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【旧版】骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第三章 ロマネスク
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七十 :長い一日

 『いわた』前にはりつ子が立っていた。

 手を揉み、なにやら落ち着かない様子でいたが、蛇川とくず子が連れ立って歩いてくるのを見つけるとたちまち表情を和らげた。大人相手に、それも蛇川を相手取って少し出しゃばりすぎたもので、後々心配になったらしい。


 身を屈めて手を振るりつ子に、笑顔のくず子が駆け寄った。


「くず子ちゃん、とても可愛いお洋服ね! そのお帽子も。すごく似合っているわ」


 くず子は嬉しそうに身をよじる。


「どう? 蛇川さんは何か言ってくれたかしら?」


 問われて、くず子は後ろ手に組んだ指をもぞもぞと動かしながら振り返った。依然その顔は喜びに満ちているが、少しだけ眉が下がっている。

 その様子だけで察したらしく、りつ子が「まあ、いきなり高望みしすぎても駄目ね」とひとり合点した。蛇川は辺りの人通りに目を配っており、りつ子のぼやきを聞いてすらいない。


 つい、言われるがまま散歩などへ誘ってしまったが、昨夜の件が気掛かりだ。例の一蓮会の連中がしつこく蛇川をつけ狙うようであれば、くず子を連れて歩くのは得策ではない。

 通りに出た途端にいつもの冴えた思考が蘇ったが、駆け出しそうなほどに弾んだ足取りのくず子を見ると、やはりよそうとは――何故だか言い出せなかった。


 思案しているうちに、一度『いわた』へ引っこんだりつ子が戻ってきた。手に小さな風呂敷を持っている。


「はい、お弁当。せっかくだから、お散歩ついでに外で食べておいで」


 慌てて、蛇川は目の前に意識を戻した。


「昼飯はさっき食べたばかりだ」


「お夕食よ」


 夕食! そんなに長く歩き回らせるつもりなのか。蛇川は驚愕したが、しかしくず子が包みを受け取ってしまったので、どうしようもない。

 蛇川の泣き所がくず子であることは、長い付き合いの者なら当然知っている。蛇川を動かしたいなら、攻めるべきはくず子と心得ているのだ。


「そんなに長時間歩かせたら疲れるだろう」


「くず子ちゃんの歩調に合わせてゆっくり街を歩くの。時々お店を冷やかしてみたり、道道に咲いた季節の花を眺めてみたり、疲れたらカフェでお茶を飲んで休憩もする。いつもは話さないようなことも話したりして……そうしていれば、あっという間にお夕食時よ」


「女はひとつ出歩くにしても、随分と小難しい手順を踏むんだな。道理で、何をするにつけても時間を食うわけだ」


「本ッ当、いやな人! その時間こそが大切なのに。ねえ」


 頰を膨らませたりつ子に同意を求められ、くず子はおかしそうにくすくすと笑った。




 見目麗しい男と、愛らしい女児の連れ合いは、往来を行く人々の関心を大いに集めた。その微笑ましい様子に、思わず足を止めて「やあ、これは」と微笑む紳士などもいる。

 ご婦人などは、まずは人形のようなくず子の風貌ににこりと微笑み、次いでその連れを見るなり口元を手で押さえて硬直する……なんてこともしょっちゅうで、洋装の二人連れは行く先々で幸せな悲鳴を生んだ。


 皮肉を言いながらも、蛇川はりつ子の助言を受け入れた。


 ゆっくり歩くことは蛇川の神経をひどく苛立たせたが、道端の草花について語り聞かせることはわけもなかった。読み散らかした無数の書物から国内外のあらゆる植物についてをおおよそ把握しているし、帝都内においては実際に見て触れて知識をより確かにしている。


 目ぼしいものを見つけると、蛇川はいちいち足を止め、指差して説明をした。例えばこんな風に。


「あれは田ゼリだ。整腸剤や痒み止めとしても効用がある。似た形状のドクゼリは猛毒だから気をつけるように。摂取すればたちまち目眩、嘔吐、呼吸困難を引き起こして死に至る」


「あれはヨモギ、いわたでヨモギ餅をいただいたことがあるでしょう。あれに使われているのがこれだ。当て字で『()ク燃エル草』と書いて『善燃草(ヨモギ)』と読ませることもあるが、読んで字のごとくよく燃えるから、点火剤としても有用だ」


「あれはクサノオウ。命名の由来は諸説あって、千切ると黄色の液体を流すから『草ノ(オウ)』となったとも、その液体がいい薬となるから『(クサ)(オウ)』となったとも言われる。ただし薬と毒は紙一重だから無闇に触れないよう。皮膚が弱いとかぶれもするし、万が一誤飲しようものなら体内の粘膜が爛れるぞ」


 その情報には大きく偏りがあったが、それは蛇川が植物を調べる大目的が、最も身近な毒と薬とを把握しておきたいがためだ。自然、その内容は恐ろしげなものが大半を占め、くず子は少し顔を青褪めさせていたが、それでも蛇川と長く話せるのが嬉しいらしい。神妙な顔で、蛇川が語る諸注意を聞いている。


 とはいえ、蛇川とて無駄に怯えさせているわけではない。毒草は、知っていなければそうと分からないものがほとんどで、つける花々はその毒性に対してあまりに可憐なものも少なくない。それに惹かれてくず子が手を出してしまわぬようにとの考えあってのことだ。


 クサノオウの葉を千切り、断面から滲み出た目に毒々しい黄色の乳液を見せたあと、蛇川は小さく唸ってからこう問うた。


「ひとつ、不安なんだが」


 くず子は小首を傾げて見せた。


「くず子さん、楽しいかね?」


 虚をつかれた様子のくず子だったが、目をぱちくりしたかと思うと破顔した。まるで鈴の音のように愛らしい笑い声が、蛇川の頭の中で弾けた。


「そうか」


 蛇川も微笑む。遅れて、安堵のため息がわずかに漏れた。常にはない、柔らかなため息だった。


「うん、よし。なら……なら、次の手順に進もうか。次は、カフェで茶を飲むんだったな」




 結局、りつ子手製の弁当はがらん堂で食べることになった。カフェでそう長居ができなかったためだ。供された珈琲が不味いと蛇川が喚き、怒った店主に追い出されたのだ。くず子が頼んだあんみつは、わずかにひと掬い口にしただけで終わってしまった。


 詫びに、とパーラーで買い求めたアイスクリームは、がらん堂に着く頃には半ば溶けてしまっていたが、それでもくず子は嬉しそうだった。


 満面の笑みでスプーンを口に運ぶくず子を眺めながら、蛇川は、遅く歩いたがために凝った両脚をさすっていた。


 疲労感と、蛇川がいまだ知らない不思議な心地が全身に満ちていた。

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