九十四:封書の行方
ふたりが目的地に辿り着くまで、そう長い時間はかからなかった。揃いも揃って脚のコンパスが特大サイズときているうえ、何より、蛇川がずんずん先へと進んでいくから歩みが速い。
通りには磯焼きの屋台が出ており、馴染みだろうか、焼き手が吾妻に気さくな様子で声をかけたが、しかし寄り道は許されなかった。
古書店の火事は、幸い周辺への被害も少なく収まったようだった。とはいえ、少なく、といっても勿論ただで済んだはずもなく、延焼を防ぐべく撒かれた水で、辺り一帯は水浸しになっている。
店の前では小僧がひとり、焼け落ちた木片や紙屑の片付けに勤しんでいたが、湿った足音に痘痕面を上げた。古書店の手伝いをしていた小僧である。
訊けば、店主は迷惑をかけた近隣への挨拶回りに出ているらしい。蛇川は少し苛立たしげに湿った路を叩いていたが、向かいの通りに喫茶店を見つけて顎をしゃくった。
さて店内に通されたはいいものの、店主が戻ってくればすぐにそれと気付けるよう窓際の席に陣取り、硝子に鼻を押し付けるようにして往来を睨んでいるのでどうにも落ち着かない。硝子はちょうど座って目の位置あたりがスリ硝子になっている小洒落たものだったが、蛇川は背を屈めて人通りに目を凝らしている。
彼が窓際に張り付いてからいうもの、妙に客数が増えたことに――それもご婦人ばかり――果たして、銀座一切れる頭脳を持ったこの男は気付いているだろうか。恐らくは気付いていまい。吾妻だけが苦笑を浮かべ、期待をこめた視線を向けるご婦人方と、往来以外に一切の興味を示さない相棒とを見比べている。
「ねえ、蛇川ちゃん。お紅茶頼んでもいい?」
「好きにしろ」
一応、耳だけは働かせているらしい。吾妻は洋装に身を包んだ給仕女をつかまえ、いつものように檸檬抜きの紅茶を頼んだが、しかし『いわた』のそれと味比べすることは叶わなかった。席に運ばれてくるよりも早く、店主が帰ってきたのだ。
それと見るや、蛇川が椅子を鳴らして立ち上がった。慌てて財布を取り出し、口をつけてすらいない紅茶の支払いを済ませると、吾妻もその後を追う。
ご婦人方が漏らす失望のため息を背で聞きながら、ふたりは往来に飛び出した。
「災難でしたな」
そう蛇川が声をかけると、店主は物憂げに振り向いた。
その顔には何の色も浮かんでいない。顔見知りに会った時の取り澄ました笑顔も、怒りも、絶望さえもなく、生きながらにして死んでいる。そんな表情をしていた。
「ああ……山田さん」
山田というのは蛇川のペンネームだ。山田一二三という、いかにも人を莫迦にした筆名で時折新聞に寄稿している。
「この度はどうも、ご迷惑をおかけいたしまして……」
掠れた声を出す店主の姿は、夏の日に立ち昇る陽炎よりも頼りなく、一陣の風にふっと攫われでもしそうに危うい。
きっと、半日の間、この調子で近所一帯を回っていたのだろう。いくら火事の煽りを受けて腹を立てていたとしても、この姿を前にしては、罵声も舌の根元に引っかかって外に出なかったに違いない。声を荒げれば、それだけでたちまち命の灯火が消えてしまいそうだ。
「いや、それよりも残念です。お宅に行けば目当てのものはまず例外なく見つかるし、思いもかけず好い出会いを果たしたことも一度や二度の話ではない。……記事を読みました。寝煙草というのは、嘘でしょう?」
挨拶もそこそこに、山田一二三こと蛇川が本題を切り出す。
すると、それまでまるで生の息吹を感じさせなかった店主の顔がたちまち赤らみ、かと思えば、わっと声を上げて泣き出した。全身の毛孔から水気を噴き出すかのような、とてつもない泣き方である。
大のおとなが、衆目の前で、恥ずかし気もなく声を放って涙する姿に、往来の人々が何事かと振り返る。しかしその背に焼け落ちた建物の残骸を認め、大凡の事情を察し、一転、急に用事を思い出したかのようにそそくさとその場を立ち去っていく。
火事はすべての財を容赦なく奪っていく。せめて、泣き喚く権利くらいは残されていてもいいだろう。
「わたしは煙草などやりません。その煙に鼻毛を焦がしたことすら一度もない。当然、人を雇うにも妻を娶るにもまず第一に煙草を吸うかを訊き、これまでもこれからも一切吸うつもりがないと答えた者を選びました。息子になどは、この世にそんな悪しきものが存在することをすら教えておりません」
堰が切れたように捲し立てる店主の勢いに、吾妻が少し居心地悪そうに尻をもそもそと動かした。
彼は利き手の指が黄色く染まるほど極度の愛煙者だ。敷島を日に三箱は空にする。
「そのことは当然、糞ったれの新聞記者にも伝えたわけでしょうな」
「勿論です。だのに奴ら、口から出任せに勝手なことを……私は、口惜しい! この店は私の子供のようなものだったのに、それをまるで、己の過失でうっかり亡くした愚か者かのように……」
「ならば弔合戦だ。僕も協力を惜しみません。さて、念のために訊きますが、貴方の煙草憎しの思いは痛いほどよく分かりましたが、しかし失火の原因は煙草だけに限りません。それに心当たりは?」
「ありません! 竃にせよ風呂釜にせよ、火を落としたら必ず灰で覆うよう家内にはきつく言いつけておりますし、私自身、眠る前にはしっかりと熱が失せているかを確認しております。指をこう、ぶすりと突っ込むのですよ。火種が残っていれば、当然そうと気付くはずじゃあありませんか」
店主の剣幕に、蛇川はげんなりした様子で薄っぺらな謝罪の言葉を口にした。
「では、店主の考えでは――」
「付け火! ……と、思うのですが……」
ここへきて突然の失速である。まったく、無の状態から突然驚異的な瞬発力を見せたかと思えばたちまち立ち止まり、上がり幅も下がり幅も随分と大きな男である。
恐らく、普段の性格としては生真面目で大いに消極的ながら、生業上、火を嫌う心だけが異様に強いものと思われた。
蛇川は特に驚いた様子もなく、善良な市民の仮面に気の毒そうな色を僅かに浮かべ、腕組みをしたままで頷いている。
「僕もそう思います。しかし、怨みを買ったような覚えは?」
「ありません……いえ、ないと思います。この通り、祖父の代から真面目一本でやってまいりましたし、有難いことに、歪み合うような商売敵もおりません」
「では別な動機があったのでしょう。不審な人物が訪ねてきたり、辺りを彷徨いていたなんてことは?」
「ありません……いえ、ないと思います。少なくとも、私の知る限りでは。お前、何か心当たりないかね」
不意に話題を振られた小僧は、これが、煙草の存在をすら知らないという店主の息子であろう、薄っすらと凹凸のある頬をほりほりと掻いてから、首を小さく右に傾げて見せた。
「なら、これを捜していた人物は?」
蛇川が差し出したのは『講談倶楽部』だ。店主はちらと表紙に目を向けただけで点頭した。
「ああ、それなら。一昨日でしたかね」
「これと同じ、十月號を?」
「ええ、そうです。よくいらっしゃるのですよ、結局単行本にはならなかった小話を求めてだとか、偶々買い損ねて連載小説を読み逃したとかで、古い號を求められるお客様が。その方も、よほどご執心だったのか、これを見つけた折には随分と安堵してらしたご様子で」
「僕がこれを買ったのは半月ほども前ですが」
「では二冊あったのでしょう。よくあるわけではないですが、珍しいことでもありません。その方も同じものを買っていかれましたから」
ふうん、と蛇川は特段興味もなさそうに腑抜けた相槌を打った。
「その人物はどんな様相でしたか。年齢や背格好など、憶えている限り詳しく」
「ええと……小肥りで銀縁眼鏡をかけた男性です、歳の頃は四十の半ばくらいでしょうか。茶色の背広を着ていました」
「ジャケットの襟にバッジがついていませんでしたか」
「さあ……? ついていなかったように思いますが」
ふうん、と、今度は随分と熱心に相槌を打つと、
「大凡分かりました。どうも、大変な最中にお時間をいただきまして」
己の興味を満たしてしまうと、蛇川は軽く会釈をするなり踵を返し、焼け跡に背中を向けた。
店主がぼんやりと何か挨拶を返したようだったが、しかしもう蛇川の耳には届いていない。彼の優れた頭脳は、もう次に取るべき行動についてを考え始めている。




