわざとらしく落胆の顔を作って見せて、
「俺にここまで素気無くする奴なんざ、帝都中を見回したって、先生ひとりぐらいなもンだぜ」
「気味の悪いことを言うなッ、莫迦者! 用が済んだならさっさと帰れッ」
突如として激した蛇川に、驚いたくず子がくりくりと瞳を回す。まったく、冗談の通じない男である。
せっかくの美しい顔を音の鳴るほどに歪め、忌々しげにカップを煽る相棒を見下ろし、吾妻は思わず笑みをこぼした。
確かに、この男が鴛鴦組の一員となれば、それはそれで面白いだろう。手元に置いて、存分に働かせてみたいと思う気持ちも確かだ。
しかし、蛇川は野に生きる獣だ。何者とも群れず、何者にも媚びず、ただ己の信念をのみ奉じ、それを貫くためだけに牙を研ぎ、孤高に生きる野の獣だ。彼の赤き血潮は、その激動の中でのみ熱を帯びる。
だからこそ面白いのだ。己以外に縛られるものを持たない彼は、いつだって常識の範疇を軽々と超えてゆく。
だからこそ、この怪人への興味が尽きない。
「……なんだ、ぬたぬたと。気持ち悪い」
「臭い、気味が悪いに加えて気持ち悪いとくりゃあ、さすがの俺だって傷付くぜ。相も変わらず、飽きない男だと思っていたまでさ」
ふん、と蛇川が鼻を鳴らす。
「そういやあ、さっきの電話。あれは何を仕掛けたんだ? 店が潰れる分にはまあ構わんが、また何か危ない橋を渡ろうとしてるんじゃあなかろうな」
「明日の夕刊に広告を打った。あれは鴻上誠一郎への撒き餌だ。もし僕の持つ可能性が真実に繋がっているならば、必ずや鴻上誠一郎はあの店に現れる。鳳誠治の手紙は、奴にとっては己の立場を脅かすに十分なネタだからな……なんだその顔は」
「いや……言いたいことは山程あるが、とりあえず、順を追って説明してくれないか。悪いが俺にはさっぱり分からん。坊さんの読経を聞いているかのような心地だ。どうやら有難いことを言っているらしいが、肝心の意味がとんと分からん」
ぬっと腕を伸ばし、空のカップをデスクに置くと、蛇川は革手袋の指を組み合わせて鳩尾に置いた。薄い目蓋を閉じ、鼻からゆるゆると息を吐く。
「あくまで可能性の話だが。さる死にたがり作家に頼まれて求めた『購読倶楽部』に、鳳誠治が書いた手紙が挟まれていた。ここまではいいな?」
身を乗り出し、片手を上げて吾妻が応える。
「その内容は、まあ血気盛んな若者らしいといえば若者らしい、己が妄信する思想がいかに高尚で清高なるかを熱く語ったものだった。それだけならば、別に取り立てて騒ぐようなものではない。社会主義にかぶれた若僧など、夕暮れの銀座で石を投げれば十中八九がそれにぶち当たるほどにはありふれているからな。だが鳳誠治は、そこらの若僧とは身分が違う。奴の父親は、かつての長州閥――今でいう山縣閥でも幅を利かせている鴻上誠一郎だ」




