八十四:終焉
もしや、二度とやってこないのでは。そうも思えた朝は、しかし当然のようにやってきた。山の向こうで、空の裾が白んでいく。
何ひとつ蠢くモノのいなくなった河原に、乾いた土塊が散乱している。しかしそれも、緩やかに吹く風に崩され、徐々に姿を消してしまう。
河原を撫でた風が、細い雨を運んできた。
川岸に佇む男達を、雨が静かに濡らしていく。火照った身体が冷まされていく。
河原の石を円状に並べ、その中央に七曲が手頃な石を置いた。夏見がその前に花を供える。
死に絶えた村のはずれに拵えられた、小さな祠。荒れ狂う川を鎮めて村人を救った娘に手向けられた、細やかな花。
屈みこんで手を合わせ、目を閉じていた夏見がゆっくりと立ち上がる。
「ちささんは、鬼にならなかったんですね」
ちさ。かつて鬼畜共に嬲られ、自死を選んだ哀れな少女。
七曲に身体を支えてもらいながら、蛇川は即席の祠を見下ろした。
「彼女は立派に成仏していた。いい女だったんだろうな。……おい、なんだその顔は」
「いや……」
疲れきった脚が絡まないよう気をつけながら、村に背を向け、ゆっくりと歩き始める。踏まれた砂利が涼やかな音を立てる。
「別に、変な意味で言ったわけじゃあない」
「分かってますけど、なんというか……骨董屋さんも『いい女』なんて言うんだ、と思って」
やはり夏見は、蛇川という男をまだ誤解しているらしい。ふん、と蛇川が鼻を鳴らした。
「様々な女を抱けば、自然、その良し悪しも分かるようになるもんだ」
鼻血をすっかり拭ってしまった夏見が、その顔を大きく引きつらせた。七曲が大袈裟に驚いて見せる。
「まさか、夏見くんはまだ?」
「なっ、そ……そんなことどうだっていいじゃないですか!」
蛇川と七曲が顔を見合わせ、口を歪める。いい歳をした大人のくせ、その顔は悪戯を思いついた悪ガキそのものだ。
「いずれ帝都に来るつもりなのだろう。その時にはいい店を教えてやるよ、人生何事も経験だ」
「結構です!」
「おいおい、だったら俺に教えてくれよ、大将。こっちは需要と供給が見合っていねえんだ」
「悪いが貧乏人には敷居が高い店でね」
草をかき分け歩いていると、やがて街道が見えてきた。幌を下ろしたフォード車の脇で、吾妻が紫煙を燻らせている。
蛇川らの足音に気付くと、吾妻は靴底で煙草の火を消した。癖の強い髪は、亡者共に食い千切られて所々が短くなっている。
「随分と盛り上がっているじゃないか」
蛇川が助手席に登るのを手伝いながら、笑う。
「初心な夏見くんを、男にしてやろうと思ってな」
「へえ? そいつぁいい」
「僕のことはお構いなく!」
顔を真っ赤にして膨れる夏見に苦笑すると、吾妻はその頭に大きな手を乗せた。
「礼を言う。お前さんがいなけりゃあ、弟分は死んでいたかもしれん」
夏見は幌で隠された後部座席に目を向けた。そこでギンが眠っている。全身から酷く出血し、腕や肋骨を折ってはいるが……それでも生きている。
吾妻は懐を探ると、一枚の紙片を取り出した。名刺だ。差し出されたそれをおずおずと受け取ると、夏見はそこに書かれた名前を見つめた。隅には組の象徴たる家紋が押されている。
「吾妻、健吾……さん」
「何かあったときに使いなさい。それを見せりゃあ、大抵の破落戸はおとなしくなるだろう」
武闘派極道・鴛鴦組若頭の名刺だ。それがどれほどすごいものか夏見には計りかねたが、吾妻が芯から感謝していることだけは理解できた。
呆けたように名刺に見入る夏見に笑いかけると、吾妻はフォード車の反対側へと回り、運転席によじ登った。
一度後部座席を振り返ってから、だらしなく両手をポケットに突っ込んだ七曲を見遣る。
「やはり、お前さんのことは嫌いだ。だが感謝はしている」
「……俺には名刺をくれねえの?」
拗ねたようなその口振りに、吾妻が思わず苦笑する。
「駄目だ。悪用するのが目に見えているからな。礼なら別の形でしてやるよ」
「なら、大将が勧める店とやらに行ってみたい。一夜の豪遊、一夜の夢さ。どうだ?」
「本当に、高くつく野郎だな」
ふたりの男は一瞬だけ目を合わせると、ふ、と笑った。
「それで……」
七曲が萎れた煙草に火をつける。
「その鬼畜は結局、どうするんだ?」
「毒雲を吐きながら僕に近づくなッ、莫迦者!」
幌の中を覗きこもうとした七曲は、不機嫌極まりない蛇川に片手で追い払われた。よろけながら後退り、山に向かって紫煙を吐き出す。
後部座席の足元には、茫然自失の体の六男が転がされている。蛇川が一男とその母を斬ったのち、砂利の中から救い出されたものだ。吾妻は肩を竦めて見せた。
「残念だが、神妻村での件を追求はできんだろう。関係者は皆死ぬか去るかしてしまったし、時間も経ちすぎている。しかし娑婆に放っておくのも虫が好かんからな。まあ、なんぞ適当な罪でもかぶってもらって、檻の中に突っ込んでおくさ」
「おお怖。これだからヤクザは嫌いだ」
「いや、違うね」
キーを回してエンジンをかける。まるで準備運動をするかのように、フォード車全体が大きく振動する。
ゆっくりとアクセルを踏み込みながら、吾妻が笑った。
「俺達は極道だ。根っからのな」
蝉が鳴いている。
どうにも五月蝿いと思っていたら、敵は廃ビルの壁に留まっているらしい。蛇川は道端の石ころを拾い上げると、騒がしく翅を擦り合わせる蝉に向かって投げつけた。
狙いは外れ、石は壁に当たって跳ね返った。蝉は突然の投石にも怯むことなく、嘲笑うようにして一層けたたましく鳴き始めた。
「くそッ、六本足め!」
蛇川がもう一度石ころを拾おうと身を屈めたとき、背後でクラクションが鳴らされた。石を片手に振り返ってみれば、フォード車の助手席で吾妻がにやにやと笑っている。
「そう意地悪しなさんな。奴ら、去りゆく夏を惜しんでるんだ」
「気持ち悪いことを言うな。文豪気取りか」
毒を吐きながら後部座席に飛び乗る蛇川に、吾妻が寛いだようすで笑った。少し湿り気の薄れた風が、短くなった髪を撫でていく。
「ご機嫌だな、いいことだ。なんせ今日は快気祝いだからな。派手にいこう。なあ、ギン」
「無論、そのつもりです」
ハンドルを握るギンが、さっぱりと笑った。
元より欠けていた左の耳は、下半分が噛み千切られている。左目上を走る大きな刀傷も相俟って凄みのある様相ではあったが、本人は至って飄々としている。
ギンは、一時は死の淵を彷徨ったという。傷からくる高熱に魘され、朝も夜もなく悪夢を見続けた。恐らく、鬼と深く接しすぎたせいでもあるのだろう。
それでもこうして生きている。
そういやあ、と長い指でハンドルを叩きながら言う。
「達見一男が一蓮会に追われていた理由が分かりました」
腕を組み、後部座席に踏ん反り返っていた蛇川が眉を上げる。
「一連会の奴ら、クスリばら撒こうとしとったらしいんですわ。うちは絶対手ェ出さへんけど、クスリはえらい金に化けますからな。それを達見一男が持ち逃げしたと」
ふん、と蛇川が嘲笑を漏らす。
「莫迦な男だ。金を持ち出すならともかく、クスリを持って逃げたところで、うまく捌く技量も伝手もなかっただろうに」
「その通りです。まあ、考えの浅い小物やったっちゅうことですわ。それで、途方に暮れていたところを鬼に喰われた……と」
髪を風に遊ばせていた吾妻が、後部座席を振り返った。
「先生、いつか読んだ新聞の記事を覚えているか? ほれ、『珍魚ノ舞』……」
「ああ、あの下らん記事か。それがどうした」
「あれが話題になったのは、髪妻村を流れる川の下流の海だ。川底に沈んだ達見一男の懐には、高純度の阿片が隠されていた……」
蛇川は一瞬、虚を突かれたようにきょとりとしたが、やがて珍しくも声をあげて笑った。吾妻も、ギンも笑った。
男達の笑い声を乗せ、東京銀座の街をフォード車が走る。
やがて通い慣れた定食屋が見えてきた。前で待っていた七曲が、太い腕をあげて合図する。
今夜は快気祝いだ。
(第三部:ロマネスク 了)




