八十三:激闘
物心がついたころから、ギンは泣いたことがない。
激しい抗争の中で左目上に刀傷を受けたとき、あのときばかりはさすがに生理的な涙が出たが、それは回数に含めなくともいいはずだ。
痛みに強い性質ではないが、我慢強い。
表面上は涼しげに振る舞いながらも、臥薪嘗胆、血の滲む努力を重ね、相手の鼻を明かすその日まで受けた屈辱は忘れない。普段は毛ほども見せないが、恐ろしく矜恃の強い男だった。
その本質を見抜いたのが吾妻だった。
――お前さん、随分と熱い男だな。
抗争で死んだ前の若頭がまだ存命だったころのこと。当時吾妻は若頭補佐で、ギンは下っ端のいちヤクザだった。
飄々とした態度のうちに折れない矜恃を隠す若者に、己と近いものを感じたのだろうか。それからというもの何かと気にかけてくれる吾妻と、ギンは四分六の兄弟盃を交わした。七三で、とギンが固辞するのも構わず、吾妻は頑として譲らなかった。
――兄ィ。
銃撃の腕を認められ、また拳銃への深い造詣を買われて、ギンはめきめきと出世した。それに気付いたのも吾妻だ。
その出世ぶりに、古参の中には依怙贔屓だと陰口するものがいないでもなかったが、ギンはその全てを実力でもって捩じ伏せた。
若いころから心掛けて築きあげた伝手と、持ち前の知恵と知識で組のシノギを有利に動かし、また命の奪い合いにおいては正確無比な銃撃でもって何度も危機を救ってきた。
かつてギンの立身出世を妬み、裏を邪推して嘲笑していた男達の彼を見る目が変わっていくのに、そう時間はかからなかった。
その裏で彼がどれほどの研鑽を重ねてきたかを知る者は少ない。ただ飄々と、何もない風を装っていたから。
そのギンが泣いた。
恥も矜恃も捨てて咽び泣いた。
痛みのためでも、況してや恐怖のせいでもない。ただ口惜しくて涙を流した。
盃を交わした兄貴分を、裏切った。己が傷つくことすら顧みずに切り拓いてくれた道を、つまらない矜恃で潰えさせてしまった。
それがただ、口惜しい。
「すんません……すんません、兄ィ……」
亡者共の重みに耐え切れなくなったか、身体のあちこちで身の毛もよだつ音が鳴った。骨が数本、折れたらしい。
しかし痛みは感じない。激痛はとうに痺れに変わり、今はもうそれすら引いて、ただただ寒い……
涙に濡れた眼を閉じた途端、ギンはふぅわりと身体が軽くなるのを感じた。
永い、眠りがやってくるのだろう。
吾妻の喉から絶叫が迸る。
耳元でブツリと嫌な音がし、次いで熱い血が首筋を濡らす。激痛と痺れ。しかし今の吾妻には届かない。
「ギンッ、……くそッ、退けえぇーーッ!!」
泳ぐように腕を振り回すも、しかし人混みを掻き分けるようにはいかない。亡者の壁はますます厚みを増し、ギンの姿ももはや見えない。
「退けッ、退けえッ!!」
最後に見たギンの姿。複数の亡者にぶら下がられ、力無く膝から崩れ落ちる弟分の姿……
遅すぎた。もっと早く退かせるべきだったのだ。
ギンが徒手での闘いに不向きなことなど、最初から分かっていたのに。
「ギンッ、返事しゃあがれ、おい……」
吾妻は強い男だ。
腕力だけのことではない。心が強いのだ。
滅多なことでは動じず、いつも余裕をもって構え、冷静に状況を見極める。莫迦な過ちを笑って許し、弟分が泣きついてくれば受け容れてやる懐の深さ。漢が惚れる漢。
しかし今の吾妻は弱かった。叫ぶ声に力はなく、いっそ哀願のようですらある。
――頼む、返事をしてくれ、頼む……
ギンの声はしない。
しかし、別の音がそれに応えた。
湿った闇を切り裂くそれは、一発の銃声!
まるで暴風に散る木の葉のように、亡者の群れが宙空に跳ね上げられる。
息を呑み、吾妻は弾かれたように空を見上げた。
そのままの姿で落ちてくる者もあれば、身体の端から土塊のように崩れ、千々に散っていく者もいる。亡者の声に初めて恐怖の色が滲んだ。
まるで自動幻画のコマ送りのように、亡者の欠片がゆっくりと落ちていく。その隙間から、吾妻は見た。
弟分の愛銃を構えた片目の男――七曲だ。
硝煙があがる銃身には何かが巻きつけられていた。それが黒く燻りながら焼け落ちるのを見るや、傍らに控えていた夏見が代わりのものを巻きつけた。どうやら護符らしい。その間も休むことなく、夏見はマントラを唱え続けている。
吾妻の心臓がどくりと跳ねた。
「撃てェッ、探偵!」
「高くつくぜ」
青褪めながらも、七曲が軽口で応える。
再び銃口が火を噴いた。蛇川の香と、夏見の護符の力を受けた弾丸が闇を貫く。亡者を蹴散らす烈風が起こる。僅かに香る、白梅香……
吾妻は駆け出していた。折り重なる亡者の小山に駆け寄るなり、その首根を掴んで投げ飛ばす。まるで座布団のように、次々と亡者が飛んでいく。
「ギンッ!」
求めていたその姿に辿り着いたとき、思わず吾妻は言葉をなくした。
仰向けに倒れるギンの顔半分は、毒々しい鮮血に染められている。元より欠けていた左耳の下半分が噛み千切られていた。亡者の手で裂かれた着物から、華奢な身体には不釣り合いなほどに立派な和彫りと、幾重にも重なった無数の歯型、掻き傷が覗いている。
何かに耐えるように歯を強く食い縛ると、吾妻はギンの脇の下に腕を入れて担ぎ上げた。ギンは呻き声も漏らさない。細い頭髪が力無く揺れる。
「こんな……こんなところで死なせて堪るかッ! 帰るぞ、ギンッ」
執念深く縋り付いてくる亡者を蹴り飛ばす。ギンの軽い身体を肩に担ぐと、吾妻は荒い息を吐いて辺りを見回した。
「こっちだ若頭!」
七曲が腕を振る。吾妻はひとつ頷いて見せると、亡者を蹴散らしながら駆け出した。
ギンを抱えている分、動きが鈍い。その隙を突き、脇腹に亡者が噛み付いた。
激痛に顔を歪めた吾妻は、しかし足を踏み締めると硬く握った拳を振り抜いた。頑強な筋肉を纏った腕が、風を巻き取って唸る。
渾身の一撃を顔面に食らい、亡者は吾妻の肉を口に詰めたまま吹き飛んだ。窪んだ眼窩から腐った眼球が零れ落ち、あまりの勢いに骨が砕けたか、鼻と口との境が消える。
唸ることもできずに力尽きた亡者は、地面にどうと倒れたきり再び動くことはなかった。
「二度死にてえ奴はかかって来い! 俺の家族に手を出す奴ぁ、纏めて地獄に叩き込んでやる!」
満身を血に染めて吼える吾妻に、亡者の間に戦慄が走った。
この世の道理など通じないはずの鬼が、生身の人間を恐れたのだ。
怯む亡者を尻目に、吾妻は七曲らが待つ場所へと駆け込んだ。堪らず膝をついて喘ぐ吾妻に、慌てて七曲が駆け寄る。太い両腕を差し重傷人を受け取ろうとするも、吾妻は首を振ってそれを制した。
「お前さんがハジキ(拳銃)を使えるとは思わなかった」
「そう驚くことじゃあない。西洋の方じゃあ、オシメしたガキでさえぶっ放せるんだからな」
七曲が肩を竦める。
「行ったことないがね」
「とんだ不良探偵だ」
残った力を振り絞り、ぐったりとしたギンの身体を草むらに横たえる。
「……死んじまったのか?」
「死ぬわけねえだろ……鳳凰を背負う男だぜ」
ギンの肩を覆う青い波、舞う桜。
そして背には猛る鳳凰――
夏見が駆け寄ってきた。懐から小瓶を取り出すと、中身をギンと吾妻に振りかける。ジュウッ、と嫌な音がして、黒い煙が立ち昇った。
数珠を振るい、マントラを唱える夏見の顔には脂汗が光り、鼻からは血が流れていた。顔色が悪い。彼もまた、決死の思いで闘っていたに違いない。
チン、と涼やかな音がした。聞き覚えのあるその音に、吾妻が首を廻らせる。
砂利の上に六男が横たわっていた。
その傍らで、膝をついた蛇川が泣いていた……