八十七:蟇男
特徴的な『に』の出処はすぐに知れた。聞けば、ギンが取っている専門新聞のそれが、脅迫状のものとぴたりと一致したという。
「『仏像新聞』だってさ」
吾妻はくつくつと喉を鳴らした。
年に二度しか発行されない稀少なものだという。それでも、毎日届く大手新聞社のものとさして値段が変わらない。世の中には、実に様々な趣味趣向が溢れている。
当然ながら、中身はいずれも仏像や寺社に関連したものばかりだ。さる有難い仏像の台座に隠し扉が見つかっただの、世間を騒がせていた連続尼僧殺し犯人の死刑が執行されただのとの見出しが並んでいる。
それらにひと通り目を通すと、蛇川は嘲笑うようにふんと鼻を鳴らした。どうやら興味をそそられなかったらしい。
そのうちの一枚と脅迫状を手に取ると、蛇川はさっと立ち上がった。迷いない歩みで窓に向かうと、その窓縁に腰掛ける。
二枚を重ね、日の光で透かして見比べると、なるほど『に』のひと文字は確かに一致した。一寸のズレもない。
細い金縁の眼鏡を外して蔓を咥えると、蛇川は呆れたようすで息を漏らした。
「しかし、変わった狐だな」
ギンのことだ。その目は細く、ぱっと見には開いているかどうかすらも判然としない。吊り上がった目尻と色素の薄い髪は、確かに狐に見えなくもない。
「彼、仏像を見て回るのが趣味なのよね。最近はそれじゃあ満足いかなくなっちゃって、自分で彫ったりもするそうよ」
器用な男なのだ。聞けば、己が全身を彩る和彫りの意匠も、半分はギン自身の筆によるものだという。
驚くべきことに、吾妻はこの短期間で件の新聞の定期購読者名簿までを手に入れていた。道理でタイルの染みが左上に配置されていたわけだ。
その見た目からはおよそ想像もつかない几帳面さを持つ吾妻は、情報屋として収穫があればいつも合図を送って寄越す。その合図こそがタイルの染みの位置であり、上にあれば『収穫有リ』、さらにそれが左寄りなら『良シ』となる。
「これを倉持先生に見せれば一発よ。見覚えのある名前があったら、それが差出人だわ」
吾妻は自信満々の面持ちでそう宣言したが、しかしそうは問屋がおろさなかった。
倉持先生は、生気のない目でじっと名簿を上から下まで眺め回したのちに、ゆっくり首を横に振ったのだ。まるで、余命幾ばくもない病人に向かい合う医者のような、諦めと達観の滲んだ動作であった。
もちろん、蛇川はもう一度確認するよう迫ったが、しかし同じことだった。
呆気なく、捜索は白紙に戻った。
「やっぱり、団体関係者のほうも洗ってみようか」
控えめにそう提言する吾妻は、当てが外れたにも関わらずご機嫌だ。倉持順平にサインをもらったのである。珍しく風呂敷など抱えていると思ったら、ちゃっかり色紙を持参していた。
蛇川はじろりと吾妻を睨んだ。
「やはり解せん。納得がいかん」
「いやに拘るのね。第六感ってやつ?」
「それだけじゃあない。僕は古今東西の凶悪犯罪についてを知り尽くしている。どういった性格の人間がどういった凶行に及ぶかは、ある程度統計立てて論じられると自負しているし、それを主題にコラムを連載したこともある。警察関係者や学者連中から届いた賛辞の手紙は、それだけでひとつの小山を成したという」
さらりと自慢を混ぜてくる。
「その僕から言わせてもらえば、奴等にこんな大胆なことをする度胸などはない。奴等は確かに過激派で知られているが、標的となるのは『それを攻撃することで己等が賞賛される』相手だけだ。暴利をもって荒稼ぎしている土地成金や、鼻持ちならん商家の子息、落ち目の政治家……倉持順平は違う」
「人気作家さまだものねえ」
吾妻はうっとりと色紙を眺めた。
しかし、名簿を何度確認させても倉持の首が横にしか振られなかったのは事実だ。彼が『見える』のは実際に相手と接触したときに限られる。
笑みを引き攣らせた蛇川に迫られ、結局倉持は六度も名簿を確認する羽目となった。ついには音読までさせられた倉持は、帰る頃には一回り小さくなっていた――ように吾妻には思われた。
「新聞の購読者自身が当事者とは限らん。殺害予告を送りつけてくるほどだ、いかなる形であれ己が膿を世間に晒してはまずい立場の人間と推察される。ある程度力ある人間なれば、手足となって動く者のひとりやふたり飼っていてもおかしくはない」
「でも、そうなるともう追いようがないじゃない?」
「蜘蛛の巣をなぞるようにして辿るしかあるまい。この名簿に名前がある人間の職業、勤め先を全て洗い出せ。それでも倉持が首肯かないなら郷里、出身校、初恋の相手、今も向こう脛に残る傷痕をつけた喧嘩仲間までを調べる」
「無茶を言う」
「やる前から無茶と言うのは愚の極みだ。泣き言はやりきってから言え」
いずれにせよ、最後までやらせるつもりに変わりはないらしい。吾妻はやれやれとため息をついたが、蛇川はやると言えばやる男だ。付き合うしかあるまい。
「ちゃんとその分請求させてもらいますからね」
頬杖をついて吾妻がむくれる。蛇川はにやりと唇を歪めると、インバネスコートを右手に抱えた。
定食屋『いわた』で昼食を愉しむ蛇川の鼻先に紙が突きつけられたのは、それから数日後のこと。玉ねぎを咀嚼しながら視線を上げると、半目の吾妻と目が合った。口がへの字になっている。
亭主特製のオムライスを頬張っていた蛇川は、紙面にざっと目を走らせるとスプーンを置いた。優雅な動作で椅子ごと吾妻に向き直ると、長い脚を悠然と組んだ。
「さて。泣き言を聞いてやろう」
「あら結構よ、まだ勤め先しか調べてないもの。もしも喧嘩仲間までを調べさせられる日が来たら、そのときは存分に吐かせてもらうわ」
蛇川は美しくも尊大に笑った。残った水を煽ると、空のグラスをカウンターに叩きつける。
「いい心がけだ。では行こう」
ええ、と吾妻が抗議の声をあげる。まだ腰を下ろしたばかりなのだ。彼の好物である紅茶とお茶請けは、注文すらもしていない。
「お昼くらいゆっくり食べさせてよ。腹が減ってはなんとやら」
「腰を落ち着けて食わねばならんという決まりもあるまい。亭主ッ、握り飯だ!」
こうなってはいくら歯向かってみても暖簾に腕押し、馬の耳に念仏。せめてもの仕返しとして、拳ほどに大きいお握り六つ分の代金は、暴君蛇川のツケとなった。




