七十五:鬼畜
その夜、僕は到底眠れずにおりました。無理に目を瞑ってみたところでいっかな眠くなりませんので、なにやら腹が立ってきて、いっそ冴え冴えと目を見開いてやったくらいです。
目を閉じていようが開いていようが同じくらいの闇の中、奥の部屋で眠る病床の母の息遣いだけが聞こえていました。
僕はそこで不審に気付きました。兄の寝息が聞こえないのです。
胸が騒つくのを感じ、僕は蚊帳を捲って寝屋を出ました。相も変わらず雨は降り続いていて、いっそ憎々しいくらいでした。
厚い雨雲に覆われて月は見えませんでしたが、しかし玄関口にぼうと立つ人影が薄ら明かりの中に見えました。兄です。煙管で一服やっているようでした。
僕の立てる足音に耳聡く気付いたものか、兄がのっそりと振り返りました。
――やあ、お前も気になるか。
その顔にはニヤついた笑みが貼りついていて、僕は嫌悪を覚えました。
幼少の頃から、この兄には散々困らされてきたのです。悪友と一緒になって村の大人を困らせて回り、それに意見をしようものなら拳固で殴られ、渋々従うと口元を歪めて浮かべて「お前もこれで共犯だな」などと囁くのです。そのときに見せる笑みと一緒でした。
うんざりして、何がだ、僕は兄さんがいないから心配になって来たんだと言いますと、
――しらばっくれやがって。お前、ちさに惚れていたのだろう。
そう言って、ぷかりと煙を吐き出します。
僕は、胸倉をぎゅうと掴まれたように感じました。一番触れてほしくないところを、土足でにじられたような心地がしました。
白状します。兄が言ったことは事実です。
僕は、己の身もわきまえず、あの美しい娘に惚れていたのです。
無論、ちさが僕などを好いてくれるなどとは思っていませんでしたし、その気持ちを表に出したことはない……そう思っていました。しかし、この歳の離れた兄にはすっかり見透かされていたのです。
あまりの恥ずかしさに、僕が言葉も返せずにいますと、図星だな、と言って兄はくつくつと笑いました。しかしふと真顔になると、ずいと首を伸ばしてこう囁いたのです。
――お前、ちさが惜しいと思わんか。
はじめ、僕は面食らいました。兄が、村のために身を捧げるよう強いられている哀れな娘を救い出そうと、そう言い出したものと思ったのです。
しかし、その口元に再び下卑た笑みが浮かぶのを見て、そうでないことを知りました。兄は続けてこう言ったのです。
――ちさを抱いてみたいとは思わんか。
愕然としました。我が兄ながら、なんと……なんということを、と。薄明かりの中に浮かぶ顔は、見慣れた兄のものではなく、どこまでも欲にまみれた獣のように見えました。
――なんということを。
ようよう絞り出した僕の声は、すっかり掠れてしまっていました。それをどう受け取ったかは分かりませんが、兄はまたくつくつと喉を鳴らして笑いました。
――惜しいではないか。あれほどの器量を持ちながら、一度も抱かれることなく死ぬなんて。ちさとて女の悦びを知らぬまま逝きたくはないだろう。
――ふ、不遜だッ。ちさは、水神様の元へ嫁入りに参る身ですよ。
――六男。まさかお前、老人どもと同じように、神妻伝説なぞを信じているのではあるまいな。
あんなもの、ただのお伽話だ、と兄は言います。
――人柱にまつわる伝説なんぞ、事実を紐解いてみれば、どれもこれも反吐が出るようなものばかりだ。神妻伝説もそうだ。
――かつてあの川は水量が多く、少しの雨でもたやすく氾濫を起こした。それで、水の流れを分けるべく、多くの人夫が駆り出され、鍬や鋤をもって人工の支流を作り上げた。それはそれはとてつもない重労働だったため、環境の悪さも相まり、大勢の人夫が労働の中で死んだ。
その事実を隠すため、名もなき一子女が進んで身を捧げ、水神が怒りを収めたなどという美談を誂え、もって伝説としたというのが本当のところだ。知らなかったか。
僕は唖然としました。そんなこと、今まで一度だって聞いたことはなかったのですから。
兄は、途中で辞めてしまいましたが、東京の大学に行っておりましたから、頭はいいのです。その話は僕にとってあまりに突き抜けていましたが、しかしまったくの嘘を言っているとも思えないのでした。
――それを本気にとって、今度もまた人柱に頼ろうなどとは片腹痛い。俺が見るところ、今回の大雨の理由は風だね。例年とは異なる向きから吹いてくる風のために、山に遮られることなく雨雲がこの地へ流れ着いているだけのことさ。風の向きが変わったのは、昨年末の山火事のせいだろう。あれで山の木々はきれいさっぱり焼け落ちてしまったからな。風の向きも変わろう。
――ならば、
僕は唇を何度も舐めてやる必要がありました。そうでもしないと、あまりの衝撃のために乾いた唇は、引き攣ってうまく動いてくれそうになかったからです。
――ならば、ちさはなぜ死なねばならない。
――気休めのためさ。
今度こそ、僕は言葉を失いました。
兄は、そんな僕にはお構いなしで、咥えた煙管をうまそうにひと口吸いました。
――この村の人間は、お前を含め、どいつもこいつも莫迦ときている。ありもしない伝説を信じ、その陰に隠された惨たらしい事実から目を背け、罪のない無知な娘をその贄に捧げようなどと。これを莫迦と言わずになんと言う。
しかし俺は口を挟まん。挟んだところで受け入れられず、ただただ異質扱いされるのは目に見えているからな。だが、ちさの身体は惜しい。
僕は……僕にはもう、分かりません。
何が正しくて何が間違っているのか。
あの夜、僕たちが何をしてしまったのか……!
頭の中で、正月に打ち鳴らされるあの大きな釣鐘が、引っ切り無しに叩かれているようでした。グヮングヮンという大音のために、頭も、手足も、心まですっかり痺れてしまったようでした。
気付けば僕は、ちさの家の前に立っていました。
中には身を清めたちさがひとり佇んでいたはずです。亡き両親の位牌に向かい、何事か語りかけていたやもしれません。しかしそのときには、くぐもった悲鳴と、獣のような息遣いとが聞こえるばかりでした。
獣に犯されている間、ちさは歯を食い縛って耐えたようです。ただ、譫言のようにひたすら何かに謝っていました。
抗い切れない熱に浮かされ、僕は目の端で家の中を盗み見ました。闇の中に、ちさの生っ白い脚が、付け根の辺りまで露わになっているのが見えました……
――お前もこれで共犯だな。
早々に衣服を直し、煙管に刻みたばこを詰めながら兄が笑いました。
……今思えば、ちせは村人たちに謝っていたのでしょう。身を穢され、水神様の嫁としての資格を失った己の不覚を、涙ながらに……
雨が、降り続いていました。