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【旧版】骨董屋あらため  作者: 山路こいし
第二章 激動
56/101

五十五:寿太郎

 あゝ兄弟よ

 この部屋は狂ってゐる

 部屋も、大人も、子供たちさへ


 狂った部屋がこう囁く

 我々のうち、誰ひとりにさへ

 安らかな明日などないのだと……





 ◆


 びし、びしりと弾ける音が空気を揺らす。

 その振動を産毛に感じながら、安達泰人はバルコニーの手摺に手をかけた。節くれだち、白髪交じりの毛がそよと生える指越しに見やる眼下には、八席五列、合計四十の机が整然と並べられている。


 そのうち三十八の席は、よく似た形の散切り頭で埋められている。

 空席の主は、背筋を正した少年らが見つめる先、一段高い位置に設けられた教壇にいた。


 一人は立ち、もう一方は成長途上の上半身を剥き出しにして、四肢を投げ出し這いつくばっている。その背を、立っているほうが乗馬鞭で打っていた。


 間断なく続いていた殴打の音がようやく止むと、後には荒い呼吸だけが残った。


 打たれた側はともかくとして、打つほうも相当に疲弊して見える。顔は粗悪なちり紙のような土気色をしていて、それでいて目元ばかりがいやに赤く充血している。


「頃合いだな」


 安達泰人の口から漏れた独り言を、後ろに控える昏い目の男ただひとりだけが聞いた。


 演説をぶつときの習いで、安達泰人はゆったりと足を肩の幅に開いた。胸は高圧的にならぬ程度に心持ち反らし、しかし眼光は鋭く。


「次の試験より、刑罰を一段重くする」


 高い天井を持つ子供部屋に、演説慣れしたよく通る声が響く。

 その言葉に子供らの間には一瞬ざわめきが生まれたが、しかしそれもすぐに止んだ。不必要な私語も刑罰の対象となる。ただ無言のうちに、不安に濡れた密やかな視線がそこここで交わされた。


 子供らには名前がない。私語が禁じられている以上、親しく呼び合う必要もないからだ。

 ただ、並んだ机には一から四十までの漢数字がそれぞれ彫りつけられていて、それが子供らの呼び名代わりとなっていた。


「いっそう励むように」


 突き放すようなその声に、大勢に向けたものではない、個に向けられた嫌悪の響きを感じ取り、『三十六番』は我が身を抱いて顔を上げた。

 背の痛みをこらえ、バルコニー上を振り仰ぐと、果たして虚無のごとき父の黒目とかち合った。激痛のために涙で濡れた『三十六番』の顔が恐怖に歪む。


 その背は、時を経て茶色く変色したミミズ腫れの痕に埋めつくされている。硬くなったその皮膚の上から、真新しい傷が縦に横に走っていた。

 四十いる『寿太郎』候補の少年らのうちでも、『三十六番』はとりわけ出来の悪い子供だった。




 半年に一度ある『試験』は、子供らの恐怖の象徴だった。

 優秀な者はまだいい。問題は、不出来な子供に与えられる刑罰だ。


 初めて刑罰を受けたのも『三十六番』だった。


 試験制度が導入されたのは、子供らが十を過ぎたころ。

 丸一日をかけて行われるそれの内容は、実に多岐に渡る。基礎学力を問うものはもちろん、歴代首相の名前、正しいテーブルマナー、乗馬の際の手綱さばき、上流社会をそつなく渡り歩くためのあれや、これ。


 いい成績を収めるために、子供らは努力を惜しまなかった。

 鉛筆には血が滲み、こびりついた手垢のために文字の識別が困難になったテクストには、薄れた印字の上からてらてらと幼い筆跡が書き連ねられていた。


 試験が終わると、総合点の高いもの順に番号が読み上げられる。

 そうして終いに、最後から二番目と、どん尻の番号を持つ子供二人が教壇へと呼び出された。


 これから起こることへの恐怖でいっそう顔を青褪めさせた子供らが、震える足取りでなんとか前に進み出るのを、試験官の男が無感動に見つめる。度の強い眼鏡のレンズの向こう、乾ききったふたつの目。


 子供らの肩を乱暴に引き、机のほうへと向き直らさせると、最も点数が低かった『三十六番』にはシャツと肌着をとるように言い、もう一方には乗馬鞭を手渡した。


 くたびれた革の、凶悪な武器に戸惑う少年に、それで『三十六番』を打つようにと試験官が告げる。とたん、子供部屋の空気が張り詰めた。


 どれほどいい成績を収めた子供であっても、皆がみな、一度は刑罰を受けている。

 子供らの背骨ほどには長い、その乗馬鞭が生み出す耐え難い痛みは、ミミズ腫れとなって子供らの背中に刻まれている。


 それを、その乗馬鞭を振るえと言う。


「……できません」


 鞭を手に、俯く子供が呟いた。


 消え入りそうなほどに小さく、しかし明確な意思を持った声が、張り詰めた空気をわずかに揺らす。


 乾ききった試験官の目が、無言のままに子供を見つめ返す。心持ち眉が持ち上げられている。何を言っているのか分からないと、そんな顔をしている。



 子供らに自由な会話は許されていない。

 唯一の例外は議論の場のみ、それも試験官の監視のもとでしか認められていない。

 当然、子供らの間に情が生まれることはない。

 大人はそう考えていた。


 しかし、子供らは大人を裏切った。どの時代でもそうだ。子供は大人の想像を容易く超えていく。


 彼らは『寿太郎』の名を得るべく争う好敵手(ライバル)であると同時に、同じ父を持つ兄弟であり、同じ恐怖に立ち向かい、共に苦難を乗り越えていく同志であった。

 ただ鈍い大人が気付かなかっただけで、彼らが密やかに交わす視線には、親愛、労り、あらゆる温かさが秘められていた。



 その同志を打つことなどできないと、四の数字を与えられたその子供は言った。『四番』の勇気ある反抗に、部屋中の子供らが静かに同調する。

 黙りこんだままの試験官に向き直り、『四番』は再び「できません」と告げたが、今度はその声に力があった。


 子供らが大人に歯向かうなどということは、その予兆を見せることですら、子供部屋十年の年月の中で一度だってなかった。


 試験官の顔に初めて動揺が浮かんだ。

 戸惑いの視線をバルコニー上へと向ける。


 子供らの父、安達泰人は無言でそこに立っていたが、情けない部下の視線を受け、苛立ち気味に頷いた。

 それを見るなり、試験官の瞳から再び色が抜け落ちた。度の強い眼鏡の奥底で、ふたつの瞳が乾いていく。


 大股に『四番』に歩み寄ると、試験官は乗馬鞭を子供から取り上げた。『四番』の目が恐怖に見開かれ、反射的に体が後ずさる。

 その顔面に、乾燥した音とともに革の鞭が炸裂した。


 『四番』の口から、獣じみた悲鳴が迸る。

 しかし鞭の唸りは止まらない。風を切り、空気を裂き、顔に、首筋に、肩に、背中に、何度も何度も、回数を重ねるごとにより鋭さを増しながら、革の鞭が振り下ろされる。


 耐え難い痛みに絶叫し、一度大きく痙攣した『四番』がついに意識を手放してしまうまで刑罰は続いた。



 恐ろしい罰が行われるなか、残された子供らは彫刻のように動かなかった。


 動けなかった、と言ったほうがこの場合正しい。とりわけ、本来打擲(ちょうちゃく)されるはずであった『三十六番』などは、床にへたりこみ、半ば気を飛ばしかけていた。


「――万人を幸せにできる政治家などいない」


 痛いほど静まり返った部屋に、子供らの父の声が響く。

 恐ろしいほどに効果的な間を置き、投げかけられたその言葉は、否応なく子供らの耳を突いた。


 磔にされたように身じろぎもせず『四番』を見つめていた子供らは、バネが弾けたようにバルコニーを仰いだ。

 その瞳をひとつずつじっくりと見つめ返しながら、父・安達泰人が言葉を続ける。


「時代は民主主義だ。より多数の意見が尊重される。つまりは民意だ。民意が正義だ。慈善家は恵まれない少数の声ひとつひとつに耳を傾けていればよいが、政治家の場合はそうはいかない。正義を守るため、限られた一部の層の願いを握り潰し、裏切らねばならない時が必ずくる。その時に断ずる勇気が、優れた政治家には必要不可欠だ」


 いつしか、食い入るようにその(おもて)を見つめていた子供らの目に、父の口髭が満足気に揺れる。


「情にかまけて正しい判断を決して見失うな。どのような状況下にあっても冷静に己の道を選び取る目を養え」




 その次の刑罰の折、呼び出されたのは再び『四番』と『三十六番』の二人だったが、今度は『三十六番』が肌着を取るなり乗馬鞭が唸りを上げた。


 顔面に残る皮膚の引き攣り――『三十六番』を庇って受けた刑罰の痕を涙で濡らしながら、『四番』は許しが出るまで鞭を振るい続けた。


 大人の腕力で振るわれたときに比べればその威力はさして強くもなかったが、しかし実際の痛み以上の痛みが『三十六番』を傷つけた。鞭の刑罰は、それを振るう『四番』の心も、見守ることしかできない他の子供らの心をも蝕んだ。


 子供らの目が、彼らを見つめる試験官とまるで同じ曇りを帯び始めるまで、そう時間はかからなかった……





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