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【旧版】骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第一章 がらん堂と、その近辺
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八:廃墟ホテル




 毛足の長い絨毯の上を、照りの美しい革靴がいく。

 せっかちな足音は廊下を迷いなく進み、やがて予告なく立ち止まった。


 両の手をポケットに突っこみ、蛇川(へびかわ)は目の前の扉を睨みつける……


 ポケットに入れるのは片手だけにしろ、というのは相棒・吾妻(あがつま)からの忠告であるが、蛇川が大人しくそれに従うはずもない。

 そもそも、それは暴力の中に生きる極道者の考え方だ。いつ何時刺されるかも分からない危うい生活を送る彼らにとっては、ただ道を歩くだけでも気を抜けないものなのだろう。


 悠然と構える扉が、重みある沈黙をもって蛇川を見下ろしてくる。

 蛇川の両腕をもってしても、端から端まで届かないほど大きいそれは、豪勢なホテルの中でもひときわ高級感に溢れていた。


 扉の威圧感に負けじと視線を鋭くしながら、真鍮の把手(とって)に両手をかける。しかしそれは、三日前、初めてホテルを訪れた時同様、びくりとも動かなかった。

 施錠されているためではない。鍵のせいであれば、手には多少の遊び(ゆるみ)が感じられるはずだ。


「何が望みだ。哀れな初老の男を虜にして……あんたは何がしたいんだ」


 眉間の皺を深くしながら、蛇川が唸るように問いかける。

 しかし扉からの答えはなかった。



 浜野は気付いていない。


 死に場所、死に時を求めて旅に出た己が、既にこのホテルに取り殺されていることに。


 ただ毎日、初めてここを訪れた時のように絶望を背負って明かりの中に転がりこみ、思わぬ歓待を受けて感激し、供された厚い肉に舌鼓を打つ。

 準備されたベッドの柔らかさに喜び、無精ひげの生えた頬を柔らかな枕にこすりつけて眠る。朝起きると、知らず目元と枕を濡らしていたことに気付き、少しばかり恥ずかしくなってチェックアウトを急ぐ。


 何度頼みこんでも支払いを受け取ろうとしない支配人の手を掴み、額におし抱いて知りうる限りの感謝の言葉を述べ、ここで受けた情は決して忘れないと、このホテルは最高だと手放しの賛辞を送る。

 やがて支配人とホテルマンに見送られ、浜野はホテルを後にする。ハットを胸に当て、何度も何度も振り返りながら、死に場所を求めて畦道を行く。


 しかし数分後、浜野は再びホテルへと舞い戻る。


 絶望に身を震わせ、何の救いも見出だせない暗い目をして……



 あまりに哀れだった。


 そして許せなかった。


 蛇川は決して正義漢ではない。

 道徳や倫理を重んじるタイプでもない。

 任侠としての己に誇りを持って生きる吾妻と違い、情で動くこともまずしない。


 彼にとっての判断基準は『必要か、そうでないか』だ。


 そして浜野に対するこの仕打ちは、絶望から救い上げておいて、すぐまた絶望へと突き落とすこの仕打は、とても必要とは言い難かった。


「まだ本丸に踏みこむことも許さんというなら、それもいいさ」


 厚い扉にごつりと拳をぶつけると、蛇川は食堂へと足を向けた。ちょうど、肉汁したたるステーキを見て、浜野が喜びの声をあげている頃だろうか。


 ホテルに来てから、蛇川は一切の食事に手をつけていない。


 イザナギ伝説でも、イザナミは黄泉国の食べ物を口にしてしまったために今世へ戻れなくなった。魂は人の血肉から成り、血肉は食物で作られる。鬼の供する食べ物を、どうして平気で食べられようか。

 時間の感覚が狂っているのか、あるいは生と死の狭間の空間にいるためか、不思議と空腹は感じないことが救いだった。


 到着初日、既に情報屋に依頼は飛ばしている。


 鬼を斬るためには、その(たましい)の成り立ちを理解する必要がある。彼なり彼女、あるいは獣……あるいは年を経た器物が、なぜ悪しき鬼に化してしまったかを。

 それを理解しようともせず押し切れば、いつか我が身に破滅を呼ぶ。今回は特に、大物が相手だ。集められる情報は、全て手中に収めておく必要があった。


 そろそろ、垂れた目の几帳面な相棒から合図がくるに違いない。


 頭の中で算段を始めた蛇川は、しかし食堂前に差し掛かった途端、目を剥いて足を止めた。


 食堂に、生きた先客(・・・・・)がいる。


「矢張りお肉にはワインでしょう。赤ですよ、赤」


「し、しかしだね……」


「お金が気になりますか? ならばご心配なく、僕が喜んでご馳走いたしますよ! 浜野さんのこれからの人生に幸有れかしと!」


 その先客は、蛇川よりずっと若く見える、まだ少年といっていい男だった。親しげに浜野の肩に手を置き、ワインボトルを掲げている。


 また別な人間が迷いこんでしまったか。

 蛇川は一瞬身を強張らせたが、しかしこちらを振り向いた男の顔を見てそうでないと悟った。


 男の顔には、自信に満ちた笑みが浮かんでいたのだ。


「驚いたなあ。こんなところへ好き好んで入ってくる人間が、僕以外にもいたなんて」


 少し小柄なその男は、蜂蜜色の髪を揺らして蛇川に向き直った。

 かぶっていた女物の帽子を、どこか芝居掛かった仕草で胸に当てる。肩にかけた、悪趣味な柄の大判ストオルがさやさやと揺れた。


「はじめまして、夏見(なつみ)と申します。お兄さんは僕の同業の方でしょうか? それとも、迷いこんでしまったうっかりさん?」


 鬼の気配が立ちこめる場所にもかかわらず、くすくすと何の怯えもなく笑う夏見に、知らず、蛇川はポケットから両手を出した。





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