七十一:追跡
達見一男が帝都内にもう一宅部屋を借りていた、という情報がもたらされたのは数日後のこと。場所は例の打ち捨てられたカフェだ。
まず蛇川が目をつけたのは、達見という苗字の珍しさだった。それで、鴛鴦組若衆らの足を使って地道に情報収集をさせる泥臭い一手と、吾妻・ギンが繋がりを持つ役所内の『友人』の協力を仰ぐ一手、その二手を同時に打っていたのだ。
今回、成果を挙げたのは泥臭いほうの一手だった。達見の家を知っていたのは新聞配達員という。
「役所が把握していなかったということは、こちらの住所も寄留簿に記載はなかったのか」
「ああ。よほど後ろ暗いものを抱えているんだろうよ」
上下を洋装で固めた吾妻が、シャツの胸元をくつろげながら言う。蒸し暑い日が続いていた。
住所が書かれた紙を睨み、蛇川は屹と立ち上がった。黒い革手袋の手が紙を掬い取る。
汗の臭いを微塵も感じさせないその様子に、吾妻が恨めしげな視線を送った。
「礼を言う。また追加依頼をすることになるやもしれんから、そのつもりで」
言うなり、薄く埃が積もった床を鳴らして背を向ける。その背に吾妻が声をかけた。
「これから住所を訪ねるのか?」
「言うまでもない」
「なら、俺も行こう」
一蓮会のこともあるしな。額に浮いた汗を拭い、吾妻が言う。
絶対安静は解け、左腕のサラシも外れたものの、蛇川はまだ本調子でない。鎖骨の痛みは依然として残っているはずだ。それを案じてのことだろう。武闘派の吾妻がついてくるならば、これ以上に頼もしい護衛はない。
蛇川は薄い唇を三日月状に歪めた。
「タクリー号を呼ぶか?」
「よせ、よせ。乗り合いバスで行こう」
蛇川にとっては、人質を取られたうえに後ろ手に縛られ、麻袋まで被されて乗ったフォード車以上に乗り心地が悪い車もないだろうが、吾妻にとってそれはタクリー号だ。
焼けるような尻の痛みを思い出したか、大きな両手で大きな尻を押さえ、吾妻がひょこひょこと蛇川の後を追った。
住所を辿ると、行き着いた先は長屋だった。部屋同士の間隔は狭く、猫の額ほどな土間付き六畳一間といったところか。
最上荘ほどではないものの、瓦は落ち、障子にも穴が目立つ長屋は、やはりどこか湿り気を帯びている。詰めて並べられた小さな部屋は、行き場のない者たちが肩を寄せ合っているさまにも見えた。
目的の部屋の障子がずるりと開いたのは、ふたりがちょうどその前に立ったときだった。
達見一男が行方をくらました今、その住処も空き家とばかり早合点していたから、ふたりはひどく面食らった。
それは中から出てきた和装の男も同じだったようで、三人はしばし見つめ合った。
無言のまま立ち尽くすこと数瞬。
この僅かな時間に、男たちの間で様々な疑惑が交錯したに違いない。
「おい、お前さん……」
一寸早く己を取り戻した吾妻が声をかけた途端、まるで呪縛から解かれたかのように、男が激しく地を蹴った。不意を突かれながらも、逃すまいと蛇川の身体が反射的に動く。その胸に男の薄い肩が突き刺さった。
驚きに開かれた蛇川の口から、短くも悲痛な叫びが漏れた。その脇をすり抜け、和装の男が往来に飛び出す。
痩せた男だった。当身の衝撃はさほど強くない。しかし大きくよろめいた蛇川は、左肩を押さえて低く唸った。強く食い縛った歯が音を立てる――
と見えたのも僅かな時間で、前髪を払って顔を上げると、すぐさま吾妻の背を追った。
「そこで待ってろ!」
背後に蛇川の気配を感じ、振り返りもせず吾妻が叫んだ。猛犬の目は、先を行く不審な男の背だけを見ている。すぐに蛇川がそれに並んだ。かと思われた次の瞬間には、すでに三歩先を駆けている。
「速いほうが追うべきだろう!」
「走るんじゃねえッ!」
叩きつけるような相棒の言葉に、蛇川の足から力が抜けた。矢のような勢いが見る間に削がれ、たちまちのうちに減速していく。
途端、思い出したように左肩が激痛を訴え始めた。噴き出した玉の汗が白い肌を滑る。
粘つくような足取りでたたらを踏む蛇川を追い抜かしざま、吾妻が大きな口でにやりと笑った。
「必ず引っ張ってくるから。見てな」
吾妻も足が遅いわけではない。しかし痩せた背中は徐々にその差を広げていった。「どけ! どいてくれ!」と喚き、往来の人々を両脇に追いやりながら、恐るべき俊足ぶりで逃げていく。腕を広げて駆けるその姿は、膨らんだ袂のためか、追い風を受けて海上を滑る帆船のように見えた。
果たしてどう追いつこうというのか。蛇川が案じていると、吾妻の背がやにわに膨らんだ。破裂音ほどに大きな声が、往来の空気を震わせる。
「ス、スリだあッ、捕まえてくれえーっ!」
立ち止まり、左肩を押さえた蛇川が脱力する。半ば裏返ったその声はおそろしく間が抜けていた。
しかしその、いかにも情けなく、助けを求めるような声が正義漢を目覚めさせたものか、吾妻の叫び声を聞くやいなや、往来の左右から男たちが飛び出し、逃げる男を組み伏せてしまった。舞い上がる砂埃を昼の陽光が照らす。
幾人もの正義漢に押し潰され、気が触れたかのように喚き散らす男の元へ、汗を散らして吾妻が駆け寄った。ズボンのポケットに手を突っこむと、中をまさぐり、拳を素早く引き出す。
「やあ、すまん! 恩にきる!」
安堵の笑みを見せ、人を掻き分け掻き分けしながら吾妻が男に近寄る。あとは自分で、という風に手を振り人を遠ざけると、道路に腹這う男に覆い被さった。先ほどポケットから引き抜いた拳を男の脇腹に押し当てると、その耳元に口を寄せ低く囁く。
「コイツが何か分かるか? 妙な気は起こさんほうが身のためだぜ」
拳を押し当てられた男の脇腹が、極めて鋭利な何かに脅かされてチリチリと痛む。しかし男の肝を震え上がらせたのは、囁く追跡者のどこまでも冷淡な声だった。
押し殺された低い声は、ただ一言で男の血液を芯から凍りつかせてしまう。心臓がどくりと飛び跳ね、男の全身からどっと脂汗が流れ出した。
男の脇腹に拳を当てたまま、すぐに吾妻は身を起こした。己のポケットから札入れを取り出すと、太い腕で巧みに隠しながら、まるで男の懐から探り出したかのように取り上げて見せる。わっと野次馬が湧き、あちこちから拍手が上がった。
まるで手妻のようなその手捌きに、蛇川はひとり舌を巻いた。人好きのする笑顔で愛想を振りまく吾妻に、ゆっくりと歩み寄る。
「いや、本当に助かった。こいつを盗られちゃあ、俺は素寒貧だ。この野郎、警察に突き出してやる。ここらの管轄はどこだね?」
男を立たせ、野次馬を振り返り振り返り礼を言う吾妻は、しかし路地に入ってしまうと途端に顔を引き締めた。どこか憎めない、間の抜けた笑顔の男はもういない。
吾妻は蛇川と目配せを交わすと、通りがかった馬車を呼び止めた。