六十八:長い一日
骨董屋『がらん堂』のドアを、ノックもなしに引き開ける不躾な客が訪れたのは、翌日の昼下がりだった。
「あら、いたんだ」
吾妻だ。事務所の隅のソファに沈みこむ蛇川の姿を認めると、意外そうな声を上げた。
クッションを脇の下に抱えこみ、蛇川はどこか不貞腐れている。
「ここは店舗兼僕の自宅だ。自宅に主人がいて何が悪い」
「まあ、そうなんだけど。てっきり、例の事件を追って飛び回ってるものかと……もしかして、どこか具合でも悪い?」
さすが、長い付き合いだ。蛇川の行動体系をおおよそ把握している。別に、と素っ気なく答える蛇川に常と違うものを感じたか、懐を探ると何かを取り出した。
「はい、お土産」
金平糖だ。片手ほどな大きさの瓶に詰まったそれを、蛇川に向かって山なりに投げる。蛇川はそれを受け取ろうとして、左肩に走った鋭い痛みに呻いた。かろうじて、右手と胸で瓶を抱えこむ。
「割れ物を投げるな、莫迦者……ッ」
鈍痛に喘ぎながら蛇川が吼える。しかし、そこにいつもの勢いはない。吾妻が呆れたように眉を垂らした。
「ほら、やっぱり具合悪いんじゃない。もしかして、肩?」
「……胸を打った、昨夜だ。以来、痛みが続いている」
「それを早く言いなさい。鎖骨は怖いって、うちのも言ってたでしょう。あとでギンを寄越すわ。左腕を固定してもらって、今日明日は絶対安静のこと。お昼は食べたの?」
「食べていない」
「もうッ、全然なってない!」
諦めたか、素直に白状する蛇川から瓶を受け取ると、吾妻はそれを台所に並べた。腰に手を当ててため息をつくその姿は、どこか所帯染みている。
「いいわ、いわたから貰ってきてあげる。いつものオムライスでしょう? ついでに新聞を届けてくるわ」
蛇川は新聞を五紙取っている。国内外で起きた事件には、できる限り目を通したいというのがその理由だ。蛇川が読み終えた新聞はいわた亭主に回され、気まぐれに吾妻が読み、最終的には再び蛇川の手元に返されて、がらん堂の一室に保管される。
蛇川は長毛の白いクッションを胸に抱えた。手触りが抜群によく、気に入っているらしい。
「大したことは書いていなかったがね」
「どれどれ……『珍魚ノ舞。住民ガ歓喜、新タナ名物トシテ注目』……」
「房総半島の話題だな。魚群が一斉に跳ね狂っているとかいうやつだろう」
平和呆けしていやがる。吐き捨てるように言う蛇川に、吾妻が目を垂らして笑って見せた。
「結構なことじゃない。あなたも今日明日は存分に平和呆けなさい」
やがて『いわた』からオムライスを持って帰ってきた吾妻は、傍らにギンを伴っていた。狐顔をした細身の男で、まだ若いのに鴛鴦組の若頭補佐を務めている。蛇川とも顔見知りだ。
「ほら、昼飯。林檎はりっちゃんからのおまけだ」
姿は先程と同じ和装のままながら、吾妻の口調は男のそれに戻っている。舎弟の前では兄貴分として振る舞いたいらしい。
吾妻は木の岡持ちを掲げて見せると、艶光りするデスクにそれを置いた。前面の蓋を取ると、下段には亭主特製のオムライスがふたつ。蛇川とくず子の分だろう。上段には櫛形に切られた林檎がふた切れ乗せられている。林檎は美しく剥きあげられていた。
冷めないうちに食べてしまってから、早速ギンが腕の固定に取り掛かった。白い木綿地の大きなサラシをもって、左腕ごと胴体へと巻きつけていく。鎖骨への負担を減らすためだ。
大人しくギンの指示に従いながら、例の刺青のことを持ち出してみた。蛇の道は蛇というやつだ。案の定、ギンにはすぐに答えが分かったらしい。
「そりゃあ、一蓮会の意匠ですわ。見たままの通り、『一』の字に蓮の図柄で『一蓮』。主力はここ帝都に置かれとりますが、広くは関西の組まで傘下に持っとる極道です。ワシらと銀座でシノギを削り合っとるのもここですわ」
極道やヤクザ団体のもっとも小さな集団は「組」という。母体としてそれを纏める「一家」があり、さらにそれを纏める「会」が存在する。
鴛鴦組のように、どこの会にも属さず独立した組もあるにはあるが、結束し、一家や会として強大な力を得ようとするのが大筋の流れだ。一蓮会は、その最たる例と言えた。
一蓮会と聞いて、吾妻の眉が曇る。
「お前さん、七曲のことを調べていたのか?」
「探偵を? それはあんたに頼んだろう。一蓮会の奴らには、銭湯帰りに襲われたんだ――いや。単なる早合点だし、大事はなかった」
吾妻の顔がいっそう険しくなるのを見、蛇川がすかさず言葉を繋げる。
大柄な図体に似合わず、慎重で丁寧な仕事ぶりが持ち味の男であるが、裏を返せばそれだけ心配性ということだ。下手に気を煩わせて、安静期間を引き伸ばされてはかなわない。
吾妻はやると言えばやる男だ。そうと決めたら、四六時中見張りをつけてでも蛇川を外に出させないだろう。
「とはいえ理由があったんだろう。何があった」
「夜更けの銭湯ですれ違っただけだ。子供がどう、とかが切れ切れに聞こえただけだったが、僕がどこぞの組の手先で、奴らの話を盗み聞きしていたものと勘違いしたらしい」
背中でサラシを固定しているギンを振り仰ぎ、蛇川が鼻を鳴らした。
「どこの組の者かと誰何されたが、実際に言われてみると間抜けなもんだな。相手に尋ねておきながら、自分自身、どこかの組に属していることを宣言しているようなものだ」
「ほんまに。しかし、話の内容いうんも気になりますな。盗み聞きされてそこまで殺気立つとは。他には何と?」
「知らん。子供は金にならん、と言っていたこと以外は早々に忘れた」
完了の合図代わりにサラシの結び目をぽんと叩き、ギンが腰を伸ばした。難しい顔をした若頭を見遣る。
「売春ですかなあ?」
「さあな」
「しかし、少女趣味のエグい輩を相手取るなら、逆に子供はええ金になるけど」
「下卑た考えはやめろ、ギン。そういうのは好かん」
売春の斡旋は、ヤクザを潤す事業のひとつだ。鴛鴦組も例外ではなく、傘下に遊女屋をいくつか囲っている。
人気の遊女は一晩の揚げ代がばかにならない。事実、鴛鴦組のいい実入りになっているはずだ。
蛇川が意地悪くそれを指摘すると、吾妻は鼻腔を膨らませて猛然と反論した。
「心外だな。うちのは商売で、奴らのやり口は脅迫だ。行き場がない女を拾ってくるという点では似たようなもんだが、うちは給金を払っている。一蓮会は、稼ぎをすべて手前らのもんにしていやがるんだ」
ひとくちに売春斡旋といっても、どうやら細かな線引きがあるらしい。男の矜持にかけて、吾妻は途端にうるさくなるから、蛇川は早々に手を挙げて謝意を示した。この話題は避けたほうがよさそうだ。
「しかし、一蓮会と探偵がどう繋がるんだ」
「……あの男、早池峰さんと一蓮会との抗争に関わっていやがったんだ」
吾妻の話によれば、かつて銀座は鴛鴦組と早池峰一家という極道のシマだったという。鴛鴦組組長、鴛鴦呉壱と早池峰毅は同郷の仲で、組同士も比較的温厚な付き合いをしていたらしい。
その均衡を崩したのが一蓮会だった。
「早池峰さんには孫娘がいたんだが、昔、男と駆け落ちしちまってな。その男が地方議員の秘書に収まっていることを、例の探偵が突き止めたんだ。身内より男を選んだ怪しからん女ではあるが、それでも可愛い孫だ。孫の幸せを盾に、早池峰さんとこのシノギは薄く薄く削り取られて……今じゃ『一家』というのも寂しいような有様だ」
悔しそうに、歯噛みしながら吾妻が言う。早池峰さん、という親しげなその口振りからも分かるように、吾妻自身、早池峰一家に肩入れしていたものらしい。それを衰退に追いやった一蓮会を、またその手助けをした七曲を、とうしても許せないのだろう。
「野郎、巧妙に名前を変えていやがったが……いや、正しくは本名に戻したわけだが、外見は大まかに聞いていたんでね。だらしないあの体型と、人捜し専門ってえ言葉を聞いてもしやと思ったのさ」
忠犬の執念恐るべし。蛇川は心中で毒づいたが、しかし口にはしなかった。いかに銀座の屁理屈王とて、踏んでいい尻尾とそうでない尻尾の区別くらいつく。好んで猛犬を怒らせることもなかった。
「しかし、探偵は頼まれた仕事をこなしただけだろう。それで恨まれては堪ったものではない」
「やり口が下衆なんだ。仁義にもとる」
「殺人狂いの夫を持つ妻が、それを捕縛した警吏を恨むのと同じだぞ」
「しかしそれが人情ってもんだ」
ままならんもんだな。今度は口に出して吐き捨てた蛇川に、ふ、と吾妻が苦笑を漏らした。
「いつかきっと、お前さんにも分かる日がくるさ」
「どうだか」




