六十三:七曲
再び蛇川が定食屋『いわた』を訪れるのは正午過ぎ。空になった弁当箱を届け、自身も昼食をとるためだ。
その時間、小さな定食屋はしばし繁忙を極める。蛇川目当ての女性客が殺到するためだ。
カウンターの最奥の席は蛇川の指定席のようになっていて、そこを存分に眺められるテーブル席は女たちの戦場と化す。
平日はまだいい。ご婦人方は、多少駆け引きはすれどもまだ譲り合えるだけの余裕がある。しかし休日ともなればそこに女学生らが参戦してくるので、ご婦人方対女学生という凄まじい戦局が展開される。ただし騒がしくすると蛇川の大喝が飛んでくるから、戦いは表面上しめやかに行われる。この日の軍配は女学生側に上がった。
「よう、大将」
指定席へと向かう蛇川に、いやに馴れ馴れしい挨拶が投げかけられた。七曲だ。
だらしなく突き出たその腹回りに一瞥をくれると、蛇川は返事もせずカウンターに座った。
蛇川が席に着くと同時に、りつ子が水の入ったグラスを置いた。厨房では無口な亭主がすでに動き始めている。蛇川が頼むものはいつも同じ、大阪の洋食屋『北極星』仕込みの特製オムライスだ。
すげない反応は予想の範疇だったようで、七曲はへらへらとした笑顔を崩さない。席に着く蛇川に合わせて体の向きを変えると、カウンターテーブルに頬杖をついた。
「驚いた、偶然だな。昼食はいつもここで?」
「わざわざ僕を訪ねてやってきた男と二日連続同じ店で会って、それを『偶然』で済ませられるようなおめでたい奴がいたら、是非ッともお目にかかりたいもんだ」
「まあ、まあ」
七曲は突き出した両手をひらひらと振った。喋り口調といい動作といい、どこか芝居がかった男だ。
「そう警戒しなさんなって。お宅、随分と面白い人だったもんでなあ。また会って話せたらと思わんこともなかったが、しかし今日ここへ来たのはそのためじゃない。ここの飯を食ってみたかったのさ……お、きたきた」
焼き魚定食を運んできたりつ子を七曲が拍手で迎える。思わぬ歓待を受けて戸惑ったか、りつ子は蛇川と七曲とを交互に見遣り、すぐに奥へと引っこんだ。
「あいにく、昨日は持ち合わせがなかったもんでな。指を咥えて見ていたんだ。うん、やはり旨いッ」
「……あんた、よく胡散くさいと言われるだろう」
カウンターの向こうで、りつ子がぶんぶんと首を縦に振って同意している。七曲は「うへぇ」と情けない声を上げた。
「非道いぜ大将。感情表現が西欧風なんだと言ってくれ。向こうの国じゃあ、少し大袈裟なくらいがちょうどいいんだ」
「留学経験があるのか」
「いや、ない。わははは」
大声で笑った拍子に口から米粒が飛び出したものを、さっと摘み上げ躊躇なく口へと放りこむ。蛇川の眉間の皺が深くなるのを見、七曲はだらしなく眉を垂らして笑った。緩みきったこの笑顔を見ると、たちまち怒りの角が少しばかり丸まってしまうから、不思議だ。
「食えん男だ」
「まさしく飯を食っている最中がね。わはは、違うか。わはは」
「口を閉じろ、莫迦者ッ! 次に米粒を飛ばしたら張り倒すぞ!」
「失敬、失敬。しかし血の気の多い大将だ」
真実、七曲は飯を目当てに来たらしい。旨い旨いと無心に呟きながら、箸を休めているときには亭主と雑談に興じている。亭主はもっぱら聞き役だったが、しかし興味を引かれてはいるらしかった。話題がチェスや将棋ばかりだったからだ。どちらも亭主が愛してやまないものだ。
「どうだろう、一局」
ついに堪え切れなくなったか、期待に満ちた目で亭主が言う。
蛇川の入店前後に殺到した注文は、すでに捌ききっている。少しくらい遊びに興じても怒られはしまい。
少し奥に入ったところに立派な将棋盤と駒、それにチェス道具一式が揃っていることを、蛇川はよく知っている。過去、蛇川も亭主からの挑戦を受けたことがあるからだ。しかし数局の対戦を経て、やがて亭主は蛇川に挑まなくなった。
「や、それは嬉しいな」
七曲が顔を綻ばせると、亭主はいそいそと将棋の準備を始めた。ボードゲームのこととなるとたちまち童心に返る父の姿に、りつ子が少し困ったように笑う。亭主が心置きなく楽しめるようにと、厨房へ入ると皿洗いを始めた。
戦局は五分五分だった。しかし油断ない蛇川の目は、七曲が多少癖のある打ち方をすることを見抜いていた。亭主が追いこまれ、いよいよ苦しくなってくると、調子づいてしまったものか、少し甘い手を打つのだ。
甘いとはいえほんのわずかなものだから、最初亭主はやはり苦しむ。しかしウンウン唸りながら考えるうち、小さな小さな綻びを見つけて、すかさずそこへ駒を進める。そういうことが何度かあった。
最終的に、勝ったのは七曲だった。亭主は悔しそうにしていたが、しかし手に汗握る攻防にはすっかり満足したものか、珍しく頰が赤らんでいる。
「やられた、さすがに強い」
「いやいや、ご亭主も相当な強者だった。何度ひやりとさせられたことか。どっちに転んでもおかしくなかったが、最後は運だな。俺は運が強いんだ」
「どうかな、次はチェスでも」
言いながら、亭主は早くもチェス盤を取りに行こうとしている。しかし七曲は慌てて手を振ってそれを止めた。
「や、せっかくなんだが、今日はこの後出掛けねばならん。チェスはぜひ次の機会に」
見る間にしょげ返る父を不憫に思ったか、りつ子が水のお代わりを運びついでに話を継いだ。
「いい天気ですものね。どちらまで?」
「やあ、ちょっと両国のほうまで」
「また遠いところまで。お仕事ですの?」
話し口調がすっかり余所行きになっている。ですの、だと? 取り澄ましやがって。似合わん。新聞を広げながら、蛇川は何気なく耳で会話を拾っていた。
「いや、遊びさ。今日は大相撲の稽古総見があるんだ、見逃すわけにはいかん」
「稽古総見! 今日だったか!」
いきなり、蛇川が新聞をばしりと叩きつけた。突然の物音に店内の女性陣から小さな悲鳴があがったが、しかし蛇川は顧みもしない。革手袋をはめた手でがしがし頭を掻き毟ると、実に悔しそうに唸った。
「なんということだ、すっかり忘れていた……。きっとあのときだ、麻疹草が珍しく大きな花弁をつけていたから、記録に取っておこうと……ああ、やってしまった……焦ってやったから、うっかり記憶から漏れたに違いない」
「おいおい、お宅の脳は桶かなにかか? うっかり蹴つまずいたら中身が溢れてしまうのかい」
「そんなものだろ……」
「そんなものかねえ」
呆気に取られ、七曲がりつ子を振り向き肩をすくめる。つられて同じ動作を返したりつ子だったが、相手がまだ馴染みでもないことを思い出し、慌てて澄まし顔を取り繕った。
「しかし、お宅が相撲好きとは驚いた。どうだろう、実は、一緒に観に行く予定だった友人が急用で来れなくなったんだ。観覧券が一枚余っている」
がばりと蛇川が顔を上げた。こぼれた前髪が額にかかっている。
「いいのか!」
「いいとも」
「ならば行こう、今すぐに! おいッ、弁当は店に届けておいてくれ!」
言うが早いか、蛇川は既にいわたを飛び出している。えらくまた熱狂的だね、と苦笑しながら、七曲のどってりと大きな背中がそれを追った。




