六十 :七曲
滝のような……いや、足りない。
怒り猛る黒龍が、千々の鱗を雷に光らせ、長い胴体をうねらせるような……これでもまだ物足りない。
燦然と輝く幾千の星という星が、みな満杯の水を湛えた桶と化して、それを一斉にざばりとやったような――これだ――そんな、未曾有の豪雨が山外れの村を襲っていた。
もう、降り出して十日になる。
はじめのうち、大雨は歓声をもって迎えられた。険しい山々に雨雲を遮られ、天の恵みを受けづらいこの村にとって、雨は貴重なものだ。しかしそれが五日続き、七日をすぎると、歓声はすっかり悲鳴へと変わった。降り止まない雨に田畑は泥沼と化し、その水面には育ち始めたばかりの苗が力なく浮かび、道と川の境目が消え、老人と子供は一切の外出を禁じられた。
どこにこれほどの雨水が隠されていたかと思われるほど、勢い衰えず降り続く雨に、作物という作物はどれも例外なく駄目になった。増水した川に押し流されて川沿いの蔵がいくつも潰され、貯蔵分すらも心許ない。しかし何より村人らを焦燥に駆り立てたのは、村の西にある橋が流されたことだった。
先にも述べた通り、この村は天の恩恵を受けづらい地形にある。よって作物が育ちづらく、ようよう収穫できたとしても、その実はひどく貧相だ。それだけでは食べていけない。
そこで祖先らは、他の活計を考えた。山には、雨量が少なくともぐいぐい伸びる、青々とした竹が無数に群生している。それを用いた。
最初のうちは随分と手こずったが、元々、わずかな収穫量で糊口を凌ぐべく、様々な工夫を凝らしてきた村の民だ。持ち前の忍耐強さと、洗練された手先のために、神妻村の竹細工はやがて都にも聞こえるほどの名品へと成長した。
街道から渡された橋は、これまでは道の行程を見誤った旅人がわずかに頼り来る以外に用途がなかったが、神妻村の竹細工が知れ渡ると同時に、たくさんの行商人らが日々行き来するようになった。当時の街道沿いでは、最も賑わった橋といっても過言ではない。
時代を経ても、見事な竹細工は神妻村を豊かにした。それは今でも続いており、商売の町大阪や、帝都東京の大手問屋と契約を結び、定期的に細工品を卸している。そのための橋が、壊れた。
辺鄙な村と、外界を繋ぐ唯一の手段が取り払われ、村はたちまちのうちに困窮した。やむなく自活しようにも、貧弱な作物では村人全員を養うことはできない。村人らは夜な夜な村長の家に集まり、どうどうと鳴る豪雨の音に縮こまり、ため息をつきながら、小さな声でなにやら密議する様子であった……
『いわた』亭主が読み終えた新聞を、我が物顔で手に取った吾妻が、ゆったりと椅子に腰掛けて紙面を開く。慣れた手つきでお目当ての頁を開き、期待に光る目を滑らせる。しかしすぐに落胆の声が上がった。
「どうしたの? また米が値上がりでもした?」
例のごとく紅茶を運んできたりつ子が、同じように紙面を覗きこみながら問いかける。今日のお茶請けは鰹のタタキだ。
物価の基準たる米価の変動は、りつ子ら飲食店を営む者はもちろん、日々の暮らしに手一杯の庶民らにとっては関心の種だ。しかし吾妻の関心は別にあった。
「ううん、違うの。連載小説。楽しみにしてるのに、休載だって」
「吾妻さん、小説なんて読むの? 意外だわ」
あら、と吾妻は鼻腔を膨らませた。
「失礼しちゃう。あたしだって文学ぐらい嗜むわよ。知らない? 新進気鋭の若手作家、倉持順平。かの二葉亭四迷をして天才と言わしめた、文学界期待の星よ」
「ふうん。なんて小説を書いてらっしゃるの?」
「いま連載しているのは『莫連』ね」
「いやだ。どんな内容?」
「んー、任侠モノ……かな」
カウンターの向こうで、いわたの亭主がちらりと視線を上げた。
意味ありげな視線に、ばさりとやった新聞で吾妻が顔を隠す。バツが悪そうに話題を打ち切ろうとした吾妻だったが、しかしりつ子が食い下がる。
「駄目よ吾妻さん、そっちの道に興味を示しちゃ。ああいう界隈の人たちは怖いから決して関わり合いになるなって、山岡さんも言ってたもの」
「あはは、全然そんなじゃないわ。ただ、細部までいやに生々しく書かれているもんだから驚いちゃって」
ひとつ席を空けてカウンターに並ぶ蛇川が、口の中にオムライスを詰めこんだまま「語るに落ちるとはこのことだな」とせせら笑った。行儀の悪さをたしなめるように、ちらりとそちらを見やったりつ子だったが、すぐに頬を膨らませて吾妻に向き直った。
「変なの。まるで極道の世界を知り尽くしているみたいな口振り」
「えへん、おほん。ま、ただの好奇心よ。知らない世界って物珍しいじゃない?」
グラスを傾け、ひと息に口の中身を流しこんでしまってから、蛇川は空のグラスをカウンターに叩きつけた。それをきっかけに会話が途切れる。
こほんとひとつ、蛇川が咳払いする。
「倉持順平は、通称『取材狂い』だ。題材を決めたら一心不乱、昼夜を問わず駆けずり回っては題材についてを調べ尽くす。財界の黒い噂からオニヤンマの交尾方法まで、奴が興味を持ったものは、すべて精密な取材のもと、小説という形で白日に晒されるというわけだ」
「なんだか、すごい人ねえ」
思わぬ助け舟に、吾妻の眉が垂れ下がる。
りつ子は吾妻の真の顔を知らない。情報通の、風変わりな男という認識しかないはずだ。会合の取次をしている亭主は、その会合場所から吾妻が堅気でないことを薄々察してはいるだろうが、しかし無駄に深入りはしてこない。さすが処世には長けている。
「それより、りっちゃん、見て見て。倉持順平が休載のときは、別の人が代わり番こでコラムを載せるのだけど……この、山田一二三って人。毎度毎度、書く内容がえげつないのよ」
「うわっ、名前からして捻くれ者って感じ」
「ね。ほら、今日のコラム……『性善説と性悪説』。冒頭から飛ばしているわよ。『其も、確固たる根拠なきものを信じること自体が莫迦々々(ばかばか)しい』」
あまりに辛辣な切り捨てように、顔を寄せ合ってくすくすと笑いを漏らしていると、意外なところから続きが聞こえた。蛇川だ。
「『性善説に則り……などという言い分は、能無く、責任無く、用心無き者の妄言に過ぎない。即ち愚か者の所業である』
捻くれ者で悪かったな。これを書いたのは僕だ」