六:廃墟ホテル
早めにチェックアウトを済ませるのだろうか。
昼時、廊下を行き交う人のざわめきと足音が、高い天井の部屋に響いている。
気難しい顔でホテルマンと何事か言い合う商社マン風の男、その足元をばたばたと音を立てて駆け回る子供に、背を屈めながらそれを追い、叱りつける、母親と思しき女。
天頂付近から垂れ下がる、厚手の、赤い上質なカーテンがそれをうまい具合に吸い取ってくれるらしく、不思議と忙しなさは感じない。
磨きこまれた床。傷ひとつない調度品。
なんと豪勢なホテルだろう。
浜野昭三は、用意された席に着きながら感嘆の吐息を漏らした。
椅子を引いてくれた給仕人が、テーブル上に畳んで置かれたナフキンを広げて浜野の膝にかけ、一礼をして下がっていく。つられて浜野もその背に会釈を返す。
入れ違いにやってきた別の給仕人が、湯気をたてる料理を運んできた。
「おほッ」
浜野は満面に喜色を浮かべた。石の皿の上では分厚い牛肉が肉汁を溢れさせ、どこか野生的かつ芳ばしい香りを放ちながら、じゅうじゅうと音を立てている。渇いていたはずの口中が、瞬きひとつする間に潤されていく。
目から、鼻から、耳から食欲を刺激され、浜野の腹が待ちきれなさそうに切なげな声を上げた。
いそいそと両手にフォークとナイフを持ち、まずはひとさし。
期待通り、ナイフは吸いこまれるようにして分厚い肉へと沈んでいく。
心もち大きめに切り分けた肉を口へと運び、咀嚼する。
口を閉じた途端、浜野の顔が恍惚ととろけた。零れ出す肉汁。まるで、まだ誰の足跡もついていない白雪のごとき柔らかさと、しかし繊維の確かな歯応えも感じさせながら、肉はほろほろと口の中で崩れていく。
帝都東京の煌びやかさに憧れ、若い身ひとつで上京した。
必死になって仕事を得、妻を得、子どもを得て、家族を養うため又がむしゃらに働き、家を得て、長年勤めあげた会社を退職した頃には最後に手に入れた家しか残っていなかった。
妻には先立たれ、ほとんど家に帰らない父を見限った子どもらは、早々に自分たちの道へと進んでいたのだ。
そうと気づいた時には遅かった。
守るべきものを護るため、汗水を垂らして励んできたはずなのに、本当に大切なものは最初からその手の内にあって、しかし脇目もふらずに走り続けるうち、いつしか指の間から溢れ落ちてしまっていたのだ。
浜野は半ば呆け、二束三文で家を売り払うと、ひとり、旅に出たのだった……
しかし、旅の途中でこれほどな贅沢ができるとは思わなかった。
最期に、家を売って得たそこそこの金ーーおそらく、正規のルートで見積もりを出してもらえば、きっとその半分にも満たない金を、何かしらの形で使いきりたいとは思ってはいたのだ。恵まれない孤児院に寄付するもよし、馬鹿馬鹿しい一夜の豪遊に費やすもよし。
ただなにか納得できる形で使いたくて、それ以外のためには手をつけたくなくて、金は持っていながら、ほとんど飲まず食わずで旅してきたのだ。まさか雨宿りのつもりで駆けこんだホテルで、その境遇に同情を集め、無償で手厚い歓待を受けられることになろうとは。
「君も早く食べたまえ! せっかくの肉が冷めてしまうぞ!」
はふはふと肉を口に運び、付け合わせの馬鈴薯を切りながら、同席の客に浜野が叫ぶ。
その客は、およそ日向の温もりを感じ得ない、白い肌の美男であった。
馬鈴薯を頬張りながら伺うと、せっかくの忠告も何処吹く風で、やはり男は動かない。
絹のテーブル掛けの上に肘をつき、黒い革手袋をはめた指を組んで、そこに形のいい鼻を乗せている。
まるで磨き抜かれた美術品のようだ……眉間に深く刻まれた皺さえなければ。
「肉は、嫌いなのかね?」
せっかくの幸せを共有できないのが残念で堪らない。食べカスがついた口髭を下げ、そんな顔を見せる浜野に、蛇川はふんと鼻で返した。
「あんたからそれを訊かれるのは、もう三回目だ……浜野昭三さんよ」
「……はて、どこかでお会いしたろうか。君ほど優れた容貌の男ならば、そうそう忘れもしなさそうなもんだがなあ」
すまなそうに告げる浜野は、ひと呼吸置いてから不思議に思い至った。
この男は、自分のことを「浜野」と呼んだ。
親会社の社長令嬢である妻と所帯を持った時から四半世紀と少し、妻の苗字で生きてきたのに。
「君は……なぜ、私の苗字が『浜野』だと?」
蛇川はどこからか懐中時計を取り出し、しばらくじっと見つめていたが、やがて心地よい金属音を響かせて蓋を閉じた。
「全部あんたが話してくれたのさ、浜野さん。あんた……」
死出の旅路の途中なんだろう?
そう言う蛇川の口元は、三日月の形に歪んでいた。