八十一:神妻村
「あ、あれが達見一男……いや、」
鬼……
呆然と呟く七曲の声は、随分と下のほうから聞こえた。どうやら腰を抜かしたらしい。
達見一男を先頭に、輿を担いだ花嫁行列が静々と近付いてくる。その足取りは緩やかで、それが一層不気味さを煽る。
物言わぬ行列が一歩、また一歩と近付くにつれ、一行を襲う耳鳴りがいっそう激しさを増した。蓄音機から聴こえるような、プツ、プツというノイズ音がそれに混ざる。
蛇川は耐え難い頭痛に顔をしかめた。
堪らずこめかみを押さえつけるも、酷い目眩に足がふらつく。
「くそッ……これはいかん」
周囲が緊張と恐怖の面持ちでいるのに対し、蛇川だけが苦痛に歯を食いしばっていた。これは、彼の全身を覆う刺青に理由がある。
蛇川の全身には鬼除けの刺青が彫りつけられている。西の山奥に住む秘術者親子が二代がかりで彫り上げたものだ。
蛇川の両手に取り憑いた鬼を封じこめるためのもので、時折、特別な墨を注ぎ足して効力を補完してやる必要がある。刺青に抗う鬼の力がそれだけ強いためと思われたが、施術者である翡翠自然流現当主・翠に言わせてみれば、蛇川が『無茶』をしすぎなだけだという。
その刺青は、蛇川の内に巣食う鬼を封じこめると同時に、外から襲い来る鬼の脅威にも敏感に働く。いっそ働き過ぎなきらいすらある。
どす黒い鬼の気配を駆逐せんと熱を帯び、血を沸かせ、神経を昂らせては宿主の体力をいたずらに奪う。
甲高い耳鳴りはそれだけで男達の平常心を掻き乱したが、蛇川にとって、それは凄まじい激痛を伴う。
まるで頭蓋の内側で警鐘が打ち鳴らされているかのような大音と痛み、振動と痺れ。身体の芯は沸騰するほど熱されているのに指先は冷たく、額には脂汗が光り、喉は渇きを訴えて喘ぐ。
蛇川は懐から小瓶を取り出し、緩めた口から白梅香の薫りを吸いこんだ。これも鬼除けの道具だ。幾分か目眩が抑えられるも、しかしそれも一時凌ぎでしかない。
思えば、これほどの数の鬼と対峙したことはかつてなかった。あるいは身体の不調によるものか。
全身を巡る痺れが、蛇川から五感を奪っていく……
「喝ッ」
バチン!と電灯が点されたような衝撃を受け、蛇川は閉じかけていた目を見開いた。
背中に添えられた掌から温もりが生じ、まるで痺れを追いやるかのように、たちまち全身に伝播していく。
肺の奥でつかえていた息を吐き出すと、蛇川は脂汗を拭って振り返った。薄く喘ぐ蛇川に、いつの間にか背後に回っていた夏見がにこと笑いかける。
「どうです? 僕も結構やるでしょう?」
「……ふんッ、……上出来だ」
うふ、と夏見は嬉しそうに笑った。しかし細められた目は少年のそれとは思えぬ鋭い光を宿し、迫り来る鬼を睨み据えている。
「来ますよ、骨董屋さん」
そう告げる言葉尻から、もう夏見はマントラを低く唱え始めている。
一定の高さで響くマントラが耳鳴りを遠ざけ、男達の身体に熱が戻る。まるで見えないヴェルに優しく包まれているかのような……
前髪を払い、蛇川は再び鬼に向き直った。夏見のお蔭で両目の霞みは除かれていたが、しかしその分鮮明に見えた。
先頭の鬼、達見一男が変形している。
最初、血の気なく青褪めていた達見一男の肌は、青から一転赤になり、次第に黒ずみ始めていた。
鼻腔から血が流れ出し、破れた皮膚の間からは肥えた蛆虫が這い出てくる。蛆虫が肉を食む音――ウジュ、ウジュルという水気混じりの音が、聞こえるはずもないのに、男達の鼓膜を震わせる。
体内のガスで腹や顔が膨れ上がり、そのために目が窪んで見える。斑模様が浮いた皮膚は水を孕んで腐り、ふやけ、やがて掲げていた松明が、手の表皮ごとずるりと落ちた。
「あいつぁ……見事な水死体だな」
腐臭に顔を顰めて吾妻が唸った。
己が死に体を晒す兄の姿に、六男が甲高い悲鳴を上げる。自由の利く両腕を振り回し、必死に逃げようともがき、暴れる。瞬間、ギンの怒声と拳が飛んだ。
「おっさん! こいつの縄持っとれ!」
「あ……ああッ」
腰縄の端を七曲に押しつけ、ギンは両手で南部大拳を構えた。刃のように細い目が、照準器越しに達見一男を睨む。
小さな松明の火は瞬く間に行列の足元に燃え広がり、鬼の群れを闇の中に浮かび上がらせた。
それを合図に、達見一男がガパリと口を開ける。外れた顎から、糸を引く肉片と共に数本の歯がこぼれ落ちたが気にも留めない。
「ヴゥ、ヅゥ、オオォーーー……ッ」
「ひいぃッ!」
あまりの恐怖に、喉をバリバリと掻き毟って六男が絶叫した。
かつて兄だったモノは、満身を怒りと憎悪に震わせ、弟の名を叫び続ける。腐り落ちた肌の隙間から管が飛び出し、そこから半液状のものを撒き散らしながら、何度も何度も。
六男本人でなくとも気が狂いそうなその光景に、しかし蛇川は怯まなかった。
「ギンッ、輿を撃てッ!」
「合点!」
即座に二発の銃声が響く。
硝煙の中、僅かに残る白梅香。
闇を切り裂いて飛ぶ銃弾は達見一男の脇を掠め、亡者が担ぐ豪奢な輿に直撃した――
その途端、凄まじい破裂音と共に輿が千々に弾け飛び、竹細工が散り、中から黒い靄が飛び出した。
靄はウワァン……と唸りを上げながら伸び、時に縮みもしながら拡がっていく。
靄の正体は無数の蝿だ。耐え難い腐臭を散らし、羽音で空気を震わせながら蝿が飛ぶ。
生きた靄が散りゆくにつれ、輿からまろび出たモノが姿を現し始めた。
それは達見一男同様、ガスに膨れた水死体の様子をしていたが、随分と小柄だ。
老婆であった。両脚が利かぬものと見え、骨の突き出た腕でもって這い進んでくる。
その悍ましい姿は男達の肌を粟立たせたが、半ば呆けたような六男の呟きこそが、男達を芯から震わせた。
「……ゆ、許してくれ、おっ母……ッ」
――水神の嫁御に選ばれておきながら、役目も果たさず自死を選ぶとはなんという無責任な奴。
――初めてだったのだろ。兄さんのが余程よくて、気が狂ってしまったのではないか。
――ふふふ。お前も共犯だろう、悪い奴め。しかし、困った。もう数刻もすれば嫁入りの儀式だ。輿に花嫁が乗っていなけりゃあ、村人が騒ぎ出すぞ。進んで身代わりになりたがるような娘もなし……
――……いや、兄さん。いるじゃあないか。うってつけの身代わりが……
なにが賢母だ、誰が孝行息子か。
外面ばかりを取り繕うのはもう御免だ。
口喧しく人を罵ることしかできない、長患いの糞婆め。
死んでしまえ!
死んでしまえ!
死んでしまえ!
「しかし死ねなかったのだ、息子よ」
聞き馴染みのある声が、生温い腐臭と共に六男の耳へと吹きかけられる。
先程までろくに進むこともかなわず地を這っていたはずの老婆が、いつの間にか六男の胴に縋り付いていた。
絶叫をあげて六男が両腕を振り回す。しかし老婆は――達見兄弟の実の母は、胸元に取り付いて離れない。
「石の一撃では死ねなかったのだよ。気が付けば暗闇の中にいた。酷い揺れのために身体を彼方此方に打ちつけて、声をあげても、ざんぶざんぶと喧しい音ですっかり掻き消されちまう……。
まさか吾れが嫁入りの輿に乗せられていようなどと、たらふく水を飲んで死ぬるまで夢にも思いもせなんだわ……カカ……嘆かわしい、嘆かわしいのう、六男よ……愚かな息子よ……」
お前も、同じ苦しみを味わうがいい。




