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【旧版】骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第三章 ロマネスク
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六十七:捜索開始

 その夜、時刻も真夜中に差し掛かろうというころ、蛇川は銭湯を訪れた。


 (いかめ)しい顔つきをした初老の番頭は、深夜の客にもあまり驚かない様子で、新聞からちらりと目を上げただけに終わった。どうやら顔馴染みらしい。蛇川がこの時間に訪れる理由も心得ているようだった。


「まだ客がいるぜ」


 言葉少なに忠告すると、再び新聞に目を落とす。返事もせず、蛇川は無言のまま暖簾をくぐった。


 番頭の言葉通り、真夜中にも関わらず長湯の客がふたりいた。脱衣所に脱ぎ散らかされた衣服を見、長々と蛇川がため息をつく。


 今日一日で、ゆうに数年分の埃は浴びただろう。無論、最上荘を出てすぐに全身を払ったし、帰宅してからは衣服の上下とも丹念にブラシをかけた。それでも到底不快感は拭いきれず、一刻も早く洗い流したいのに、この時間に客がいるとは予想外だった。できることなら裸形(らぎょう)で顔を合わせたくはない。


 蛇川の両手は鬼に取り憑かれている。

 普通であれば、彼はもうこの世にいない。いや、存在自体はするだろうが、彼自身の魂はすっかり鬼に喰らい尽くされ、ヒトの道から外れたモノになり下がっているはずだ。


 それが今日(こんにち)もこうしていられるのは、全身に彫られた鬼除けの刺青のお蔭だ。関西の山奥に居を構える翡翠自然(ひすいじねん)流当主が、二代にかけて彫りつけてくれたものだ。


 いちいちそれを説明するのも面倒だし、そもそも説明したところで到底呑みこめる話ではない。説明せずにいて妙な疑りを持たれるとややこしいし、下手に詮索されると煩わしい。

 そういう理由で、蛇川は肌の露出を極端に嫌う。銭湯の番頭に、深夜の馴染み客として記憶されているのはそのためだ。


 それで、蛇川はしばし脱衣所で時間を潰していたが、やがて待ちきれなくなって浴衣に手をかけた。

 その時間、わずか数分。元来、我慢強くない性質(たち)なのだ。


 折も折、ちょうど長手甲(ながてっこう)の胸紐を解いたとき、長湯の二人組が脱衣所に現れた。


「しかし、ガキを使うというのはどういうものかね。ああいうのは口が軽いし、第一金にならん……」


「しっ!」


 他に客はいないと踏んでか、声高に会話していた男たちだったが、蛇川の姿を認めると同時に口を(つぐ)んだ。胡乱(うろん)な者を見る目つきでじっとりと蛇川を睨むが、その全身を覆う刺青を見てはっと息をのむ。


 下手に絡まれぬよう、蛇川はつとめて男たちのほうを見ないようにして風呂場へ向かった。しかし粘つくような視線は、蛇川が湯殿へ身を沈めても、しばらく背中に張りついていた。





 場数を経て身についた勘により、蛇川はなにかしらの接触があることを予感していた。例の、長湯の二人組である。


 蛇川の湯浴みはまさに(カラス)の行水というべきもので、何においても性急な性質(たち)だから、あっという間に済ませてしまう。今日ばかりは少し丁寧に体を磨いたものの、それでもわずかな時間である。


 とはいえ、湯からあがると街はすっかり寝静まっていた。

 大通りでさえガス灯の火が落ちるこの時間、廃ビルへ向かう路地の暗さたるや、鼻と鼻を突き合せるまで向かい合う相手も判然としない。


 そんな中を、懐中電灯の明かりを頼りに歩いていると、予告もなく背後から襲撃を受けた。


 こうも手荒な出方をするとは予想外だったが、しかし周囲への警戒を怠らずにいた蛇川にとって、振りかぶられた角材を避けることなどわけはなかった。どこか気怠げな音とともに空振った角材は、蛇川が立っていた場所の土をむなしく抉った。


「野郎ッ!」


 鼻息荒いその声は、銭湯で聞いた声に相違ない。子供がどう、と不満げに漏らしていたほうだ。


 続いて突き出された拳も難なくかわし、蛇川は軽くステップを踏んだ。素早く足場を確かめると、懐中電灯を持った腕を伸ばし、襲撃者の数を確認する。


 眩しい光に顔を庇うのはふたり。銭湯を出、そのまま待ち伏せていたものらしい。


「念のため確認するが」


 この状況にあって、蛇川の声はあくまで淡々としている。息のひとつも乱してはいない。


「人違いじゃないか?」


()かせッ!」


 罵声と共に、再び角材が唸る。しかしいたずらに先端を泥に汚すばかりで、蛇川には掠りもしない。


 飛んでは避け、飛んでは避けを繰り返すうち、次第に襲撃者の息が上がり始めた。


「て、てめえ……どこの組の(モン)だ」


「やはり、人違いらしい」


「とぼけやがって! 俺たちの会話を盗み聞きしていただろうがッ」


 ひどい言いがかりである。

 もっとも、男たちからしてみれば、善良な一市民があの時間帯に湯を使うとも思われず、疑いを抱くのも無理からぬ話だった。それに、刺青のこともある。


 話が通じる相手ではない。そう判断するや、蛇川はすぐさま攻勢に転じた。大事な懐中電灯を道の脇に置くと、横薙ぎに払われた角材の下に潜りこむ。


 これまでは逃げの一手だった敵の思わぬ接近に驚いている間に、死角から繰り出された蛇川の掌底(しょうてい)が男の顎を打ち上げた。歯を数本道連れにして、あえなく角材の男が意識を飛ばす。


 男の手を離れた角材が地面に落ちるのを待たず、落下中のそれを蛇川が掴む。すぐさま、残る男へと向き直ると、上から下へと振り下ろした。


 がむしゃらに角材を振り回していた男とは違い、こちらは随分と使えるらしい。蛇川の呼吸を読み、最小の動きで巧みに角材を避けて回る。


 振っては戻し、戻しては振りを繰り返していては、確かに体力が奪われる。元より腕力があるわけでもない。

 じき、蛇川の息が上がり始めた。


 蛇川の疲れを見て取ったか、短い気合と共に男が詰め寄った。腰低く迫ってきた男に向かい、蛇川は角材を投げつけた。男は無理なくそれを避ける。


 数度、拳が交わされた。

 男はずいぶんと小柄だったが、しかし盛り上がった筋肉のためにまるで小岩のように見えた。

 事実、固い。蛇川の拳は、男の防御をかいくぐって何度か胴体に届いたが、しかし男が怯む様子はなかった。


 何度目かの激突のおり、男が突き出した太い左腕が、不運にも蛇川の袂に絡まった。途端、蛇川が腕を風車のように振り回し、袂もろとも男の左腕を巻き取った。

 体勢を崩し、男が後頭部を曝け出す。間髪を入れず、蛇川の尖った肘がその首根に叩きこまれた。


 しかし体勢が崩れていたのは蛇川も同じことで、狙いが狂い、肘打ちは固い背骨に阻まれた。


 その一瞬の隙をつき、今度は男が強烈な当て身を繰り出した。

 もつれあうようにしてふたりが暗い夜道に転がる。布が裂け、袂が千切れる。土埃が舞う。


 男のいがぐり頭を胸に受けて、蛇川は激しくむせこんだ。あまりの衝撃に古傷が痛む。春先に、左の鎖骨を折ったのだ。


 これを好機と駆け寄った男だったが、しかし勝負は呆気なくついた。


 ただ転ぶにおいてさえ、ただでは済まさないのが蛇川だ。倒れついでに素早く泥土を掬い取り、踏みこんできた男の顔面へと投げつける。

 半ば慢心もあったのだろう。そうでなくとも真っ暗闇だ。泥土を正面から浴び、わずかに怯んだ隙が命取り。蛇川の、目にもとまらぬ連撃を受けてたたらを踏んだところへ、躊躇なく角材が振り下ろされた。堪らず、ついに小岩がどうと倒れた。



 膝に手をつき、しばらく荒い呼吸を繰り返していた蛇川だったが、やがて懐中電灯を取り上げると襲撃者の風貌をあらためた。


 男の肌蹴(はだけ)た浴衣の胸元には、『一』の字の下に蓮の意匠の刺青が咲いていた。

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