六十四:七曲
頰を上気させた蛇川が、足取りも軽く駅までの道を辿る。心なしか目が潤んでおり、平素よりは締まりない口元はともかくとして、一種凄まじい色気を振り撒いている。
すれ違う女性が悲鳴にも似た黄色い声を上げるのを見送りながら、七曲が苦笑を漏らした。前を歩く蛇川の華奢な背中を見、次いで視線を真下に落としてみれば、我が見事な中年腹。順調に成長を続ける腹を、七曲は労わるようにさすった。
「まったく。面白いお人だよ、お宅」
「ああ、実に面白かった!」
ぽつりと漏らした独り言を、蛇川は都合よく聞き間違えたらしい。
「やはり栃木山だな。稽古とは思えぬあの迫力、摺り足の凄まじさ。噂に名高い栃木山の土煙を、まさかこの身に浴びられる日がこようとは思わなかった! 礼を言うぞ、探偵」
興奮冷めやらぬ様子で七曲の肩を叩くさまは、普段の彼を知る者が見れば、高熱に頭をやられたかとすら思いかねない舞い上がりようだ。七曲もまさかここまでとは思わなかったらしく、目を丸くしながら笑っている。
「いや、恐るべき熱狂ぶり。そんなに相撲が好きかい」
「自明だ」
「しかしまた、なぜ?」
「好きに理由があってたまるか。好きなものは好きだから好きなんだ」
「わはは、違いない」
日はすでに傾いていたが、道は両国国技館から帰る人々で賑わっている。その顔がどれも赤く染まっているのは、差し掛かる夕陽のためだけではない。年に一度の大興行は、民衆の熱気と興奮を大いに駆り立て、大成功のうちに幕を閉じた。
炊事の煙がたなびく道を歩きながら、気儘な猫のように蛇川がうんと伸びをした。
「思いもかけず、いい一日となった」
「そう喜んでもらえると俺も気持ちがいい。友人の急用とやらに感謝だな」
「莫迦を言え」
不意に、蛇川が七曲を振り返った。口元は依然緩く弧を描いているが、目の潤みはすっかり引いて、常と同じ刃物のような鋭さを湛えている。その突然の鋭さに、思わず七曲が身を引いた。
「いつまで安い三文芝居を打つつもりだ。友人など元よりいなかった。あんたは最初から僕を同席させるつもりで券を二枚買ったんだ。僕の相撲好きなど、とうに調べて知っていたのだろう?」
今度こそ七曲は足を止めた。
突然立ち止まった大柄な男に、後ろに続いていた通行人が不機嫌そうに抗議する。合わせて足を止めた蛇川とふたり、人の波が避けて通るものだから、まるで川の中央に取り残された中洲のようになった。
「将棋でわざと甘い手を打ち、接戦を演じていわたの亭主を喜ばせたのも、わざわざ稽古総見の話題を持ち出したのも、すべては僕の興味を引くため。計算された芝居だった……そうだろう、探偵」
贔屓の力士について熱く語っていたとき同様、その顔には笑みが貼りついていたが、しかしそれが一層不気味さを煽る。
声を詰まらせたまま、七曲が立ち尽くす。呆気に取られたように半開きになった口から、何度か苦しげな息が漏れたが、しかし言葉にはならない。
しばらくそのまま放心していたが、しかし立ち直りは存外早かった。
だらりと下げた両手の拳を軽く握ると、七曲はひとつ咳払いをした。
どこか芝居がかったその動作。驚きをひと呼吸のうちに呑みこんだものか、七曲はいつもの胡散臭い探偵の姿を取り戻していた。
「いや……参った。本当にお宅は面白い。その通りだよ、大将。俺の負けだ……今更言ったところでどうにもならんが、遊郭帰りを言い当てられたときに、もう少し緊張感を高めておくべきだったなあ。あれはなぜ分かったんだい?」
「匂いだ。僕は白粉の匂いが大嫌いでね」
「しかし大将。今時、そこらの女でも白粉の匂いくらいさせているぜ」
「質がいいものは香りが違う。白粉も、珈琲もな」
なんと、まあ。再び歩き出した蛇川の後を追いながら、七曲が呆れたような声を上げた。
「お宅、骨董屋畳んで探偵になったらどうだ? 人捜し専門のさ。捜索人の持ち物のにおいを嗅いで追跡するんだ。きっと流行るぜ」
「莫迦にするなッ、僕は探偵が嫌いだと言ったろう。探偵なんてものは、胡散臭くて尊大で、事件と見れば訳知り顔で首を突っこんでくるような、迷惑千万な奴ばかりだ!」
「ううむ、どうにも天唾という言葉が脳裏をちらつく」
噛みつかんばかりに歯を剥いて見せる蛇川に、しかし七曲はくしゃりと顔中をシワだらけにして笑った。どこか憎めないその面を睨みつけ、蛇川はふんと鼻を鳴らした。
「まあいい。とにかく、互いにいい一日だったことに変わりはない。あんたは目的を完遂した、僕は栃木山の稽古を堪能した」
「うむ。しかし、芝居と分かりながらどうして乗ってきたんだ? どうせ、見返りに例の仕事に協力するよう言い寄られることまで察していたんだろう」
「稽古総見の魅力が、面倒臭さを凌駕した。それだけのことだ」
「なるほど。明快だ」
わはは、と肩を揺すり、愉快そうに七曲が笑った。よく笑う男だった。かと思うと、突然大きな両手を打ち合わせ、先を歩く蛇川を拝んだ。
「そういうわけだ。ひとつ頼むぜ、大将」
「だからそういう、芝居くさい仕草はよせ。いちいち癪だ」
「そりゃないぜ、こいつは素のままなんだから。ところでひとつ教えてくれ。お宅、何回見破った?」
なにを、と言わずとも蛇川には通じた。将棋で、七曲が打った詰めの甘い手のことだ。
ついと視線を上にあげ、局面を思い出すらしい蛇川だったが、やがて七曲に向き直った。
「五回だ」
「そりゃよかった! 俺が手を抜いたのは合計で七回だ、大将。いやはや、一から十まで見通されたかと冷や汗をかいたが、からくも二度はお宅を欺けたわけだ。危うい危うい」
今度は蛇川が呆気に取られる番だった。言われてみれば、と思うふしがないでもなかったが、しかし巧妙だ。
一矢報いて満足したものか、七曲は別れ道に立ってひらひらと手を振った。
「正直なところ、始めは冷やかし半分だったが、大将を訪ねたのは正解だった。お宅とやり合うのは実に楽しい。引き続き、どうぞよろしく」
そのままくるりと踵を返し、ぶらぶらと立ち去っていく。徐々に遠ざかる広い背中は、人混みの中でもひときわ目立っていたが、しかしやがて波の狭間に消えていった。
しばらくの間、蛇川はその大きな後ろ姿を見送っていたが、やがて背を向けて歩き始めた。
きっと、骨董屋ではくず子が心配して待っている。行き先も告げずに飛び出してきたのはまずかった。なにか手土産を買って帰るとしよう。そんなことを考えている。
まさか、稽古総見と引き換えにああも陰惨な事件に巻きこまれようとは、さしもの蛇川もこのときはまだ露ほども思っていなかった。




