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【旧版】骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第四章 銀座奇譚
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九十一:落昼の蔓

 部屋の中は刺すような緊張感に満ちていた。


 無論、蛇川だからこそ感じ取れる面もあるにはあるのだろうが、何の力も持たない、例えば女将のような一般人であっても居心地の悪さは感じるらしい。部屋に入ってからというもの、落ち着かない様子で辺りを見回している。


 豪奢な部屋であった。

 和室の部屋は敷居をもってふたつに区切られており、手前の部屋には立派な床の間が設けられている。掛け軸に描かれているのは嶮山(けんざん)だ。重厚な岩肌と、そこに引っかかるような薄雲のあえかさが、墨の濃淡で見事に描き分けられている。


 さりげなく置かれた調度品はどれも一級品ばかりだ。蛇川はその道の玄人(くろうと)である。だいたいの物の価値は、ひと目見ればおおよそ分かる。手に取ってより詳しく見れば、売値の相場を示してやることもできるだろう。

 しかし今の彼は骨董屋亭主ではない。鋭い目は室内のあちこちに配られているが、そこに調度品そのものの姿が映り込むことはない。


 ひと通り室内を調べ、女将に断ってから他の部屋を二三覗いてから、ふたりは再び件の部屋に戻った。出された座布団の上に胡座をかき、蛇川が確信したように小さく頷く。


「物ではない。部屋だな」


「やはりそうですか」


 (わか)る者同士の短い会話に、女将がひとり首を捻った。


「いずれにせよ会ってみないことには始まらん。残滓をいくら掻き集めたところで、誤った憶測が生まれるだけだ。女将、そういうわけですから、今夜はここに泊まらせていただきます。また頃合いになれば参りますので。では」


 矢継ぎ早に用件だけを伝えると、蛇川はひとりでさっさと宿屋を辞した。くず子の世話を頼みに戻ったのだろう。後に残された夏見と女将は、どちらともなく顔を見合わせた。




 小一時間ほどして戻ってきた蛇川は、自前の浴衣を手に持っていた。では僕も、と夏見も自室から枕を持ってきたが、件の部屋に戻った時には掛け布団がひとつ、無造作に寝所側から放り出されていた。


「どうせ己もここで寝ると言い張るのだろ。いちいち言い合うのも面倒だしな、許してやる。だが此方には入ってくるなよ」


 酷い仕打ちだ、と夏見はすぐさま反論したが、唇を歪めた蛇川に「依頼人(クライアント)を危険から遠ざけるのも仕事のうちだ」と言い切られてしまっては次に続ける言葉もない。どだい、口論で蛇川に挑むこと自体が間違いなのだ。銀座の屁理屈王に誰が敵おう。

 下手に突つけば部屋からも追い出されかねないので、口を尖らせつつではあるものの、夏見も大人しく従う他なかった。


 ――夜。

 ふたりはそれぞれ、布団の中に潜り込みつつも周囲への注意を怠らなかったが、しかし結局何事も起こらないまま朝を迎えた。


 蛇川は次の日も続けて部屋に泊まり込んだが、結果は同じことだった。夜が更けるにつれ、例の気配(・・)は多少色濃くなるものの、それだけだ。何も出ない。


 苛立ちを見せる蛇川は、口元に手を当てて考え込む素振りを見せていたが、やがて女将を呼びつけて宿泊者名簿を持ってこさせた。

 年季を感じさせるそれを広げて、女将に、件の部屋に泊まった宿泊客を示させる。ある程度まで遡ってしまうと、それを更に「見た」者と「何もなかった」者へと分けさせた。


 さすがは長く宿屋を支えてきただけあり、女将は蛇川の質問に対してつっかえたり、何かを確認したりすることもなく、すらすらと答えて見せた。夏見はただ、女将の言葉通りに書き写されていく宿泊客の氏名、住所、職業なんかを首を捻りながら眺めている。


 やがて蛇川は鉛筆を置くと、革手袋の手でそっと項を撫でた。


「分かるかね」


 夏見への問いかけである。ふたつに分けられた情報の羅列を見、夏見はいっそう首を捻った。


「随分と払いの強い文字ですねえ。せっかちの相だ」


「莫迦。そんなことはどうだっていい」


「分かってますよ、冗談です。ええと……『見た』側の共通項を探せばいいんですよね」


 歯を剥く蛇川を宥めながら、夏見は再び文字に見入った。


 広い部屋であるから、ひとりで泊まる客はいない。その大半がふたり。中には三名で泊まった客もいる。三名の客は、いずれも「何もなかった」枠に与していることに気付いて声を上げたが、しかし蛇川は瞑目したまま反応もしない。


 更に、いっそうの慎重さをもって文字のひとつひとつを追う。

 名前……統一性なし。住所……こちらも統一性なし。職業……やはり統一性はない。どれもばらばらだ。念のため「何もなかった」側の共通項も探してみたが、こちらも同じことだった。


 強いて言うなら、男の方は高給取りと思しき職業が多く見られた。先生と呼ばれる立場の者も多い。今でこそこんな有様ではあるが、元々は由緒ある老舗旅館だ。一泊するにもそれなりの金がかかるとみえる。

 それに対して女の方は……


 おや。


「あ」


 思わず漏れた夏見の声に、蛇川が薄い目蓋を開けた。灰色の瞳が夏見を捉える。


「気付いたか」


「男女……『見た』のは必ず男女ひとりずつの組み合わせだ。当たりでしょう!」


 顔を興奮に赤らめる夏見を、しかし蛇川は鼻を鳴らして一蹴した。


「本当に当たりかどうかは僕が決めることじゃあない。だが、今見える可能性としてはそれが一番濃厚だな」


 可能性、と言っておきながら、女将に向き直る蛇川の顔には不敵な笑みが浮かんでいる。彼の中で、不揃いな欠片(ピース)が音を立てて繋がった瞬間だった。


「女将。早ければ今夜中にもお宅を悩ます悪評の原因が掴めるかもしれませんよ」




 その夜、宿屋に現れた人物を見るなり、夏見はあっと短く声を上げた。衣服は和装から洋装に改まっているし、無造作に散らしていた髪は後頭部でひとつに括られてはいるが、間違いない。神妻村で共闘したヤクザの若頭、吾妻(あがつま)である。

 吾妻の方でもそうと気付いたらしく、垂れがちの目が少し大きく見開かれた。


「夏見くんじゃないか」


「その節はどうも」


「そうか、ついに帝都に来たんだな。うん」


 忙しいのか、少し無精髭の伸びた顎をさすりながら吾妻が言う。その目に悪戯な光が灯るのを、夏見はあえて無視した。どうせ、帝都に来たら……という蛇川の下衆な冗談を思い出したのだろう。


 不貞腐れる夏見の目に、ふと静かに佇む人物が映った。

 連れがいる。女性だ。夏見の視線を感じたものか、女性はふと顔を上げると笑みと共に会釈した。夏見も軽く頭を下げる。


「ああ、紹介してなかったな。これはなんというか……ま、カミさんみたいなもんだ。よろしく頼む」


 紳士の仮面をかぶった蛇川は、愛想のいい笑みを浮かべている。その笑顔に騙される被害者は星の数ほどいたが、しかしこの女性は違うようだ。穏やかな笑みを返してはいるが、そこに媚びるような色は微塵もない。


 美人かどうかと問われれば、まあ美人な部類には入るだろう。だが目を引くような美しさではなく、例えるならば、日本の伝統的な庭園が持つような、静けさと芯の強さを感じさせる美しさだった。


 若頭というくらいだからさぞかし派手な女を連れていることだろう、と勝手に考えていたが、吾妻の場合は違うらしい。

 好奇心混じりに夏見が女性を見遣っていると、蛇川がそっと前に進み出た。吾妻のそばに寄ると、その手に何かを握らせる。リン、と澄んだ音を鳴らすそれは、小さなハンドベルだった。


「僕は隣室で控えているから、姿が見えたらこれを鳴らせ。あとこれも。どうしても(まず)い状態になったら床に叩きつけろ。少しは時間稼ぎになるだろう」


 声を潜めた内緒話である。おそらく、吾妻の内儀には何の説明もしていないのだろう。

 蛇川から受け取った透明な小瓶――中には薄桃色の液体が入っている――を見つめ、吾妻が小さく頷いた。


「ついでに言っておくが……いつ出るや分からんのだから、今夜は自重しておけよ。知った顔が腰を振っている様など見た日には夢見が悪くなる」


「おいおい、非道いな。人を猿か何かだと思っていやがる」


 忍び声で笑うふたりを、げんなり顔の夏見が見つめていた。大人とは、皆ああいうものかしら。

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