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【旧版】骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第四章 銀座奇譚
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九十二:落昼の蔓

 夜半――


 秋の虫もすっかり寝静まり、時折、手持ち無沙汰な夏見が畳を掻く以外には一切の音もない中、ベルが鋭く振り鳴らされた。吾妻からの合図だ。

 やはりと思う緊張が九割、残り一割に「まさか本当に」という驚きを滲ませ、夏見がはっと顔を上げた。蜂蜜色の髪が揺れる。


 胡座をかき、腕を組んで柱に凭れていた蛇川は、薄い目蓋を開いて立ち上がった。無言のまま、迷いない足取りで隣室へ向かうその背中を、慌てて夏見が追いかける。


 障子へと手をかけた蛇川は、躊躇うことなくそれを左右に開け放した。


 乾いた音に、片膝立ちに構えた吾妻が視線をよこす。

 その背後では、彼の内儀が恐怖に打ち震えて蹲っていた。


 小瓶を片手に握ったままの吾妻は、仁王立ちする蛇川に向けて目だけで一瞬微笑んで見せたが、すぐに視線を元へ戻した。


 彼の目線の先、ふた間続きの部屋の中央には、薄靄のようなものが浮かんでいた。

 靄は、しかし女の形を成している。鎖骨あたりまで伸ばした黒髪を散らした、和装の女。


「こいつは……」


 薄い唇で小さく呟くなり、蛇川は大股で部屋の中へと進み行った。夏見が驚きの声を上げる間すらなく、腰を落とした吾妻らの横まで歩いて行く。

 そのあまりに大胆な行動に、夏見は肝を冷やしたが、しかし女が動く気配はなかった。


「立てるか」


「まあ、俺は……大丈夫か、おい」


 吾妻に促され、内儀が震えながらも立ち上がる。

 風に煽られ、巨木に凭れかかるほかない枯れ草のように、吾妻に縋り付く内儀の手を、しかし蛇川が取り上げた。


「どうぞご安心を、ここからは我々の領分だ。しかしもうひと働きだけお願いしたい。奥さんは僕と共に左側から。吾妻、あんたは右側から回って外へ出ろ」


 内儀は一瞬、不安げな目で吾妻を見たが、その首が小さく横に振られるのを見て観念したらしい。部屋の中央に浮かぶ女の姿は見ないよう、顔を背けながら、蛇川に手を引かれる形でそろり、そろりと足を進めた。同時に吾妻も動き出す。


 偏屈な骨董屋亭主はいつだって言葉足らずだ。


 ひとりで勝手に推理して、結論を導き出し、その答えに従って行動する。


 彼の豊富な経験と、膨大な知識と、何よりそれらを瞬時に結びつける卓越した頭脳の前にあっては、並の人間がその思考に追いつけようはずもない。しかしそんなことにはお構いなしに、蛇川はどんどん先へ行く。


 悔しかった。

 辛く過酷な修業の中にあっても、夏見はいつも優秀だった。鬼祓いとしての実績だって積んできた。なのに、蛇川にはまるで歯が立たない。


 ――分かるかね。


 不意に、帳簿の写しを前にした時の蛇川の声が蘇った。どこまでも冷静な声音の中に、ほんの僅かに興奮を滲ませたその問いかけ。夏見がはっと息をのむ。


 まるで長引く微熱のようにまとわりつく悔しさと羨望を、頭を振るって外に追い出し、夏見は眼前の事象に目を凝らした。


 何が起きようとしている?

 蛇川が確かめたかったことは何だ。彼は何を考え、何を期待している?


 注意深く見ていると、蛇川の歩みがまったく単調ではないことに気付かされた。


 時にほとんど足を止めかけて、不安げな内儀の視線を背に受けながら、しかし鬼から目を離さない。警戒のためというよりは、どこか挑みかかるかのような、あるいは試すかのようなその視線。

 鬼もまた同じで蛇川と内儀を睨み返しているが、しかしその視線の毛色はまるで異なる。怨みと絶望の混ざった目付き。吾妻の方には目もくれない。


「……そうか、そういうことか」


 思わず呟く夏見の隣に、大柄な吾妻がのそりと立った。


「何だ何だ」


「分かったんですよ、骨董屋さんの考えが。あの人は、鬼が何に執着しているのかを知りたかったんだ。何が彼女を鬼にさせたのかを。だから、宿泊客の男女を二手に分けて歩かせた。その答えは明白です」


 更にその横へ蛇川が立った。今にも崩れ落ちそうな内儀の肩を、吾妻がさりげなく支えてやる。


 蛇川はそのまま足を止めず、円の軌道を辿るようにして再び部屋の中へと進み行ったが、鬼は部屋の出入り口を睨みつけたまま、近付く蛇川には目もくれない。

 ああ、と吾妻も得心がいったように声を上げた。


「実に単純なことだ。奴の執着は女にある。その背景にある恨み辛みもこれで大凡(おおよそ)、いや……もう十二分に見えたな」


 少し嘲りの色を乗せた声で蛇川が言う。


「何ならもう一周回ってみるか? さすがにそろそろあちらもお怒りのようだから、あんたがたは離れておいた方がいいとは思うがね」


「そうさせてもらうよ」


 内儀の肩を抱え、吾妻が廊下に出ようとすると、鬼の姿が揺らめいた。内儀が引き攣った悲鳴を漏らし、吾妻が全身を緊張させる。

 そのふたりを庇うように、両手を広げて夏見が立ち塞がった。手に握られた長い数珠が、じゃらりと音を立てて打ち振るわれる。


 呆れた様子でため息をついたのは蛇川だ。


「双方落ち着け。……あんたもあんただ」


 聞き分けのない子供を嗜めるような口調で、


「よく見ろ。あれはあんたの愛した男ではないし、あんたが憎く思う女でもない」


 まるでその言葉に頬を張られたかのように、女の鬼が身を強張らせた。眼玉があった場所は、底も見えぬ昏い穴と化していたが、その顔面には驚愕の表情が浮かんでいる。


 黒髪を振り乱したその姿は、変わらずおどろおどろしいものであったが、射殺すような剣呑な空気は僅かに和らいだ――ように思われた。


「どこのどなたか知らんがね。あんたのお蔭でこの宿は破産寸前、いくら憎き仇を取り殺してやろうと思ったところで、仇敵どころか、客自体やって来るはずもないのだ」


 ため息混じりに蛇川が言う。

 彼の中で、この事件への鮮烈な好奇心が急速に薄れていく様が、その整った顔立ちにありありと浮かんでいる。


 少し苛立ちの滲む足取りで蛇川は室内をうろついていたが、やがてその足が廊下に向けられた。

 部屋との境界に立っている夏見の脇を通り過ぎざま、その肩をポンと叩いて、


「女の機嫌を直すには、根気強く恨み言を聞いてやるがすべてだ」


 などと(のたま)う。


「き、機嫌って……。相手は鬼ですよ!」


「しかし女は女だろう。これもいい社会勉強だ、男と女の情愛のいかに無駄で無益で無謀なるかを、その身でもって知るがいいさ」


「ちょっと、何を勝手な……骨董屋さん!」


 喚く夏見には一瞥もくれず、蛇川はさっさと廊下を歩いて行ってしまう。

 気遣わしげに夏見の姿を振り返りながら、しかしその背について行かざるを得ない吾妻が、


「女の機嫌の取り方なんて、先生、どこで習ったんだ」


「死にたがり作家の金言だ」


「へえ、あの倉持順平がねえ」


 などとやり取りするのが聞こえたが、やがて遠ざかって行く。後には肩を落とした夏見と、同じく肩を落としたように見える女の鬼が残された。


 ぎちぎちと、音が鳴りそうなほどぎこちない動きで夏見がゆっくりと振り返る。


「……あ、あの……話して、みます? それで貴女の気が晴れるなら、僕としても万々歳なわけですけど……」


 そう言う夏見の声が、どんどん尻すぼみになっていく。虚ろな表情をした鬼が、しかしこっくりと肯く姿を見、夏見は乾いた笑みを浮かべた。




 宿屋の外では、街が早くも目覚めの様相を見せていた。折り畳んだ新聞を肩掛け鞄に突っ込み、歪んだ車輪を不恰好に鳴らしながら、配達員の少年が通り過ぎる。もうしばらくもすれば、家々の窓から炊事の煙が上がり始めることだろう。


 陽光を浴び、蛇川は微睡みから醒めた猫のように身体を伸ばした。革手袋の手を首に添わせ、こきり、と凝った筋を鳴らす。

 今にも大欠伸を漏らしそうなその様子に、吾妻は思わず苦笑を漏らした。


「お前さんにしちゃあ珍しく、随分と投槍だったじゃないか。一度請け負ったからには案外面倒見のいい男だと思っていたが」


「ああいった手合いは大嫌いでね。自分の中に結論を持っているくせ、どうにもならないことをうじうじといつまでも喚き散らして迷惑なことこの上ない。ああいう手合いは、こちらがいくら助言したところで、己が意に沿わなければ一切耳を貸さないのだ。男女関係の縺れとは早くに気付いていたが、己を裏切った男ではなく、獲物を掻っ攫った雌猫を怨むあたりで愛想が尽きた」


「……まあ、分からんでもないが」


「それに、奴にとってはいい機会だろうさ。力尽くで押し切るだけが全てではないと知るにはな」


 誰にとって、とは言わなかったが、それが夏見を指しての言葉であることは明白だった。この男、存外あの少年を気に入ったのかも知れん。


 相棒が垣間見せた人間性に、ひそりと笑みを漏らす吾妻の横で、蛇川は宿屋の壁に這う蔦植物に指を這わせている。指はやがて不恰好な紙風船のような、枯れた果実へと行き当たり、蛇川はふと思いついたようにそれを毟った。


 中には黒々とした丸薬のごとき種子が数粒入っている。猿の顔のような、変わった模様が入ったそれを、蛇川はしばらく見つめていたが、やがて次の果実へと手を伸ばした。


 長くひとりで待たせている同居人に、ちょうどいい土産ができたとでも考えているらしい。





(落昼の蔓 了)




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