表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【旧版】骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第四章 銀座奇譚
91/101

90:落昼の蔓

 銀座から京橋まではそう遠くない。それで徒歩を選んだのだが、蛇川は道も知らぬくせずんずんと先へ進んで行く。小柄な夏見は、小走りで彼の前に立たねばならなかった。


「そう、急がなくてもいいじゃありませんか。お尻に火がついているわけでもなし……」


 早や弾みを見せる声には非難の色が混じっている。暢気な笛の音を響かせながらゆったりと屋台を引いて歩く豆腐屋を、夏見は少し恨めしげに見送った。

 無論、それで蛇川が歩を緩めるはずもない。夏見は盛大に溜息をつくと、ずり落ちたガマ口鞄の紐を引き上げた。


「それで、どんなのが出るんだ」


「はあ。なんでも、女の人の幽霊だそうで。女将さんも息子さんも、見たことはない、と、言うのですが」


 苦しげな息の合間合間に答えると、蛇川は不意に足を止めた。小走りに後ろ姿を追いかけていた夏見は、危うくその薄い背にぶつかりかけた。慌てて脇へと身をかわす。

 くるりと振り返った蛇川は、顔中に渋面を浮かべていた。


「なんだ、このくらいで息を上げて。日頃から碌に身体を動かしもせんのだろ。その(ざま)ではいざ閨事(ねやごと)となった折に困るぞ」


「よ、余計なお世話ですッ」


 昼日中の大通りで、声も憚らず何ということを言うのか。蛇川の言葉に、すれ違うご婦人の群れが小さく「まあ」と気色ばんだ声を上げた。

 蛇川は気に留める風もなかったが、不躾な視線を浴びた夏見はたまったものではない。瞬く間に赤く染まった顔を振り振り、夏見は一層の速足で道を急いだ。その後ろに、意地の悪い笑みを浮かべた蛇川が続く。



 やがて辿り着いた建物は、なるほど、重厚な土壁が歴史を思わせる立派な屋敷であった。蛇川も何度か、散策の途中でその堂々たる瓦屋根を見かけたことがある。しかし、遠目にも壁の汚れは明らかで、立てた襖にも()れ目が目立つ。空は秋晴れ、お天道様はご機嫌だというのに、そこ一帯だけが枯木のようにくすんで見えた。我が物顔で這う蔦植物が一層の不気味さを煽る。

 聞けば、元は伊予松山藩の武家屋敷であったという。それが理由ではないだろうが、庭にはたくさんの松が植わっている。しかし長らく剪定鋏が入った様子はない。


 案内も待たずに上がり込んだ蛇川を出迎えたのは、腰の曲がった老女であった。彼女が話に聞いていた女将であろう。

 久しぶりの客と思ったか、土気色の顔に俄かに喜色を浮かべたが、その背の後ろに夏見の姿を認め、安堵するやら落胆するやら。実に複雑な表情を見せた。


 一見すると、すぐにも隠居を進めたくなる年寄りにも思えたが、しかし蛇川の鋭い観察眼は、女将の肌の弛みやその皺の深さ、毛に混じる白いものの具合から、彼女が見た目ほどには年老いていないことを見抜いている。細かな皺が目立つも節ばった力強い手は、間違いなく働き者の手だ。その彼女の腰をこうも曲げさせているのは、長く続く由緒ある宿屋を、己の代で傾けてしまったという自責の念に他ならない。


 蛇川の唇が、薄い弧を描いた。


「どうも、突然お訪ねしてすみません。この者から宿の窮状を聞いてやって来たのですが」


 薄気味悪い猫撫で声を出す蛇川に、女将は哀れなほど何度も頭を下げた。


「ご厚情痛み入ります。せっかくお越しいただいたのに玄関で立ち話もなんですから、どうぞ、奥へ……」


 蚊の鳴くような女将の声に、蛇川は何か言いたげに口を開いた。彼にしては珍しい良識をもって、言葉に出すのは遠慮したが――しかし、顔が雄弁に物語っている――たとえ玄関を塞いだところで、入ってくる客があるでもなし……


 幸い、腰を屈めて客人のための履き物を用意していた女将はそれに気付かぬ様子だったが、夏見は慌てて咳払いした。


「お忙しいところ恐れ入ります。それでは遠慮なくお邪魔しましょう。例のお部屋も見ていただかないことには始まりませんし、ね、ね」


 取りなしたつもりの夏見であったが、己自身が女将の心を無神経に突ついていることには気付かない。廃業寸前の宿屋に、果たして忙しい時があるだろうか。

 ひっそりと寂しげに笑う女将の姿に、夏見はようやく己の失態を知った。気遣いはできるも、やはり詰めの甘い夏見少年である。



 奥へと通される道すがら、蛇川は浴びせるように質問を投げかけた。既に夏見から聞いているようなことも、女将の口から再度説明させる。当事者から話を聞くというのが彼なりの流儀であった。

 とはいえ、女将の話は夏見が語ったそれと寸分の違いもない。

 客にだけ見える女の幽霊。元が武家屋敷ということも手伝い、昔、この屋敷で手討ちにされた腰元の霊だなどと言うもっともらしい噂が、瞬く間に拡がったという。


「見た、という客に共通項は?」


「あります。どなた様も皆同じお部屋に宿泊なさっていました」


「でしょうな。今夜はその部屋に泊まらせていただくことになると思うので、そのつもりで。他には?」


「その、少しご質問からは外れてしまうかもしれませんが……同じお部屋に宿泊いただいても、出たとおっしゃるお客様と、何もなかったとおっしゃるお客様に別れるのです」


 ほう、と蛇川は興味深げに声を上げた。思わず声を出した理由には、女将の如才ない返答に満足したことも含まれる。流石、由緒ある宿屋の女将を長年務めてきただけはある。


「実は僕も例の部屋に寝泊まりさせていただいたんですが、三日寝ても何事も起こりませんでした」


 と口を挟むのは夏見。


「私共も、恐ろしいながら寝てみましたが、同じでした。噂が広まり始めたうちは面白がって、あえてそのお部屋に泊りたがるお客様もいらっしゃったのですが、申し上げましたように、毎度出るとも限りませんので……冷やかしもやがてなくなり……今はこの状、というわけです」


 蛇川は嘆息しながら口元に手を当てた。

 進んで会いたがる相手の前には姿を見せず、夢にも思わない者の前にのみ姿を現せる幽霊。そうなると、意地の悪い考えが浮かんでくる。


「失礼ですが、女将、過去に誰かから嫌がらせを受けたことは?」


 突如方向転換した蛇川の質問に、女将は首を捻ってみせたが、そのような記憶はございませんと小さく答えた。


「誰かから恨みを受けるようなことは?」


「どういうことです?」


 代わりに訊き返したのは夏見である。蛇川は女将から目を逸らさぬまま、


「この辺りは宿屋が多い。僕自身、道すがら何軒も目で見てきたので確かです。観光名所から近いわりに、土地もそう高くはないため自然の成り行きでしょう。その中でもお宅は抜きん出た有名店。ある程度懐の温かい者であれば、お宅に泊りたがるのが必定――幽霊騒ぎなどが起こっていなければ、の話ですがね」


 ようやく蛇川の質問の意図を汲み取ったか、夏見がはっと息を呑んだ。幽霊騒ぎは商売敵が仕組んだでっち上げ――その可能性に、ようやく思い至ったのだ。

 聡くも途中から気付いていたらしい女将は、しかしゆっくりと(かぶり)を振った。


「いいえ、それはないと思います。恨みを買ったことなど一度もない、とは私も申しません。こちらが望んでおらずとも気付かぬうちに……ということもありましょう。しかしそれでも『ない』と断言するのは、この度の騒動で不利益を被ったのが当館だけではないためです」


 女将の話によると、たちまち拡がった幽霊騒ぎは、この宿屋からのみならず、京橋一帯の宿屋から客を遠ざけたのだという。

 もしも商売敵が仕組んだ罠なら、自店の客が減った時点で一転、騒ぎの火消しに回っただろう。敵を蹴落とすための策略に、自身まで巻き込まれてしまっては仕様がない。

 しかしそうはならなかった。幽霊は、客足が遠のき始めてもなお姿を現し続けたのだ。


「なれば遠方の……とも考え、無作法ながら、霊を見たとおっしゃるお客様の動向をそれとなく探らせていただいたこともありました。しかし、何日経ってもそれらしき人物が接触した気配がないのです。仮にどこかの宿屋が嫌がらせを頼んだのだとしたら、礼金なり首尾の確認なり、何かしらの接触があるはずでございましょう?」


「素晴らしい! 貴女は実にいい依頼人(クライアント)だ。僕が調べたかったことを既に実行し、その結果も見事持ち帰っているとは。全ての依頼人が貴女のようだったら、僕の仕事は随分と楽になったでしょうに」


 恐らくは客の後を着けたのだろう。胆が据わっているだけでなく、これと決めたら行動力もある。剛胆な女性であった。


 蛇川の手放しの賞賛が羨ましくなったか、夏見がずいと身を乗り出した。


「僕も、霊は出ると確信しています。根拠は違いますが」


 蛇川は眉の動きで続きを促したが、折も折、(くだん)の部屋の前へと至り、説明を待たずしてその理由を知った。それとも知らず、夏見が心持ち胸を反らし、威張って見せる。


(あや)しからん気配がしたものですから」


「もう、好きにしたまえ」


 障子の隙間から漏れ出すほどに、その部屋には異様な臭いが立ち込めていた。

 およそ常人には嗅ぎ取ることのできない、ヒトならざるモノの臭いが。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ