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【旧版】骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第三章 ロマネスク
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六十五:捜索開始

 仕事を頼みたい。蛇川がそう持ちかけたとき、吾妻(あがつま)は焼き鮭の身をほぐすことに執心していた。

 大きく武骨な手は細やかな作業に不向きなようで、箸を入れれば入れるほど、魚は不恰好に崩れていく。


 長々とひとつため息をつくと、諦めたようすで吾妻が箸を投げ出した。目を伏せ、湯気のたつ紅茶をゆっくりと口に含む。吾妻は根っからの紅茶党だが、お茶請けの趣味が抜群に悪い。


「いいけど……多分、蛇川ちゃんが頼みたいこと、あたしが進めちゃってる件の気がするなあ」


「なんだと?」


「当てようか、依頼内容。例の小太り探偵……彼の素性を調べてほしいんでしょ」


「そうだ」


 うーん、と吾妻は垂れた目をいっそう垂らして唸った。

 珍しく、いやに歯切れが悪い。その態度に、蛇川が徐々に苛立ちを募らせていることにも気付かず、なにやらひとり思案している。


「てことは蛇川ちゃん、あの男の仕事手伝うことにしたんだ」


「それがどうした」


「うーん……」


 夕刻に差し掛かりつつある定食屋『いわた』の店内は、しつこく粘っている女性客が数名と、仕事上がりの一杯を楽しむ職人風の男たちで賑わっている。事あるごとに蛇川の容赦ない皮肉に晒される、憐れな山岡巡査の姿も見える。


 早くも話に飽いた蛇川は、退屈しのぎにこのお人好し巡査を観察することにした。


 山岡巡査は、水色が涼やかな小鉢と徳利を一本、机上に抱えこむようにして食事を楽しんでいた。

 小鉢の中身は胡瓜(きゅうり)と海藻の酢の物だ。御菜(おかず)をひと口食べるごとにきゅうっと嬉しそうに目を細め、夏の香りを味わっている。ぬるい酒をちびちびと楽しんでいると、不意に、顔の左半分がちりちりと焼けるような感覚に襲われた。恐る恐る目を上げる。途端、鋭い視線とかち合った。獲物を見つけた捕食者のような、その視線。言うまでもなく蛇川だ。

 口元に拳を置いてはいるが、蛇川のニタリ笑いが革手袋の影から(こぼ)れている。どうやら一部始終を見られていたらしい。


 涼やかな酸味はたちまち失せて、胡瓜の草っぽい味だけが口内に残る。すっかり萎縮した山岡は、細い徳利に身を隠すように縮こまった。無論、丸っこい体がそれで隠しきれるはずもない。まるで間抜けな穴熊のようなその姿に、蛇川は幾分満足したように喉を鳴らした。椅子を軋ませ、座席ごと身体を捻る……吾妻はまだ唸っていた。


 吾妻は真面目な男だ。こうと決めたことは、なにがなんでも守り通す。


 情報屋は、情報の精度と早さが命。だから彼が情報屋として話す以上、決して曖昧なことは口にしない。必ず裏を取ったうえで、確固たる自信を持って話す。それが情報屋・吾妻の決め事だ。

 それがこうも言葉を濁すのは、七曲(ななまがり)の素性調査を始めたはいいものの、まだ何も掴めてはいないということだろう。


「ね、これは友人として言うんだけど」


「近いし、臭いッ。なんなんだ今日は!」


「あのね、まだなにも確証はないんだけど……あの七曲って男、あまり信用しないほうがいいわ」


 いつもより煙草の臭いを強く漂わす吾妻を押しのけ、蛇川は軽やかに立ち上がった。すっきりしない顔つきの相棒を見下ろすと、唇を歪めてせせら笑う。


「見くびるな。僕がいつ他人を信用した?」





 定食屋『いわた』を出ると、蛇川はその足で駒込へ向かった。路面電車に揺られて指定された喫茶店へと向かうと、先に着いていた七曲が手を振って合図する。依頼人に会いに行くのだ。


 その貸家、最上(もがみ)荘は、いかにも日陰者が集いそうな趣があった。

 実際、建物全体も日陰にあって、夏の湿気を三倍にも濃縮したような陰気さがあたりに蔓延している。廃ビルも外観の古さ、薄汚さで言うと引けを取らないが、それだけではない、なにか鬱蒼としたものがその貸家全体を覆っていた。


 共有の玄関口前では諸肌を脱いだ人相の悪い男が鎮座しており、夕飯の御菜だろうか、七輪のうえで黒っぽい魚を焼いている。長身の男ふたりが近づいてくるのを見ると、しゃがんだまま、尖った目つきで来訪者を睨んだ。手にはあちこちが破れて骨の突き出た団扇を持っているが、匕首を手にしているほうが余程しっくりきそうな風体ではある。


 刺すような視線を半身に浴びながら、ふたりは最上荘へと踏みこんだ。()えた臭いが鼻を突く。蛇川が露骨に顔をしかめた。


「最悪だ。こんな豚小屋に押しこめられた日には、僕は自死を選ぶ」


「そいつはまた激しいな。ま、泥のほうが住みよい魚もいるということさ」


「まず真っ当な人生を送ってきたとは思えんがね」


 積もりに積もり、風に集められて質量すら感じられる埃を横目に、忌々しげに蛇川が吐き出した。


「同感だ。それに、恐らく的を射ている。ここ最上荘は、いわば世間の掃き溜めだ。なにせ、入居のための手続きがあってないようなもんだからな。戸籍を出せだの、保証人を立てろだの喧しいことがひとつもない。自然、後ろ暗い過去を持ち、行き場をなくした輩が集まってくる。例の失踪人もそういったひとりだろう」


 貸主は、建物の一階に住まっているという。何度か訪ねたことがあるのか、七曲はまっすぐ部屋に向かうとその扉を叩いた。所々に亀裂の入った木製の扉は、控えめに叩いても大きな音を立てて軋んだ。


 ややあって顔を出したのは、白髪を短く刈り揃えた老人だった。一言でその容貌を表すならば、厳格そのもの。うねる細魚(さより)のような皺に囲まれながら、しかしその眼光にはただならぬ鋭さがある。


「ああ、あんたか。……隣のは?」


「助手だよ」


 口を開きかけた蛇川を制して、七曲がにこやかに答える。骨のない若者であればじろりと睨まれただけで震え上がりそうなその眼光も、七曲探偵には効かぬらしい。世間話をするかのような呑気さである。


「失踪人について、改めて話を聞かせてもらいたくてね」


「なんだ、まだ見つけとらんのか!? 失踪人の捜索は得意だなどと嘯くからお前に頼んだんだぞ!」


「次から看板に『ある程度証拠が揃っている場合に限り』と書き加えておくよ」


 老管理人の怒りを軽くいなしながら、その肩を抱くようにして七曲が部屋に入る。肩越しに振り返って見せるので、蛇川も渋々後に続いた。

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