七:廃墟ホテル
事の発端は半月ほど前。『骨董屋・がらん堂』唯一の従業員の様子がおかしくなったことから始まった。
おかしくなったのはこれが初めてではない。
くず子というそのあどけない娘には、少し不思議なところがあった。
がらん堂にやってきてこの方、ひと言も口を利いたことのないこの娘を、蛇川は猫可愛がりしている。人にも物にもあまり執着を見せないこの男にしては、珍しいほどな偏愛ぶりだった。
平時は誰に対しても尊大、威圧的な蛇川をもってして、しかしくず子に接する時だけはどこか恭しい。
そのくず子の様子がおかしくなった。
「どうぞ」
暗く沈んだ顔のくず子の前に、白磁の珈琲カップが置かれる。
薄く湯気を立ち昇らせ、香ばしい薫りを放つカップの中で、淹れたての珈琲が緩く波打つ。珈琲には、くず子用にと牛乳が少し加えられていた。
牛の乳を飲むのは、この店で唯一くず子だけだ。子どもの健やかな身体のためにと、毎朝牛乳屋から買い求めている。
くず子は蛇川を見上げ、小さくこくりと頷いてからカップに口をつけた。
顎のあたりで切り揃えられた艶やかな黒髪が揺れ、よく発酵したパン生地のごとき白い耳がちらりと覗く。
ほどよい温さの珈琲を口に含み、くず子は僅かに口元を綻ばせたが、しかしその表情からすっかり陰を取り払ってしまうには至らない。
蛇川は困ったように眉を持ち上げながら、珈琲ミルの把手を回した。ゴリゴリと地を擦るような音と共に、一層香ばしく暖かな薫りがゆったりと広がっていく。
挽き立ての豆を布フィルタに入れ、小指で中央にくぼみを作る。数回に分け、ゆっくりと湯を注いでいく。粗めに挽いた豆が湯を含んで膨らみ、次いでしゅわしゅわとガスが抜けていく音がする。
くず子に供したものより数段濃厚な、混じりけのない珈琲の香りが室内に満ちた。
こきり、と首を鳴らしながら、蛇川は考える。
確かに……このところ、どうにも疲れやすいように思う。
過日、小澤家で鬼を退治た時も、尋常でない疲労のために、しばらくは指の一本すら動かせなかった。吾妻が支えてくれなければ、気を失った依頼人が漏らした尿の上に倒れていたやもしれぬ。
両腕に施した封の力が、弱まってきている証拠であった。
「行くか……そろそろ」
蛇川の呟きに聡くも気付き、くず子がぱっと顔をあげる。蛇川は、常には見せない類の笑みを浮かべた。慈しむような手つきでくず子の頭に触れようとして――やめた。その手には、革手袋の下には、鬼がいる。
「気乗りはしないが、行ってこよう。まあ、我慢大会と思えばいいさ……くず子さんには、何を土産に買ってこようね」
暗い陰を見せていたくず子の顔に一転、明るい笑みが咲き誇った。
蛇川の腕の封が弱まり、両手に宿した『鬼』の制御がしづらくなると、くず子は目に見えて落ちこんでしまう。
くず子は、鬼の気配に敏感な娘であった。
◆ ◆
サスペンダーを掛け、上質なジャケットに袖を通し、ツイード地のインバネスコートを羽織る。
撫でつけた髪にパナマの帽子を被せ、コート前面の鈎ホックを掛ける。
木製の、薄い手提げ鞄を持つと、蛇川の旅支度は早や完成した。元来、あまり物を持たない男である。
コートについた糸屑を指でつまみ、くず子がにこりと微笑みかける。蛇川も薄っすらと笑みを返した。
「では、行ってきます。通りしなに留守のことを頼んでおくから、いつものように、飯は『いわた』でもらいなさい。留守中は把手を引けないよう細工しておくから普通の客は来れないが、ノックがあっても開けちゃならんよ。いいね」
延々と続く言いつけに大人しく頷き、くず子は短剣を差し出した。赤茶けた胴に複雑な紋様が彫り込まれた、小振りなものだ。それを受け取るとひとつ頷き、懐の奥深くへと差しこんだ。
「あと、布フィルタの水替えを頼むよ。毎日水を替えておくれ、でないと布地に妙な臭いがついてしまう」
珈琲好きの蛇川にとって、まずい珈琲を飲まされる以上の苦痛はない。くず子もそれを心得ているから、抽出器具の手入れは何よりも念入りにやる。
最後にもう一度くず子に微笑みかけると、蛇川は後手にドアを閉めた。その背にくず子が小さな手を振る。
珈琲の香りを押しこめるようにして閉まった扉に凭れかかると、しかしそれまでの落ち着いた様子から一転、蛇川は革手袋をつけた両手で顔を覆った。
「……矢張り、行きたくない……!」
彼が重い腰を上げ、のそりと『いわた』に現れるのは、それから実に一時間以上も後のことであった。
一度吹っ切れてしまえば後は早い。
細長い脚を蹴り出しながら歩く蛇川は、群れてちんたらと歩く女学生の一団を猛然と追い抜かし、駅へと急いだ。背中のほうから黄色い声が追いかけてきたが、構ってはいられない。
駅に着くなり列車に飛び乗り、そのままずっと西のほうへ。せっかちな蛇川の心情よろしく、線路脇の家家が飛ぶように後ろへと流れていく。
長い時間、目を閉じ、うねる線路に合わせて体が揺れるに任せていたが、やがてなだらかな山々が目立つ区域へ差し掛かったあたりで列車を降りた。
時刻はもう夕暮れ。
駅前の外灯付近には、種火を持った点灯夫たちが群れている。ガス管が通った街灯に、ひとつずつ火を点けて回るのだ。
今日はここで一泊し、明日また列車を乗り継いで目的地近くまで向かい、さらにそこから徒歩で山を越えねばならない。
目指す地は西の秘境の奥深く、切り立った崖の先にある。
蛇川はこじんまりとした荷物を片手に、手近なホテルに入ればいい――そのはずだった。
だが、見つけてしまった。
片田舎の畦道に、ぽっかりと『入り口』が空いているのを。
迷惑な誰かがうっかり閉め忘れたか、あるいはまたここで『鬼』が生まれてしまったか……
分からないが、空いた状態の入り口を放っておくわけにはいかなかった。このままでは、誰がいつ迷いこむとも知れない。
「ええ、クソッ! なんでこんな時に!」
こめかみのあたりをガリガリと掻くと、蛇川は跳ねるように明かりの中へと駆けこんだ。
入り口をくぐった途端に視界がぼやける。
やがてそれが再度像を結んだ時、蛇川は豪勢なホテルのロビーにいた。
電灯に照らされた明るい室内では、顔のないたくさんの人々が行き交い、笑いさざめいている。
何かを話してはいるが、何を話しているかは分からない雑多な声が、蛇川の形のいい耳をくすぐる。
つんつるてんの面を貼りつけたようなホテルマンが恭しく一礼し、蛇川の荷物を預かった。
「まいったな……これは、大物を引っ掛けてしまったらしい」
かつてここを通り過ぎていった数多の人間の思い出が、とうに忘れ去られた廃墟を、豪勢なホテルたらしめている。
それにかける思いが強ければ強いほど、自然、そこから生じるものの力も上がる。
久しぶりの強敵の気配に、蛇川の総身がわずかに熱を帯びる。
ふと気配を感じ、蛇川はロビー向こうにある食堂に目を向けた。
「……既に迷いこんでいたか」
視線の先には、嬉々としてフォークとナイフを手にする浜野昭三の姿があった。