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【旧版】骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第三章 ロマネスク
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七十九:神妻村

 襟付きのシャツに萌葱(もえぎ)色の着物を羽織り、足元はなめし革のブーツ。形のいい頭には女物の帽子が斜めに乗せられている。腕には大きなガマ口型の鞄を提げていて、極めつけは肩からかけた趣味の悪いストォルだ。


 蛇川は一度、さる伝手を頼って旭号(顕微鏡)を覗かせてもらったことがある。薄く剥いだ表皮や髪の毛、血液などを見たのだったが、プレパラアトに乗せた川の水を覗いたときに見えた、(うごめ)く無数の微生物――夏見のストォルの図柄は、それに似ている。



 整った顔に愛らしい笑みを浮かべ、夏見がゆったりとした足取りで近づいてくる。


「この先へ行っても廃村しかありませんよ? 唯一の入り口である橋も、経年劣化のために崩落寸前です。もう陽も暮れますし、ささ、お引き取りください」


「坊主、ええからワシらに構うな」


 もっとも近くにいたギンが、元来た道を顎で示しながら言う。どんな手妻(てづま)を使ったものか、六男を縛っていた腰縄はすっかり消えていた。


 夏見は腰に手を当てて膨れた。


「あなたがよくたって、僕のほうはそうもいかないんです。この辺りは野犬も多いんですよ。このまま見過ごしてお兄さんに何かあったら、僕の寝覚めが悪くなるじゃないですか」


「自衛の手段くらい持っとる。もうええから、早よ帰れ」


「あのね、いくらお兄さんが強かろうと、太刀打ちできないモノというのもこの世にはいるんですッ」


「鬼とか、な」


 唐突に投げかけられた言葉に、夏見の眉がぴくりと動いた。蛇川だ。


 乾いた砂利を踏みながら、悠然と夏見に向かって歩く。逆光のために輪郭しか見えなかった顔が、徐々に鮮明になっていく。


 切れ長の目、通った鼻梁、三日月状に歪んだ薄い唇。

 その全容が明らかになったとき、夏見は堪らず「ああッ」と声を上げた。蛇川の口角がいっそう吊り上がる。


「相も変わらず人の話を聞かんガキだな。お節介も結構だがね、この世には怒らせちゃならん人種がいることも知っておくといいぞ、夏見くん」



 蛇川が夏見に会ったのはさる豪奢なホテルでのこと。


 正確に言えば、それは冷え切った廃墟でしかなかった。ただ、過去に囚われた哀れな鬼がそれを豪奢なホテルたらしめていた。救われない一日を繰り返す鬼と亡者を救い出すべく、蛇川と夏見はともにホテルの深層へと挑んだのだった。


 ――といえば聞こえはいいが、実際のところ、夏見はただただ鬼の癇癪を煽ったばかりで、ことを収めたのは蛇川だ。


 強い自負を持っていた夏見は、ひどく自信を打ち砕かれた。それで、武者修行に出るなどと言っていたような、いなかったような。



「なんだ、知り合いか」


 吾妻がどこか間延びした声をあげた。すっかり怒りは収まったようだ。さっきまで腰掛けていた丸太の椅子を、足でガコガコと揺らしている。


「知り合いというより、僕の債務者だ」


「ほお。若い身空で借金持ちとは、哀れなもんだな」


 これに慌てたのは夏見だ。


「えっ、僕、借金なんて」


「しただろう。鬼の涙を奪ったじゃないか、ふたつも」


 蛇川は可笑しそうに喉を鳴らしている。


 鬼の涙。

 鬼を『斬った』ときに蛇川の瞳から零れ落ちる、どんな宝石にも劣らない石。ある筋に流せばいい金になるため、吾妻ら鴛鴦(おしどり)組のシノギのひとつになっている。それを得る代価として、吾妻は蛇川が求める情報を提供しているのだ。


「う、奪ったなんて人聞きの悪いことやめてください! 僕はあれにそんな価値があるなんて知らなかったし、そもそも、建物が崩壊する寸前で、そんなもの拾ってる余裕なんてなかったんですからッ」


 顔を赤くして反論する夏見と、意地の悪い笑みを浮かべる蛇川とを交互に見遣り、一行はおおよその事情を察した。口煩く噛みつく夏見に、最初は呆れ半分だった視線が、徐々 に同情の色を帯びていく。


「まあまあ、虐めるのはそんくらいになさい。夏見くん、だったか。お前さんはどうしてこんなところへ?」


 二本目の煙草に火をつけた吾妻に、夏見は少し怯んだようだった。彼の優れた体格のためか、あるいは先ほどまで見せていた凄まじい怒気の残り香を嗅ぎ取ったか。


 少し勢いを落としながら、しかし心持ち胸を張って夏見が答える。


「そりゃあ、僕は祓い屋ですから。(あや)しからん気配がする以上、放っておけないわけです」


「なるほど、その道の同志というわけか。こりゃありがたい。見ての通り、うちの先生は今手負いでな」


 吾妻の視線に誘われ、夏見が蛇川の左腕を見て息を呑んだ。着物の片袖がだらりと垂れ下がっている意味を、ようよう理解したらしい。蛇川がふんと鼻を鳴らした。


「こんなもの、どうということもない」


「意地を張るな。下手をすると腕が上がらなくなると言われたろう。夏見くん、お前さんもそう言うなら間違いない、神妻村には鬼がいるのだろう。手伝ってはくれないか」


 吾妻を見、蛇川を見た夏見が、重々しく頷いた。その顔は緊張に満ちている。


 ひとり取り残された七曲が、抗議にも似た声をあげた。


「おい、ちょっと待ってくれ。さっきからなんだ。鬼だの、祓うだの、突拍子もないことを」


「そのうち分かる。ちんけな報酬金などどうでもよくなるくらい、きっと得難い体験になるだろうよ」


 紫煙の輪を三つ続けて吐き出して、吾妻が笑った。

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