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【旧版】骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第三章 ロマネスク
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六十二:七曲

 蛇川の一日は夜明けとともに始まる。


 変わった男で、寝台を嫌い、三人掛けの上等なソファで寝起きしている。ソファには大小様々な形のクッションが無造作に積まれていて、そこに細長い身体を沈みこませて眠るのだ。

 しっとりとしたベロア生地のクッションは、ワイン色に金糸で民族調の刺繍が施されたものや、とろりとした濃紺のもの、弧を描いた柔らかな毛の、まるで土汚れを知らない子羊のようなものまで様々で、統一感が無いようで在り、在るようで無い。


 木綿の浴衣に着替え、ゆったりくつろいで眠る日もあれば、洋装のまま倒れこむようにして眠りに落ちていることも多い。実際のところ、だらしがない。


 鶏鳴(けいめい)が暁を告げるよりも早くに瞼を開け、上体を起こすが、しかしそのままゆうに半刻(約一時間)は身動ぎもせず、固まっている。

 その間、彼がなにを思っているかは常人の知るところではない。気が遠くなるほど膨大な知識量を、その脳内のどこへ詰めこむか思案しているものかもしれず、あるいは、ただ単にひどく寝覚めが悪いだけかもしれない。


 やがて大きく伸びをする。身体中の空気を一新するかのごとき盛大な欠伸をひとつやって、それからようやく身を起こす。


 寝ている間にいくつかクッションが落ちているが、大概は足で蹴り飛ばすのみで、拾おうとしない。ごくまれに、初めて気がついた、といった風にふと足を止めて拾い上げてみたりもするが、気まぐれだ。



 寝室を出ると、まずは別室で寝ているくず子の様子を伺いに行く。細くドアを開け、布団の小さな膨らみが、愛らしい寝息に合わせて上下するさまを確かめると、開けたとき以上に慎重な手つきでドアを閉める。


 次いで蛇川は台所に向かう。そこで、彼が唯一できる内向きのこと――湯を沸かす――をする。秘蔵の水出し珈琲を湯煎で温めるためだ。

 うだるように暑い夏でも、蛇川は熱い珈琲を飲む。これは譲れない決まり事だ。


 身支度は手早く、湯煎している()に済ませてしまう。

 顔を洗い、薄く香油をつけた櫛で髪を撫でつけ、真新しいシャツに袖を通す。髭をあたることは滅多にない。そういう体質らしい。


 そうこうしているうちに、珈琲の芳ばしい香りが台所から溢れてくる。



 蛇川の朝食は実に簡素だ。こだわりの珈琲を一杯と、並んだ硝子(ガラス)瓶に詰められた色とりどりの金平糖を、数粒だけ。


 金平糖は、吾妻が手土産に持参したものだ。


 冗談半分に持って行ったら、これが存外屁理屈王のお気に召したようで、以来、わざわざ同じものを買い求めるため遠くまで足を伸ばしているらしい。

 ただ、店の目と鼻の先には遊郭があって、馴染みの芸妓がいるものだから、実のところ、どちらを目当てにしているのかは分からない。分からないが、元々が遊女らの機嫌取り用に高級品を取り揃えた店だから、金平糖も実に小ぶりで愛らしく、品よく甘い。


 口に入れると溶けてしまう瓶詰めの宝石には、くず子もたいそう興味があるようで、よく爪先立ちになって並べられた瓶を見つめている。幼くとも、心は既に女らしい。好きに食べていい、と蛇川は何度も伝えているが、しかし頑なに口にしない。なにか、神聖な物のように思っているらしい。


 とにかく、その金平糖を数粒。


 (ささ)やかな朝食をすませてしまうと、インバネスコートを羽織って街へ出る。まだ密やかな眠りの中にある、帝都東京へ。




 散策する道に決まりはない。気に入りの経路もあるにはあって、深く考えに耽っているときは無意識にそこを辿っているらしいが、普段は様々な道を行く。細い路地を見つけると好んで入る。


 珍しい草花を見つけると足を止め、色や形、香りなどを丹念に調べる。片手ほどな大きさの辞典を取り出し、照らし合わせてみては、なにかを書き加えなどもする。


 鳥や昆虫、土までもが蛇川の興味の対象となる。時に土を口に含みさえするので、人通りが多い時間帯であればどんな噂が立つものか分からない。なにを囁かれたところで、蛇川本人は気にも留めないだろうが。

 こうして、書物から得た膨大な知識が、実地を経て蛇川の中に根付いていく。



 きっかり半刻の散策を終えると、その足でまっすぐ『いわた』に向かう。銀座の一角にあるこの定食屋の飯はどれも旨い。酒もある。


 慣れた手つきでドアを開けると、開店前の準備に勤しんでいたりつ子が心得たようすでカウンターに向かう。


 看板娘のりつ子は、亭主のひとり娘で、今年で幾つになるといったか。会話の流れで聞いたことがあったような気もするが、とうに忘れた。蛇川はそういう男だ。自分に必要な情報と、そうでないものを瞬時に分類し、後者と判断されたものはすぐに忘れる。


 カウンターに用意された包みを取り上げると、りつ子はそれを蛇川に渡す。

 竹でできた弁当箱の中身は、俵型のおむすびといくつかの惣菜。くず子の朝食だ。


 対価を差し出すこともなく、ほとんどの場合は会話すらもなく、目的を果たした蛇川はさっさと自宅へと帰って行く。

 りつ子は蛇川から金を受け取ったことがないが、きっと大人同士の取り決めがあるに違いない、とは思っている。


 事実、蛇川は毎月初めにまとまった額をいわたの亭主に渡している。現金で、それもたいそうな金額を惜しげもなく置いていく蛇川に、実のところ亭主は多少困惑もしているのだが、言って聞く相手ではないので黙っている。その代わり、いい食材が手に入ったときには、まず蛇川とくず子のためにそれを回す。蛇川も知らない、無口な亭主なりの感謝の気持ちだ。



 骨董屋『がらん堂』が入居しているビルの正式名称は誰も知らない。

 通称、廃ビル。築年数は相当に長いはずだ。


 その昔、コンクリートの外壁には赤茶の塗装が施されていた。

 異国情緒がある、というだけでなんだろうと歓迎された当時、煉瓦造りの建物は庶民の憧れであった。文化住宅が万博で展示されたのもこの頃だ。


 廃ビルの家主もこの流行に乗りたいと考えた。

 銀座の外れに位置するこのビルは、立地がすこぶるいいわけではなく、外観に魅力があるわけでもなく、とはいえ腐っても銀座、賃料はそれなりに高いために入居希望者がなかなか現れない。しかし、煉瓦造りに改装するとなれば、たとえ通りに面した部分のみといえども大金がかかる。苦肉の策として持ち出したのが赤茶のペンキだ。


 素人の手でペンキを塗りたくられたビルは、遠目には煉瓦調に見えなくもなかったが、少し近づいて見ればお粗末なもので、元々埋めこまれていたタイル飾りとの相性も悪く、とても趣味がいいとは言えない有様。当然、入居希望者が増えるはずもなく、いつしか塗装は禿げ、道を行く馬車があげる土埃が幾層にも積み重なり、赤茶のペンキは灰色に変わった。


 蔦が這う外壁は風雨に割れて、欠けた窓硝子は嵌め直す気がないものと見え、粘着テープで素人丸出しの修繕がなされているのみ。

 今にも崩れそうなその外観と、ビルを覆う灰色をかけて、ついたあだ名が『廃ビル』。がらん堂はその三階にあった。

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