七十六:鬼畜
達見六男が言葉を切ると、薄暗いカフェは粘ついた沈黙に包まれた。六男が体を揺らす耳障りな音だけが、静まり返った室内に響く。
ふと、布が引かれたようにかすかな雨音を聞いた気がして、吾妻は割れた窓から外を伺った。
いつの間にか陽が落ちていた。点灯夫らがガス灯に火を灯して回る姿が見える。揺れる火のために歪んだ彼らの影が、乾いた地面に黒々と伸びる。目を閉じ、吾妻は小さく首を振った。
「揺するな」
吐き出した声はまるでため息のように力ない。六男はといえば、自分のこととは気付きもしないで、小刻みに椅子を揺らし続けている。
「揺するなというんだ、喧しいッ」
突如弾けた怒声に、ギンがわずかに驚きを見せた。
吾妻は冷静沈着な男だ。滅多なことでは動じず、浮かべた笑みの向こうに本心をうまく隠してしまう。その若頭が、切羽詰まった場面でもないのに、こうも感情を露わにする姿は珍しい。
弟分の動揺を肌で感じながらも、しかし吾妻は苛立ちを隠しきれない。長い脚を忙しなく動かし、落ち着きなく室内を歩き回る。その姿はまるで、縄張りを脅かされ、自尊心を傷つけられた獣のようだ。もしも物音を気にせずにいられたならば、テーブルや椅子、ランプに至るまで、店内に残されたありとあらゆる備品が砕かれていたに違いない。
ようやく六男が椅子を鳴らすのをやめると、しかし今度は妙な音が耳に届いた。
ぎちぎちと、錆びたボルトを無理に締めるかのようなそれは、蛇川が立てる歯軋りの音だ。醜悪に顔を歪め、こめかみの辺りを激しく痙攣させて……元の顔立ちが整っている分、そのさまには一種異様な凄みがある。
肌を粟立たせる歯軋りの音が止むと同時に、その口からぞっとするほど低く、鋭い声が漏れた。
「それで」
硬直していた六男の肩がびくりと跳ねる。
恐る恐る、声がした背後のカウンターを振り返ろうとして、しかしその首が途中で止まった。本能的な恐怖が、彼にそれ以上振り返ることを許さなかった。
「娘はどうなった」
「……ち、ちさは」
六男は再び体を揺らし始めた。落ち着かない様子で手を口元にやり、短くなった爪を噛む。深く噛みすぎた指先からは血が出ている。やがてそれでも足りなくなったか、今度は握った拳をネチネチと噛み始めた。
「ち、ちさ……ちさは、し、死にまし……」
「吾妻」
蛇川が形のいい顎をしゃくる。頷いた吾妻が音もなく動き、日本刀に手をかけた。六男がぱっと跳ね上がった。
「す、すみませんすみませんッ! 言います、ちゃんと言いますから、き、きき、斬らないで……ッ」
前屈みになり、情けない声で許しを請いながら急所を庇う六男の姿に、吾妻が「くそッ」と忌々しげに吐き棄てた。矜持も何もない、唾棄すべきその姿に、視界に入れるのも厭わしいとばかりに背を向ける。
あまりの恐ろしさに、六男は恥じらいもなく涙を垂れ流していた。嗚咽の合間合間に、苦しげに言葉を吐き出す。
「ちさは……じ、自死を選びました。あまりのことに、気が触れたのかもしれません……。入り口に立っていた僕を恐ろしい力で突き飛ばすと、雨の中へ飛び出して、そのまま川へ……」
薄く開いた口から、蛇川がしゅるしゅると息を吐いた。
土砂降りの雨の中を、白い身体を泥に汚しながら駆けていく哀れな娘。村人の後悔、苦悩、悲哀、そして感謝と祈り、様々な心がこもった上等な着物がどこか妖しげに夜風に舞い、そして、轟々と飛沫を上げる黒い水の中に吸い込まれて……
実際に目にした光景でもないのに、その姿は蛇川の脳裏にいやに鮮明に焼きついた。純白の着物が、猛る川面に浮きつ沈みつしながら、やがて見えなくなっていく……
一度強く目をつむり、蛇川は六男に苛烈な視線をくれた。
「嫁入りの儀式はどうした。花嫁のいない花嫁行列など聞いたこともないぞ」
「あ……の、僕たちは、その……夜具、ちさが使っていた夜具を丸めて、岩なんかも乗せて、お、重さを調整しながら輿の中に詰め込んで……」
「どうだか。貴様らがよその女を攫って無理に輿へ乗せたと言っても、もはや今更驚かん」
「ま、まさかッ! まさかそんな……そんな恐ろしい……誓って真実です! ち、ちさは、身を清めたのちは誰とも顔を合わしてはならず、口を聞いてもならぬとのことで、輿の中身は改められることなく……だから、その、気付かれることはなかったはずで……」
「いやに曖昧な口ぶりだな」
蛇川の厳しい追求に、六男は視線を泳がせた。何度か口ごもりながら、ようよう答える。日本刀の脅しが相当に効いているらしい。
「ぼ、僕たちは、花嫁行列が川に向かってしまうと同時に村を逃げ出しましたから……その後、村がどうなったかは知らないのです。もしかしたら最後の最後に露見したのかもしれない、そう思って、どこかにいるだろう兄と連絡を取ることさえも恐ろしく、湿っぽい長屋で、息の詰まる思いをしながら日々……」
「達見一男とは一度も連絡を取らなかったのか」
「はい……兄が帝都にいることすら、今日の今日まで知りませんでした……」
分かった、と短く答えると、蛇川は吾妻に視線を向けた。もう十分、ということだろう。小さく頷き、吾妻はギンの名前を呼んだ。
「へい」
「裏手に車を回せ。二台だ」
「へい」
短いやり取りだけですべてを理解し、ギンがすぐさまカフェを出て行く。自動電話を借りにいったらしい。
吾妻は長いため息をつくと、手近な椅子に腰かけた。珍しく疲労の色が見える。恐らく、蛇川も同じ顔をしていただろう。嫌な疲れ方だった。
「この男の身柄は一旦うちで預かる」
「問題ない。しかしあまり手荒なことはするなよ、まだ得られるものがあるかもしれん」
「気をつけよう」
この会話に顔を青褪めさせたのは六男だった。蛙が潰れたような声をあげて男たちを見る。
吾妻が冷え切った目でそれに答えた。
「ガキじゃねえんだ。まさか、このまま家に帰れるなどと思っちゃあいねえだろうな」
「そ、そんな……い、嫌だッ! 殺さないで!」
達見六男はあまりに浅はかだったといえる。目の前で強大な獣が牙を剥いているにも関わらず、背中を見せて逃げ出そうとしたのだ。
当然、吾妻がそれを許すはずがない。暴力の化身となって襲いかかると、肩を掴み、力づくで振り返らせたところへ、渾身の一撃を叩きこんだ。岩のような拳を顔面に受け、六男のひしゃげた口から折れた歯が数本溢れ落ちる。
悲鳴を上げる間もなく意識を手放した六男の体を、物音を立てるのを嫌い、半ば反射的に吾妻が受け止めた。しかしすぐに思い直したか、六男を支える手を離す。
枯れ葉のような六男の体は、わずかな物音を立てて崩れ落ちた。床に薄く積もっていた埃が舞いあがる。
蛇川が呆れたように顔を顰めた。
「手荒なことはするなと言ったろう」
「ああ、忘れていた。次から気をつけよう」
嘯きながら、ギンが残していった余りのサラシを取り上げると、六男の腕を後ろ手に縛り、次いで目と口を覆ってしまう。仕事を済ませると、吾妻は立ち上がって両手を払った。
「先生がいてくれて助かった。神妻村の疫病の話など、俺たちだけではさっぱり分からんかっただろうからな。下手をすれば騙されていた」
「当然だろう、頭の出来が違うんだ。……それより、いくら脅して吐かせた情報とはいえ、この男の言い分を一から十まで信じるなよ」
腰を伸ばしていた吾妻が蛇川を振り返った。
鬼畜の面を殴り飛ばし、いくらか憂さが晴れた様子の吾妻だったが、しかし相棒はますます浮かない顔をしている。
「あくまで憶測に過ぎんが……僕は一度、達見一男の部屋を訪れている。部屋はひどい有様だったが、壁にも天井にも喫煙による黄ばみは見られなかった。しかしそこに転がる男からは煙草の悪臭がした」
垂れた目を丸くし、吾妻が床に伸びる六男を見下ろす。殴られたときのあまりに強い衝撃のためか、それとも恐怖が限界を超えたか、六男の股間には情けない染みが広がっている。
もし、蛇川の憶測が事実だったら。
彼が語った『煙管をふかす男』が六男本人であったら。
ちさを抱きたくはないか、と鬼のように囁いたのは――
「真実はまだ、薄闇の中だ。しかし、達見六男は間違いなく鬼畜だろうよ」




