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【旧版】骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第四章 銀座奇譚
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八十八:蟇男

 まるで親の(かたき)とばかりに激しく照りつけていた太陽も、二百十日を境にしおらしくなり、昼日中でも風に冷たさが混じるようになった。空気もからりと乾いている。随分と過ごしやすくなったものだ。


 秋。実に恵まれたよい季節だ。

 夏はいけない。いくら拭っても噴き出る粘こい汗が気力を奪うから。冬も駄目だ。枯木枯葉の侘しさに気が塞ぐから。春などは以ての(ほか)()せ返るほどに満ち満ちた若々しい生命力に、倉持の病――死にたがりの病が刺激され、俄然顔を持ち上げてくるのだ。秋だけが唯一、倉持順平の心が安らぐ季節であった。


 その平穏を、野分(のわけ)のような二人組が脅かしたのは、陽光うららかな昼下がりのこと。言うまでもなく、野分の正体は蛇川と吾妻だ。


「やあ、倉持先生!」


 この上なくきらきらしく美しい笑顔を見た途端、倉持は玄関の引き戸を閉めんとした。常にはのったりと、蝸牛(カタツムリ)のように緩慢な動きしか見せないこの男にしては異様に素早い動きであったが、しかしそうは蛇川が許さない。閉じかけた隙間に革靴の先を突っ込むと、腕、肩、胸の順に身体を押し込んでいく。

 一歩引いた位置で腕を組んでいた吾妻が、やれやれとため息をついた。


「呆れた。なんと堂に入った押し込みぶり」


「何にそう怯えることがある。君と僕の仲じゃあないか。なに、そう難しいことを頼もうってわけじゃあない。簡単な二三の質問に答えてくれるだけでいい。協力してくれるね?」


 一応は伺う形を取っているが、実際のところ選択肢などはない。倉持がげんなりとした目で敗北を悟ると、蛇川は「うんよし」と満足げに頷いた。


「簡単だ、本当に簡単なことだ。僕が今から挙げる名前に聞き覚えがあれば教えてほしい、それだけだ……いいね」


 表面上、子供を諭すような優しい声でそう言うと、蛇川は形のいい唇から次々に人名を挙げていく。吾妻が渡した名簿は取り出しもしない。全て頭の中に叩き込まれているらしい。彼がそれを見たのは揺れる馬車内での僅かな時間のみだ。相も変わらず、人並み外れた記憶力をことも無げに披露して見せる相棒に、吾妻は心の内で舌を巻いた。


 蛇川が挙げているのは『仏像新聞』購読者の勤め先、その上司にあたる人名だ。その数が十に登ろうかというとき、それまではただただ曇ったいた倉持のどんぐり眼がやにわに丸く見開かれた。


「その男は……」


 驚きの表情で呟く倉持に、蛇川の唇が吊り上がる。貼り付けていた余所行きの仮面が、生々しくも壮絶な笑みに変わる。


「蟇男じゃないか」





 乗り合い馬車に揺られながら、吾妻はちらりと向かいを伺った。

 蛇川は窓枠に肘をつき、ガス灯が並ぶ通りを見るでもなしに眺めていた。と思ったそばから大欠伸をひとつ。分かりやすい男だ。


「まったく、あれほどの熱意はどこへいったものやら」


 苦笑しながら吾妻は竹の皮の包みを取り出した。『いわた』亭主手製の握り飯は、まだふたつも残っている。それほどに事は慌ただしく進められ、目まぐるしく終焉を迎えた。


「終わった事にいちいち拘っていられるほど僕は暇じゃあない。時間は有限だ。蟇男――(くだん)の政治家先生の忠実な秘書宅へ向かい、そのゴミを漁れば必ずや不自然に切り抜かれた新聞が見つかるだろうが、そこまでする必要もないだろう」


 倉持に『蟇男』と断言されたさる政治家は、元々倉持作品のフアンであったという。それで、己が伝記――支援者に配布される予定だったらしい――を書くとなった際、倉持順平に依頼を出した。二人が出逢い、その背後に漂う『鬼の(さなぎ)』に倉持が気付いたのはこういう訳であった。


 結局、適当な言い訳を述べて倉持は伝記の執筆を断ったのだが、泥のような感情を(とど)め得ず、つい筆を走らせた結果が『蟇男』だ。

 新聞でそれを読んだ政治家は当然たまげたろう。まさか我が家の醜態を作家先生に話して聞かせるはずもないが、取材狂いで知られる倉持のことだ、どこかから醜態を嗅ぎ付けたものと慌てに慌て、秘書を使って脅しをかけた……


 件の政治家の写真ならば、二人も新聞で見たことがある。キャメラを睨みつける口角の下がった親爺は、確かに蝦蟇(ガマ)ガエルに見えなくもなかった。


「蟇男の連載は取り止め。どの出版物にも掲載をしないことで手打ち、この件は終いだ。政治家先生は己の歪んだ所有欲を世間に暴露されずに済むし、倉持は命を脅かされることもなく、これまで通り、死への渇望と恐怖の板挟みになりながらも愚かしく生きていくのだろう。まあ、ああも赤裸々に事実を書いていては恨みを買う、といういい勉強になっただろうさ」


「痛い勉強料になったわねえ」


 吾妻は同情を滲ませてため息をついた。

 確認を取るや否や、蛇川は迷いもせず『蟇男』の出版に関する彼是(あれこれ)についてをを手早く取り纏め、その書面に署名をさせると、倉持に請求書を突き付けたのだ。そこには勿論、吾妻への支払い分も含まれていた。倉持の慎ましい住居から察するに、人気作家とはいえ結構な負担になるのは間違いない。個人的な都合で連載を取り止めるのだから、新聞社にも何かしらの支払いが発生するやもしれぬ。


「命があるだけましだろう」


「まあ、そうなんだけど……あら、何の騒ぎかしら」


 不意に騒がしくなった往来を見つめ、吾妻が不審の声を上げた。見れば、人混みを掻き分け掻き分け、壮年の男が駆けてくる。天然痘の瘢痕(はんこん)で埋め尽くされた男の醜い顔を見るや、客室で向かい合う二人が同時に声を上げた。


「これは! 噂の蟇男先生じゃあないか」


 蛇川がぱっと目を輝かせて身を乗り出す。蟇男は泳ぐように両手を振り回していたが、二人が乗る乗合馬車を見つけて駆け寄ってきた。その背後の人混みから、髪を振り乱した女が続く。手にはよく磨かれたナイフが握られている。


「停めろ! 停めろ! 乗せてくれ!」


 蟇男が喚きながら客車に取り縋る。突然のことに馬が嘶き、御者が慌てて手綱を引いた。馬車が速度を落とし始めると、しかし蛇川が怒声を上げた。


「止めるな、御者ッ! このまま行けば五圓くれてやる!」


 十銭もあれば蕎麦が食えた時代だ。五圓もあれば、都会の借家一ヶ月分の家賃が賄える。御者は再度手綱を振るうと、一度落とした速度を再び上げた。

 蟇男が罵声とも怒声ともつかない叫び声を上げるが、その言葉尻が悲鳴に変わる。どうやら女に追いつかれたらしい。思わず吾妻は身を乗り出したが、蛇川は振り返りもしなかった。


 人混みと騒めきを置き去りにして馬車が駆けていく。吾妻は再び腰を下ろすと、何やら物思いに耽っているらしい相棒を見つめた。


「……何で乗せてやらなかったの?」


 蛇川は革手袋をはめた人差し指で、肉の薄い頬を叩いた。


「蛹が羽化してしまうのを防いでやったまでだ」


「羽化……」


「そうだ。女の、怒り狂って歪んだ顔を見なかったか。あそこで本懐を遂げねば、あれは憎悪の鬼となっていたに違いない」


 ふうん、と吾妻がため息をつく。


「まあ、所詮獲物はちんけなナイフだ。余程気合いを入れて刺さん限りは、蟇男も死ぬまいて。連載終了の書面は、病院に送りつけてやることになりそうだがね」


 五圓の報酬を思ってか、馬車はどこか跳ねるようにして銀座の街を走っていく。炊事の煙と馬の鼻息が交わりながら、秋晴れの高い空へと登り、薄れ、消えていく。


 蛇川は両手の指を組み合わせると、ゆったりと背凭れに身を預け、満足気に薄い瞼を閉じた。





(蟇男  了)

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