八十五:蟇男
文明開化目覚ましいここ帝都東京の中でも、銀座はその進み具合に於いて頭ひとつ飛び抜けている。
異国情緒漂うものならば何であれ持て囃されたこの時代、銀座には煉瓦造りの建物が建ち並び、黒煙を吐きながらフォード車が行き交い、人混みを縫って路面電車が走る。人々は羽織袴に二重廻しのマントを羽織り、山高帽を被って和洋折衷と洒落こんでいる。
自然、そこに居並ぶ店店もその煽りを受けざるを得なかったが、銀座の片隅にある定食屋『いわた』は、未だ昔ながらの佇まいを守り続けていた。
定食屋『いわた』は多くの常連客によって支えられている。
ごま塩頭の頑固な亭主は、寡黙ながらも料理にかける強い熱意の持ち主で、仕込みから片付けまで一切の手抜きを許さない。無論、どれも旨い。西洋化を拒んでいるといってもそれは建物に対してのみのこだわりであって、こと料理においては古きものに只管しがみついているわけでもなく、オムライスやアイスクリームなど、西洋からの流れものも積極的に取り込んでいる。研究熱心なのだ。
吾妻もまた、そんな定食屋『いわた』に通う常連のひとりだった。
その日も吾妻が『いわた』のドアを開けると、フライパンを振る亭主が目の動きだけで会釈した。吾妻もにこやかな笑顔を返す。
それはいつもと変わらぬやり取りだったが、しかし何かが違う。
機敏に察した吾妻の袖を、ぐいと女給が引っ張った。りつ子だ。
険しい顔をしたりつ子は一見怒っているようにも見えたが、どうやら困惑しているらしい。
その理由はすぐに知れた。店内に朗らかな笑い声が響いたのだ。
聞き慣れたその声の聞き慣れぬ響きに、袖を取られたまま吾妻が首を伸ばす。
カウンターの最奥、いつもの定位置に座り、銀座の屁理屈王こと蛇川が手を打ち叩いて笑っていた。連れがいる。
喜怒哀楽の激しい性質の男だから、百面相はいつものことだが、その中における笑顔の割合は極めて低い。
思わずぎょっと首を竦めた吾妻に、堪え切れなくなったらしいりつ子が口早に囁いた。
「おかしいでしょう? ずっとあの調子なの!」
もう、不気味で不気味で……。そう呟くりつ子の顔は青褪めていて、常にはない蛇川の様子を心底恐れているらしかった。しかしそれも無理からぬ話である。
その見目の美しさから、一部の女学生やらご婦人やらには『白磁ノ君』などと呼ばれて恋い焦がれられている蛇川であるが、その中身の烈しさたるや並々でない。精精『白磁ノ凶王』がいいところだ。
口を開けば理詰めの文句から下衆い冗談までが休むことなく飛び出してくるし、口を閉じていたとしても長い脚か拳が飛んでくる始末。
要するに、恐るべき知力と行動力をもった麗しき子供――極端に言えば、そういう男だった。
「腐ったものでも食べさせたんじゃない?」
「まあッ、失礼しちゃう!」
持っていた丸盆でベシリと吾妻を打ち、りつ子は尻を振り振りカウンター奥へと引っ込んでしまう。
りつ子がこうも吾妻に気安いのは、彼のもうひとつの顔――銀座の一部をシマに持つ武闘派極道・鴛鴦組の若頭――を知らないためだ。
吾妻も今の関係性を好もしく思っているらしく、軽く打たれてもえへらえへらと笑っている。元来、懐の広い男なのだ。
カウンターに置かれた新聞のうちひとつを掴むと、吾妻はテーブル席に腰掛けた。途中、蛇川の連れの男を盗み見る。
初めて見る顔だった。歳の頃は四十手前といったところか。
無花果のような鼻をした男で、小粒な目の周りは青い隈で覆われている。
造形自体は、主張の強い鼻を除けばそこまで悪くないはずだが、脂ぎった髪といい垂れ下がった口角といい、ひたすら陰気な雰囲気を持つ男だった。
ふうん、と心持ち目を細めながら、吾妻はわさわさと新聞を捲った。
米価がどうだの、どこぞの名士が女房に三行半を突きつけられただのに興味はない。
吾妻が読みたいのはただひとつ、新進気鋭の若手作家・倉持順平の新作『蟇男』だ。
かつて年甲斐もなく焦がれた女が結婚し、嫉妬心に駆られた男はその旦那となった男を虐めに苛め抜き、そうこうしているうちに今度はその旦那と我が女房が恋仲に……というどうしようもない泥沼の様相を書いたものだが、これがどうしてなかなか面白い。
もともとは任侠女を書いた前作の『莫連』がきっかけで読み始めたのだが、気付けばすっかり倉持愛好家となっていた。
しかしお目当ての頁を開くなり、吾妻は落胆の声をあげた。
本来であれば『蟇男』が掲載されている筈の場所には山田一二三のコラムがあって、その横に、申し訳なさげな小さな文字で「倉持順平『蟇男』暫時休載ノオ報セ」とあったのだ。
水を汲んできたりつ子が、横から新聞を覗き込む。
「どうしたの?」
「倉持順平の連載小説がしばらく休載だって……。ああッ、楽しみにしてたのに」
ぎりぎりと歯を噛みながら、吾妻は恨みがましい視線を蛇川に送った。
山田一二三という莫迦げた名前は、蛇川のペンネームだ。誰に頼まれてかは知らないが、時折この偽名でもって新聞にコラムを載せているらしい。
大体が大体、倉持順平の小説が休みの折に登場するから、蛇川に罪はないのだが、山田一二三の存在は吾妻にとって嬉しいものではなかった。
しかしりつ子には逆らしい。にやりと笑うと、蛇川の背中をさっと盗み見た。
「となると、山田一二三先生の登場ってわけね。わたし、結構好きなのよ、このコラム。面白いじゃない」
途端、わっと嘆き声が上がったかと思うと、蛇川の手元から発止と何かが飛んできた。
難なく吾妻が掴み取ったそれは、なんと瀬戸物の箸置きだった。
反射的に掴んだからいいものの、もしも当たっていたらば軽い怪我では済まないはずだ。
手の内に掴んだ茄子型の箸置きを見つめ、吾妻はあんぐりと口を開けた。
蛇川はといえば、吾妻の無言の非難はまるで取り合わず、わんわんと喚く連れを熱心に宥めていた。満面の笑みを浮かべ、朗らかにその背を叩いている。
がばと顔をカウンターに伏せた連れの男は、驚いたことに、声を放って泣いていた。嗚咽の合間に、えづきながらこんなことを言う。
「ど、どうせ私なんて休載したほうが喜ばれるようなヘッポコ作家さ、人間の屑だ! も、もういっそ一二三君が連載すればよかろう、そのほうがみんな幸せだろうさ……私は死ぬ、死んでやる! どうせ殺されるんだ、だったら先に……」
「物騒なことを言うのはおよしなさい。無学な女給の言葉など、まともに取り合う必要もないさ。君の作品の素晴らしさは僕が一番知っている。なあ、泣くのをやめ給え。折角の男振りが台無しだろう」
あまりに蛇川らしからぬ猫撫で声に、ひっ、と吾妻とりつ子が同時に悲鳴をあげた。
その後も似合わない世辞を並べ立てていた蛇川だったが、やがて風呂敷片手に女性が訪ねてくると、あっさりと連れを押し付けた。とびきりの美人というわけではないが、口許の黒子が妙に艶っぽい女性だ。
女性は死ぬ死ぬと泣き喚いていた大きな子供を引き取ると、頭を下げ下げ定食屋を辞した。
笑顔でふたりを見送っていた蛇川だったが、ドアが閉じるなり『白磁ノ凶王』の面相に戻った。
「畜生ッ、世話の焼ける糞ガキめ! 地獄に堕ちろッ」
「よかった、ちゃんと蛇川ちゃんだわ。ド……なんとかってやつかと思った。なんだったかしら、ドップ、ドッポ……」
いそいそと蛇川の隣に席を移しながら吾妻が言う。不機嫌極まりない凶王は、じろりと吾妻を睨めつけた。
「あら、知らない? この世のどこかにまったく同じ顔をした人間が三人いて、当人同士が出会ったら呪われちゃうっていうやつ」
「ドッペルゲンガーか、莫迦らしい。僕は僕だ。同じ顔の人間がいて堪るかッ」
「それほど様子がおかしかったってこと。誰なの、あの人?」
「倉持順平だ」
「はあッ?」
言うなり、苛立ちが収まらないらしい蛇川は手近のグラスを取って一気に喉へと流し込んだ。強い酒精の香りがする。
りつ子が「あっ」と小さく叫んだ。
「蛇川さん駄目ッ、それ、ウヰスキー……」
最後まで言い切る暇すらなかった。
グラスを握ったままゴツリとカウンターに頭をぶつけた蛇川は、低く唸るとだらしなく伸びた。
一度瞬きをする僅かな間に、顔が真っ赤に染まっている。茹で蛸だ。
凶王は、こと洋酒に関してのみはまったくの下戸であった。




