八十二:激闘
一条の光すら射し込まない闇の中、老婆は痩せた身体を四方に打ち当てながら叫び続けた。
――誰か! 誰か!
悲痛な叫びは、しかし虚しく濁流に掻き消される。
そもそも、いくら助けを求めたところで川岸に人影があるはずもない。未だ降り止まぬ雨の中、氾濫した川を見物に来る物好きがどこにいるだろうか。仮に人がいたとして、流れに翻弄される輿を誰が救い得ただろう。
それとも知らず、老婆は喉を震わせ続ける。気が狂わんばかりに叫び続けたために細い喉は敗れ、常より悪臭混じりの老婆の吐息には血が滲んでいる。
――誰か! 一男、六男ッ!
頑丈に作られた輿は、生贄を逃さぬ檻ではあれども舟にはならない。たちまちのうちに狭い輿には泥水が溢れた。
――か、一男ッ! 六男ッ!
跳ねる泥水から鼻と口だけを突き出し老婆が叫ぶ。
目に、鼻に、耳に、口に。容赦なく流れ込んでくる水に噎せ、ついに全身を泥水の中に沈めた老婆が最後に見たのは、あれは幻影だっただろうか、天井で揺れる竹細工……
「た、助けてッ……許してくれ、おっ母……!」
老婆を追い払おうともがく六男は、不意に身体の均衡を崩して悲鳴をあげた。足元の砂利が、まるで底無し沼と化したかのように六男の脚を取っている。
――引き摺りこまれる!
六男に取り縋る老婆の指は、水を孕んで肉が腐り落ち、半ば白骨化している。白く乾いた骨を伝い、肥えた蛆虫が六男の肌を侵食していく。
「ひいぃッ! 許して、僕は悪くないッ! やったのは兄さんだ、全部、全部兄さんが……ッ」
「お前はいつもそうだ、六男」
低い唸り声に息をのみ、はっと首を廻らせてみれば、老婆の反対側には腐敗した兄が取り付いていた。意味を成さない言葉を喚き散らす六男の身体が、二人分の重みと恨みとで大きく沈む。
気が触れた六男がもがけばもがくほど、身体は一層深く沼に食い込んでいくが、そうと気付く余裕すらもない。両腕を振り回し、口の端に泡を吹いて、嗄れた声で叫び続ける。
「お前は小賢しい奴だった……六男、いつもいつも俺の陰に隠れて……。しかし俺を唆すのはお前だった。そうだろう?」
お前も共犯だ。
低く、底冷えのする声だった。
吾妻の怒声が闇を震わせる。身体中の筋肉を怒らせた猛る獣が、亡者の群れに襲いかかる。
岩のような拳が唸るたび亡者の頭が飛び、長い脚が風を切るたび亡者の身体が真二つに折れる。
腐った肉が潰れる水音、捕食される者の阿鼻叫喚、それでも止めることができない雄叫び――生への執着、生ける者への怨み節が、まるで地獄の大合唱のように混ざり合い、鳴り響く。
ギンも徒手で闘っていた。愛銃は腰帯に手挟み、次々と伸ばされる亡者の腕を掴んでは投げ、掴んでは投げて、もうひとつの阿鼻叫喚の波を生み出している。
激しく地面に叩きつけられた亡者は、脊椎を折られながらもなお蠢いている。四肢をあらぬ方向へ折り曲げながらも立ち上がろうとするところへ、別な亡者が上から叩き込まれる。潰れた蛙のような呻き声をあげ、折り重なった亡者はそれきり動かなくなった。
武闘派極道・鴛鴦組随一の腕っ節を誇る若頭とその女房役が、ふたつの暴力の渦となって亡者の群れを掻き乱す。
背後には最高潮に集中力を高めた蛇川、それに夏見がいる。ここを通すわけにはいかない。
しかし……
「くそッ、こいつらキリがねえ!」
斃せど斃せど、亡者の数は一向に減らない。むしろ増えてさえいるようだった。落ち着いて周囲を見回す余裕があれば、砂利や土の盛り上がりから、半ば腐った亡者が這い出てくる様に気付いたろう。
そもそも、対峙している相手自体も『壊れにくい』のだ。
常人であれば到底動けなくなるような、あるいは戦意を喪失させるに十分な一撃を食らわせたところで、亡者は動きこそ鈍らせるものの、なかなか倒れてはくれない。死んでしまった以上は痛覚すらも不要となったか、殴られたことに怒りこそすれ、折れた箇所を省みる素振りも見せない。
幾度となく死線を潜り抜けてきた剛の者にも限界はある。
四方のどこから襲い来るとも知れない敵に神経を擦り減らし、滑る肉の感触に辟易し、何度殴りつけても立ち上がってくる亡者を相手にしていては疲労も早い。
「ギンッ、一度退がれ!」
不意に受けた指示に、ギンは女人の亡者を投げ飛ばしながら目を剥いた。
いつの間にか、亡者を蹴散らせながら吾妻がにじり寄ってきていた。ふたつの台風の目が交わり、大きなひとつの渦となる。
「な、なんで……」
「いいから退け! 死にてえのか!」
吾妻の鋭い怒声に、ギンはびくりと身体を震わせた。恐怖からではない。この人は全てを見通している――その驚愕のためだった。
短く切り揃えたギンの髪は激しく乱れ、無数の亡者の爪に掻かれて、腕からは相当量の血が流れ出している。露出した部分も着物に隠れた部分も所構わず、全身は生々しい歯型に覆われている。限界だった。
ギンの得意は銃撃と頭脳戦だ。徒手空拳は彼の本分ではない。それに、細身の身体に対多数の闘いは負担が大きい。吾妻はそれを見抜いていた。
「俺が押す、一気に抜けろ!」
「で、でも若頭が……」
「手前ェに心配されるほどヤワなタマじゃねえってんだ。行けッ!!」
言うなり、吾妻が一方向へと体当たりを仕掛けた。壁のような亡者もろとも、己が巨躯をもって押し倒す。
かと思うとすぐさま立ち上がり、倒れたままの亡者を踏みつけながら、襲いかかる新たな敵へと掴みかかる。殴り、蹴り、時に締め、縦横無尽に暴れる様はまるで悪鬼そのものだ。
しかしあまりに無謀なその押し込みに、吾妻の身体に真新しい傷が増えていく。背に負った見事な鳳凰の羽根が、牡丹の花弁が、黒ずんだ爪に抉られていく……
己が矜恃と吾妻への恩との狭間で、ギンは揺れた。
頭脳明晰、いつも涼やかな顔をしたこの男の足を、義と情が鈍らせた。それがいけなかった。
「っつあ……ッ!」
首筋に鋭い痛みを感じ、ギンが思わず悲鳴をあげる。背中に覆い被さった亡者が、体重もろとも首筋に歯を立てていた。
痛みと重みに仰け反ったところへ、別の亡者が膝に組みついてきた。バランスが崩れる。
膝だけはついてはいけない。
機動力を殺がれることは、この状況下では死を意味する。
なりふり構わず腕を回して背中の亡者を振り落とすと、ギンは膝に縋りつく亡者を蹴り飛ばした。しかし疲れのためか焦りのせいか、力の乗らなかった蹴りは粘く、逆に亡者に取られてしまう。
片脚を掬われた体制で再び背中に取り付かれ、堪らずギンは背中から落ちた。瞬間、無数の亡者が覆い被さってくる。
骨と皮ばかりの亡者とはいえ、数の暴力に圧されてギンが呻く。なんとか踠いて腰帯に手をやるも、たちまちギンの顔が青褪めた。
伸ばした手が虚しく空を掻く。
握り慣れた愛銃は、そこにはなかった。
「ギンッ」
焦りに濡れた吾妻の声。なおも覆い被さってくる亡者共の隙間から、壁を掻き分けようとしつつも押し流されていく吾妻の姿が見えた。
目に突き込まれかけた指を夢中で払うも、たちまちのうちに腕にも亡者が群がり、もはや防ぐことすら叶わない。
吾妻の、縋るような声が聞こえた気がした。
道が。
道が、閉じていく……