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【旧版】骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第二章 激動
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五十九:激情が帰結する場所

 シャリ、という涼やかな音が心地よく鼓膜を揺らす。夢と(うつつ)の狭間を行き来しながら、蛇川は重い瞼を上げた。


 まず目に入ったのは見慣れた天井だった。等間隔に組まれた十字の梁。吊り下げられたランプ。壁に染みついた、嗅ぎ慣れた珈琲豆の香り。住み慣れた骨董屋の一室だ。


 脇に置かれたクッションを抱えこもうとして、蛇川は激痛に呻いた。焼けるような痛みが左肩を襲い、痺れが全身に伝播(でんぱ)する。痛みに驚き、息を吸いこんだだけで折れた鎖骨が悲鳴をあげる。喘ぐことすら許されず、蛇川は食い縛った歯の隙間から細く吐息を漏らした。


 耳障りな音が響いたのは、ようやく蛇川が呼吸を落ち着けたころだった。

 首を(めぐ)らせることもできず、額に汗を浮かせ、瞳だけを動かして音のほうを伺う。


 りつ子がそこに立っていた。左手に剥きかけの林檎を、反対側の手には果物用ナイフを持っている。足元には平皿の破片とくし形の林檎がいくつか散らばっていて、どうやら膝のうえに剥いた林檎を並べていたものを、それを忘れて立ち上がったらしい。

 力が抜けた右手から今にもナイフが滑り落ちそうで、危ないぞ、と言おうとしたが、しかし掠れた喉からは満足に声も出なかった。


 定食屋『いわた』で立ち働いているときには三角巾で纏めている前髪を下ろし、真っ直ぐな髪を肩に垂らしたりつ子は、どこか大人びて見えた。胡桃型の大きな瞳が、みるみるうちに濡れていく。


「りっちゃん、どうしたの?」


 細く開けられたドアから、和装姿の吾妻(あがつま)が顔を覗かせる。途端、りつ子は無言のままに身を翻し、吾妻を突き飛ばす勢いで部屋を飛び出していった。

 ナイフを手にしたままのりつ子に突進を受け、俊敏に間を取った吾妻は、しばらくその後姿を見送っていたが、やがてのそりと部屋に入ってきた。りつ子の様子を気にかけながら、後ろ手にドアを閉める。


「やっと起きたのね。どう、調子は?」


 やっと? 不自由そうに唇を動かす蛇川を見、合点した吾妻が苦笑する。寝台代わりの三人掛けソファに歩み寄ると、サイドテーブルから水差しを取り上げた。華奢な吸い口を蛇川の口元に差し出し、(むせ)ないよう、ゆっくりと水を注いでやる。


「そりゃあ、喋れないわよね。蛇川ちゃん、あなた五日間も飲まず食わずで眠りっぱなしだったのよ」


 今回ばかりは死んじゃったかと思った。吾妻は白い歯を見せて笑った。


 乾ききった喉を、常温の水が優しく潤していく。ゆっくり瞬きをして見せると、心得たように吸い口が離れていく。


「くず子さんは」


 開口一番、蛇川が発した言葉に、吾妻が癖のある前髪を指で払いながら破顔する。


「健康、だけど元気じゃない。起きているときも、寝ているときも泣いているわ」


「……あれは?」


「りっちゃんが泣くのは、寝ているときだけ。後で御礼言っておきなさい。泣いて取り乱すくず子ちゃんを、ずっと気丈に支えてくれたのはあの子なんだから」


 蛇川は答えず、よく磨かれた床に視線を落とした。りつ子の料理は、旨い。いわた亭主から直々に調理のいろはを仕込まれたのだから、当然といえば当然だ。父譲りの味付けと、女性ならではの感性だろうか、こだわりの飾り切りは亭主をも凌ぐ腕を持っている。

 しかし、床に散らばるくし形の林檎は、どれも不格好で、ところどころに皮を残したままだった。


 鎖骨を気にかけながら、慎重に息を吸いこむ。新鮮な空気で肺を満たすと、蛇川はゆるゆると息を吐き出した。

 吐息が体内の管を駆けていく音を聞きながら、静かに薄い瞼を閉じる。行儀よく並んだ長い睫毛を、昼下がりの陽光が照らす。どこかの家で蓄音機が鳴らされているのか、陽気な旋律が切れ切れに聞こえてくる。炊事の準備に忙しい家々から、食欲をそそる香ばしい湯気が流れてくる。


 終わったのだ。




 帝都東京都知事の死は、当然、新聞各社が一面に大きく取り上げる騒ぎとなった。紙面には各界の著名人からの弔辞が連日掲載され、次期総理大臣の筆頭候補とも目された都知事の「落馬事故による不慮の死」を悼んだ。


「安達家分家の仕業だそうよ」


 調べあげたのはギンだという。


「安達泰人には寿太郎以外に子供がなかったし、兄弟もいなかったからね。次の安達家当主は分家の誰かが継ぐことになるわけだけど、その一連の騒動のなかで例の部屋のことを分家連中も知ることになったの。安達泰人が何者かに殺された、なんて大事件、もしも世間に知れたら、あの屋敷は隅から隅まで調べ上げられることになるわ。そうしたらきっと、あの部屋の実態も、安達泰人の狂人ぶりも明るみに出ることになる。それは困るってわけで、穏便に済ませる策を取ったのね」


「どこまでも性根の腐った連中だ」


 ふふ、と吾妻が鼻だけで笑う。しかし、ふと眉間に真剣みを浮かべると、改まった様子で蛇川を伺った。


「……ねえ、ひとつ聞いていい?」


 軽く眉を持ち上げ、蛇川が先を促す。


「隠し廊下で、あの男に言ってたこと……『時代は民主主義だ』って、『どちらが真の鬼かは民衆が決める』って。あれ、蛇川ちゃんの本心?」


「莫迦を言えッ」


 吾妻の言葉が終わらないうちから、噛みつくようにして蛇川が割りこんだ。勢いづいて話し出したために、左肩を再び激痛が襲い、蛇川は腹立たしげに呻いた。


「狂人が訳知り顔で民主主義などを語るから、小馬鹿にして言っただけだ。民衆がなんだ。僕の罪を知り、僕を裁けるのは、この世で唯一僕ひとりだ。大多数の意志なき意思に、己の道を曲げられてたまるかッ!」


 語るうちに興奮が抑えられなくなったか、徐々に激しさを増す口調に、しかし吾妻の笑顔が深まる。痛みに喘ぐ相棒を気遣わしげに見つめながら、よかった、とこぼした。


「安心した。それでこそ蛇川ちゃんだわ」


「連中が僕らを脅かす可能性は」


「それはまだ分からない。世間向きはそうしておいて、裏で手を尽くしている可能性だってなくはない。今のところ、そういった動きは見られないって話だけどね」


 でも、と言って吾妻が右腕だけで伸びをした。銃弾と刃に貫かれた左腕は、白い三角巾で吊られている。


「あなたは心配しなくていいわ。後のことはあたし達に任せて、身体のことを一番に考えなさい。元気になったら、あなた、逢引の予定がたくさん詰まってるんだから。女を泣かせると、後の始末が大変よ」


「……努力はする」


「よろしい。ま、落ち着いたらうちの親仁(おやじ)にも会ってやってくれ。先生のことをえらく気にしていた」


「……まあ、世話になったしな」


 常になく素直な銀座の屁理屈王に、相棒がくつくつと笑い声を漏らした。





(第二部:激動  了)

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