五:童喰らう鬼
安田の落とした銃を構え、しばらく外を伺っていた吾妻だったが、応援がくる気配がないのを確認してから室内へと向き直った。
部屋の中央では、蛇川が仰向けに大の字になって寝転んでいた。珍しい灰褐色の瞳は薄い目蓋に覆われ、胸が浅く隆起している。
撫でつけた髪が乱れ、汗に濡れた額に幾筋かの前髪がかかっているのを見、吾妻はその側に屈み込んだ。
「女学生が見れば卒倒ものの色気だな」
散らばった前髪を払ってやると、蛇川は眉間に皺を寄せて抗議の意を示したが、それを振り払うだけの気力はまだ戻ってないらしかった。
鬼を斬るとは、その霊を断つこと。
その成り立ちと理を知り、その総てを抱き、あの世へと導いてやること。
疲れるな、という方が無茶だった。
正憲の啜り泣く声の他には、何もない時間が過ぎていく。その傍らに、蛇川に『斬られた』鬼が淡墨のように漂っている。
畳の一部は割れ、または踏みこまれた衝撃で凹み、無事なものにもあちこちに血痕が飛び散っている。
小澤正人が伸びている畳こそ悲惨だった。気を失い、緩んだ膀胱から漏れた尿が染みを広げ、酷い臭気を放っている。
柱には銃痕が残り、障子は枠から折れ、部屋の後方にあった調度品の壺は、吾妻が拝借して全て叩き割ってしまった。
二人が部屋に通されてから、せいぜいが一時間といったところか。
その短い間に、部屋の中はすっかり様変わりしてしまっていた。
「いや、ついてきて正解だった」
かろうじて無事を保っている畳の上にあぐらをかき、吾妻は両の拳を撫でた。安田ほか五人の男を殴り倒した拳は、皮がめくれて薄っすらと血が滲んでいた。
「……タクリー号は、そんなに乗り心地がよかったかね」
「お。軽口を叩く元気は出てきたらしいな」
からからと笑う吾妻の口調は、本来の彼のものに戻っている。
吾妻は几帳面な男だ。
和装に身を包み、女言葉を操る『情報屋・吾妻』と、スーツを着こみ、内に秘めた暴力で相手を威圧する『鴛鴦組若頭・吾妻』の顔は、きっちりと分ける。
「僕の目的は果たした。あとはあんた達の組が好きにやればいいさ」
ふっと短く息を吐きながら、蛇川が身を起こす。乱暴に前髪をかきあげる相棒に、吾妻は身振りで「どういうことだ?」と尋ねた。
「小澤正人を強請るなりなんなり……煮るも焼くもご自由に、ということだ。これだけの邸宅を構えているんだ、揺すれば相当なものが降ってくるだろ。情報への報酬代わりだ」
「おいおい、見くびらないでくれ。女房殺し子殺しをネタに小遣いをせびれってのか? 俺ァごめんだぜ。仁義にもとる」
「フン……誰に対しての仁と義だ」
吾妻は懐からハンケチを取り出すと、両の親指で挟んで「そこなる正憲坊に」と巫山戯た。
片眉を上げて見せる蛇川に破顔して見せ、吾妻はハンケチを振り回した。
「おや、知らないか……『御敷居内、御免下されまし』ってなァ、こう、本来であれば羽織の紐を挟むんだが」
「莫迦。誰が仁義の切り方を訊いた」
「冗談さ。まあ、なんだ。うちの組が寄ってたかって虐めちゃあ、小澤家なんぞひとたまりもねえ。母親に死なれ、殺されかけすらしたガキを、このうえ路頭に迷わせでもしちゃあ、寝覚めが悪くていかん」
「……相変わらずだな」
ん、とくぐもった声を漏らしながら、蛇川が座ったままうんと手を伸ばす。放り出されていたままの鞘を掴むと、真剣な面持ちで短刀の刃を収めていく。
その横顔を見ていた吾妻が、「あ」と間の抜けた声をあげた。
「だったらさ、先生。今回の『涙』は俺にくれよ。それでいいよ、報酬は」
「莫迦なッ! あれの価値はあんたも知っているだろう。一回分の報酬にはとてもとても収まらん。少なくともあと三回、いや五回はタダ働きしてもらわねば到底見合わんものだ!」
「だ、そうだ。熱いよなァ、この人。五回先の逢い引きまで予約しちゃおうってンだから」
いつの間にか涙も忘れ、きょとんとして二人のやり取りを見守っていた正憲に向かい、吾妻が笑う。正憲もつられて曖昧な笑みを浮かべた。
盛大に溜め息をつきながら、蛇川は今度こそ刀身を鞘に収めた。チン、という耳触りのいい音が響く。
それをきっかけに、鬼の残骸の靄が動いた。
「あッ……」
突然色が薄くなった靄に、正憲が思わず腰を浮かせる。恐ろしさゆえに逃げるかと思えば、しかしその手は目の前の靄へと伸ばされた。
正憲の指の間を、身をくねらせるようにして抜けていった靄は、その小さな頭の上で一度揺れ、それからすぅと流れるように蛇川へとまとわりつき、消えた。
風もないのに蛇川のシャツの襟がふわりとなびく。
柔らかな風は上へ上へと昇っていき、その整った顔を包みこむ。
その風が蛇川のなかへと吸いこまれると同時に、切れ長の瞳が潤み、左目から虹色の雫がぽたりと落ちた。
言葉もなく、正憲が目で追うそれは、畳にあたると小さく跳ねた。
顔を顰め、落ちた雫を摘まみ上げる蛇川を、どこか夢見がちな目で正憲が見つめている。
「涙だ……」
「そう。あれが『鬼の涙』だ」
吾妻は膝に手を当てて立ち上がると、突き出された蛇川の右手の下で両手を受けた。
革手袋に包まれた指先から、摘ままれていた涙が落とされる。
まいど、と小さく笑いかけると、吾妻はその手を正憲に差し出した。蛇川が長々と溜息をつく。
「綺麗だろう。大切にするといい」
受け取った涙を見つめる正憲の頭をくしゃりと撫でると、吾妻は蛇川を振り返り、その脇に腕をさしこんだ。蛇川は何か言いたげに口を歪めたが、しかし力なく息をつくと、大人しく逞しい腕へと体重を預けた。
まだ足に力の入らない相棒を助けながら、ふたりの男が去っていくのを、正憲はただ見送ることしかできなかった。
◆ ◆
定食屋『いわた』で新聞を広げていると、嫌な臭いが近付いてきた。煙草の臭いだ。
「臭いぞ、吾妻ッ!」
「やァね、ほんと。毎度の挨拶がそれってあんまりじゃない?」
垂れた目を細めた吾妻が、蛇川の隣の椅子を引く。
「りっちゃん、あたし鯖の味噌煮とお紅茶。檸檬はいらないわァ」
呼ばれてエプロン姿の女給、りつ子は顔をしかめた。
「ほんっと、吾妻さんの舌ってどうなってんのかしら。紅茶が味噌に合うわけないじゃない」
「それが合うのよ。マスターのお料理はどれもお紅茶にぴったり」
カウンターテーブルに肘をつき、にこにこと吾妻が笑う。厨房では、無口な亭主がすでに動き始めていた。
「情報屋にとって誤った情報は命取りなんじゃなかったか」
読み終えた新聞を手早く畳み、カウンターに叩きつける。その一面には大きく『木乃伊化死体発見サル! 母子四人ノ哀シキ心中』との見出しがあった。吾妻はちらと一瞥をくれ、肩を竦める。
「何も嘘は言っちゃいないわ。小澤製粉の社長宅で人死にがあったらしいってことと、当時の奥さんは生真面目な人で、身内の横領に深く深く心を痛めていたって……そう、事実を『売った』だけよ」
「ふん」
ばさりと音をたてて新聞を掴むと、カウンター越しに亭主に差し出す。蛇川が購読している新聞は、用が済んだら亭主に回されるらしい。
「あんたのやることは無駄ばかりだ。無駄なことは、やるだけ無駄だ」
「でも、時には必要な無駄だってあるわ。蛇川ちゃんは、それを分かっているはずよ」
だからあたしと一緒にいる。
そう言って蛇川の肉のない頬を指で突つく。
蛇川はそれを叩き落とすと、ちょうどカウンター越しに亭主が差し出したお盆の上から納豆を引ったくり、猛然とかき混ぜた。
〈 童喰らう鬼 了 〉