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【旧版】骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第四章 銀座奇譚
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九十三:封書の行方




 見目()い男が新聞を広げ、その隣、席をひとつ開けてカウンターに座る巨漢が、旨そうに紅茶とお茶請けを楽しむ。巨漢は、その立派な体躯とは裏腹に、仕草にはどこかしながある。

 炭火アイロンを当てたわけでもないのに皺ひとつないシャツに袖を通し、整った眉を心持ち寄せて記事に目を落とす麗しきその横顔を、時折甘やかな吐息を漏らしながらご婦人方が見つめている。銀座の片隅にある定食屋『いわた』の、常と変わらぬ風景だ。


 ご婦人方の艶めいた視線などはまるで意に介さずに、五部ある新聞に黙々と目を通しているのは、言うまでもない、銀座の屁理屈王こと蛇川(へびかわ)である。

 入り口付近に設けられた色硝子の小窓を通り抜けた光が、白磁のごときその肌に色彩を映している。


 読み終えた新聞は手早く器用に折り畳まれ、カウンター越しに差し出される。無言ながら、毎度のことなのですっかり慣れた『いわた』亭主が、これも言葉なく新聞を受け取る。いつもなにかと身の周りの面倒を見てくれる『いわた』への、蛇川なりの細やかな感謝の表れである。


 お互い、目も合わせずに行われるそのやり取りを、丸盆を胸に抱いたりつ子が眺めている。


「男の人って、どうして新聞を綺麗に畳めるのかしら。私がやると皺だらけになっちゃうのに」


「あ、分かる」


 あたしも無理、とそれに応えたのは、カウンターに並んで座る吾妻(あがつま)だ。


 今日のお茶請けは鯖味噌定食らしい。この時期の鯖は、脂がのっていて格段に旨い。

 しかしどう見ても紅茶には合わなさそうなそれを、りつ子は理解しがたいものを見る目で見遣った。


「吾妻さんだって男の人じゃない」


「やだァ、りっちゃん。世の人間を男と女の二種類だけと考えるのはあまりに狭量ってもんよ」


 片手をひらひらと振って見せながら、


「もっと大らかに生きなきゃあ」


「吾妻さんは大らかすぎると思んだけど……」


 巨漢の女形(おやま)。鯖の味噌煮とノンシュガーの紅茶。

 りつ子はつるんとしたゆで卵のごとき額にくっきりと皺を寄せ、空いた席の片付けに取り掛かった。それを機に、吾妻も蛇川へと向き直る。


「何か気になる記事はあった?」


 対する蛇川の返答はどこまでも無愛想且つ簡素なもので、


「火事」


 とのみ。


 とはいえ、当人に特段悪気があるわけではなく、彼の、これ以上なく無駄を嫌う性格がそう言わしめているにすぎない。

 『いわた』の面々も慣れたもので、彼の足りない言葉を補い合う連携がすっかり板についている。今回は『いわた』亭主がその役を担った。


「……『深夜ノ大火、古書店ヲ焼ク』――近いな。銀座三丁目だ」


「あらやだ。怖いじゃない、近場で火事なんて」


 台拭きで卓上を拭きながら、りつ子が「ああ」と声を上げる。


「だから今朝、失火に注意なんて回覧板が回ってきたのね。すっかり乾燥する季節になってきたもの、気を付けないと」


「ふふ、りっちゃんったら女将さんみたい。しっかり者ね。――ところでその火事、原因は? 事故なの、事件なの?」


 記事の続きを読んでいた亭主が、太い眉毛を心持ち上げて吾妻を見る。


 りつ子はまるで知る由もないが、亭主は吾妻の正体に薄々勘付いている。

 彼はただの女形(おやま)などではない、本来であればこうも気安く口を利くのは憚られるような、まず、真っ当な職には就いていない男。恐らくは、極道者。


 火事の原因に興味を持ったのは、彼のシマが銀座界隈にあるためなのか、それとも単なる気紛れか。


 亭主の目に一寸ばかり推し量るような光が灯ったが、しかしそれもすぐに失せた。気にしたところで仕様がない。下手に首を突っ込むのはいただけない。吾妻は、風変わりなただの常連客――それでいい。


「事故だな。原因は店主の寝煙草らしい」


「莫迦げているッ」


 それまで黙って口を捻じ曲げていた蛇川が、不意に割って入った。いつも以上に棘を帯びたその声が、彼の不機嫌を物語っている。


「何度もあの古書店に通ったことのある僕から言わせれば、およそ書籍を扱うにおいて、あすこの店主以上に口喧しい男はそうそういない。水気、汚れの類は断固としてお断り、にちにちと(スルメ)を噛みながら店に入ろうものなら箒でもって追い払われる。無論、煙草も駄目だ。半日以内に煙草を吸った者は、商品に触れることを許されない。ヤニの黄ばみが付くのだという。それでいて帳簿の管理は驚くほどに杜撰だから人間分かったものではないが、しかしとにかく、その店主が寝煙草などと迂闊なことをやろうはずがない。原因は付け火に決まっている」


 まるで機関銃から絶え間なく吐き出される弾丸のごとき口撃に、吾妻は取り上げた丸盆で顔を覆って(おど)けていたが、しかし丸盆を置いたその顔は最前よりもほんの僅かに強張って見える。

 やがて蛇川が『いわた』を辞すと、そそくさとその後ろに吾妻も続いた。



 骨董屋・がらん堂に着くと、くず子がふたりを出迎えた。

 艶やかなおかっぱ頭と、黒目がちの瞳が愛らしい、この骨董屋唯一の従業員だ。


 吾妻がひらりと手を振って見せると、くず子は満面の笑みでそれに応えた。彼女はいっさい言葉を話さないのだ。しかし不思議と不便はない。


 くず子は受け取った和紙の包み――『いわた』でこさえてもらった彼女の弁当だ――をテーブルに置き、次いで蛇川がインバネスコートを脱ぐのを手伝うと、皺にならないうちにさっさとコート掛けに吊るし、小さな手でもって土埃をはたはたと払った。


 くるくると、まるで独楽(コマ)のように立ち働くその背中に、


「ああ、これは気にしなくていい。くず子さんは先に食事をいただいてしまいなさい」


 首元を寛げながら蛇川が言う。

 茶を用意しようとしたのか、台所へと足を向けていたくず子は、伺うように吾妻を振り返った。これ、と言い捨てられた吾妻は、しかし気を害した風もなく何やら懐をまさぐっている。


「そういえば、くず子ちゃんにお土産を持ってきたの。阿蘭陀(オランダ)のココアをひと(カン)。飲むのはお食事が終わってからね」


 赤地に、西洋の尼が描かれた(カン)をテーブルに置くと、その奥のデスク脇へと腰を下ろす。

 定位置の、上等な革張りのひとり掛けソファに悠々と身体を沈めた蛇川は、組んだ脚をデスク上に投げ出し、ちらりと吾妻に視線を呉れた。


「何か用か」


 ようやくそんなことを訊く。


「うん。例の火事のことなんだがな」


 再び口を開いた吾妻の口調は、男のそれに戻っている。


 木綿の浴衣で風を切り、悠々自適にぶらつく『情報屋』は仮の姿。吾妻健吾の真の姿は、曰く、古くは江戸時代以前の町火消しの集団を基盤とする侠客集団・鴛鴦(おしどり)組の若頭である。銀座の一部をシマに持つ立場としては、界隈で起こった不審火の存在を捨て置けなかったものらしい。


「先生は何が気にかかるんだ?」


「事件を事故と(いつわ)る以上、その背後には、必ず何か後ろ暗いものが潜んでいる。付け火であるとは確信しているが、しかし誰が、何のために火を放ったかはまだ推論の域を出ない」


 ガタガタと音を鳴らしながらあちこちの抽斗を開けて見せる蛇川に、吾妻が垂れ気味の目を丸めに丸めて驚嘆の声を漏らした。


「いつもながら恐ろしいな。もう推理が進んでいるのか」


偶々(たまたま)可能性のひとつを手にしていただけであって、別に推理などとご大層なことをしたわけじゃあない――これだ」


 デスク上にぞんざいに放り出されたのは一冊の雑誌だ。

 クリイム色の表紙には、市松模様の着物に身を包んだ女性の姿が描かれている。長い睫毛を心持ち伏せて、手元の文庫に目を落とす美しい横顔。白抜きの文字で『講談倶楽部』とある。


「へえ、意外だな。先生もこんな大衆雑誌を読むとは」


「莫迦を言えッ、そんなもの、鼻を摘まみながらでさえ読めたものじゃない! ただ頼まれて代理で買っておいたまで……問題は雑誌自体じゃない、それの売り手がうっかり挟んだまま例の古書店に売っぱらってしまった代物だ」


 促されて雑誌をめくってみると、果たして、半ばあたりの(ページ)に白い封書が挟まっているのを見つけた。差出人は「(おおとり)誠司(せいじ)」とある。


「これが何か? 見たところ、知己に宛てたただの手紙に見えるが」


「信じられん。その程度の感想しか浮かばないならばまだ寝惚けているか、ひどい宿酔(ふつかよ)いかのどちらかだ」


 ばっさりと切り捨てられ、吾妻は肩を竦めて見せる。


「ともかく、その手紙と付け火の関連性を今から確かめに行くってェわけだな」


「無論」


「なら、俺もついて行こう」


 灰褐色の瞳がじろりと吾妻を睨め据えたが、しかし形のいい唇は沈黙したまま、蛇川は吾妻の手から雑誌と封書を取り上げた。





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