六十一:七曲
げえっ、と吾妻がひしゃげた声を上げた。
蛇川、いや、捻くれ者の山田一二三は、目を丸くするふたりには構いもせず、長い足を悠然と組んだ。
古ぼけた定食屋にあって、上等な蒸留酒のポスターを切り取ったかのごときその佇まいと、恐ろしく辛辣な新聞コラムとを交互に見やり、吾妻は再度「げえっ」と声を漏らした。
「蛇川ちゃん、あなたいつから新聞記者になったの」
「莫迦を言えッ、僕は骨董屋だ! そんなもの、頼まれて仕方なくやっているに過ぎない」
「しっかし、山田一二三とはまあ」
「思いつきだ、意味などない。はじめは『山岡バカ史』にしようと思ったが、許可が下りなかった」
吾妻と、丸盆で口元を隠したりつ子が顔を見合わせる。くく、と蛇川が喉を鳴らした。この男がこんな顔で笑う場合、まずもってろくなことがない。
「山岡巡査は、名を『聡史』というらしいと聞いてな。あまりに名前負けして憐れだったもんで、相応しいものを提示してやろうと思った」
「それはまた……」
言葉をなくした吾妻が、慌てて店内を見回した。幸い、うだつの上がらない中年巡査の姿は見当たらない。哀れ、納豆の糸を縁として蛇川と知り合ったばかりに、ひどい言われようの官憲である。
わいのわいのと盛り上がっていると、入り口のドアが押し開けられた。古びた扉が甲高い音を立てて軋み、埃っぽいにおいと、往来の熱気が店内に流れこんでくる。気づけばすっかり夏になっていた。
「いらっしゃいませ」
余所行きの顔と声音に素早く切り替え、りつ子が愛想よく応対する。
初めて見る顔だった。蛇川よりは歳上、吾妻よりは歳若に見える、中年の男。
よれてところどころが黄ばんだシャツは肘まで捲り、伸びきって意味をなさないサスペンダーは、立派に突き出た腹のあたりでたわんでいる。日に灼けて傷んだ髪は方々に跳ね、不揃いな束になって垂れ下がる前髪が、顔の左半分を覆っている。
不審極まりない見た目とは裏腹に、やたら人懐っこい笑顔をりつ子に向けると、男は無精ひげだらけの顎をさすった。
「やあ、どうも。悪いが姉ちゃん、骨董屋の大将は来ているかい?」
その言葉に蛇川と吾妻が同時に反応する。
心持ち眉を持ち上げ、目だけで闖入者を見遣るだけのわずかな反応だったが、しかし男は目敏く気付き、例の笑顔をふたりに向けても振りまいた。ずかずかと歩み寄ると、ふたりの間の空席に身体を捩じこむ。
「やあやあ、あんたか! いや、会いたかったよ。聞きしに勝る色男だな」
「……いかにも僕が骨董屋だが」
心持ち語気も鋭く、蛇川がそう宣言する。新聞記者、とからかわれたのがよほど腹立たしかったらしい。蛇川は新聞記者が嫌いだ。
「なんの用だ。社会運動の勧誘なら断る。台湾同化会などクソ食らえだ!」
「まあまあ、そう熱り立つなよ。俺は運動家などじゃあない。大将には、仕事の話で会いにきたんだ」
眉根を寄せる蛇川の前に、男が名刺を差し出した。腸詰のように太い指から受け取った名刺は、男のシャツ同様によれよれだった。男の割りこみに面食らっていた吾妻が、少し不機嫌そうにしながら丸い肩越しに覗きこむ。
「『七曲探偵事務所 所長 七曲』?」
「うむ。失せ物、失せ人をお探しの際はどうぞご贔屓に」
七曲と名乗る中年男は、再びにっかと笑って見せたが、その笑顔の前でよれた名刺が宙に舞った。
名刺を投げ捨て、汚れを払うように細長い指をこすり合わせた蛇川は、刺すような目つきで七曲を睨んだ。
「僕は探偵という職業が嫌いだ。ついでに言うと、恥じらいもなくへらへらと探偵という職業を名乗る人物も大嫌いだ」
「こいつは手厳しい」
よっこらせ。腹の肉に邪魔されながらも、取り立てて気を悪くした風もなく名刺を拾い上げた七曲は、上体を起こすとくしゃりと破顔した。そうすると顔中がシワだらけになって、まるで稀少な蝶を見て喜ぶ少年のような、しかしどこか達観した老人のようでもあり、一種独特の雰囲気を持つ男だった。
「頼むよ大将、困っているんだ。失踪人を探してくれと頼まれたんだが、まるで手掛かりが掴めない。何年か前にふらりと帝都へ現れたようだが、それ以前の足取りが追えんのだ。付き合いの悪いやつで友人もなく、行きつけの店もなく、痕跡を辿る術が見当たらん」
「依頼人に聞けばいいだろう」
「残念ながら、奴さんが二年に渡って家賃を踏み倒している怪しからん野郎ってこと以上の情報は出てこない。依頼人は奴さんが住まっていた借家の貸主だ」
「ならば知らん。そもそもなぜ僕に頼る、餅は餅屋だろう」
すると七曲はにやりと笑い、低い声で歌い出した。どうしてなかなか、ぱっとしない風采からは想像もつかない、よく通る好い声をしている。
ひとつ 困れば あにさまへ
ふたつ 困れば かかさまへ
みっつ 困れば ととさまへ
よっつ 困れば 鳥籠※へ
それでも 無理なら 骨董屋
ビスク・ドオルが お出迎え
(※鳥籠:駐在所の意)
「ハアヨイヨイ、と」
「なんだそのふざけた歌は」
「どこで聞いたものかねえ。ともかく、ある界隈では結構な有名人だぜ、大将。どうしようもなく困ったときには、麗しの骨董屋亭主を頼れとよ」
言いながら、再び名刺を渡そうとする。黒い革手袋と天板の間に無理に滑りこませようとしたものを、蛇川は指先で払い落とした。
「万屋かなにかと勘違いしていやがる。悪いが僕は忙しいんだ。遊郭帰りでいい気分の不良探偵なぞに付き合っている暇はない」
きっぱりとそう吐き捨てると、蛇川は颯爽と定食屋を出て行った。後に残された七曲は、右目をきょろりと丸くすると、二、三度瞬きしてから吾妻を振り向いた。
「言ったかな、俺、遊郭帰りと」
「……さてね」
竹を割ったような気性のこの男にしては珍しく、しつこく不機嫌を引きずったままの様子で、探偵には一瞥もくれずに吾妻が呟いた。