八十九:落昼の蔓
長く尾を引く鳥の鳴き声に、蛇川は尖った顎をついと上げた。鳶だ。尾羽根を巧みに使い、秋空に大きな弧を描いている。
山間部ではよく見られる鳥だが、銀座のような都市部で目にするとは珍しい。よく見れば体長はそう大きくないように見受けられる。もしかすると幼鳥かもしれない。上昇気流を受けて舞っているうち、思いもかけず流されでもしたのだろう。特別季節感のある鳥ではなかったが、しかし薄い筋雲を切るようにして飛ぶ様は、秋の訪れを告げる使者のようであった。
とはいえ蛇川が空を見上げたのはごく僅かな時間でしかなかった。すぐ往来へと顔を戻し、長い脚を蹴り出すようにして慣れ親しんだ道を行く。季節の移ろいなど、彼にとってはさしたる問題ではない。
いつものように近所の定食屋『いわた』に立ち寄り、くず子の弁当を受け取ってから廃ビルへ。階段を二段飛ばしに駆け上がり、真鍮の把手に手を掛ける。
瞬間、淀みない動きがひたりと止まった。端整な顔が、みるみるうちに険しさを帯びる。
中に誰かいる。耳をそばだてれば微かに話し声も聞こえるが、慣れ親しんだ空気ではない。蛇川の脳裏に、力無き者を盾に取られた忌々しい過去が蘇った。
声の方向に当たりをつけ、一足飛びに飛び出せるよう両の脚に力を溜める。浅く吸った息を深く吐き出す。
しばらくの間、とても平凡な骨董屋亭主とは思えない面構えで扉を睨んでいた蛇川であったが、やがて鋭く息を吐き出すなり、把手を力強く引き開けた。
弾丸のように室内に飛び込んだ蛇川を出迎えたのは、鈴の鳴るように弾んだ声だった。
「西瓜には塩ですよ、塩!」
脳内に組み立てた幾パターンもの選択肢が音を立てて崩れる。殺し切れなかった勢いそのまま、蛇川は両手をテーブルに叩きつけた。
並べられた食器が衝撃を受けて耳障りな音を立て、テーブルを囲んでいた少年少女がびくりと肩を跳ねさせた。
「……どうしたんです、骨董屋さん。またえらくおっかない顔をして」
どんぐり眼をきょろりと動かして見せるのは蛇川も見知った顔、夏見少年であった。
驚いた様子でいるが、己の皿は抜け目なく持ち上げている。皿の上では、切り分けられた西瓜が果汁を滴らせていた。
「僕の記憶違いでなければ」
両腕に体重をかけ、脱力したままの蛇川が言う。
「以前も似た光景を見たことがある」
「片田舎の廃ホテルですねえ。懐かしいなあ。あの時も骨董屋さんは、こぉんな顔をしていましたっけ」
こんな、と言いながら、人差し指で両の目尻を吊り上げて見せる。蛇川は今にも噛み付かんばかりに凶悪な形相を見せたが、しかしくず子が遠慮がちに笑うのに気付いて溜息をついた。溢れんばかりの罵声の数々が、力無い吐息に変わる。
「普通、他人の家を訪ねるならば、事前にそれと連絡しておくべきだろう」
「そこは謝ります。でも、実際のところ、此処が骨董屋さんの家だなんて、入ってみるまで全然知らなかったんですよ」
鋭い目付きで先を促すと、夏見少年は「怪しからん気配がしたもので」と、あっけらかんと言ってのけた。
「どうしてそう、毎度毎度面倒ごとに首を突っ込むかね」
「そこに関してはおあいこでしょう」
くず子の前では妙に蛇川が大人ぶる、ということに賢しくも気付いたものか、今日の夏見はいやに強気だ。
小さく首を振り、蛇川は気を落ち着かせるべく台所へと向かった。
作り置きの水出し珈琲をよく磨かれたカップに並々注げば、苛立つ心が僅かに凪いだ。しかし、流し場にまな板と包丁が並んでいるのを見るなり、せっかく険の取れた眉間に再び深い皺が走った。
幾分刃こぼれはしているものの立派なそれは、蛇川が買い求めたものではない。なにせ、湯を沸かす以外に内向きの事が出来ない男だ。包丁を扱う際、具材の下にまな板を敷かねばならないことすら知らないだろう。これを置いて行ったのは『いわた』の女給、りつ子である。無論、使うのも彼女だけだ。
足音荒く部屋に戻り、夏見をじろりと睨め下ろす。
「おい、あんたまさか、この子に包丁を握らせたんじゃなかろうな」
「まさか。小さい子に刃物を持たせるようなことはしませんよ。勝手ながら使わせていただきました」
「ならば片付けてさっさと帰れ」
「非道いなあ。帝都に来たら訪ねてこいって言ったのはそちらじゃないですか」
「僕はただ、女の抱き方を教えてやると言ったんだ。昼日中に遊びに来いとは言っていない」
えへん!と大きく咳払いをして、夏見は赤くなった顔を両手で仰いだ。
「別に、少しくらい居座ったっていいじゃありませんか。見たところ、あまりお忙しいようでもなさそうですし」
「客が来れば、じき忙しくなる」
「客! ならば僕が客になりましょう」
蛇川の眉間の皺がますます険しくなるのを尻目に、夏見は極上の笑みを浮かべた。
夏見が言うにはこうだ。
彼は今、京橋に宿を取っている。帝都には十日ほど前に着いたそうだが、生憎と頼りにしていた知り合いは入れ違いで西に向かっており、仕方なく宿屋に長逗留をしているらしい。
その宿屋というのがまた豪奢なもので、古くは武家屋敷であったものを、ぐるりを囲む土塀を取り去り、建物だけをうまく改築して商いしている。それで、きっと宿賃も恐ろしく高いに違いないと覚悟していたが、数泊しても取り立てにこない。訝っていると、お代はいい、泊まっていただけるだけで嬉しいからと、ある日老いた女将が涙ながらにそう話したという。
改めて見れば、外見は立派なものだが壁の所々には蔦が這い、中に至っては障子にも剥げが目立つし、桟のところには埃が溜まり、掃除も行き届いていない様子。そもそも、女将以外に立ち働いている人間をほとんど見ない。
浮かれていて気付けなかったが、歴史ある宿屋は今や困窮の憂き身にあった。
「聞けば、数年前に悪い噂が立って以来、日に日に客足は遠退く一方なんだとか。今じゃあ従業員にすら逃げられてしまい、女将さんとふたりの息子でなんとか商いを続けているものの、ここ最近は訪れる者といえば冷やかしの輩くらいで、泊まっていく客もなく、僕を最後に宿を畳んでしまおうと考えているのだそうです」
胸の前で手を合わせ、悲嘆の調子で話す夏見を冷ややかに見つめると、蛇川はてんで興味もなさそうな様子で持ち上げたカップに口をつけた。
「結構なことじゃないか。老人はさっさと隠居して日向ぼっこでもしているのが一番いい。下手に頑張られても迷惑だ」
「なんて薄情な。せっかくの歴史ある宿屋を己の代で潰してしまうとは情けない、ご先祖様には顔も向けられぬと、女将さんは大層な嘆きよう。仮に店を畳んだところで、生まれてこのかた帝都を出たこともない親子ですよ。今更どこでやり直せるというのでしょう」
夏見は空になった皿を脇にやると、ずいと身を乗り出した。
「ねえ、助けて差し上げましょうよ。袖振り合うも多生の縁。女将さんを苦しめる悪しき噂を、見事取り払ってやりましょうよ」
蛇川は革手袋をはめた指で眉間を揉んだ。気乗りしない。第一に、夏見に関わると何かと面倒だ。だが、扉を引いたら蛇川の客だ。依頼人の頼みは、聞かねばならぬ。
そいつは一体どういう噂だ、と諦めた調子で訊く蛇川に、夏見はにっこりと笑って見せた。
「なんでもあの宿屋、『出る』んだそうですよ」




